No.29 雨の音
「はー、サッパリした」
バスタオルで髪を拭きながら、近くの石段に腰掛ける。
沙姫の家から帰ってきてから風呂に入り、火照った身体を夜風に当たって冷まそうと事務所の外に出ていた。
玄関のすぐ脇に腰を下ろし、肩にバスタオルを掛けて一息つく。近くの草むらから聞こえてくる鈴虫の鳴き声が、また風流だ。
時折そよぐ夜風が濡れた髪を微かに靡かせる。
モユは俺より先に風呂に入って、今はもう寝ている。時間も夜の十時を過ぎているし、初めての外出で疲れていたんだろう。
今日組手で使ったジャージは、風呂を沸かす時間とモユが風呂に入っている間に洗っておいた。明日また使うので、今は部屋に干してある。
乾燥機を使えば早いのだが、一晩干していれば乾燥機を使わなくても乾くだろう。
乾いていなかったら、明日の朝に乾燥機に掛ければいい。
「今日は随分と組手をしたなぁ」
掌を眺めて、呟く。
今日は沙姫に負け越したけど、自分の動きは悪くはなかった。沙姫も俺の動きに慣れてきた、ってのもあるだろうが、別段反省点が多い訳でもない。
ただやはり、まだ昔と比べたらぬるい。確かに動けていた……が、それじゃ駄目なんだ。
昔はもっと鋭く、そして滑らかな流れるような動作が出来た。
“動く”んじゃではなく、“流れ”なければ。
毎日クソ親父にしごかれていた頃は、こんな甘い動きじゃなかった。
「ふっ!」
座っていた石段から瞬時に立ち上がり、同時に右足を前にして身体を半身に構える。
前に右肘を突き出し、左手は胸元で腰は落とす。
「はぁぁ……」
息をゆっくりと吐き出し、右肘を伸ばしつつ腕を伸ばす。
「しっ!」
前に出した右手を素早く回して外側からの半円を描き、右足は地を強く踏み締めて肩を下ろしたまま掌底を突き出す。
掌底は何も無い空間を射抜き、バウッ! と空気が弾ける音が鳴った。
「本気を出していない、か」
構えを解いて、掌底を放った右手を見つめながら、沙姫に言われた言葉を思い出す。
「出しているんだけどなぁ、本気は」
右手を開いたり閉じたりして、誰にでもなく呟く。
「ん?」
ポツッと、鼻の頭に何かが落ちてきた。
なんだ……と思う間に、その正体が次々と落下してくる。
ポツッ、ポツポツ……。
水滴が地面を濡らし始めたかと思えば、鈴虫の鳴き声を掻き消してしまう程の音を立てて雨が降ってきた。
「んっだよ、雨降って来やがった!」
急いで事務所の中に入り、バスタオルで頭を拭く。雨が降ってからすぐ中に入ったから殆ど濡れる事は無くて済んだ。
玄関のドアを挟んで、ガラス越しに外を眺める。
雨が降り、滴り、落ちる音。まるてテレビの砂嵐のような、耳障りな音。
嫌な事を、嫌な頃を、嫌な時を、嫌な景色を。
そして、嫌な自分を思い出させられる。
「……チッ」
堪らず、舌打ちする。
ガラスの向こうで降っている雨を、まるで親の仇でも見るかのような増悪に満ちた眼で睨んで。
それ程に、俺は雨が嫌いだ――――。
「明日は午前からだ。さっさと寝よう」
明日は沙姫に負けねぇようにしないと。
あれ以上調子付かれると、波に乗って常にペースを持っていかれちまう。
外靴からスリッパに履き替えて、自室に向かう。誰もいない廊下や広間の電気は消されて、暗い廊下を歩く。
広間の前を通り過ぎて、事務所に住む各自の部屋が並ぶ廊下に出た。
一番手間である俺の部屋に着いて、ドアを開けて中に入る。
部屋の壁にはハンガーに掛けられたジャージが干されていた。間違いなく俺の部屋だ。
バスタオルは椅子の背もたれに適当に掛けて、ベッドにダイブする。
一度、ダイブした反動で宙に浮いてから、身体はベッドに埋もれた。まだ微妙に揺れるベッドの振動が気持ちいい。
風呂に入ってサッパリして、いい疲労感が眠気を誘う。
携帯電話に目覚ましをセットしておいたし、あとは明日寝坊しなければいいだけ。
「……くそっ」
部屋に入っても、窓の外から雨が降り注ぐ音が聞こえてくる。
耳障りな雑音が、癪に障る。
早くこの雑音から逃れようと、目を瞑って寝る事に集中する。
段々と意識は薄くなり、大嫌いな雨音が遠退いていく。
耳に入ってくる雑音は小さくなっていき、強く瞑っていた瞼の力が自然と抜けていく。
――――コンコン。
雨の音だけが響く部屋の中で、何かを叩く渇いた音が耳に入ってきた。
小さくなっていく音の中に混じった、別の音。
聞き間違いではない。確かに聞き取った。
「……ん」
灯りの点いていない暗い部屋の中、ベッドに倒していた身体を起こす。
前にも一度、同じ事があった。
もしそれと、また同じであるのならば……音の正体はあそこからだ。
部屋の入口であるドアに、視線をやる。
――――コン、コン。
また、あの音が雨音に混ざって鳴った。
弱々しくて小さくて、脆くて消えてしまいそうな音。
「鍵は空いてる。入ってきていいぞ」
小さく唇を斜めにして、音の正体に呼び掛ける。
すると、カチャリ……とドアノブが動いてドアが開いた。
開いたりドアの隙間からは、暗闇の中でも目立つ、紅葉にも似た赤茶い髪と瞳をした少女。
「ん、どした?」
部屋は雨音が響いて、嫌でも耳に入る。
正直俺には、黒板を爪で引っ掻いた時にする音以上に不愉快で、不快感を覚えてしまう。
けど、それを面に表さぬように、モユへ笑みを作って見せる。
風呂に入って、薄いピンク色のパジャマ姿になったモユが部屋に入ってきた。
「……深雪がいない」
ぽそりと、雨音に掻き消されそうな位に小さい声で、モユが言った。
「いない?」
あぁ、そう言えば深雪さん、外出していて今日は戻らないかもしれないって言ってたな。
今の時間になってもまだ事務所にいないって事は、今日は帰って来ないんだろう。
「とりあえず、ドアを閉めてこっち来い」
自分が腰掛けている隣を軽く叩いて、モユを呼ぶ。
モユは無言で頷いてドアを閉め、ぺたぺたと裸足でこっちに歩いてくる。
そして、俺の右隣にちょこんと座った。
「まだ、怖いのか」
「……うん」
モユはこくん、と視線を落として小さく頷いて、パジャマ代わりに着ている俺のTシャツの袖を掴む。
前に一度、静寂かで暗い所は苦手だと、夜中に俺の部屋に来て一緒に寝てやった事がある。
最近は深雪さんと一緒に寝ていて俺の部屋には来なかったが、その深雪さんが今日はいない。
「……ごめんなさい」
「ん? どうして謝るんだ?」
モユに視線を落としたまま、小さな声で申し訳なさそうに謝られた。
謝られるような事をした覚えはない。
……毎日野菜炒めを食べさせていた事以外は。
「……匕、私が部屋に入ってきた時、怒った顔をしてた」
「怒った顔?」
そんな顔をしていたつもりは全然ない。むしろ、笑顔を作っていたつもりだったんだけどな……。
でも、嫌いな雨の音のせいで機嫌が悪くなっていた。
それを隠すように無理矢理作った笑顔じゃ、誤魔化しきれなかったか。
「……何をしたら、喜ぶ?」
落としていた視線を上げて、モユは俺の顔を下から覗くように見上げて聞いてくる。
「……匕は、私が何をしたら嬉しい?」
「嬉しいって……なんでんな事を聞くんだよ?」
いきなり言われても思い付かない……って言うか、そんな事を聞いてくる理由が分からん。
「……深雪に教えてもらった。誰かに迷惑を掛けたらごめんなさいって謝るんだって」
「あぁ、前に言ってたな」
「……それで、他にも教えてもらった。相手を怒らせたり悲しませたりしたら、喜んだり嬉しがる事をしてあげると許してくれるって」
きゅっ、と。モユはTシャツを握る力を強める。
俺に迷惑を掛けたと、怒らせてしまったと思い込んで。
「大丈夫だよ、モユ。何もしなくていいって」
モユの頭に手を乗せて、笑って見せる。
「……怒って、ないの?」
「怒ってねぇし、迷惑だとも思ってねぇよ」
ポンポン、とモユの頭に乗せていた手で軽く触れる。
「だから、謝んなくたっていいって」
「……うん」
俺が怒っても迷惑がってもいないと知ってか、モユの表情は少し緩んだように見えた。
「あ、でも……そうだな」
「……なに?」
「お前が笑う顔を見てはみたい、かな?」
相変わらず無表情なモユに、苦笑を混ぜて言う。
「……笑、う?」
モユは目をぱちくりさせて、きょとんと首を傾げる。
「そうそう、こうやってな」
「……ふぁに?」
モユの両頬を摘まんで、斜め上に釣り上げてみる。頬はふにっとして柔らかく、意外とよく伸びた。
「たまにはにっこりと笑って見せろって言ってんだよ」
ぐにぐにと粘土を捏ねるみたいに、頬っぺたを動かして遊ぶ。
「……ふぁじ、ひはい」
「っと、悪ぃ悪ぃ」
摘まんでいた手を離すと、モユは片手で頬を擦る。
ちょっと強く摘まんじまったかな。
「こんな時間に俺の部屋に来たって事は、また一緒に寝て欲しいんだろ?」
「……うん」
「んじゃ、早く寝るか。明日は午前中に沙姫ン家に行かなきゃなんねぇからな」
がしがしと少し荒っぽくモユの頭を撫でて、ベッドに寝転がる。
隣にモユも寝転がると、ベッドが小さく軋んだ。
「ほら、毛布。夏っつっても冷えたら風邪引くぞ」
一枚しかない毛布を、モユに掛けてやる。
風邪を引いたら大変だし、俺は無くても大丈夫だからな。
毛布のついでに枕もモユに貸してやる。
「さ、子供は早く寝た寝た」
モユの方を向いて寝転がり、代わりに自分の腕を枕にする。
「……うん」
モユは枕に頭を埋めて、小さく頷いた。
会話が止まると、また、あの音が部屋に強調されていく。先程よりも勢いが強くなっているのか、比例して音も大きくなっている。
聞きたくもない嫌な音が部屋を支配していき、耳に無理矢理入ってくる。また自分の気分が、機嫌が悪くなっていく。
まるで苛ついている俺を挑発するように、雨は窓に水滴をぶつけてくる。
このウザったい音だけは、耳を閉ざしたくなる程に嫌いだ。
苛つく、むかつく、腹が立つ、癪に障る、頭にくる。
本っ当……嫌になる位に、嫌になる。
「……匕?」
モユに名前を呼ばれ、Tシャツの袖が引っ張られた。
そこで、ハッと我に返る。
「ん、なんだ?」
胸の中で混ざりに混ざる、雨に対しての嫌悪感を押し込み、何でもないようにモユへは笑ってみせる。
「……また、怒った顔をしてた」
「っと、そうか?」
自分の顔に手を当て、確認しながらモユに返す。
顔には出していないつもりだったのに、知らずの内に出ちまってたか。
「……うん。匕、私が来て本当は迷惑だった?」
そう言うと、モユのTシャツを掴む力を強くなった。
また迷惑を掛けたと心配して。そして、自分の部屋に戻されるんじゃないかと不安になって。
「だから、迷惑じゃないって言ったろ。気にすんなって」
不安がるモユを安心させようと、赤茶い髪の頭を撫でてやる。
「……でも匕、凄く怖い顔だった」
モユは目を逸らし、少し身を縮込ませて言う。
そんなに、俺は怖い顔をしていたのか……?
この部屋には鏡が無いから確認は出来ないが、雨の音を聞いて気分が悪くはなっていた。見ていて気持ちのいい表情ではなかっただろう。
それに、子供は感受性が強くて勘が鋭いって言う。
下手に隠しても、すぐに見破られちまうんだろうな。
「実はな、モユ。俺は雨が……嫌いなんだよ」
だったら、正直に話そう。別に隠さなきゃいけないっていう話でもない。
「……雨が、嫌い?」
「あぁ。昔は全然平気だったんだけど、ちょっと前からな」
「……どうして嫌いなの?」
モユは興味ありげに、逸らしていた視線を戻して聞いてくる。
「色々と、思い出しちまうんだ……沢山の事を」
そして、今度は俺が目を逸らす。
雨を見ると、雨の音を聞くと……昔を思い出してしまう。
雲一つ無く晴れているのに雨が降り、月が無いのに明るかった夜を。
俺が約束を守れず、凛が殺されてしまったあの日を。信じられなく、受け入れたくない現実が目の前に広がっていたあの時を。俺が息をするだけの死人になっていたあの頃を。
嫌な事ばかりを思い出し、嫌いな記憶ばかりが甦る。雨が降る度、雨を見る度、雨を聞く度。何度も何度も思い返す。
また昔を思い出しては、後悔ばかりが頭を埋め尽くす。
「……私は」
ぽそりと、隣に寝ているモユが口を開く。
雨音よりも小さい声だったが、俺を現実に引き戻すには十分だった。
「……私は、雨が好き」
Tシャツを強くて掴んだまま、俺を見て。
まるでどこかへ消えていってしまいそうな俺を、繋ぎ止めるかのように。
「……雨が降ると、静寂かじゃないから。だから、私は好き」
「――あ」
その言葉を聞いて、あいつが思い浮かんだ。
『私は雨、好きだな』
肩まである橙色の髪の毛を宙で踊らせ、飾り気の無い笑顔で言っていた。
凛も、雨が好きだと。
「……匕?」
掴んでいるTシャツを引っ張って、モユに名前を呼ばれた。
「あ、あぁ、悪い。少しボーッと……してた」
あの懐かしい顔と声。
肌身離さずに付けている、この水晶のネックレス。
今はもう、あいつに会う事は出来ない。
形見であるこの水晶を服の上から握り締める。
「そうか、モユは雨が好きだったのか」
「……うん。静寂かじゃなくなるし、なんか落ち着く」
モユは枕に頭を乗せたまま頷いて、答える。
瞼はとろんと力無く、半分閉じかけている。
「てっきり、好きなのはアイスだけかと思ってたわ」
「……アイスも、好き。甘くて美味しい、し……それ、に……」
開いていた残りの半分も段々と閉じていき、モユの喋る声も小さくなっていく。
「……が、さい……に……た、から……」
そして、完全に瞼が閉じきったと同時に、モユの喋っていた口も止まり、代わりに寝息が立ち始めた。
すーすー、と静かな寝息と、年相応の可愛らしい寝顔をしている。
「やっぱり、疲れてたんだな」
電車に乗って移動したり、人混みの駅前を歩いたり、沙姫ン家でニボ助と遊んだりと色々あったからなぁ。
本当はもっと早く寝たかったんだろうけど、深雪さんがいなくて寝れず、俺が部屋に戻ってくるまで待ってたんだろうな。
深雪さんが帰ってきていないのに気付いてやって、早く部屋に戻ってきて寝てやればよかった。
「悪かったな、モユ」
謝りながら、寝ているモユの頭を撫でる。
サラサラした髪の感触が気持ちいい。
「俺も寝ないとな。明日も沙姫と組手をやるんだし」
せっかく勘を取り戻すチャンスなのに、寝不足で十分に組手が出来なかったら勿体無い。
それに、寝れば嫌いな雨音も聞かないで済む。
モユの頭を撫でるのをやめて、楽な姿勢で寝る。
すると、右袖に微かな違和感が。
「ん?」
見てみると、以前と同じく、モユが袖を握った状態のまま寝ていた。
上半身を起こして指を一本ずつゆっくりと、ほどけないかと試してみる。
が、やはりガッチリと掴んだまま離す様子は全く見えない。
「ったく、逃げやしないねぇってのに」
そんなモユに思わず苦笑してしまう。
起こした上半身を再びベッドに寝かせて、天井を仰ぎ見る。
「っはぁ……今日は疲れたな」
目を閉じて、溜め息を一つ吐き出す。
相変わらず嫌な雨音は聞こえてくる。
出来れば、明日までには晴れろとは言わないが、雨は止んで欲しい。
雨が嫌いだというのは勿論だが、なにより……。
明日、沙姫の家まで行くのが面倒臭くなる。




