No.31 熱
8/13
気持ちいい朝日が小窓から射してきて、換気扇が回り辺りには香ばしい匂いが漂う。
そんな給湯室のガスコンロの上では、フライパンがジュウジュウと音を上げている。
「よっ」
手首のスナップを利かせてフライパンを持ち上げると、中の野菜が宙で弧を描く。
「こんなもんでいいか。モユ、そこの皿を取ってくれ」
「……はい」
モユが近くにあった皿を二枚持ってきて、流し台に並べる。ガスコンロの火を消して、フライパンの野菜炒めをその皿に盛っていく。
今日のはカレー粉を使った、カレー風味の野菜炒め。
「モユは箸とコップ持ってな」
「……うん」
爪先立ちをして食器棚から箸を二組取ってから、モユはコップも取り出す。
その間に茶碗にご飯を盛って、野菜炒めと一緒にお盆に乗せる。
「前みたく転ぶなよ」
「……うん、大丈夫」
とてとて、と可愛らしい擬音が聞こえてきそうなモユの後ろを歩いて、広間に移動する。
「さて、食うか。いただきます」
「……いただきます」
広間のテーブルに朝御飯である白米とカレー風味の野菜炒めを並べて、二人で手を合わす。
箸で野菜炒めを摘まんでヒョイパク。
ん、まぁまぁかな。不味くはない。
「どうだ、美味いか?」
「……うん、食べられる」
あぁ、相変わらず感想は食べられる、なのね。
いつになったら俺の料理は美味しいという感想が頂けるのやら。
「あら、いい匂い」
鼻をすんすん、と動かしながら、深雪さんが広間にやってきた。
「あ、深雪さん。まだフライパンに余ってるから、食べたかった食べていいよ」
「あら、本当?」
昨日は深雪さんが帰ってきて、モユと二日連続で一緒に寝るという事はしないで済んだ。
「咲月君とモユちゃんは、今日は遊園地に行くんだっけ?」
「ん、昨日沙姫に誘われて、モユも行きたいって言うんで。俺はついでみたいなもんだけど」
「モユちゃんが、ねぇ……うんうん、楽しんで来るといいわ」
「深雪さんは朝飯、食わないの?」
「あぁ、うん。寝てて汗掻いたから、ちょっとシャワー浴びようと思って」
持っていた白いバスタオルを首に掛けて、深雪さんは苦笑する。
「じゃね、浴びてから頂くわ」
深雪さんは軽く手を振って広間から出ていき、浴室に向かっていった。
それからテレビを点けてニュースを垂れ流しにして、黙々と朝食を摂る。モユは基本無口だから会話という会話はあまり無い。
ニュースの天気予報によると、今日は一日快晴だとの事。
文字通り雨が降るんじゃないかという問題は綺麗に晴れて、絶好のアウトドア日和になってくれた。
「ごっそさん」
いち早く朝飯を食べ終わり、自分が使った食器を重ねる。モユが食べ終わるまで、適当にテレビのチャンネルを変えて時間を潰す。
この時間にやっているニュースの天気予報では、全部が全国的に晴れマークが付いていた。
これならさすがに予報が外れて雨が降るって事は無さそうだ。
「……ごちそうさま」
「ん、食い終わったか。じゃ片付けるか」
空いた皿を全部お盆に乗せて、それを持って立ち上がる。
「九時の電車に乗って立花町に行くから、8時半には出れるようにしておけよ」
「……わかった」
今の時刻は七時半過ぎ。
モユはまだパジャマ姿で、俺も寝間着であるジャージのまま。とりあえず、着替える前に食器を片付けなければ。
お盆を持って給湯室に行き、使った食器を食器洗い器に入れていく。
「本当に便利だし楽だなぁ」
洗剤を入れて蓋を閉め、ボタンを押す。これだけで後は勝手にやってくれるんだもんな。
今は俺が自炊しているけど、元々の住民で自炊する人がいねぇのに食器洗い器があるとか……宝の持ち腐れってのはまさにこの事だな。
「あ、野菜炒め……どうしよ?」
余った野菜炒めが入っているフライパンが目に入り、呟く。
「でも深雪さん、シャワー浴びたら食べるって言ってたし、このままでいいか」
長時間置いてるならともかく、すぐに食べるならラップして冷蔵庫に入れる必要は無いだろう。
「さて、俺も出掛ける準備しねぇと」
給湯室から出て、背伸びをしながら廊下を歩く。広間の前を通るとモユは居なく、点けていたテレビも消されていた。
えらいえらい。モユ、誰も見ないからちゃんとテレビは消して自室に移動したな。
子守りをしていた俺の躾が良かったようだ。
さっき自分が広間を出る時に消さなかったのは置いといて、だ。
部屋に着いて、とりあえずベッドに腰掛ける。
「うーむ、何を着ていこうか……」
顎に手を当てて唸りながら壁に掛けてある、今ある服を眺める。
この事務所に寝泊まりする際に持って来た着替えの中にジャージ以外の服があるにはあるが、どっかに出掛ける事を想定した、いわゆるお洒落な服なんぞは持ってきていない。
あるのはTシャツが殆ど。
マンションに戻ればいくらかマシな服があるのだが、生憎戻る時間が無い。
「ま、デートって訳じゃねぇし……あるのを適当に着ていけばいいか」
昨日沙姫に、俺は着飾らないのが良い、みたいな事を言われたからな。
その通り、着飾らないで行くか。
……そういう意味で言ったんじゃないんだろうけどな。
部屋着のジャージを脱いで、今ある服で一番まともなのに着替える。
「……まぁ、格好良くなければダサくもないだろ」
黒い半袖のプリントVネックTシャツに、下はジーンズといったシンプルな格好で収まった。
携帯電話、財布と忘れてはいけない物をポケットに入れる。
そして最後に、レザーチェーンの水晶のネックレスを首に掛ける。
「準備OK。まだ時間はあるけど、モユの所に行くか」
ドアノブを回して、部屋から出る。
部屋に鍵が付いているが、これと言って大事なモンはないから掛けなくていいだろ。
と言うか、ここは一応警察の事務所だからな。そんな所に盗みに入る奴はいねぇだろうよ。
「あぁ、咲月君。丁度良かった」
部屋のドアを閉めきった所で、名前を呼ばれた。
「白羽さん。俺に用?」
呼んだのは白羽さんだった。今日も黒スーツ姿が決まってらっしゃる。
ハットは被っていないけど。
「うん。今から出掛けるのかい?」
「あぁ、今すぐって訳じゃないけど、もう少ししたら出るつもり」
昨日、結局沙姫の家にいる間に白羽さんから連絡は無く、事務所に帰ってから直に聞きに行った。
なんでも携帯電話を机に置いたまま資料室に居たらしく、電話に気付かなかったらしい。
で、遊園地の件を聞いてみるとすんなりOK。むしろ、快諾だった。
「実は、咲月君にこれを渡そうと思ってね」
白羽さんはスーツの内ポケットから、縦長の茶封筒を取り出して俺に差し出してきた。
「なんだ、これ?」
受け取って、ピラピラと天井を仰いで透かしてみる。
「遊園地に行くのだろう? 少ないが私からのカンパだ。皆と楽しんで来るといい」
「えっ? なんか悪ぃよ! 遊園地に行く金ぐらい持ってるからいいって!」
その茶封筒を返そうと、白羽さんに向ける。
「気にする事は無い。咲月君にはモユ君の世話をしてもらっていたからね」
「いや、だからって……」
「それに、安全の為だったとは言え、モユ君をこんな所に数日間も籠らせてしまった。その必要が無くなって、ようやく人並みに遊べるようになったんだ。私も、モユ君には楽しんできてもらいたいからね」
そう言って、白羽さんは小さく微笑む。
「でも、余計な経費は出したくないってエドが言っていたけど……」
「うん? あぁ、そこは大丈夫だ。これはあくまで私個人からの気持ち……つまり自腹だからね。問題無い」
「……はぁ、分かった。なら有り難く受け取るよ」
観念して口元を僅かに釣り上げ、茶封筒を財布に挟む。
「それでは、私は部屋に戻る。今日は天気も良いからね、楽しんで来るといい」
振り返り際に小さく片手を上げて、白羽さんは自室に戻っていった。これを渡す為だけに来たのか。
あの人は出来た大人って言うか、妙な貫禄があるって言うか……相変わらず器が計り知れない。
あぁいう人が本当に格好良いって言うんだろうなぁ。
「モユは準備出来たかな?」
俺の部屋から廊下を挟んで、対面にあるドアがモユの部屋。
ドアの前に立って、手の甲でノックしてみる。
コンコン、と小気味良い音が鳴った。
「……あれ? 反応無いな」
しかし、いくら待っても中から返事が無い。
「部屋にいないのか?」
何気無くドアノブに手をやると、カチャリと抵抗無く回った。
「お? 鍵は掛かってねぇのか」
無用心だな……なんて思ったが、鍵を掛けずに出掛けようとしている俺が言えた事じゃなかった。
「モユー? いねぇのかー?」
ドアを開けて中を覗いてみる。
部屋の中はガランとしていて、モユの姿は見当たらなかった。
「いねぇな。部屋にいると思ったんだけど、どこ行ったんだ?」
中に入って部屋を見回してみるも、俺の部屋と同じく殺風景で何もない。
元々借り物の部屋だからしょうがないにしても、思春期に入る年頃の女の子の部屋にしては寂し過ぎる。
とは言え、モユはつい二日前から外出が出来るようになったんだもんな。部屋を飾る物を買いに行く機会なんて無かったから無理も無いか。
今日、遊園地に行ったついでにぬいぐるみでも買ってやるか。アイスにしか興味が無いモユが欲しがれば、の話だけど。
「ん……? なんだ、これ?」
部屋のテーブルの上に、目を引く物が転がっていた。
それを手に取って、目の高さまで上げて見る。
「これって薬が入ってるヤツ……だよな?」
プラスチック製の薄い容器で、錠剤とかカプセルを押して取り出すタイプの。
なんでこんな物があるんだ?
空になってる所を見ると服用したって事だよな。モユの奴、どっか身体の調子が悪かったりすんのか?
容器の裏には『Valerian』と表記されていた。
「バレ、リ……アン?」
ただの風邪薬だったりするかもしれないが、薬を飲んでいると知ると不安になるのが人の心だ。
それも聞いた事が無い名前の物だったら尚更。
「気になるな……調べてみるか」
ポケットから携帯電話を取り出し、画面を開いて操作し始める。
今の時代、携帯電話からでもネットで調べる事が出来る。
便利な世の中になったもんだ。
「えっと、バレリアン……で読み方合ってんのか?」
あ、裏に書いてあるスペルを入れればいいか。
「V、a、l、e……」
検索サイトに繋げて、検索ワードに単語を記入していく。
「お、出た。バレリアンで読み方は合ってたか」
すぐに検査結果が携帯電話の画面に表示された。
「脳内の神経伝達物質で鎮静作用を促す働きがあると言われ、中枢神経系に軽い鎮静効果がある」
画面に表示された文字を、小さな声を出して読み上げていく。
「安眠を誘い、自然な睡眠効果を引き出す作用が……って事は、これって睡眠薬なのか」
もう一度と容器をまじまじと眺める。
モユの奴、静寂な夜や暗い所は嫌いだからな……今も、そのせいでなかなか眠れない夜もあったんだろう。
その理由は自分が造られた場所を思い出すからだと言っていた。
モユにとってその場所を連想させる静寂と暗闇は、眠れなく程嫌いで、逃げたくなる程怖いんだろう。
……トラウマってのは、そういうもんだ。
効果に鎮静作用もあるって書いてあった。睡眠薬としてだけじゃなく、トラウマから来る不安感と恐怖感を抑えるのも目的として使ってるのかも……。
「でも、どっから持ってきたんだ、これ。モユが自分で買う筈がねぇからな……」
考えてみると、思い当たる節が一人いた。
――深雪さんだ。
あの人なら持っていそうだ。前に俺がモユに斬られた時も診てくれたし、医療関係を少し噛っていたとも言っていたし。
後で聞いてみよう。なんか気になる……。
「で、こっちはなんだ?」
プラスチックの容器をテーブルに戻して、もう1つ気になっていた物を代わりに拾う。
これもテーブルの上に転がっていた。
「木のヘラって言うより、これは……」
テーブルの上で一際不自然に目立っていたそれを、親指と人差し指で摘まみ持つ。
「アイスの棒だよな?」
茶色く細長い木の棒。
最近になってよく見掛ける機会が増えた。
なんてったって、モユが毎日アイスを食ってるからな。
「なんでこんなモンがテーブルに置かれてんだか」
表と裏を確認してみても何も書いていない。当たり棒って訳でもないみたいだ。
ゴミの捨て忘れか?
いつもゴミはゴミ箱に入れろって言ってんのに。
「……匕?」
名前を呼ばれて振り返ると、モユがドアの前に立っていた。
「あぁ、モユ。悪い、勝手に部屋に入っちまった」
モユの服装はパジャマ姿のまま変わっていなかった。
髪も降ろされて、チャームポイントである小さなおさげ二つも今は無い。
「どこにいたんだよ」
「……歯磨きして顔を洗ってた」
「そうか。そろそろ行くからな、早く着替えろよ」
「……うん」
モユはいつもと同じ仕草で頷く。
「それとだ、モユ。駄目だろ、ゴミはちゃんと捨て―――」
「……ッ!」
ぴくん! と小さく身体を跳ねつかせ、モユはこっちに走ってきた。
そして、ジャンプして俺が持っていたアイスの棒を強引に奪い取られた。
「おっとと」
普段大人しいモユが慌てた様子で、目には焦りの色が見えた。
その珍しい行動に少したじろぐ。
「な、なんだぁ? それって食い終わったアイスの棒だろ? 捨てるんじゃないのか?」
モユは俺に背中を向け、アイスの棒を大事そうに握り締めて首を横に振る。
「……違うのか?」
こくん、と背中を向けたまま、モユは無言で頷いた。
なんだかよく分からねぇけど、モユにとっては必要なもんらしい。
集めて何か工作するってなら、可愛らしいとか思えるんだけどな。
夏休みの宿題とかには縁の無いモユに、それはないか。
「悪かった悪かった。捨てたりしねぇから、そんな警戒すんなって」
宥めるように、モユの頭に優しく触れる。
「……ほんとう?」
モユは顔だけを振り向かせて、俺を見上げて聞いてくる。
「あぁ。だから安心しろ」
くしゃっ、と赤茶い髪を撫でてやる。
「……ん」
モユは気持ち良さそうに目を瞑り、無表情ながら強ばっていた顔は緩みを帯びた。
「それじゃ、俺は広間で待ってるから着替えたら来いよ」
「……わかった」
モユは小さく頷いて答え、俺は部屋から出ていく。
ドアを閉めて、頭を掻きながら溜め息を吐く。
「はぁ……未だによく分からねぇ所があるなぁ、あいつは」
呟きながら廊下を歩いて広間に向かう。
「なーんか、起きてから身体がダルいんだよな……」
肩に手を当てて、首を回して筋肉を解す。
二日連続で長時間の組手をしたから、その疲れが残ってんのか?
でも、そういう疲労とか筋肉痛から来るものとは感じが違うんだよな……。
何かすっきりしないと言うか、身体が重い。
「風邪でも引いたかな?」
鼻を指で擦ってみたが、鼻水は出ていない。
一昨日のモユと一緒に寝た時に毛布をあげちまって、俺は何も掛けないでしまった。
それで寝冷えしちまったのかも……。
「あ、深雪さん」
廊下を歩いていると、向こうから歩いてくる深雪さんの姿が見えた。
「今、風呂から上がった所?」
「えぇ。たまには朝風呂ってのも悪く無いわねぇ」
深雪さんはTシャツにハーフパンツ姿で、さっぱりした笑顔を向けてきた。
「……ねぇ、匕君。さっき広間で会った時にも思ったんだけど、少し顔色悪くない?」
「あー、朝から少し身体がダルくて……」
「それに、顔もなんか熱っぽいわね」
深雪さんは俺の顔を覗き込んでくる。
風呂上がりで、深雪さんの髪からシャンプーのいい香りがしてきた。
「ちょっとおいで。一応、熱を計ってみましょ」
「あ、ちょ……」
有無を言わさず腕を引かれて、向かっていた筈の広間を通り過ぎてしまう。
そして、連れていかれた先は、前にモユに斬られて怪我をした時に寝かされてた医務室だった。
「そこの椅子に座って」
言われるままに、四角いテーブルの隣に置かれていた長椅子に座る。
「はい、体温計。脇の下に挟んで」
深雪さんから体温計を渡され、スイッチを押して脇に挟む。
んー……身体は少しダルいけど、熱があるって感じはしないんだけどな。
とりあえず、言われた通りに熱を計ってみる。
「身体がダルいの以外に、何かある? 頭痛や腹痛、間接が痛いとか耳鳴りがするとか立ち眩みが起きたりは?」
「いえ、そういうのは特に」
「じゃ吐き気がしたり、食欲が無い……は、無いか。さっき朝御飯食べてたもんね」
俺がしっかりと朝食を摂っていたのを思い出し、腹の辺りで腕を組ませて肩を竦ませる。
「念の為に、風邪薬を飲んでおきましょうか」
「え? いや、いいって。身体がダルいだけで熱も無さそうだし、咳も出ねぇし」
「沙姫ちゃん達と遊びに行くんでしょう? もし途中で具合悪くなったらどうするの。自分だけじゃなくて、皆に迷惑掛けちゃうのよ?」
「……そう、か」
「だから、飲んでおくに越した事はないでしょ?」
そう言って深雪さんは、壁棚のショーケースを開けて薬を探し始めた。
そうだよな。俺が途中で具合が悪くなったら、沙姫や沙夜先輩は心配してきて遊びどころじゃなくなるんだろうな。
そうならないように、深雪さんの言う通り風邪薬を飲んでおいた方がいい。
健康な状態で風邪薬を飲んだからって、何かがある訳じゃないんだし。
たまに風邪薬には副作用で眠くなるってのは聞いた事があるけど、騒がしい遊園地で眠くなるなんて事は――――。
「……あ」
眠くなる、という言葉である事を思い出した。
深雪さんに聞かなくてはならない事を。
「あの、深雪さん……」
「んー、なーにー?」
風邪薬を探して、背中を向けたまま深雪さんは返事する。
「モユの奴、今何か薬を飲んでるよな」
息をぐっと飲む。
「あれ、なんの薬だ……?」
本当はなんの薬なのかは知っている。けど、それはあえて言わない。
返ってくる言葉を試したかったから。
ここでもし、深雪さんが睡眠薬以外の答えを言ったのなら、本当の事を言えない理由がある……。
つまり、モユの身体に何かあったって事になる。そして、俺には教えられない秘密があると。
別に深雪さんを疑っている訳じゃない。たが、何か嫌な予感がする。
「……咲月君、知っていたの」
「さっき、たまたまモユの部屋で薬の容器を見付けてさ」
ぴたりと、薬を探していた深雪さんの手が止まった。
もしかしてあの薬、見られたら都合の悪い物だったか……?
「……そう」
ふぅ、と一息吐いてから、深雪さんがこっちに振り返る。
「モユちゃんが飲んでいるの、あれはただの睡眠薬よ」
そして、笑顔で答えた。
「匕君も知っているでしょう? モユちゃんが夜が嫌いだというのが」
「……あぁ、知ってる」
「それで、眠れない時があるらしいの。嫌な事を思い出してしまうらしくて……」
それも知っている。モユが最初にここへ来た日の夜に、聞いた。
静寂の中、怖そうに、寂しそうに、縋るように、助けを求めて――――。
暗闇の中、壊れそうな、消えてしまいそうな小さな手で握ってきた夜を――――。
忘れる訳がない。忘れられる訳がない。
「眠れなくて、嫌いな夜の中を起きているなんて……モユちゃんには苦痛でしか無いわ。それで、私が薬をあげたのよ。少しでもモユちゃんが、嫌いなモノから避けられるように、ってね」
こっちに歩み寄りながら話して、深雪さんは俺の前で止まった。
「別に変な薬じゃないわ。だから、安心して」
コトン、と箱に入った風邪薬をテーブルの上に置く。
そう、か。よかった、モユの体調が悪かった訳じゃないのか。
俺が感じていた悪い予感も、杞憂だったみたいだ。
「納得してくれたのなら、その怖い顔をやめて欲しいなー、なんて」
深雪さんは少し言いづらそうに、はにかむ。
「へっ? 俺、そんな怖い顔してた?」
深雪さんに言われて頬に手をやり、触って分かる訳も無いのに確認する。
「してたわよー。背中越しでも分かっちゃう位に凄い目で睨んでたわよ。鬼気迫る、って感じで怖かったんだから」
「うへぇ、マジで?」
「マジよ、マジ」
腰に手を当てて、顰めっ面で言い返してくる。
そんなに怖い顔だったのか、俺……。
深雪さんに悪い事をしたと思う気持ち半分、自分が意識していなかった顔を見られて恥ずかしさがある。
「でもそれだけ、モユちゃんの事を考えてあげて心配してるって事か。匕君、お兄さんとして板に付いてきたんじゃない?」
「へっ? あ、いやっ……心配っつーか、俺はただ何の薬か知りたかっただけで、気にかけたり心配したって訳じゃ……」
「ふふっ、恥ずかしがらなくていいわよ。立派だなって褒めてるんだから」
「……あー、うん。どうも」
そう言って、深雪さんは微笑ましい表情で俺を見つめてくる。
気恥ずかしくなって目を合わせられず、視線を泳がせてから逸らし、後頭部を掻きながら言葉を返す。
今まで意識していなかったから気付いていなかったけど、そうか……。深雪さんが言う通り、俺ってモユの事を心配していたんだ。
知らない事が多くて、なんか危なっかしくて、どこか儚くて、消え去りそうで……。
だから、誰かがやってやらなきゃと思ってしまう。
「モユちゃんが一番懐くのも頷けるわね」
クスッ、と深雪さんは笑みを零す。
「それじゃ、私は給湯室に行ってくるわ。薬を飲むには白湯が一番いいからね」
「さゆ?」
「お湯の事よ。匕君は熱を計ってなさい」
医務室のドアを開けっ放しにして、深雪さんは給湯室へと出ていった。
「この薬って何錠飲むんだ?」
目の前のテーブルに置かれた風邪薬の箱を手に取って、裏面の用量を確かめる。
どうやら、錠剤じゃなくて微粒の粉薬タイプみたいだ。食後に一袋飲めばいいらしいから、さっき朝飯前を食べたから丁度良いな。
いつでも飲めるように、箱から薬を一袋だけ出しておく。
と、脇に挟んでいた体温計がピピッと鳴った。
「お、計り終わった。熱は無いと思うんだけどなぁ」
呟きながら脇の体温計を取る。
「……匕」
名前を呼ばれ、声が聞こえてきたドアの方を見るとモユが立っていた。
「……広間にいなくて探した」
「あ、悪かった。ちょっと深雪さんと話をしててよ」
身体がダルいから、熱を計ってたと言ったらモユに心配されそうだ。
だから、一応伏せておく。それにダルいだけで、具合が悪い訳じゃないしな。
「よし、ちゃんと着替え終わったな」
「……うん」
モユは服装はいつもと同じく、黒いブラウスに白いブリーツスカート。
後ろ髪も黒リボンで小さなおさげ二つが出来上がっている。
「……時間、大丈夫?」
「あ、やっべ!」
部屋の壁に掛けられた時計を見ると、八時四十分になろうとしていた。
電車は九時発。俺一人なら余裕で駅に着くが、モユと一緒だと少し厳しいかもしれない。
その電車に乗り遅れたら、待ち合わせ時間に遅れてしまう。
「モユ、少し急ぐぞ!」
体温計をテーブルに置いて、慌てて立ち上がる。
「っと、薬は飲んだ方がいいよな」
モユに聞こえない声で呟いて、風邪薬を一袋ポケットに入れる。
「行くか」
多少駆け足で医務室から出る。
「あら、匕君」
廊下に出ると、深雪さんが湯飲みを乗せたお盆を運んできていた。
「すんません、時間が無いんでもう行きます!」
深雪さんの横を通り、すれ違い様に小さく謝ってて玄関に向かう。
「ちょっと、お湯持ってきたのに!」
「後で水でも買って飲みますから、じゃ!」
深雪さんには悪いけど、時間が無いんです。急がないと電車に乗り遅れちまう。
玄関でスリッパから靴に履き替え、外に出る。
空は天気予報の言ってた通り、真っ青な快晴。雲の欠片も見えない。太陽もギラリと輝きを放っている。
今はまだ朝の時間に近いからそうでもないが、昼間になれば気温が上がって暑くなるだろう。
遊園地に行くには絶好の日になってくれた。
「よし、じゃ行くか」
「……うん」
歩き出して、右隣のモユに右手を差し出す。
それをしっかりと小さな手で握り返してきて、並んで歩く。
気持ち良い青空の下、電車に遅れないように、ゆっくりと、手を繋いで。
◇
「もう、せっかく沸かしたのに」
匕とモユが慌てて出ていく後ろ姿を目で追って、深雪は溜め息を吐く。
「まぁ、いいか」
だが、二人の中の良さそうな姿を見たら、自然と微笑みが零れていた。
「あーあ、出しっぱなし」
深雪が医務室に入ると、テーブルに置かれたままの風邪薬と体温計が目に入った。
「しかも、直射日光に当たってるじゃない! 壊れたらどうするのよ」
窓から入ってきている直射日光に照らされていた体温計を、深雪は急いでテーブルから拾う。
夏の強い直射日光となると、長時間当たるとこもる熱は馬鹿に出来ない程に高くなる。
それで機械が壊れてしまう事も珍しくない。
「で、熱はあったのかしら?」
持っていたお盆をテーブルに置いて、手にした体温計の表示画面を覗く、
「――――えっ!?」
瞬間、深雪の表情は驚愕で固まった。
体温計の画面に表示されていた、目を疑ってしまう数値。
その数値は、体温計なんかでは一度も見た事は無い。
いや、ある筈が無い。
『58.9℃』
それが、体温計が表示していた数値……匕の体温だった。
人間では有り得なく、耐えられない温度。
体温計が表すその数値は常人では考えられない高温。
「って、そうか。直射日光のせいね」
深雪は体温計が直射日光に当たっていた事を思い出し、驚愕で固まっていた表情が安堵で緩む。
もしそんな体温をしていたのなら、遊園地に出掛けるどころか歩く事さえ出来ていない。
風邪をひいた際、38.5度以上は高熱と分類され、急激な寒気に教われて立ち上がる事すら困難になる。
それを遥かに上回るとなれば、自身の意識を失い、昏睡状態になっている筈である。
いや、それどころか、普通ならばすでに死に陥っている。
「あー、ビックリしたわ。私ったら馬鹿ねぇ。体温計、壊れてないわよね?」
電源を切り、少し間を置いてからもう一度電源を入れる。
体温計は何事も無かったように、ピッ、と機械音を鳴らして起動した。
「よかったよかった。さて、私は今日も調査しに出掛けないと。匕君の作った野菜炒めを食べて準備しなきゃ」
だが、深雪は知らなかった。
その体温計がテーブルに置いてから、殆ど間もないという事を。
◇




