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No Title  作者: ころく
39/85

No.38 ひとり

8/15



「んあぁー……っと」


 ベッドから身体を起こし、背中を真っ直ぐにして両手を天井に向けて伸ばす。

 固くなった筋肉はほぐれ、首を動かすと関節がパキポキと小気味良い音がなった。


「あー、よく寝た」


 くぁ、と涙を溜めながら欠伸をして、脱力する。

 枕元に置いていた携帯電話の時計を見ると、優に正午を過ぎていた。


「こんなに寝たの久しぶりだな……」


 寝ぼけ眼で部屋をボーッと眺めて、一人言を良いながら頭を掻く。

 夏休みになってからは事務所に寝泊まりしていて、毎朝六時にはモユに起こされている。まぁ、早く起きても昼寝とかをしょっちゅうしていたりするが。

 今日もまた例外ではなく、きっちりと朝六時に起こされた。いつもと変わらず朝飯に野菜炒めを作って、食べ終わったらのんびりとして時間を潰していた。

 そんな時、深雪さんが起きて広間にやってきた。

 なんでも今日は仕事が休みらしく、出掛ける予定も無いのでモユの面倒を代わりに見てくれると言ってきてくれた。

 俺も暇を持て余しているいるから別に代わって貰わなくても良かったんだが、何故か今朝は妙に眠たかった。

 なので、深雪さんに代わりを頼んで俺は今の今まで自室のベッドで寝ていた。

 正確な時間は覚えていないが、大体8時半頃に寝たような気がする。一度起きて朝飯を食ったとは言え、昼過ぎまで寝たのは夏休み前以来だ。


「……寝ていても腹は減るんだな」


 腹の虫は鳴らないが、空腹だと訴えてきている。腹を擦りながらベッドから降りて、部屋を出る。

 廊下は静かで、窓の外から蝉の鳴き声が聞こえてくる程。


「とりあえず広間か給湯室に行くか。腹減った」


 スリッパをペタペタ鳴らしながら歩いて、広間に向かう。

 給湯室に行くにも、どっちにしろ広間の前は通らなきゃいけない。


「お、誰か居るな」


 広間に近付くと、誰かがテレビを見ているらしく、廊下に漏れてきた音が聞こえてきた。

 多分、深雪さんとモユだろうけど。

 広間の入口から覗いてみると予想通り、居たのは深雪さんとモユだった。


「あ、匕君、おはよう。よく寝てたわねぇ」


 広間に入ると、深雪さんは俺の存在に気付いた。


「お陰様で。久々に昼まで寝たよ」


 はは、と笑って深雪さんに答える。

 こっちに寝泊まりするようになってからは、モユのお陰で規則正しい生活を送っているからな。

 反面、夏休みなのに昼まで寝たり出来ないが。

 嬉しいような哀しいような、なんとも言えない。


「よっ、モユ。おはよう」


 深雪さんの隣に座っているモユに、本日2度目の朝の挨拶をする。


「……こんにちは」

「はい?」


 が、帰ってきたのは異なる言葉だった。

 おっかしいな。俺は言葉の軟球を投げた筈なのに、硬球で返ってきた。


「……今はお昼だから、おはようじゃない」


 モユはキリッとした無表情で、まるで俺が間違ってると言いたげな目線を送ってきている。

 いやまぁ、確かにおはようって時間じゃねぇけどよ。


「こ、こんにちは?」

「……うん、こんにちは」


 こくん、とモユは納得頷く。

 なんでだろ? おはようって言うと仲が良い感じなのに、こんにちはだと他人っぽく感じるのは……。


「って、おっ? ピザがある」


 テーブルを見ると、四角い箱の中に入っているピザが数切れと、一緒に頼んだであろうジュースの缶が二つあった。


「お昼に頼んだのよ。作るのは面倒だし、外は暑いから出たくないしねぇ」


 深雪さんはテーブルに頬杖して、窓の外を眺める。

 いくら面倒だと言っても、俺にはデリバリーピザを頼むなんて恐ろしい事は出来ない。

 サイズによるが、ピザ一枚で二千円以上とかあり得ねぇ。一食にそんな大金を使うとか考えられねぇわ。

 二千円もあれば、自炊で何日生きられる事やら。


「いつ起きてくるか分からなかったから、匕君の分は頼んでないのよ。ごめんねぇ」

「あぁいや、いいよ別に」

「食べきれなくて余ったのがあるから、それで良かったら食べて」


 深雪さんに言われてもう一度テーブルを見てみると、少し小さめのピザが一切れと、普通サイズのピザが二切れ余っていた。

 多分、小さめのはモユが残したものだろう。


「えっと、モユちゃんが頼んだのは……小さい方がシーフード。で、もう片方が照り焼きチキンだから」

「んじゃ、有り難く頂きます」


 空いているソファに腰掛けて、手を合わせる。

 残したものなら遠慮は入らない。有り難く貰って、これを昼飯にしよう。

 金も掛からないし、飯を作る必要も無い。少し足りないが、タダなんだから文句は言えない。


「そう言えば、深雪さん今日休みって言ってたけど、それってお盆休み?」

「えぇ、そうよ。少しズレてだけど、今日から4連休よ」


 冷え始めたピザを摘まみながら、深雪さんと話をする。

 深雪さんは連休が嬉しいのか、嬉々とした表情をしている。


「深雪さんは実家に帰ったりはしねぇの?」

「お盆は帰らないわねぇ。お正月には帰るんだけど。私の実家って田舎だから遠いのよ」

「へぇ」


 でもよく考えてみたら、俺の実家も遠いんだよな。

 新幹線で二時間以上掛かるし。

 俺の場合は金が無くて、新幹線と鈍行を併用しているから更に掛かるけど。


「それに、帰ったら帰ったで親父がうっさいのよねぇ。結婚はまだかとか、早く孫の顔がみたいとか、見合いしろとか……」


 深雪さんの顔はどんどんと不機嫌になっていき、ぶつぶつと何やら文句を良い始めた。


「あの、深雪さん……?」

「へっ? あぁ、ごめんね! ちょーっち嫌な事を思い出しちゃって」


 深雪さんは我に返ると、慌てて小さく手を振る。


「そういう咲月君こそ、学生なんだし実家に帰ったり……あ、ごめんなさい」


 言葉を途中で止め、深雪さんは申し訳なさそうに口を手で押さえる。


「ん? あぁ、いいですよ、気にしないで。俺も大して気にしてないし」


 そう言って笑い、一口大になったピザを口に放り投げる。

 白羽さんは前に俺の事を調べていた。当然、その時に俺が親父に勘当されて実家に帰れない事も知っただろう。

 なら、深雪さんも知っていても不思議じゃない。


「それに帰ったら帰ったで、深雪さんと同じで親父に何を言われるか分かんねぇし」


 何か言われるだけならまだマシだ。クソ親父は手が出るから質が悪い。

 多分、出されたら俺も出し返すだろうけど。


「それなら、こっちでダラダラしていた方がよっぽど有意義だよ」


 それに何より、帰るには金が掛かるからな。新幹線やら電車やらで。


「ごっそさんでした」


 残っていたピザを全て平らげ、食材への感謝の気持ちを込めて手を合わす。

 それとタダ飯にありつけた運にも。


「じゃ、ピザの箱とかは俺が片付けるんで」


 空になったピザの箱を重ねて1つに纏める。


「あら、悪いわねぇ」

「タダ飯を頂いたからこれくらいは。その缶、空なら一緒に捨ててくるけど?」

「私のはまだ入ってるからいいわ」

「モユのは?」

「……入ってる」


 って事は、捨てるのは箱だけか。

 ソファから立ち上がって、空き箱を持つ。


「んじゃ、ちょっくら給湯室に行って捨ててくるわ」


 広間にもゴミ箱はあるが、さすがにピザの空き箱が入る程大きくない。

 給湯室には分別して捨てる時に纏める大きなゴミ箱が置いてある。そっちなら余裕で入るだろ。

 広間から出て、給湯室へ足を運ぶ。

 昼飯を食ったばかりとは言え、あの程度では腹一杯にはならない。

 言うならば、腹四分といった所か。あれ位で腹一杯になるような財布に優しい身体では無いんで。

 給湯室に着き、中に入る。


「ほい、っと」


 『燃えるゴミ』と表記されたゴミ箱に、ピザの空き箱を投げ捨てる。

 さて、わざわざ給湯室までゴミを捨てに来たのには、実は他に理由があったりする。

 その答えは、冷蔵庫……いや、正しくは冷凍庫にある。


「昨日はすっかり食うの忘れてたからなぁ」


 冷蔵庫の前に立つ。

 そう。ここに来たもう一つの理由。

 それは、よもぎ饅頭ジェラート!

 昨日買ったはいいが、食べるのを忘れていた。

 ついさっき昼飯を食べたばかりだが、あの量ではやはり物足りなさを感じる。それを埋める為に、今こそ食すべき時。

 デザートにも腹の足しにもなる。一石二鳥だ。

 胸を高鳴らせ、冷蔵庫の上部分。冷凍庫の扉を開ける。

 ――――が。


「……あれ?」


 冷凍庫の中は空っぽだった。

 目をごしごしと擦って二度見してみる。空っぽ。

 一度扉を閉めて、ゆっくりと深呼吸。


「よし」


 再度開けてみる。

 やはり空っぽ。


「なぜ? なんで? どうして? なにゆえに?」


 何度見ようが、冷蔵庫の中は空っぽ。アイスの姿どころか影すらない。

 あるのは氷だけ。確かにこれは英語でアイスと言うが、俺が探し求めているのはこんな透明じゃない。

 もっと抹茶色に濁っているヤツだ。考えずとも出てくる答えは一つ。

 誰かに食われた、まる。


「俺のよもぎ饅頭ジェラート食った奴誰だぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 向け場の無い怒りを叫びに変えて、一人哀しみに染まる。

 食べたかったのに、食べようと思ってたのに……。

 しかも、普通のアイスより少し高いんだぞ!


「くそぅ、俺の楽しみが……」


 あれか、名前か? アイスに名前を書いておかなかったのが悪いのか?

 しかし、いくら泣いても喚いても、よもぎ饅頭ジェラートが戻ってくる訳でもない。

 テンションだだ下がりで広間に戻る。


「匕君、給湯室で叫んでたみたいだったけど何かあった?」


 広間に戻ると、さっきの俺の叫び声がこっちまで聞こえていたらしく、深雪さんが聞いてきた。


「はぁ、実はちょっとしたハプニングがあって……」


 ソファに座り、見て分かる程にガックリと肩を落とす。


「俺が昨日買っておいたアイスが無くなってたんだよ……」


 凄い楽しみにしていた物が無くなり、やりきれなく思わず深い溜め息を吐いてしまう。


「知らないわねぇ……私は自分のは自室の冷蔵庫に入れるようにしてるし」

「だよなぁ。なぁモユ、お前知らねぇ……」


 続けて深雪さんの隣にいたモユに聞くと、つい、と目を合わせないよう視線を逸らす。


「モユ……?」


 犯人はお前か。

 正直言うと薄々……いや、こってりこてこての濃厚で感づいてましたけどね。

 まさか、なんの捻りも無くお前が犯人とは。

 ソファから立ってモユの前に行き、頭をがっちりと掴む。

 そして、逸らしていた視線を強制的に正面に向けさせる。


「何か言う事があるんじゃねぇか?」


 最初は首に力を入れて抵抗してきたが、誤魔化せないと観念したか、モユが一言。


「……美味しかった」


 うん、それは何より。買って良かった。


「って違ぇだろ!」


 とりあえず、モユの返答にツッコミを入れておく。

 よもぎ饅頭ジェラートが美味しかったという感想は参考にはなったが。

 見た目地雷にしか見えなかったから、正直少し不安があったりした。


「はぁぁ……もういいや、なんか気が抜けた」


 モユの頭から手を離して、脱力するように項垂れる。

 食っちまったもんは返ってこねぇし、追求したってどうにもならない。

 後でまた自分で買ってくるか……。

 昨日買いに行った時は商品棚に山積みになっていたし、まだ売ってるだろ。


「はぁ……ったく」


 諦めの溜め息を吐き出して、広間の入口へ歩く。


「匕君、どこ行くの?」

「白羽さん所。ちょっと用事があっからさ。部屋に居るよな?」

「えぇ、出掛けていない筈だから、部屋に居ると思うわ」

「ん、あんがと。深雪さん、午後もモユの事頼むよ」


 軽く手を上げて、広間から出る。

 廊下を歩いて、一番奥にある白羽さんの部屋に向かう。

 俺やモユ、深雪さん達のような住み込みしている人が使用している部屋が並ぶ廊下は、人影も無く静か。

 そういや、深雪さんがお盆休みって事は、多分エドの奴も休みだよな? 姿を見ねぇけど、生きてんのか、あいつ?

 白羽さんの部屋に着いて、ドアを手の甲で軽く叩く。コンコン、と小気味良い音が鳴った。


「いねぇのか……?」


 しかし、中から返事も反応も無く、聞こえてくるのは外で鳴いている蝉の声。

 ん? 前にもこんな事あったような……?


「うん? 咲月君?」


 記憶を探って頭を傾げていると、後ろにある資料室のドアが開いた。


「あ、白羽さん」


 そうだそうだ。前もあったわ、こんなやり取り。

 確かエドが海に行った日だったっけ?

 ……なんか、思い出したらムカついてきた。


「私の部屋の前に居るという事は、私に何か用かい?」

「用って程のもんじゃないんだけど……俺、ちょっと一人で出てくるからさ。一応言っておこうと思って」

「それは構わないが、一体どこに?」

「立花町の俺の部屋。もう何日もほっぽってるから、掃除しに帰ろうと思って」


 この間、沙姫の家に組手をしに行く前に、米をあげようと取りに寄ったけど、結構埃が被っていた。

 使っていない部屋程、埃が積もりやすいって聞いた事があるけど、それは本当らしい。

 それに今は夏真っ盛り。どっから虫が湧いてくるか分からない。

 なので、地獄絵図になる前に掃除をしようと思った次第だ。


「だから、今は深雪さんがモユを見ていてくれてるけど、白羽さんにもモユの事を頼んでおこうと思ってさ」

「分かった。君は部屋を綺麗にしてくるといい」


 白羽さんは快諾して、小さく微笑む。


「いつもならコーヒーを用意するんだが……残念な事に、今はポットが壊れていてね」

「あぁ、お構い無く! すぐに行くんで!」

「次来る時までには新しいポットを買っておくよ」


 俺はそのままポットが壊れていてくれる方が助かるんですが。

 出来れば夏が終わってから買い換えて頂きたい所存です。心から。


「では、やる事があるからね。失礼するよ」


 白羽さんは自室のドアノブを捻り、ドアを開ける。


「そうだ、咲月君。窓を拭く時は新聞紙を使うといい。新聞紙に使われていたインクがワックスの代わりになって窓を綺麗にする。それと、布団を干す時に布団は叩かない事だ。あれは布団の中の羽毛や羊毛を痛めしまうからね。布団は日差しに当てて干すだけで十分だ。では、掃除を頑張ってくれ」


 白羽さんはなんとも長い一言を言い残して、パタン、とドアを閉めて姿を消した。

 なんでそんなに詳しいんだ、あの人は……?

 黒スーツで頭には三角金を巻いて、ハタキを持って掃除をする白羽さんの姿を想像してみた。

 ……似合わねぇ。ミスマッチにも程がある。

 なのに、あり得そうだから困る。


「くだらない事考えてねぇで、部屋に行って着替えるか」


 部屋着のまま外に出れないし、電車の時間まで余り無いからな。

 頭に浮かんでいた白羽さんの奇妙な格好を振り払い、部屋に戻る。

 ちゃっちゃと着替え、財布と携帯を持つ。脱いだ部屋着はベッドに放り投げて、部屋を出る。

 廊下を歩きながら携帯電話で時間を確認してみると、思ってたよりも電車までの時間が無かった。


「ヤバ……急がねぇと」


 歩くスピードを上げて、広間に向かう。


「深雪さん、ちょっといい……って、あれ? モユは?」


 広間に顔を出すと、深雪さんは変わらずソファに座っていたが、モユの姿が消えていた。


「モユちゃんならトイレに行ったわ。で、私に何か事?」

「あぁ、ちょっと出掛けて来るから、モユの事宜しく。んじゃ、時間無いから!」

「あ、ちょっと、咲月君っ!」


 言う事だけを言って、走って玄関に向かう。

 モユには深雪さんが話してくれるだろ。

 とにかく今はダッシュだ。





    *   *   *




「よっ、と。こんなもんか」


 部屋に掃除機を掛ける際、壁際に立て掛けて置いたテーブルを部屋の中央に置いて、部屋を見回しながら一息つく。

 窓も拭いた、掃除機も掛けた、棚やらテレビの埃も払って綺麗に拭いた。

 流し台も洗ったし、ゴミも袋に分別して纏めたし、布団は今干してる最中。


「やっと終わったぁ」


 布団を敷いていないベッドに腰掛けて、身体を倒す。部屋の天井を仰いで、動きまくって疲れた身体を休ませる。

 掃除をしていのが真っ昼間で、出窓を全開にしていた為、部屋の中は当然蒸し鍋状態。

 汗水垂らして休まずやったお陰で、こうやって休めている。

 今は掃除が終わって出窓を閉め、エアコンを点けて快適な空間で休憩してます。

 涼しいって素晴らしい。


「んよっ、と」


 身体を起こして、ベッドに置いていた携帯電話を取る。


「うわっ、もう五時過ぎてたのか」


 画面を開いて時間を確かめると、5時を少し過ぎていた。

 夏は陽が落ちるのが遅いから、夕方になっても明るくて時間の経過が分かりにくい。


「布団もそろそろ入れるか」


 布団は掃除し初めて最初に干したから、数時間は干したから十分だろ。

 ベッドから降りて、布団を干してあるベランダに出る。


「あっつ……よっこらしょ」


 爺臭い台詞を言って、干していた敷き布団と掛け布団を重ねて持ち上げる。

 部屋に戻って、器用に足で出窓を閉める。

 両手は布団で塞がってるんでね。


「ほっ」


 ベッドに置いて、布団を敷く。

 そして、その上に寝転がる。


「この布団に寝るのも久々だなぁ」


 ごろんと寝返りを打ち、仰向けになって呟く。

 やっぱり、使い慣れた布団は落ち着くなぁ。

 掃除をして疲れたのか、うとうとと瞼が重くなる。

 あー、なんだか眠くなってきた……。


「って、昼まで寝たのにまた寝るつもりか、俺は」


 襲ってきた睡魔を振り払って身体を起こして、頬を叩く。

 パシン、という音が部屋に小さく鳴り、痛みが頬に走る。


「他にやる事も無いし、事務所に戻るか」


 暑い部屋の中で掃除をして汗を掻いたからシャワーを浴びようかとも思ったが、駅まで歩いてまたすぐに汗を掻くだろうからやめた。

 事務所に戻ってからにしよう。夜にはランニングもするし。


「忘れ物はない、な。よし」


 ジーンズのポケットに財布と携帯電話を入れて、忘れ物が無い事を確認する。

 まぁ、持ってきた物はこれだけだから忘れようがないけど。

 エアコンの電源をリモコンで切って、出窓の鍵を掛けてカーテンを閉める。

 玄関で靴を履いて外に出る。


「夕方なのに涼しくなんねぇ……」


 昼間と変わらない暑さにげんなりしながら、扉に鍵を掛ける。

 また当分この部屋には帰って来ないんだろうな。

 そういえば、白羽さんの事務所に住み込むようになったのはモユのせいなんだよな。初めは住み込みするつもりは無かったのに、モユが帰らせてくれなかったんだ。

 帰ろうとすると、Tシャツをがっちり掴んで離さないで、無言で訴えてきたのは良い思い出だ。

 いや、本当はそんなに良いものでは無いが。

 マンションの通路を歩き、エレベーターまで移動してボタンを押す。

 誰かが使った後だったらしく、エレベーターのドアはすぐ開いた。中に入って一階のボタンを押して、エレベーターを閉める。

 ゴウン、という重い音と共に足場が不安定になるようなエレベーター特有の感覚になり、階数を表すランプが光る箇所が、徐々に下がっていく。

 チン、と金属を叩いたような音が鳴り、1階に着いてエレベーターの扉が開いた。


「あいつが来てから、俺の生活が一気に変わったなぁ」


 エレベーターから降りて、マンションの出入口から外に出る。

 夏休み中に入ってからずっと白羽さんの事務所に寝泊まりしているし、毎日朝早く起こされたり、自炊する量も増えて食費が嵩むようになった。

 一番痛いのは、毎日二食のアイス代だけどな。気儘に寝てばかりいた俺のぐーたらライフはどこに行ったやら。

 本当、俺の生活がガランと変わったよ。


「つーか、夏休み入ってからはあいつ中心の生活じゃねぇか」


 子守りしたり、アイスを買ってやったり、飯を作ってやったり、それを一緒に食ったり……。

 あいつ、毎日野菜炒めなのに一度も文句を言った事ねぇんだよな……。美味しいと言われた事もねぇけど。

 他にも、やっと外出出来るようになって、俺に付いてきて沙姫の家に行ったりした。

 最初、ニボ助にビビってたっけな、モユ。最後の方は慣れて、抱ける位になっていたけど。

 沙姫の誘いで、一昨日には遊園地に連れて行ってやったな。

 ジェットコースターに乗っても、コーヒーカップでグロッキーになっても無表情だったな、あいつ。

 うさバラし人形の着ぐるみの前では、俺の背中に怖がってたりしてた。俺も少し怖かったが。


「まぁ、楽しんでたみたいだから良かったけどな」


 駅前へ続く道路を歩きながら、思い出して笑う。

 何より、俺も初めての遊園地で楽しかった。

 冷凍睡眠しちまいそうな危険な目に会ったがな。


「……でも、まぁ」


 確かに、モユが来てから俺の生活や環境が大きく変わった。

 面倒を見ながら暇をして、特定の時間になったらアイスをねだってきて……。

 アイスが無ければ不機嫌になるし、暑い中をコンビニまで買いに行ったりする羽目になる事もたまにある。

 だけど、それも含めて。

 嫌な事も、面倒な事も、嬉しい事も、楽しい事も、くだらない事も、笑っちまう事も。

 全部を含めて、俺は――――。


「結構、気に入ってるんだな」


 誰にでもない、ただの一人言。その一人言を、自分に向けて放つ。

 この環境を。今の、生活を。

 俺は気に入ってて、悪くないと思っている。


「ったく、いつから世話を焼くのが好きになったんだか」


 自分へ皮肉を込めた言葉を吐いて、はっ、と唇を歪める。

 子供の世話なんて、面倒臭いだけだと思ってたのに、心境の変化ってのは解んねぇもんだな。


「っと、そうだ。モユで思い出した」


 あいつによもぎ饅頭ジェラートを食われたんだった。ちょっとそこらの店で売ってるか見に行ってみるか。

 こっちで買って電車に乗っている間に食えば、また食われる危険性はないだろうし。

 どこの店に行ってみるかな……。

 いつもの商店街にあるスーパーだと駅から少し離れてるしなぁ。暑い中を歩くのはなるべく避けたい。


「あ、そうだ」


 とある名案が頭に浮かんだ。

 漫画とか小説だったら、頭の上で電球が出てきて光っている所だろう。

 俺は漫画や小説のキャラじゃないんで出ないけど。


「久しぶりに店長んトコに行ってみるか」


 思い浮かんだ名案と言うのは、前にバイトをしていたコンビニの事だ。

 あそこなら駅からあまり離れていない。

 それに、俺の代わりに入ったっていうバイト君も見てみたいしな。


「よし、そうと決まったらさっさと行こう」


 アイスも買いたいが、この暑い外から早く逃れたい。

 行き先を駅から元バイト先のコンビニに変えて、足を運ぶ。時刻が夕方なのもあって、駅前じゃなくても人通りは多い。

 お盆期間で部活が無いのか制服を着た学生の姿は殆んど見ないが、私服の若者や買い物袋を片手に持った主婦などか目に入る。

 しっかし、夕方過ぎだってのに暑いなぁ。

 さっきまでエアコンを点けた部屋で涼んでいたのに、早くも背中には汗が垂れてきたよ。

 空は雲一つ無い綺麗な青空に、少しだけ茜色が掛かっている。

 この様子じゃ、昨日今日と続いて明日も晴れ……。


「――――ッ!?」


 丸めていた背中を伸ばして、弾けるように後ろに振り向く。

 いきなり振り向かれて、俺の後ろを歩いていた主婦らしい人が驚き、こっちに奇怪な視線を向けてた。

 だが、そんなのを気に掛けるよりも、他に気になるものがあった。


「なん、だ……?」


 身体をすり抜けていった嫌な感覚……。

 寒気……いや、そんな生易しいものじゃない。あれは、悪寒だ。

 あれだけ暑さで掻いていた背中の汗は、今では冷や汗に変わっている。

 夏の暑さすら一瞬で消し去ってしまう程の、髄液すら凍ってしまうような錯覚。

 ドッと背中に嫌な汗が流れ、一気に体温が上がる。

 感じたのはほんの一瞬で、どこから放たれ、流れてきたのかは解らない。

 読感術で辺りを探ってみるも、さっきの悪寒の正体と思えるものは感じ取れない。


「まさか、テイル……か?」


 大概、こういう正体不明の感覚がした時は、あいつが犯人だ。

 しかし、寒気も悪寒も綺麗に消えて、今は普通の暑さに戻っている。

 探そうにも何も感じ取れないのなら、どうしようもない。


「また何か、やってんじゃねぇだろうな……」


 頬を伝い、顎から滴る汗を手の甲で拭う。

 今では変わらない、いつもの街並みが辺りに広がる。

 だが、嫌な悪寒を感じ、嫌な予感が頭にこびり付く。


「出来れば、杞憂だったらいいんだけどな……」


 その予感を振り払うように、そうであって欲しいと願うように、言葉を放つ。

 正面を向いて、止まっていた足を動かす。

 いつまでも考えていてもしょうがない。


「ちっ、嫌な感覚がして変に構えちまったから身体が熱いわ」


 何かに慌てたり焦ったりすると一瞬ヒヤッとするけど、反動で急に身体が熱くなるよな。

 握っていた手を開いてみると、ぐっしょり汗が滲んでいた。

 この身体の熱を冷ます為にも、さっさとコンビニに行こう。

 黙々と足を動かして目的地を目指す。

 その後、あの嫌な悪寒を感じる事は無く、暑さだけに苛まされた。

 本当、何で夕方なのにこんな暑いんだか。地球温暖化とはよく聞くが、それにしても暑いっての。

 ようやく目的地である元バイト先のコンビニに着いた。

 自動ドアが開き、中に入ると、さっきの悪寒とは全く違う、心地好い冷たい空気が肌に触れる。


「あー、生き返る」


 バサバサと服を扇いで、服の中を換気する。

 店長はいるかな……?

 レジカウンターを覗いてみるも、店長らしき人は見当たらない。もしかしたら、休みって可能性もある。


「とりあえず、アイスを見に行ってみるか」


 勝手知ったる何とやら。

 このコンビニの元店員だった為、商品の配置は熟知している。

 早速、アイスが並べられてあるコーナーへ移動する。

 長方形の専用冷凍庫を見付け、ウィンドウ越しに中を覗く。


「あれ? っかしいな、無いぞ」


 売ってあるもんだと思ってたのに、冷凍庫の中にはお目当ての品が見当たらない。

 そうだよなぁ。よく考えてみたら、よもぎ饅頭ジェラートなんて明らかに地雷としか思えない商品だもんなぁ……。

 そんな物を仕入れる店が置いてあるのが珍しいのか。

 売ってない、という事を全く頭に無かった為、へこんで肩を落とす。


「あぁらぁー? ちょっと、咲月ちゃんじゃなぁい?」


 奇怪不快、珍妙奇妙な声で俺の名前が呼ばれた。

 声がした方を見ると、青い仕事着を着た筋肉質の男店員……もとい、オカマ店長がいた。


「久しぶりじゃない、元気してたぁ?」

「どうもです。見ての通り、元気してますよ」


 軽く会釈して、店長に返す。


「そう、よかった……って、元気って言う割には顔色が悪いんじゃなぁい?」

「へ? そうかな?」

「ほら、ちょっと熱を計ってあげる」


 そう言って、店長は近付いて来ておでこを突き出してくる。


「い、いや、いいです! 元気ですから大丈夫です!」


 咄嗟に後退り、店長から離れる。

 なんだか熱を計る以外の他意が有りそうで怖い。

 と言うか、普通おでこじゃなくて手を当てるもんだろ。


「んもぅ、いけずねぇ」


 ほら、あんな事を言ってやがるし。

 逃げて正解だよ。


「ところで、咲月ちゃんは何しに来たのかしら?」

「あぁ、実は欲しいアイスがあったから、どうせ買うならこの店の売り上げに貢献しようと思って」


 まぁ、本当の理由は駅から近いってのだが。


「嬉しい事言ってくれるじゃない。で、どの商品が欲しいの?」

「えっと、よもぎ饅頭ジェラートってヤツなんですけど」

「あら! よもぎ饅頭ジェラート?」


 店長は気色悪い声で驚く。


「そうなんですけど、探しても見当たらなくて。もしかして、仕入れて無いとか?」

「そんな事は無いわよぉ。だけど、全部売れちゃったのよねぇ」

「はい!? 全部売れたぁ!?」


 仕入れていないという予想を遥かに飛び越えた答えが、店長から告げられた。

 あのいかにも売れなさそうなアイスが、売り切れって……。


「なんでも、新食感だか新世界だかでネットで話題になったらしくてねぇ。今じゃどこも品薄なのよ」

「マジかよ……」


 だって、二日前には別のコンビニで山積みにされてたのに。

 そんな短期間で品薄とかってなるもんなのか……?

 と言うか、新食感ってのは見た目で何となく納得出来るが、新世界ってなんだよ。

 食ったらあの世に旅立っちゃうとか、そんなんじゃねぇだろうな?


「一、二時間位前にもね、若いママが子供を連れてそれを探して買いに来たのよ。話を聞いたら、売ってそうな店は全て回ったらしくてね」


 店長は無意味に腰をくねらせて、頬に手を当てる。


「その時も既に売り切れちゃっててねぇ。無いと知った時の子供の顔を見たら可哀想で可哀想で……」


 小さく首を振りながら、店長が溜め息を吐く。

 そんなに売れてんのか、あのアイス。じゃあ俺が買えたのは本当に偶々だったんだな……。

 もしかして、山積みになってたの売れ残ってたからじゃなくて、大人気だから大量に仕入れたからだったんじゃ……。

 ……見た目と先入観だけで判断するもんじゃないな。


「それにしても、あの女の子は可愛かったわぁ」

「子供って女の子だったんですか」

「そうよぉ。緊張しちゃって、表情が固くてねぇ。それがまた可愛くて抱き付いちゃそうになっちゃったわ」


 うふふふ、なんて思い出して笑う店長。

 いや、多分……って言うか、子供の表情が固かったのは確実に店長が怖かったからだと思う。

 誰でも初対面であんたを見たら、気色悪くて固まるわ。


「あれ? でも、店長って女に興味無かったんじゃ?」

「やぁねぇ、子供は可愛いから別よぅ。私は大人の男性が好みなの」


 あぁ、そうですか。やっぱ男が好きなのね。


「咲月ちゃん、あと五年したらお相手してもいいわよ?」

「丁寧かつ丁重にお断りさせてもらいます」


 五年経ったら、もうこのコンビニは使えねぇな。命が危うくなる。

 色んな商品を扱っているコンビニでも、さすがに命は売ってないからな。


「そっかぁ……じゃあ、どこの店に言っても、よもぎ饅頭ジェラートは売ってないか」


 こうも手に入らないと余計に食べたくなってくる。

 まさか、こんなに人気があるとは夢にも思わなかったからなぁ。


「って、そうだ。店長、俺の代わりに入ったバイトって今いる?」

「どうかしたの?」

「いやほら、やっぱ気になるじゃないですか」


 知ってどうかなるでも、役に立つ訳でもない。

 けどやはり、自分の後釜ってなると気になってしまう。


「残念ねぇ、今日は休みなのよ、その子」

「ありゃ、タイミング悪かったなぁ」

「でも、可愛い子よ。素直で言う事をよく聞くし、働き者よぉ」

「可愛いって事は、女の子なんですか?」

「そうよぉ。たまに恋の相談なんかも聞いてあげてるのよ、私。やっぱり女同士で気が合うのかしら?」


 お約束ですけど、店長……あなたは女じゃありません。

 歴とした男です。そんな筋肉質でガタイのいい女なんかいないから。


「そうそう。その子も、よもぎ饅頭ジェラートが気に入ってたわね。発売した日に五つぐらい買って帰ったぐらいよ」


 そんなに買ったんなら、一つ分けて欲しいわ。


「なんだかなぁ。アイスも売り切れで、新しいバイトも見なかったし……来た意味無かったなぁ」


 はぁ、歩き損のくたびれ儲けだったわ。


「じゃ、俺は帰ります」

「あら、もう行っちゃうの?」

「目的の品が無かったですからね。冷やかしになってすいませんでした」

「いいのよぉ。また暇な時にはいらっしゃい」

「はい、それじゃ失礼します」


 軽く頭を下げて、コンビニから出る。

 もうここの店員ではないのだから畏まらなくてもいいのだが、やはり癖と言うか、身体に染み付いてしまっている。

 それに、店長に対しては必ずそうなってしまう。多分、本能がそうさせているんだと思う。

 店長を怒らせたらどうなるか分かんなくて怖い。あの性格……というか、趣味だから尚更。

 でも、基本的には良い人なんだよな。バイトをしていた時、金欠だと廃棄した弁当をこっそりとくれたりしたし。

 本当、あの性格さえなければなぁ……。


「はぁ……にしても、せっかく足を運んだのに収穫ゼロか」


 アイスも買えなかったし、代わりに入ったバイトの子も休みで居なかった。でもまぁ、駅に近いから大して困りはしないけど。

 店長の話じゃ、よもぎ饅頭ジェラートはどこも品薄って言ってた。

 もし商店街のスーパーの方に行っていたら、アイスも買えなかった上に遠回りする所だった。

 保険は掛けておくもんだな。


「さて。他に用事は無いし、事務所に戻るか」


 今からだと六時過ぎの電車に乗って帰るから、事務所に着くのは七時近くだな。

 モユが腹空かせてる頃だろうから、戻ったらすぐに飯の準備しねぇと。昼は深雪さんに任せたからな。さすがに夜は俺が作らないと悪い。

 材料は事務所の冷蔵庫にまだあった筈だから、買って帰らなくてもいいだろ。

 背中を丸めながらジーンズのポケットに手を入れて、駅に向かって歩き出す。

 空は茜色が目立ち始め、陽も傾いてきた。もうすぐ陽が落ちて、完全な夜になる。

 そうなれば、暑さも大分和らぐだろう。

 ――が。


「にしても、アツイな」


 今日は本当に暑くて困る。





    *   *   *




「やっと着いた……」


 玄関の扉を押し開けて、事務所の中に入る。

 混んだ電車に揺られ、暗くなり始めた道を歩いて、ようやく着いた。

 昼間よりは気温が下がって幾らかはマシになったが、それでも暑い。このまま暑いのなら、今夜は寝苦しい夜になりそうだ。

 靴をスリッパに履き替えて、広間に向かう。大概、広間にいけば人がいる事が多い。


「今帰りましたよ……って、誰もいねぇ」


 広間に着いて中に入ってみるも、テレビの画面は真っ黒でがらんと静かだった。


「いつも誰かしら居るんだけどな」


 頭を掻きながら、部屋を眺める。

 陽が暮れ、電気の点いていなくて暗い広間が妙に寂しく見えた。


「あら、匕君。帰って来てたんだ、おかえり」

「あ、深雪さん」


 不意に名前を呼ばれ、振り返ると深雪さんが廊下に立っていた。

 方向からして、給湯室に行ってたんだろう。


「今帰ってきた所。モユは?」

「えっ? あぁ、モユちゃん?」

「広間に居ると思ったんだけど居ねぇからさ。自室?」

「モユちゃんなら私の部屋よ」

「深雪さんの部屋? なんでまた」

「なんか疲れてたようだったから、ベッドで寝てるわ」

「寝てんのか、あいつ……飯にしようかと思ったんだけど、起こす訳にはいかねぇよな」


 寝ている所を無理矢理も起こすのは悪い気がする。

 しょうがない、モユの分は作って置いておくか。


「今から晩飯を作るけど、深雪さんも食べる?」


 二人分作るのも三人分作るのも大して変わらない。

 昼は深雪さんにご馳走になったし、そのお返しって事で。余り物のピザだったけど。


「あー、もう夕飯は食べちゃったのよ。私だけじゃなくてモユちゃんも」

「へ? もう食ったの?」

「ごめんねぇ、お腹減ってたから……」


 両手を合わせて、深雪さんに謝られた。

 マジかぁ……深雪だけじゃなくてモユも食ったのか。

 作る量が減ったのは楽でいいけど、作る気でいた分拍子抜けしちまったな。


「また今度にお願いするわ。じゃあ私、部屋に戻るから」

「あ、はい。それじゃ」


 深雪さんは自室に戻り、広間の入口にポツンと取り残される。

 静かな間を埋めるように、何となく頭を掻いてしまう。


「深雪さんだけじゃなくて、モユまで飯を食ったってなら……無理して作る必要もないか」


 やろうとしていた事が急に無くなってしまい、手持ち無沙汰になってしまった。

 食うのが俺だけだってのなら、近くのコンビニで適当に買って簡単に済ませるか。

 弁当とかなら高いが、レトルトカレーなら安く済む。この事務所は米だけはあるし。

 回れ右をして玄関に向かい、スリッパを靴に履き替えて外に出る。


「モユが飯を食ったのを知ってれば、店長の所で買ってたのにな……」


 そうしてれば、来た道を戻って近くのコンビニに行く必要も無かったのに。

 まぁ、それはあくまで結果論でしかない。愚痴っても現実は変わらないんだ。ちゃっちゃと行ってちゃっちゃと買ってこよう。

 陽が暮れて夜を迎え始め、暗くなった道路を歩いてコンビニを目指す。

 近くなだけあり、大体5分位で着いた。


「カレー、カレー……っと」


 レトルト商品のコーナーへ行き、カレーを探す。


「あったあった」


 商品によるが、最近はコンビニでレトルトカレーを百円で買えるんだからいい時代になったもんだ。

 四角い箱のレトルトカレーを一つ手に取り、レジに向かう。


「あ、一応よもぎ饅頭ジェラートが売ってるか見てみるか」


 レジに向かう途中にあったアイス専用の冷蔵庫を覗いてみる。が、やはりその姿は見当たらなかった。

 この前はあんなにあったのに……誰か大人買いしたんじゃねぇか?

 レトルトカレーをレジに通して代金のワンコインを払い、移動時間よりも短い時間で買い物を済ませてコンビニを出る。

 気付けば陽が落ちて、外は完全な夜の世界になっていた。

 空は晴れているが月は無く、星だけが散らばって輝いている。


「早く帰って飯食うか」


 時間は既に七時を過ぎて、昼飯もピザを三切れだけだと腹が減ってしまう。

 また来た道を歩いて、事務所に戻る。

 事務所に着いて、スリッパに履き替えて給湯室に行く。


「お、ラッキー。米余ってる」


 炊飯器を開けてみると、釜に朝に炊いた米が余っていた。それを皿に盛って買ってきたカレーを上に掛け、レンジに入れて数分間温める。

 チン、と終了の合図で中から取り出して、温めていた間に用意したスプーンを片手に持つ。

 今日の晩飯を持って、広間へと移動する。日が落ちて廊下も暗く、電気が点いていないだけで寂しく感じてしまう。

 広間に入り、スプーンを口に啣え、空いた右手で電気のスイッチを押して明かりを点ける。暗かった広間に電気が点いて、明るくなるも誰もいない。

 当たり前か。誰もいなねぇから暗いんだもんな。

 ソファまで移動して、カレーの皿と啣えていたスプーンをテーブルに置く。


「よっこらせ」


 爺みたいな台詞を吐いてソファに座ると、ギシッ……と軋む音が妙に大きく聞こえた。

 テレビも点いてなく、広間には自分だけしか居ない。

 昼間には五月蝿く聞こえてきた蝉の鳴き声も、今は全く聞こえない。


「静か、だな」


 ソファの背もたれに背中を預けて、真っ白いタイルが並ぶ天井を眺める。

 いつも今の時間だったら、適当にテレビを点けてモユと一緒に飯を食ってる所だ。

 殆んど無口なモユとは、会話という会話は余り無かったりするけど……。

 それでも賑やかだったと、思えてしまう。

 なんか矛盾しているのは分かる。だが、そう思える。

 こっちの高校に通う為に一人暮らしをするようになぢてから、一人で飯を食うのは当たり前になっていた。

 それが嫌だったり、寂しかったりした訳では無い。それに一年以上も経てば、当然慣れてしまう。


「けどなんか、落ち着かねぇな……」


 ぽつりと、そんな言葉を呟いた。

 夏休みになって、この事務所に住み込むようになってからは、毎日モユと飯を食っていた。

 野菜炒めを作って、広間まで運んで、少ない会話をしながら食べて……。

 それがもう身体に習慣として染み込んでしまって、久しぶりに一人で飯を食う事に、違和感を覚える。


「はっ、ガキじゃあるまいし。寂しい訳あるか」


 そう言って、天井を仰ぐのをやめ、ソファの背もたれから背中を離す。

 他に人は居ないのに、まるで誰かに言い返すように言葉を放つ。

 静かな広間には俺の一人言が虚しく響き、消えていく。


「冷める前に食っちまおう」


 カレーの皿を持ち、スプーンで掬って一口食べる。明かりだけが点いた、一人だけの広間で。

 昼飯は余り食べていないから、腹が減ってる。

 ――けど。


「……あんま、美味くねぇな」


 今日の晩飯は何故か、美味しく感じなかった。



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