表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
No Title  作者: ころく
30/85

No.29 雨の音

「はー、サッパリした」


 バスタオルで髪を拭きながら、近くの石段に腰掛ける。

 沙姫の家から帰ってきてから風呂に入り、火照った身体を夜風に当たって冷まそうと事務所の外に出ていた。

 玄関のすぐ脇に腰を下ろし、肩にバスタオルを掛けて一息つく。近くの草むらから聞こえてくる鈴虫の鳴き声が、また風流だ。

 時折そよぐ夜風が濡れた髪を微かに靡かせる。

 モユは俺より先に風呂に入って、今はもう寝ている。時間も夜の十時を過ぎているし、初めての外出で疲れていたんだろう。

 今日組手で使ったジャージは、風呂を沸かす時間とモユが風呂に入っている間に洗っておいた。明日また使うので、今は部屋に干してある。

 乾燥機を使えば早いのだが、一晩干していれば乾燥機を使わなくても乾くだろう。

 乾いていなかったら、明日の朝に乾燥機に掛ければいい。


「今日は随分と組手をしたなぁ」


 掌を眺めて、呟く。

 今日は沙姫に負け越したけど、自分の動きは悪くはなかった。沙姫も俺の動きに慣れてきた、ってのもあるだろうが、別段反省点が多い訳でもない。

 ただやはり、まだ昔と比べたらぬるい。確かに動けていた……が、それじゃ駄目なんだ。

 昔はもっと鋭く、そして滑らかな流れるような動作が出来た。

 “動く”んじゃではなく、“流れ”なければ。

 毎日クソ親父にしごかれていた頃は、こんな甘い動きじゃなかった。


「ふっ!」


 座っていた石段から瞬時に立ち上がり、同時に右足を前にして身体を半身に構える。

 前に右肘を突き出し、左手は胸元で腰は落とす。


「はぁぁ……」


 息をゆっくりと吐き出し、右肘を伸ばしつつ腕を伸ばす。


「しっ!」


 前に出した右手を素早く回して外側からの半円を描き、右足は地を強く踏み締めて肩を下ろしたまま掌底を突き出す。

 掌底は何も無い空間を射抜き、バウッ! と空気が弾ける音が鳴った。


「本気を出していない、か」


 構えを解いて、掌底を放った右手を見つめながら、沙姫に言われた言葉を思い出す。


「出しているんだけどなぁ、本気は」


 右手を開いたり閉じたりして、誰にでもなく呟く。


「ん?」


 ポツッと、鼻の頭に何かが落ちてきた。

 なんだ……と思う間に、その正体が次々と落下してくる。

 ポツッ、ポツポツ……。

 水滴が地面を濡らし始めたかと思えば、鈴虫の鳴き声を掻き消してしまう程の音を立てて雨が降ってきた。


「んっだよ、雨降って来やがった!」


 急いで事務所の中に入り、バスタオルで頭を拭く。雨が降ってからすぐ中に入ったから殆ど濡れる事は無くて済んだ。

 玄関のドアを挟んで、ガラス越しに外を眺める。

 雨が降り、滴り、落ちる音。まるてテレビの砂嵐のような、耳障りな音。

 嫌な事を、嫌な頃を、嫌な時を、嫌な景色を。

 そして、嫌な自分を思い出させられる。


「……チッ」


 堪らず、舌打ちする。

 ガラスの向こうで降っている雨を、まるで親の仇でも見るかのような増悪に満ちた眼で睨んで。

 それ程に、俺は雨が嫌いだ――――。


「明日は午前からだ。さっさと寝よう」


 明日は沙姫に負けねぇようにしないと。

 あれ以上調子付かれると、波に乗って常にペースを持っていかれちまう。

 外靴からスリッパに履き替えて、自室に向かう。誰もいない廊下や広間の電気は消されて、暗い廊下を歩く。

 広間の前を通り過ぎて、事務所に住む各自の部屋が並ぶ廊下に出た。

 一番手間である俺の部屋に着いて、ドアを開けて中に入る。

 部屋の壁にはハンガーに掛けられたジャージが干されていた。間違いなく俺の部屋だ。

 バスタオルは椅子の背もたれに適当に掛けて、ベッドにダイブする。

 一度、ダイブした反動で宙に浮いてから、身体はベッドに埋もれた。まだ微妙に揺れるベッドの振動が気持ちいい。

 風呂に入ってサッパリして、いい疲労感が眠気を誘う。

 携帯電話に目覚ましをセットしておいたし、あとは明日寝坊しなければいいだけ。


「……くそっ」


 部屋に入っても、窓の外から雨が降り注ぐ音が聞こえてくる。

 耳障りな雑音が、癪に障る。

 早くこの雑音から逃れようと、目を瞑って寝る事に集中する。

 段々と意識は薄くなり、大嫌いな雨音が遠退いていく。

 耳に入ってくる雑音は小さくなっていき、強く瞑っていた瞼の力が自然と抜けていく。


 ――――コンコン。


 雨の音だけが響く部屋の中で、何かを叩く渇いた音が耳に入ってきた。

 小さくなっていく音の中に混じった、別の音。

 聞き間違いではない。確かに聞き取った。


「……ん」


 灯りの点いていない暗い部屋の中、ベッドに倒していた身体を起こす。

 前にも一度、同じ事があった。

 もしそれと、また同じであるのならば……音の正体はあそこからだ。

 部屋の入口であるドアに、視線をやる。


 ――――コン、コン。


 また、あの音が雨音に混ざって鳴った。

 弱々しくて小さくて、脆くて消えてしまいそうな音。


「鍵は空いてる。入ってきていいぞ」


 小さく唇を斜めにして、音の正体に呼び掛ける。

 すると、カチャリ……とドアノブが動いてドアが開いた。

 開いたりドアの隙間からは、暗闇の中でも目立つ、紅葉にも似た赤茶い髪と瞳をした少女。


「ん、どした?」


 部屋は雨音が響いて、嫌でも耳に入る。

 正直俺には、黒板を爪で引っ掻いた時にする音以上に不愉快で、不快感を覚えてしまう。

 けど、それを面に表さぬように、モユへ笑みを作って見せる。

 風呂に入って、薄いピンク色のパジャマ姿になったモユが部屋に入ってきた。


「……深雪がいない」


 ぽそりと、雨音に掻き消されそうな位に小さい声で、モユが言った。


「いない?」


 あぁ、そう言えば深雪さん、外出していて今日は戻らないかもしれないって言ってたな。

 今の時間になってもまだ事務所にいないって事は、今日は帰って来ないんだろう。


「とりあえず、ドアを閉めてこっち来い」


 自分が腰掛けている隣を軽く叩いて、モユを呼ぶ。

 モユは無言で頷いてドアを閉め、ぺたぺたと裸足でこっちに歩いてくる。

 そして、俺の右隣にちょこんと座った。


「まだ、怖いのか」

「……うん」


 モユはこくん、と視線を落として小さく頷いて、パジャマ代わりに着ている俺のTシャツの袖を掴む。

 前に一度、静寂かで暗い所は苦手だと、夜中に俺の部屋に来て一緒に寝てやった事がある。

 最近は深雪さんと一緒に寝ていて俺の部屋には来なかったが、その深雪さんが今日はいない。


「……ごめんなさい」

「ん? どうして謝るんだ?」


 モユに視線を落としたまま、小さな声で申し訳なさそうに謝られた。

 謝られるような事をした覚えはない。

 ……毎日野菜炒めを食べさせていた事以外は。


「……さじ、私が部屋に入ってきた時、怒った顔をしてた」

「怒った顔?」


 そんな顔をしていたつもりは全然ない。むしろ、笑顔を作っていたつもりだったんだけどな……。

 でも、嫌いな雨の音のせいで機嫌が悪くなっていた。

 それを隠すように無理矢理作った笑顔じゃ、誤魔化しきれなかったか。


「……何をしたら、喜ぶ?」


 落としていた視線を上げて、モユは俺の顔を下から覗くように見上げて聞いてくる。


「……匕は、私が何をしたら嬉しい?」

「嬉しいって……なんでんな事を聞くんだよ?」


 いきなり言われても思い付かない……って言うか、そんな事を聞いてくる理由が分からん。


「……深雪に教えてもらった。誰かに迷惑を掛けたらごめんなさいって謝るんだって」

「あぁ、前に言ってたな」

「……それで、他にも教えてもらった。相手を怒らせたり悲しませたりしたら、喜んだり嬉しがる事をしてあげると許してくれるって」


 きゅっ、と。モユはTシャツを握る力を強める。

 俺に迷惑を掛けたと、怒らせてしまったと思い込んで。


「大丈夫だよ、モユ。何もしなくていいって」


 モユの頭に手を乗せて、笑って見せる。


「……怒って、ないの?」


「怒ってねぇし、迷惑だとも思ってねぇよ」


 ポンポン、とモユの頭に乗せていた手で軽く触れる。


「だから、謝んなくたっていいって」

「……うん」


 俺が怒っても迷惑がってもいないと知ってか、モユの表情は少し緩んだように見えた。


「あ、でも……そうだな」

「……なに?」

「お前が笑う顔を見てはみたい、かな?」


 相変わらず無表情なモユに、苦笑を混ぜて言う。


「……笑、う?」


 モユは目をぱちくりさせて、きょとんと首を傾げる。


「そうそう、こうやってな」

「……ふぁに?」


 モユの両頬を摘まんで、斜め上に釣り上げてみる。頬はふにっとして柔らかく、意外とよく伸びた。


「たまにはにっこりと笑って見せろって言ってんだよ」


 ぐにぐにと粘土を捏ねるみたいに、頬っぺたを動かして遊ぶ。


「……ふぁじ、ひはい」

「っと、悪ぃ悪ぃ」


 摘まんでいた手を離すと、モユは片手で頬を擦る。

 ちょっと強く摘まんじまったかな。


「こんな時間に俺の部屋に来たって事は、また一緒に寝て欲しいんだろ?」

「……うん」

「んじゃ、早く寝るか。明日は午前中に沙姫ン家に行かなきゃなんねぇからな」


 がしがしと少し荒っぽくモユの頭を撫でて、ベッドに寝転がる。

 隣にモユも寝転がると、ベッドが小さく軋んだ。


「ほら、毛布。夏っつっても冷えたら風邪引くぞ」


 一枚しかない毛布を、モユに掛けてやる。

 風邪を引いたら大変だし、俺は無くても大丈夫だからな。

 毛布のついでに枕もモユに貸してやる。


「さ、子供は早く寝た寝た」


 モユの方を向いて寝転がり、代わりに自分の腕を枕にする。


「……うん」


 モユは枕に頭を埋めて、小さく頷いた。

 会話が止まると、また、あの音が部屋に強調されていく。先程よりも勢いが強くなっているのか、比例して音も大きくなっている。

 聞きたくもない嫌な音が部屋を支配していき、耳に無理矢理入ってくる。また自分の気分が、機嫌が悪くなっていく。

 まるで苛ついている俺を挑発するように、雨は窓に水滴をぶつけてくる。

 このウザったい音だけは、耳を閉ざしたくなる程に嫌いだ。

 苛つく、むかつく、腹が立つ、癪に障る、頭にくる。

 本っ当……嫌になる位に、嫌になる。


「……匕?」


 モユに名前を呼ばれ、Tシャツの袖が引っ張られた。

 そこで、ハッと我に返る。


「ん、なんだ?」


 胸の中で混ざりに混ざる、雨に対しての嫌悪感を押し込み、何でもないようにモユへは笑ってみせる。


「……また、怒った顔をしてた」

「っと、そうか?」


 自分の顔に手を当て、確認しながらモユに返す。

 顔には出していないつもりだったのに、知らずの内に出ちまってたか。


「……うん。匕、私が来て本当は迷惑だった?」


 そう言うと、モユのTシャツを掴む力を強くなった。

 また迷惑を掛けたと心配して。そして、自分の部屋に戻されるんじゃないかと不安になって。


「だから、迷惑じゃないって言ったろ。気にすんなって」


 不安がるモユを安心させようと、赤茶い髪の頭を撫でてやる。


「……でも匕、凄く怖い顔だった」


 モユは目を逸らし、少し身を縮込ませて言う。

 そんなに、俺は怖い顔をしていたのか……?

 この部屋には鏡が無いから確認は出来ないが、雨の音を聞いて気分が悪くはなっていた。見ていて気持ちのいい表情ではなかっただろう。

 それに、子供は感受性が強くて勘が鋭いって言う。

 下手に隠しても、すぐに見破られちまうんだろうな。


「実はな、モユ。俺は雨が……嫌いなんだよ」


 だったら、正直に話そう。別に隠さなきゃいけないっていう話でもない。


「……雨が、嫌い?」

「あぁ。昔は全然平気だったんだけど、ちょっと前からな」

「……どうして嫌いなの?」


 モユは興味ありげに、逸らしていた視線を戻して聞いてくる。


「色々と、思い出しちまうんだ……沢山の事を」


 そして、今度は俺が目を逸らす。

 雨を見ると、雨の音を聞くと……昔を思い出してしまう。

 雲一つ無く晴れているのに雨が降り、月が無いのに明るかった夜を。

 俺が約束を守れず、凛が殺されてしまったあの日を。信じられなく、受け入れたくない現実が目の前に広がっていたあの時を。俺が息をするだけの死人になっていたあの頃を。

 嫌な事ばかりを思い出し、嫌いな記憶ばかりが甦る。雨が降る度、雨を見る度、雨を聞く度。何度も何度も思い返す。

 また昔を思い出しては、後悔ばかりが頭を埋め尽くす。


「……私は」


 ぽそりと、隣に寝ているモユが口を開く。

 雨音よりも小さい声だったが、俺を現実に引き戻すには十分だった。


「……私は、雨が好き」


 Tシャツを強くて掴んだまま、俺を見て。

 まるでどこかへ消えていってしまいそうな俺を、繋ぎ止めるかのように。


「……雨が降ると、静寂かじゃないから。だから、私は好き」

「――あ」


 その言葉を聞いて、あいつが思い浮かんだ。


『私は雨、好きだな』


 肩まである橙色の髪の毛を宙で踊らせ、飾り気の無い笑顔で言っていた。

 凛も、雨が好きだと。


「……匕?」


 掴んでいるTシャツを引っ張って、モユに名前を呼ばれた。


「あ、あぁ、悪い。少しボーッと……してた」


 あの懐かしい顔と声。

 肌身離さずに付けている、この水晶のネックレス。

 今はもう、あいつに会う事は出来ない。

 形見であるこの水晶を服の上から握り締める。


「そうか、モユは雨が好きだったのか」

「……うん。静寂かじゃなくなるし、なんか落ち着く」


 モユは枕に頭を乗せたまま頷いて、答える。

 瞼はとろんと力無く、半分閉じかけている。


「てっきり、好きなのはアイスだけかと思ってたわ」

「……アイスも、好き。甘くて美味しい、し……それ、に……」


 開いていた残りの半分も段々と閉じていき、モユの喋る声も小さくなっていく。


「……が、さい……に……た、から……」


 そして、完全に瞼が閉じきったと同時に、モユの喋っていた口も止まり、代わりに寝息が立ち始めた。

 すーすー、と静かな寝息と、年相応の可愛らしい寝顔をしている。


「やっぱり、疲れてたんだな」


 電車に乗って移動したり、人混みの駅前を歩いたり、沙姫ン家でニボ助と遊んだりと色々あったからなぁ。

 本当はもっと早く寝たかったんだろうけど、深雪さんがいなくて寝れず、俺が部屋に戻ってくるまで待ってたんだろうな。

 深雪さんが帰ってきていないのに気付いてやって、早く部屋に戻ってきて寝てやればよかった。


「悪かったな、モユ」


 謝りながら、寝ているモユの頭を撫でる。

 サラサラした髪の感触が気持ちいい。


「俺も寝ないとな。明日も沙姫と組手をやるんだし」


 せっかく勘を取り戻すチャンスなのに、寝不足で十分に組手が出来なかったら勿体無い。

 それに、寝れば嫌いな雨音も聞かないで済む。

 モユの頭を撫でるのをやめて、楽な姿勢で寝る。

 すると、右袖に微かな違和感が。


「ん?」


 見てみると、以前と同じく、モユが袖を握った状態のまま寝ていた。

 上半身を起こして指を一本ずつゆっくりと、ほどけないかと試してみる。

 が、やはりガッチリと掴んだまま離す様子は全く見えない。


「ったく、逃げやしないねぇってのに」


 そんなモユに思わず苦笑してしまう。

 起こした上半身を再びベッドに寝かせて、天井を仰ぎ見る。


「っはぁ……今日は疲れたな」


 目を閉じて、溜め息を一つ吐き出す。

 相変わらず嫌な雨音は聞こえてくる。

 出来れば、明日までには晴れろとは言わないが、雨は止んで欲しい。

 雨が嫌いだというのは勿論だが、なにより……。

 明日、沙姫の家まで行くのが面倒臭くなる。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ