No.20 黒色の手紙
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暑い。どうしてこうも暑いのか。
まぁ夏だからね。の一言で片付けられてしまうが、それでも思ってしまう。暑い。暑過ぎる。どうしてこんなに暑いんだよ。
「暑いにも程があんぞ」
立花町の駅から出て、駅前で太陽光がサンサンと降り注ぐ中、一人で暑さと戦う。炎天下に加えてアスファルトからの反射熱も加わり、上下から熱が伝わって来る。
更にここ、人通りの多い駅前。密集している人の体温で、左右からも熱気が伝わってきやがる。
上下左右に防御不可能の飛び道具。最強過ぎると思うんですけど。
「しかも、まだ昼前だってのに……」
幾つも並ぶ貸ビルの中の1つに付けられている電光掲示板には、時刻午前十一時二十分を表示している
まだまだ暑くなると思うと、げんなりしてしまう。これ以上暑くなったら、水の中にいる魚でさえ溺れてしまう。
「俺も溺れちまう前に、早く避難しねぇと」
暑さにうなだれて背中を丸め、肩に掛けていた鞄がずり落ちそうになっているのを直す。
陸に上がっていて溺れてしまうなんてのも妙な話だ。この暑さじゃ、溺れるよりも先に干からびるんじゃないか。
そんな冗談でも冗談に聞こえない事を思いながら、自分の部屋があるマンションへと向かう。
今日は何日振りになるか、部屋に戻る為に立花町に来た。
着替えは事務所にある洗濯機を使わせてもらっていたので、困る事は無かった。
むしろ乾燥機まであって、いちいち干す必要がなくて楽だったぐらい。
俺の部屋にも欲しいが、んなモンを買う余裕なんてある訳も無く。
一日を生きるのにすら余裕の無い俺に、そんな高級な代物を買うなんて自殺行為に等しい。
そんな訳で着替えの点では問題は無かったんだが、こう何日も部屋に戻らないのも心配なので、一度戻る事にした。
まぁ、それも理由の一つなんだが、実はもう一つ別にある。
俺の財布の中が寂しくなってきましてね。毎日三食コンビニ弁当、加えて誰かさんのアイス。しかも一日二食。
お陰で我が家の所持金は真っ赤で表示されそうな勢いです。
それを回避すべく、銀行に行って補充するのが一番の理由。
しかし、今の食生活をしていたら確実に破産する。
いい加減、コンビニで済まさないで自炊するかぁ。さすがにアイスまで作るのは無理だから、それは買うしかないけど。
また白羽さんの所に行かないといけない。なので、まずは部屋に戻ってから銀行に行く事にした。
今日だって事務所を出る際に、またモユが服を掴んで俺が出掛ける事を拒んできた。
まぁいつもの如く、アイスを買ってくるという交換条件で解決出来たが。
白羽さん、モユのアイス代を経費で落としてくれたりしねぇかな。
ちなみに、今日は深雪さんにモユを任せている。
「さて、やっとこ部屋に着いた訳だが」
暑い中、黙々と歩いてようやく着いた。
ドアの横にある郵便受けから溜まった郵便物を取り出す。
その郵便物を脇に挟んで、鍵を開けてドアノブに手をやる。
「外でこの暑さだ。中はどんなもんか……」
想像しただけで顔が引きつる。
大きく息を吸って、ゆっくり吐く。一度深呼吸をして意を決す。
「うー、りゃっ!」
ドアノブを捻り、勢い良くドアを開ける。
瞬間、中から熱気という熱気が出てき、服から露になっている肌を焦がさんとばかりに熱する。
「ぐぁ」
バックドラフト現象もびっくりする程の熱。暑い、または熱いのが苦手なモユがいたら溶けちまうんじゃねぇか? アイスみたいに。
とにかく、どんなに暑くても中には入らないといけない。靴を脱いで中に上がると、靴下越しで床の熱さが伝わってくる。
ガチャン、と音を立ててドアが閉まり、密閉空間になる。
まるで電子レンジで温められてるみてぇなんだけど。
玄関から移動して部屋に入り、直ぐ様エアコンのリモコンを探す。
こんな暑いままじゃ茹でダコになってしまう。いくら金が無いとは言え、自分自身を食料にするのは御免蒙りたい。
ベッドの上に転がっているのを見付け、リモコンを拾う。
「あっつぁ!」
あまりの部屋の暑さで、リモコンまで熱を帯びていた。
熱いのを我慢してリモコンを操作し、エアコンの電源を入れる。
ウィン……と機械的な音をさせて、エアコンから風が送られ始める。
「よし、これで少しすれば涼しくなる」
リモコンを再びベッドに投げやると、布団と言う名の緩衝材の中に埋もれた。
肩に掛けていた鞄もベッドの上に置き、脇に挟んでいた郵便物はテーブルに置く。
そして、床に学校のジャージやらプリントやらが散らかっているのに気付く。
「そうだ、出しっぱなしで片付けてなかったんだったっけ」
前に帰ってきた時は、沙夜先輩を外に待たせてて急いでたんだった。
それで、着替えを入れる際に鞄の中身を出したのをそのままにして部屋を出た。
で、そっから数日の間を空けて今に至る。
散らばるプリントを適当にまとめてテーブルに置いておき、ジャージは部屋を出て台所の隣にある洗濯機まで持って行って中に突っ込む。
今洗う訳でも臭い訳でもないが、数日放っておいた物なんで臭い物には蓋をする的な。
部屋に戻ると、エアコンからは冷たい風が送られ始めていた。
エアコンの前に立って冷風に当たって涼んでいると、呼び鈴が鳴った。
「あ? 誰だ?」
呼び鈴の音に反応して振り向き、玄関のある方を見る。
知り合いなんて殆んどいない俺は、誰かが遊びに来るなんて事はまず無い。
エドは朝早くから大荷物を持ってどっかに出掛けてたから、あいつではないだろうし。
ま、出てみれば誰かすぐに分かるんだけどね。
「はーい、っと」
部屋から出て玄関に行き、ドアを開ける。
すると、帽子を被った作業着の男性が一人。
「ちわーっす、クロイヌ宅急便でーす!」
抱え持っていた段ボール箱を差し出してくる。
こんな暑い日だと言うのに、よく元気に愛想良く笑顔でいれるもんだ。
仕事上、仕方なくやってるのは分かる。それでもすげぇよ。俺には絶対無理。
「サインお願いします」
「あぁ、はいはい」
受取確認票にサインをして、段ボールを受け取る。
「ありがとうございましたぁ!」
サインを書いた受取確認票を渡すと、男性は帽子を外してから一度礼をして去っていった。
送られてきた段ボールを持って部屋に戻る。
「よっこいしょ、っとぉ」
結構な大きさの段ボール箱で、重さもかなりある。
プリントを片付けて綺麗になった床に段ボール箱を置いて、差出人の名前を見てみる。
そこには、『咲月静夏』と書かれていた。
「そっか。月初めだもんな、仕送りが来る頃か」
咲月静夏。それは俺の母さんの名前だった。
差出人の欄に書かれている、綺麗な字を見ながら頭を掻く。
床に尻を着いて胡坐をかき、段ボール箱の前に座る。
口止めとして貼られていたガムテープをビリビリと剥がし、段ボール箱を開けて中を覗く。
「またこんなに色んな物を送ってきて……」
中には袋に入れられた人参、玉葱、大根などの野菜。さらに米まで入っていた。
袋の大きさからして、市販の袋で言う二十キロサイズと同じ位。
通りで重い訳だ。
「一人暮らしの学生には多いっての」
母さんが気遣って多くの食料を送ってきてくれてるのは分かるし、有難いとも思う。
だけど、無理を言って出てきたせいで親父に勘当に近い扱いをされているのに、母さんがこんな事をしていたら、親父に何か言われたりしているんじゃないかと心配になる。
同時に、我が儘を言ってこっちに1人暮らしをしている事に罪悪感も感じる。
「母さん、元気にしてるかな……」
もう、家には一年以上帰っていない。
凛の命日には墓参りの為に地元に戻るが、実家には寄らずに戻ってくる。
帰っても親父と喧嘩になるのは目に見えているし、帰ってもすぐ追い出されるだろう。
だから、俺は一人暮らしをしてから一度も帰った事が無い。
しんみりしながら段ボール箱を漁っていると、一つの茶封筒を見つける。
手に取って中を調べると、諭吉さんが数枚入っていた。
「今月も有り難く頂くよ、母さん」
毎月送られてくる俺の生命線である生活費。
とは言っても、俺が必要最低限でいいと言い張って、家賃やらガス代や電気代等で殆んどは消えてしまうけど。
それでも、十分過ぎる程に有難いのは変わらない。
「とりあえず、この大量の食料は冷蔵庫に入れとくか」
日中、サウナみたいに暑くなる部屋に放置なんてしたら腐ってしまう。
せっかくの食料を無駄にするのは嫌だし、なにより勿体ないオバケが出てきちゃう。
しかし、米に関してはどうしようか。
先月に送られてきた分がまだ結構残ってるんだよなぁ。
朝は抜いたり、昼は学校の購買かコンビニで済ませたりするから余っちゃったりする。
一時期は野菜炒め丼オンリー生活をしていたりしたけど、ここ最近は白羽さんの所にいてずっとコンビニ弁当だったし。
加えて、たった今二十キロ近くありそうな量で送られてきた。
あって困る物じゃないけど、あり過ぎるのもどうかと思う。
立って段ボール箱を持ち上げ、冷蔵庫のある台所へ持っていく。
買い物に行っても必要最低限の物しか買わない為、冷蔵庫を開けると中は隙間が目立つ。
いつ見ても寂しく悲しい光景だな。
「お陰で送られてきた大量の野菜も収納出来るんだけど」
段ボール箱から冷蔵庫へと野菜を移す。
こんだけ野菜があれば、当分野菜炒めの材料には困らない。
米まで冷蔵庫に入れる訳にはいかないので、とりあえず冷蔵庫の横に置いておく。
段ボール箱はこのままだと邪魔くさい事この上無いんで、畳んで壁に立て掛ける。
「うし、こんなもんか」
パンパン、と両手を叩いて部屋に戻る。
部屋はエアコンの冷風が行き渡り、快適な室温になっていた。
ベッドに腰掛けて、そのまま寝転がる。
久しぶりの自分のベッド。白羽さんの所のベッドより安物だが、使い慣れていて落ち着く。
「あー、そうだ。制服をハンガーに掛けとかねぇと」
ベッドから身体を起こして、床に置いていた鞄から制服を取り出す。
制服で白羽さんの所に行ってそのまま泊まった為、あっても着ない制服を持って帰ってきた。
他の着替えは置きっぱなし。また向こうに戻らないといけないし、どうせまた着る。
一応畳んで鞄の中に入れておいたが、皺になるといけない。
Yシャツとズボン、両方をハンガーに掛けて壁の出っ張りに吊す。
「大体やる事はやったし、少しゆっくりするか」
あとは白羽さんの所へ行く時に銀行に寄るぐらい。あ、あとアイスか。
深雪さんには夕方あたりには戻るって言っておいたから、まだまだ時間はある。
ベッドに腰を下ろして一息ついていると、テーブルの上に置いた郵便物が目に入る。
「新聞を取っている訳でもねぇのに来るもんだ」
化粧品会社とか訳分からん集会の会員募集だとか。しまいにゃお墓のカタログとかどうしろと。
一つ一つ確認しつつ、次々とごみ箱へ入れていく。
手に持った郵便物が残り少なくなった時、郵便物に混ざって見覚えのある物が出てきた。
宛名も差出人も、何も書かれていない黒い封筒の手紙。
それは、壊幕の合図。
「……約一ヶ月振り、か」
自然と表情が険しくなる。
ここ最近でテイルやコウと遭遇した事はあったが、それは偶然に過ぎない。
恐らく……いや、十中八九、次のSDCにはコウが出てくる筈。
「まず連絡しねぇと」
ジーンズのポケットから携帯電話を取り出して、電話帳を開く。
エドの奴に繋がるか? 出掛けたって事は、何か用事があるだろうから怪しいな。
番号を見付け、電話を掛ける。
俺の所に手紙が来たって事は、エドにも来ている筈だ。
「……出ねぇな」
発信音を鳴らし続けるも、電話に出る気配が無い。
「仕方ねぇ、白羽さんに電話してみるか」
耳から携帯電話を離して、電話を切る。
再び電話帳を開いて、今度は白羽さんの携帯に電話を掛けてみる。
プルル……と受話器から音が鳴り、数回のコールで電話は繋がった。
『もしもし?』
「あ、白羽さん。咲月だけど」
『うん。どうかしたのかい?』
受話器の向こうからは、いつもの落ち着いた口調の白羽さんの声。
「さっき俺の部屋に着いてさ、そしたら来てたんだ」
『何がだい?』
「――黒い手紙」
電話をしながら、手に握っている黒い手紙を睨み付ける。
『そうか、久しぶりだね。前回から大体……一ヶ月ぐらいか』
電話先で白羽さんは、ふむ、と鼻を鳴らす。
SDCが行われる事前に必ず送られてくる、この黒い手紙。
携帯電話を首と肩の間に挟んで中を確認すると、中身はいつもと変わらず紙切れが一枚。
「日にちは七日の午前零時。いつも通り、手紙が来てから一日空けてみてぇだ」
SDCを行う日にちと時刻、場所だけを簡潔に印されていただけ。
『なるほど。エドには連絡したのかい?』
「いや、白羽さんに電話する前に、エドの所にも届いたか確認しようと電話したんだけど出なかった」
『用があって出掛けてるからね。多分、電話を取れない状況なんだろう』
繋がりはしたから、電話に電源は入っているって事になる。
着信履歴には残っているだろうから、後から掛け直してくるだろう。
『私も一応、エドに連絡してみよう。咲月君は、用を済ませたらこちらに来るんだろう?』
「あぁ、夕方辺りには戻るつもり。モユにアイスを買ってくるって言っちまったし」
『うん。なら、戻ってきてから話をしようか。その方がゆっくり話せる。それに、夕方ならばエドも帰って来ているかもしれない』
「ん、解った」
手紙を封筒の中に戻してテーブルに置き、首に挟んでいた携帯電話を右手に持つ。
『先程モユ君の様子を見た時は、咲月君の帰りを待っていたよ』
「あいつが待ってんのは俺じゃなくてアイスだろうよ」
『はは、そうかもしれないね。では、失礼するよ』
俺の言葉に白羽さんは小さく笑い、電話を切った。
白羽さんは冗談だと受け取ったっぽいが、ありがち冗談じゃなかったりする。
モユのアイスへの愛は計り知れない。
「っはぁ……」
身体を後ろに倒して、ベッドに寝転がる。
白羽さんとの電話が終わり、部屋にはエアコンから風が送られてくる音しか聞こえない。
よく考えてみたら、こうして一人になるのは久しぶりだ。
白羽さんの所にいる時はモユと一緒にいるし。さすがに風呂やトイレまでは一緒じゃねぇけど。
「くぁ」
ぼへーっ、と天井を眺めていたら欠伸が一つ。久々の自分の部屋で落ち着いたのか、気の抜けた声と共に眠気がきた。
最近、白羽さんの所に泊まるようになってからは朝6時きっかりにモユの奴が起こしに来る。
お陰で夏休みに入ってからは規則正しい起床時間ですよ。
夜中のランニングが終わり、風呂に入ったりして寝るのは大体零時半そこら。
でもって朝6時に起こされるもんだから、実質6時間程しか寝ていない。
なので、このように日中に眠くなる事もしばしば。
「……少し寝よ」
久しぶりの一人だってのに、やる事が寝るってのは実に俺らしい。
今日の夜もランニングをする予定だし、事務所に戻ったら白羽さんとSDCの事で話もしなくちゃならない。なら、時間がある時に寝ておこう。
どうせ明日も、モユにガキがラジオ体操に行くような時間に起こされるんだ。
瞼を閉じて、眠気に身を任せる。
段々とエアコンの音が小さくなり、意識も遠退いていく。
* * *
――い、――。
が――――あつ――。
――え――な――。
違――燃え――は、――――。
* * *
「うわぁぁ!」
悲鳴と共に、勢い良く瞼を開いて意識が覚醒した。
「はっ、はっ、はっ」
荒い呼吸、早い鼓動、熱い身体。
「ちっ、またあの夢かよ」
気怠い身体を起こし、舌打ちをする。
辺り一面が炎に包まれ、焼かれ、焦がれ、燃える。
暑さも、熱さも、痛みも、怒りも、悲しみも。見覚えも懐かしさも切なさも遣る瀬無さも、全て感じる。現実よりも現実染みて、夢よりも夢みたいで。
そんな、夢。
「最近、また頻繁に見やがる……」
額に手をやり、視点の定まらない眼で床を見つめる、
ここずっと、毎日視ている。一時期は視なくなったと思えばこれだ。
なんで一体、こんなに同じ夢を視るのか。多分それは――――。
「罪悪感から、か」
視界にぼやけて映る床を見つめたまま、呟く。
夢で燃えてしまう場所は、昔に凛と約束をした場所。
俺にとっては大切で、大事で、大好きな場所。
そこが燃える。燃やされる。
そんな夢を視てしまうのはきっと、今言ったように罪悪感からだと思う。
俺が待ち合わせに遅れ、凛を殺してしまった。俺が遅れなければ凛が死ぬ事はなかった。なんで俺なんかが生きているんだ。
そんな罪悪感と責任感、自身への嫌悪感から、俺はあんな夢を視ている。自分に視せているんだろう。
大切な場所を視せる事で忘れさせず。
焼かれ、燃やす光景を視せる事で自分自身を戒めて。
何度も何度も視せる事で、俺がしてしまった事は無くならないと、許されないと。
繰り返し、反芻して。
「んな事をしなくても、忘れねぇってのによ」
はっ、と僅かに口を斜めにして苦笑する。
「時間は……世時になる少し前か」
携帯電話を開いて、ディスプレイの時計には3時50分を表示していた。
大体三時間ぐらい寝たのか。
「時間もまだあるし、シャワー浴びるか」
あの夢を視ると汗を掻いて着ている服が濡れてしまう。
今も汗でTシャツが背中にくっついて気持ち悪い。
今着ている服は着替えた方がいいな。汗臭いとモユに嫌われちまうかもしんねぇし。
浴びたら白羽さん所に戻ろう。時間的にも丁度いいだろ。
* * *
失敗した。考えりゃすぐ気付く事だろうに……全く、失敗した。
「はぁぁ……」
白羽さんの事務所へと続く道を歩きながら、疲れた顔をして溜め息を吐く。
シャワーを浴び終え、着替えて部屋を出た。駅前の銀行で金を補充した後、電車に乗ったまでは良かった。
しかし、夕方の時間帯の電車は帰宅ラッシュで人だらけ。座る事すら出来ない程に混んでいた。
この時期は学校は夏休みに入っているとは言え、部活や講習、補習などがあってか学生もちらほら。
そこに働くリーマンさんが加わって、かなりの数。
立ちっぱなしで満員電車の中を、ぎゅうぎゅうに押し潰されるのを堪え忍んだっての。
たった二駅なのに、ドッと疲れた。
「とは言え、帰宅ラッシュが終わるのを待ったら夕方過ぎるしな」
夕方には戻るって言っちゃったし、モユも待ってるだろう。
……アイスをな。
「あー、やっと着いた」
数メートル程先に、白羽さんの事務所が目に入る。
何度も通った事がある道なのに、今回はやけに長く感じた。
ガラス調のドアを押して事務所内に入る。
「ちーす」
靴を脱いで、中からの返事を待たずに上がる。
脱いだ靴を靴棚に置き、スリッパに履き替えて廊下を進んでいく。
最初は何をするにも気を使ったりしたけど、さすがに何日も泊まったりしてると慣れてしまう。
お陰でこの通り、ズカズカと上がり込めます。靴棚だって靴を置く定位置さえある位。
「広間に行きゃ誰かいるだろ」
窓から差し込んでくる夕焼けの光が、廊下を茜色に染めている。
広間に着くと、見慣れた人が2人。深雪さんとモユがいた。
「こんちわ」
広間に入り、挨拶すると深雪さんとモユは俺に気付いてこちらを向く。
「あ、戻ってきた。モユちゃん、匕君が戻って来るのずっと待ってたのよ」
「え、そうなの?」
深雪さんに言われ、モユを見る。
すると、モユはソファから降りて駆け足で寄ってきた。
そして、体当たり。
「ぐえ」
前と同じく、出会い頭に頭突きされて腹部にモユの頭がめり込む。
「……匕」
モユは顔を上げて、上目遣いで俺を見てくる。
俺の事を待ってたって言ってたけど、まさか俺がいなくて淋しかったとかそんな可愛い事を――――。
「……アイス」
言う訳無いですよねー。
淡い希望を持った俺が馬鹿でした。まぁ、そんな期待もしていなかったけど。
「はいはい、ちゃんと買ってきてるよ」
モユにコンビニ袋を渡す。
結構な量が入っていて袋の脹らみは大きく、モユは両手で受け取る。
色んなアイスがあって嬉しいのか、ジッと袋の中を覗いたまま動かない。
「食いたいの一つ選んだら冷蔵庫に入れとけよ」
近くのソファの上に、肩に掛けていた鞄を下ろして置く。
「なんか凄い散らかってるけど、事務関係の仕事とか?」
「事務だけじゃないけどねぇ。まとめなきゃならない書類やら何やら、沢山あるのよ。お陰で肩が凝って大変」
はぁ、と深雪さんは大きな溜め息を吐いて自分の肩に手をやる。
テーブルの上で開かれているノートパソコンの隣には、積まれた紙の山。
処理し終えた分なのか、それとも処理しなきゃならない分なのか。どちらにしろ大変なのは見て分かる。
他にもテーブルを埋め尽くすように書類らしき紙が散乱している。
「俺は頑張ってとしか言えねぇけど」
「頑張るにしても限度があるわよねぇ」
げっそりとした表情と光の無い瞳。疲れ切ったという様子で、深雪さんは積まれている書類の山を前に項垂れる。
余程疲れてんな、深雪さん。普段はキリッとしててスーツの似合う美人さんなのに、今の姿にはそんな面影すら見えない。
「そうだ。白羽さんはいる?」
「白羽さん? 外に出た所は見ていないから、自室にいると思うけど」
「そっか。あんがと」
白羽さんは自室か。まぁ、俺が来る事は昼間の電話で知ってるんだし、出掛けたりしねぇよな。
とりあえず白羽さんの部屋に行ってみるか。
「ん? なんだ、モユ。早く食わないと溶けちまうぞ」
広間から出ようとした時、モユがまだ袋の中を覗いていた。
「…………」
しかし、モユは返事はせずに袋の中身と睨めっこを続ける。
買ってきたアイスがお気に召さなかったりしたか?
「なぁ、モユ……」
と呼んだ瞬間、モユは袋の中に手を入れてアイスを一つ掴んで取り出す。
「もしかして……悩んでたのか?」
聞くと、モユはコクコクと小さく二回頷く。
んだよ、気に入るアイスが無かったのかと思った。
「俺はちょっと白羽さんの所に行ってくっから、深雪さんの邪魔になんないようにアイス食ってろよ」
「……うん」
こくん、と一度だけ首を縦に振って、モユは残りのアイスを冷蔵庫へ入れに給湯室へ走っていく。
「なーんか匕君、お兄ちゃんみたいねぇ」
今のやり取りを見ていた深雪さんが、テーブルに頬杖しながら微笑む。
「俺がぁ? からかわないでよ、深雪さん」
「そう? 私は結構真面目に言ったんだけどねぇ」
「こんな自分の面倒すら見切れてない奴が、兄なんて出来ねぇよ。それに、モユにならもう姉妹ならいるし」
「姉妹?」
「ほら、沙姫っつー妹が」
少しばかり馬鹿にするような口調で、笑って沙姫の名前を出す。
「ぷっ、あはははっ! そうね、確かにモユちゃんには妹がいたわねぇ! おっきな妹が!」
口と腹を押さえて、深雪さんは爆笑する。
この間、このネタで沙姫の奴がイジられまくったからなぁ。
「それじゃ、白羽さんの所に行ってくるんで」
「じゃ、私はもう一頑張りしましょうか」
んんー、と深雪さんは腕を上に伸ばして気合いを入れる。
さて、俺は白羽さんの所に行きますか。
ほんの数分程度で広間を出て、白羽さんの部屋へ向かう。
廊下を歩くのは自分だけで、スリッパの足音が妙に響く気がした。
この事務所の一番奥に位置する部屋。白羽さんの自室に着き、ドアの前で止まる。
手の甲で木製のドアを叩くと、コンコン、と小気味の良い音が鳴る。
「開いている。入って構わないよ」
ノックをして間もなく、部屋の中から声が返ってきた。
ドアノブを捻り、ドア開けて中に入る。
「咲月だけど」
部屋の中は、両脇の壁には大きな本棚があり、重厚ファイルケースや辞書の類らしき物がずらりと並んでいる。
部屋の中央には黒革のソファと硝子のテーブルの応接セットが置かれ、入り口正面奥の事務用デスクがある。
「咲月君、戻ってきてたのか。あぁ、そこに座ってくれ」
白羽さんは正面のデスクの椅子に座り、手でソファを指す。
デスクの上には白いデスクトップパソコン。それと、深雪さん程ではないが書類が積んであった。
言われた通り、ソファに座る。
やはり、黒革なだけあって高級なのだろうか。凄く柔らかくて座り心地が良い。むしろ、良すぎて逆に落ち着かない。
つーか、前に入った応接室と殆んど大差ないんだが。
「なんか仕事中みたいだったけど……」
「気にしないでいい、全然構わないよ」
白羽さんは椅子から立ち上がり、俺の対面のソファに腰掛ける。
「届いていたという、黒い手紙は持ってきてるかい?」
「あぁ、これ」
ジーンズの尻ポケットから取り出して、少し皺くちゃになった手紙を渡す。
「ふむ」
封筒の中から便箋を取り、内容を確認する。
「電話で咲月君が言っていた通り、いつもと変わらない、か」
白羽さんは目を少しばかり細める。
「うん、ありがとう」
便箋を折り目に沿って折り畳み、封筒へ戻して返してきた。
それを受け取り、またポケットへ戻す。
「そういや、エドの奴は?」
「まだ帰っていない。だが、一時間程前にエドから電話がきてね。そろそろ帰って来る頃だと思う」
エドと連絡はついたのか。SDCの話をするのなら、あいつも一緒の方がいい。
「さて、話を始めたい所だが、エドが一緒の方が都合がいい。少し待とう」
俺が思ってたのと同じ事を言い、白羽さんはソファから立つ。
そして、壁際にある腰ぐらいの高さがある小棚の上に置かれていたコーヒーカップを一つ手に取る。
そのコーヒーカップは同様の物が他に三つあり、埃が入らないよう逆さまに置かれていた。
「咲月君も飲むかい? インスタントだが」
言いながら小棚の中からコーヒーの入った瓶を取り出して、俺に見せる。
「い、いや、俺はいい。喉が乾いてねぇし」
せっかくのお誘いで悪いが、断らせてもらう。
「そうかい?」
そう言って白羽さんは瓶を開け、スプーンで掬ってコーヒーカップに粉を入れていく。
本当は多少、喉が乾いたから飲もうかと思ったのが本心だったりする。
が、白羽さんが煎れるコーヒーとなると、高確率でホットだ。と言うか絶対ホット、断言出来る。
「では、私だけ頂こうか」
適量の粉を入れ終わり、ポットからお湯を出してコーヒーカップに注ぐ。
そう、ポット。小棚の上にはポットしかねぇんだもん。そりゃホットしかねぇって予想出来るって。
白羽さんはコーヒーの粉を掬ったスプーンでコーヒーを掻き混ぜ、瓶は元あった小棚の中に戻す。
零さぬよう丁寧にコーヒーカップを持って、再び対面のソファに腰掛ける。
「今日は用があって自宅に戻ったみたいたが、用は済んだのかい?」
白羽さんは足を組み、コーヒーを口に含む。
「用って程のもんじゃねぇけど、何日も部屋に戻んないのは心配だったからさ」
ソファの背もたれに寄り掛かると、ぼすっと音が鳴った。
背もたれ部分も柔らかく、背中がソファに沈む。
「あとは金の補充ぐらい。ここでの飯はコンビニ弁当ばっかで、モユのアイスも買わなきゃならねぇし。月初めから消費が激しくてキツイくて……」
眉間に皺を寄せて苦汁を飲んだかのような、苦い表情をする。
貯えが無い訳ではないが、このままでは確実にすっからかんになってしまう。
「月初め……そうだ、すっかり忘れていたよ」
月初めという言葉に反応して、白羽さんは何かを思い出す。
「今月分の十万をまだ振込んでいなかったね」
コーヒーカップから口を離し、テーブルに置く。
「今月分?」
「そう約束した筈だが。先月も振込んだろう?」
「いや、振込まれはしたけど」
そうか。確か約束では一月事に振込んでくれるんだったっけ。
「でも、先月分が振込まれてから、まだ1ヶ月も経っていないんじゃ?」
「そうだが、一月事にという約束なんだ。別にきっちり一ヶ月経たなきゃいけないという事もない。咲月君と協力するようになったのが中頃だったから先月はその頃になってしまったが、元々は月初めに振込む予定だったんだ」
まぁ、そりゃ白羽さんの言う通りきっちり1ヶ月が経たないといけないって訳じゃないけど……。
「それに、最近出費が激しかったのだろう?」
「うっ……」
まだ貯金は残ってはいるが、このままではキツイ。
今日、母さんから仕送りが届いたけど、家賃やらを払ったら大半は無くなってしまう。
「私達は互いに協力する為に手を組んだんだ。気にする必要はない」
「……解った。じゃ、気にせずに受け取るよ」
「うん、そうしてくれ。今日は無理だが、明日、遅くて明後日までには振込んでおくよ」
小さく微笑うと、白羽さんの特徴の一つである長い黒髪が少しだけ揺れる。
今思ったが、白羽さんの黒髪と黒スーツ、黒革のソファ、おまけにコーヒーはブラック。視界に入る殆んどの色合いが黒なんだが。
「でもいいのか? そういう約束だったとは言え、毎月そんな事をしてもらって……協力し合う筈なのに、俺はそれに見合う程の事をやっているとは思えない」
白羽さんを見ていた視線を落とし、テーブルに置かれたコーヒーカップを見つめる。
テイルやコウと会って多少の情報が手に入ったりはしたが、決定的なものはない。
それに、俺は参加者側としてS.D.C.の情報を提供する筈なのに、白羽さんと手を組んでからはまだ一度もは行われていない。
白羽さんの厚意に見合う事を、俺はしていない。
「そんな事はないさ。咲月君には十分過ぎる位に協力してもらっているよ」
「え?」
落とした視線を上げて、コーヒーカップから白羽さんに戻す。
「君がランニングの途中でテイルに気付いてくれたから、神社で接触する事が出来ただろう?」
真っ直ぐに俺を見て、白羽さんは話す。
「それだけじゃない。君がいてくれなければ、私達がモユ君を保護する事は確実に出来なかったろう。お陰でSDCが人を作っている事、禁器の細かい情報が手に入れられたんだ」
そして、また小さく微笑う。
「だから、先程言ったろう。気にする必要はない、とね」
そう、か。俺が直接情報を手に入れる事は無かったけど、間接的に情報が手に入るようにしていたんだ。
そんな事をしていたつもりはなかったから、言われるまで気付かなかった。
「俺、役に立ってたのか……」
「一応、じゃない。しっかりと役に立っているよ」
そう言って、白羽さんはコーヒーカップを手に取ってコーヒーを飲む。
「うん? 無くなってしまったか。もう一杯頂くとしよう」
飲み干して殻になったコーヒーカップの底を覗き、組んでいた足を解いてソファから立つ。
「って、コーヒーもう飲んだのかよ!?」
あまりの早さに驚いてしまった。だって、さっき入れたばかりだぞ?
「ははっ、喉が乾いていたからね。すぐに飲んでしまったよ」
苦笑しながら小棚に向かい、白羽さんはコーヒーの粉が入った瓶を取り出す。
いやいや。ははっ、じゃねぇって。
アイスならまだしもホットだぞ、ホット。ゆらゆらと湯気が出てんだぞ?
それをものの数分で飲むって……一体、何口で飲み干したんだよ。
「相変わらず、変な所が凄ぇ人だ」
驚きと呆れと関心が入り混じった表情で、一応誉め言葉を送っておく。
白羽さんが二杯目のコーヒーを入れ終わるのを待っていると、ドアをノックする音が鳴った。
「うん?」
音に反応して、白羽さんに続いて俺もドアの方を見る。
「エドです」
すると、ドアの向こうから聞きなれたウザイ声が聞こえてきた。
「あぁ、入ってくれ」
白羽さんが答えると、ドアが開いてエドが姿を現わす。
「失礼します」
軽く頭を下げてから中に入り、音を立てないよう静かにドアを閉める。
「待っていたよ。咲月君の右隣が空いているから座るといい」
白羽さんはコーヒーカップにお湯を注ぎながら、エドに話し掛ける。
「いえ、このままで構わないです」
エドは座るのを断り、俺の左隣まで移動する。
さっき部屋の中に入る時も頭を下げていたし、上下関係って大変そうだな。
俺なんて全く気にしないで、ダラダラしながらと入ったぞ。
「相変わらず変に固いね、エドは」
コーヒーを入れ終わった白羽さんは、スプーンで掻き混ぜながらソファまで歩く。
「よう。用事は済んだのか?」
「なんとかな。結構疲れたよ」
ソファに座る俺が、隣に立つエドを見上げる形で話す。
気のせいか、エドの肌が少し焼けている気がする。
もしかして、ずっと外にいたのか?
「さて、全員集まった事だ。早速本題にいろうか」
白羽さんはソファに座り、一口飲んでからコーヒーカップをテーブルに置く。
「はい、そうですね」
白羽さんに言われると、エドは背中を伸ばして手は後ろに組んで姿勢を正す。
「今日の昼、咲月君が自宅に戻ったら黒い手紙が届いていた。エド、君の所には?」
「あ、はい。帰ってくる途中にダミーの方に寄ってみたら、届いてました」
エドは来ていた服の胸ポケットから、俺が持っていたのと同様の手紙を出して白羽さんに渡す。
それを受け取って、白羽さんは中身を読み始める。
「ふむ。やはり咲月君のと変わりはない、か」
顎に手を当てながら呟く。
「なぁエド。今ダミーとか言ってたけど、何だそれ?」
白羽さんは何の事か分かってるからか何も反応しなかったけど、俺には何の事だかさっぱり。
「俺が住んでいる事になっているアパートの事さ」
「アパート? お前ってここに住んでるんじゃないっけ?」
飯だって広間で食ってたし、今日だって朝早くに廊下で会ったし。
「あのなぁ、俺がSDCについて調べようと自分の素性を改ざんして転入してきたのに、馬鹿正直にここの住所を書類に書くと思うか?」
「あ……」
「全く、お前は頭の回転や洞察力は目を張る事はあるのに、たまに抜けてるよな」
「うっせぇ」
でも、そりゃそうだよな。転入する時にここの住所を書いていたら、とっくにテイルにバレてる。
「だから、ダミーとして学校の書類には適当に借りたアパートが俺の住居になっている。ま、実際に住んでいるのはここだから、あまり利用しないけどな」
「へぇ」
「そしたら、初めて黒い手紙が届いたのがそのアパートでね。学校にある書類から住所を調べたんだろうな」
深夜の学校で殺し合いをさせても表沙汰にならない位に、SDCは情報の操作や隠ぺいが出来る。学校から生徒の情報を盗むなんてのはお手の物、か。
「その借りているのってどこのアパートなんだ?」
「一応、お前と同じ立花町だ。駅の西口方面で結構歩くけどな」
「西口って事は、俺の部屋とは逆方向か」
「それで、白羽さんとの電話で黒い手紙の事を聞いて、ここに帰ってくる途中に寄って取って来たんだよ」
なるへそ。だから、さっきダミーに寄ってきた。なんて言い方をしたのか。
「うん、エド。ありがとう」
白羽さんが読み終わった黒い手紙を差し出すと、エドは白羽さんの所まで近づいて受け取る。
そして、また俺の隣に戻って、やはりソファには座らずに立ったまま。
「恐らく……いや、確実と言っていいか。次のSDCにも監視役であるテイルがいるだろう」
手を絡ませて両肘を膝に乗せ、その手に口を寄せて白羽さんは話す。
「だが、神社の時のように私が手を出す事は出来ない。咲月君、エド、君達だけで戦い抜いてくれ」
白羽は前髪の間から見える瞳で俺とエドを交互に見やる。
「ちょっと待ってくれ! 俺とエドだけでテイルを相手にするってのか!?」
いくら何でも無理だ。俺とエドの2人で挑んでも、奴の実力は遥かにそれを超えている。
現状で対等に渡り合えるのは白羽さんしかいない。
「大丈夫だ」
「大丈夫だ。って……白羽さんも分かっているだろ、俺とエドじゃテイルには適わねぇって事は」
「うん。咲月君とエドだけでテイルに挑むのは自殺行為に等しい」
無理難題を言われ、声を荒げる俺とは対照的に、白羽さんは静かな物言いで続ける。
「だが、大丈夫だと言える理由がある」
「それは?」
膝の上に肘を乗せるのをやめ、ソファに背中を預ける。
「あくまでテイルは監視役だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「……? どういう意味だよ」
「奴自身が手を出す事はない、と言う事さ。事実、今までS.D.C.に参加していて何もされていないだろう?」
「そういえば……」
思い返してみると、確かに言われた通りだ。テイルがSDCで初めて現れた時も俺達に仕掛けず、コウを連れ戻っただけ。
ランニング中に河川敷で出くわした時も話をしただけだったし、この間の神社でも、俺がコウと戦り合っている間はタバコを吸っていて何もしてこなかった。
「そして、コウの存在。彼は君達を自分で殺す事を執拗に願っている。一人は、それでコウの人格が活発し、安定するのを狙っている筈。だから、コウの獲物である君達に危害を加える気は無いと思える。神社で咲月君が一人でコウと戦っていた間も、奴は手を出さなかったんだろう?」
「あぁ。木の上で高みの見物を決め込んで、タバコを吹かしていた」
「奴は私と戦いはしたが、君とエドには何もする事はなく、全てコウ一人が相手をしていた。となると、だ」
白羽さんは一息溜めて、おもむろに足を組む。
「まだ咲月君とエドとの決着がついていないのなら、次のS.D.C.でコウは出てくる筈だ。なら、今述べた理由でテイルは君達に手を出す事は無いと読んでいいだろう」
「そうか。いや、うん。白羽さんの言う通りだ」
初めは何を無茶な事を言い出すのかと焦ったが、理由を聞いてみたら納得出来る。
思わず息を漏らして頷く。
「とは言っても白羽さん、コウの相手をするってだけでも厄介ですよ」
苦い顔をして、エドは額に手をやる。
テイルは手を出さないとは言っても、コウを相手にしなくちゃいけない。
「いや、奴自身を相手にするのはそうでもねぇだろ」
「なに?」
エドに言うと、額にやっていた手を掻き上げて俺を見る。
「実際、コウ自体はそう問題じゃない」
隣に立つエドを見上げて答える。
「確かにあいつの打たれ強さと馬鹿力は驚異ではあるけど、それだけだ」
「それだけって言うけどな、お前……」
「そりゃ神社では二人がかりでやっとなんとか戦えた、って感じだったけどよ」
俺なんかは後頭部を思いっきり木に叩きつけられて気絶しかけた。
「だけど、それでコウは自分の手札を全部見せた」
「手札?」
「今言った打たれ強さと馬鹿力。神社ではコウの手の内は分からなくて苦戦したが、今は違う」
「そうか! あの時は奴の出方、戦い方が分からなかったが……」
「それが解った今、いくらでも対策を練れる」
神社での戦いを思い出しながら、エドに答える。
握った右手を鋭く睨みながら。
「だろ?」
唇を斜めに釣り上げて、エドに視線を送る。
「確かに、な」
エドは腕を組んで納得する。
「だけど、いくら攻撃をしてもダメージが無く平然としていた奴だぞ? 対策なんてあるのか?」
「ある。実際は、コウはダメージが無いんじゃなく、ただ単に打たれ強いだけ。ダメージは着実に与えていた。証拠に、神社の時、あいつは途中から右腕を使っていなかっただろ?」
右腕を軽く上げて、エドに見せるようにブラブラさせる。
あの時は別に狙った訳ではなかったが、偶然にも集中して攻撃していたコウの右腕は、途中からはだらりと垂れ下がっていた。
「そういえば……なら、ダメージを与え続ければ――――」
「必ず奴にも限界が来る」
いくら奴が打たれ強くても、ダメージを与えているのなら倒す事は出来る。
奴の右腕のように許容範囲を超えるダメージさえ与えれば、絶対に。
「でも、どうやって奴を倒すまでのダメージを与える? 神社ではあんなに苦戦したんだぞ」
打開策はあるのかと、エドは目で言ってくる。
「それは簡単。奴はかなりの激情型で、直接的な攻撃が多い」
たまにフェイントを加えてくる程度。それでもやはり、突進や単調な攻撃がほとんど。
「そこに俺達が奴を挑発して頭に血を上らせれば、更に攻撃は直接的、単調になる筈。神社の林ン時のが良い例だ。そこを突けば、俺とお前だけでも難しい事じゃない」
周りの木が邪魔して思うように鉄パイプを振れないのと、俺とエドの挟み撃ちからの攻撃に苛立ちを募らせ、感情のままに攻撃してきた。
何度躱され攻撃されても、繰り返して。
「なるほど。怒りに呑まれた奴の攻撃は単調単純になりやすい。そうなれば動きも簡単に読め、戦闘は格段に有利に持っていける。コウの性格上なおの事やりやすい、か」
誰かと戦う上で、考えるのは何も相手の技や動きだけではない。
性格は本人の攻めや守りのクセが表れやすい。コウのように怒りやすく気性が荒い奴は攻めが多い。逆またしかり、冷静で落ち着いた奴は防御が上手く、カウンターを狙ってきたりする。
あくまで俺の理論で、絶対そうだ。という訳じゃないけど。
「だけど、奴は神社でキレて奴は鉄パイプを投げてきた。あの予想外の行動で、お前は痛い目に合ったんだぞ。怒り任せに暴れる奴がそんな意表を突いた攻撃をしてくるか?」
「あれは確かに予想していなかった攻撃で食らっちまった。けど、違う見解も出来ねぇか?」
「理由は?」
「鉄パイプに俺は当たっちまったけど、外れていたらどうなっていた? 林の中だから周りの木に当たって遠くまで飛んでいく事はないだろうが、一度手放した奴の得物。俺達がそう簡単に拾わせる訳がない」
「そうだな。厄介だった奴のリーチが無くなったんだ、見逃しはしないだろうな」
「そうなると奴は素手で俺達と戦わなければならなくなる。さらに下手をすれば暗い林の中だ、投げた鉄パイプを回収出来るかさえ怪しい。それを考えると、あの場面で鉄パイプを投げるのはリスクが高過ぎる」
奴が得物を手放せば戦力が半分になる。その上、こちらは2人。外した場合の状況が明らかに悪い。
「その行動はとても頭を使って戦っている奴の行動とは考えにくい。結局奴は、後先考えずに戦っているって事だ」
後頭部をソファの背もたれに乗せて、天井を仰ぐ。
神社で奴と本格的に戦ってみて解った。コウは強い。それは間違いない。
だが、喰える。戦いようと、こちらのペースに持ち込めば倒せる。
ただ、それ以上に厄介、問題なのが――――。
「でも匕、コウが使う禁器はどうする? 鉄パイプとは比にならない位に危険なんだぞ」
「それなんだよなぁ、一番厄介なのは」
ソファから後頭部を離して、人差し指で頭を掻く。
「おい、さっきコウは問題じゃないって言ってただろ」
「俺はコウ自身は問題無いって言ったんだ。解るか? コウ自身、だ」
前屈みに座って右膝に頬杖を立て、顎を乗っける。
「あいつだけなら戦い方でなんとかなりそうだけど、禁器……あれは厄介過ぎる」
神社でモユに斬られ、そのヤバさを身を持って知っている。
モユの禁器とコウの禁器が持つ破壊情報は違うが、最終的に辿り着くのは『破壊』。
過程は違っても結果は同じ。
「なるほどね。手札は分かっていても対策が打てない。いわゆる切り札、ジョーカーと言った所か」
手札に掛けてジョーカーと例えて白羽さんは言ったみたいだが、全く以てジョーカー並に厄介なので笑えない。
「攻撃にゃ一発でも当たれば終わり、奪い取ろうにも所持者以外には重くなって持てない……どうすりゃいいんだか」
ぶはぁ、と大きな溜め息を吐いて肩を落とす。
「コウがスリーカードの手札でも、その中にジョーカーが入ってしまえば、使い方次第でフルハウスにもフォーカードにもなる」
コーヒーカップを口に付け、口に含む。
「あんなモンに対策なんてあんのかよ……」
一発当たればほぼ即死。今時ブッ壊れたゲームでもそんなの無ぇっての。
「鉄パイプみてぇに投げさせるか?」
「鉄パイプならともかく、禁器なんて貴重な武器を投げたりすると思うか?」
呟いた独り言に、隣の金髪から冷静な突っ込みが返ってきた。
「だよなぁ」
頬杖から顎を落して、がっくりと項垂れる。
「白羽さん、なんか策があったりしねぇ?」
頭を上げ、ダメ元で聞いてみる。
「すまないが無い。禁器については私もまだ解らない事ばかりだ」
やっぱダメでした。
「なるべく禁器による攻撃だけは受けるな、としか言えない」
白羽さんは申し訳なさそうに、コーヒーカップをテーブルに戻す。
「それしかないか」
「それは対策なのか?」
「うっせぇな。他になんかあんのかよ」
「そうだな……」
聞き返すと、エドは顎を引いて考え始める。
「神社の時みたいに、腕に集中的にダメージを与えて禁器を持てなくするか?」
パッと思い付いた方法をエドに提案してみる。
「禁器の攻撃を掻い潜って腕だけを狙う。そんな器用な事をする余裕なんてないだろ。ただでさえ、コウの禁器は棍でリーチが長く、懐に入りにくいと言うのに」
そりゃごもっとも。
「だけど、そこなんだ。禁器をいかにコウから手放させるか、それさえクリア出来れば……」
エドは独り言のように呟いて、目を細める。
「匕、禁器は俺に任せろ。お前はコウを倒す事だけを考えておけ」
「あ? 何かいい方法でもあるのか?」
「まぁ、な。確証も自信も無いが、ノープランで戦うよりはマシだとは思う」
何か思い付いたのか、エドは唇を斜めにして笑うが、返事は頼りないものだった。
だが、他に何も手が無いのが現状。少しでも役に立ちそうならば文句は言えない。
「どんな方法なんだよ?」
「今はまだ、な。とりあえず、俺次第と言った所だ」
聞いてみるも詳しい内容は教えずに、エドは回している右手首を見つめている。
「……解った。他に当てもねぇ、気休め程度に期待しとくよ」
「あぁ、それぐらいが丁度良い」
エドは自信が無いと言っていたが、今は他に打開策も出てこない以上、任せるしかないか。
「話はまとまったようだね。私も手伝いたいというのが心情だが、参加者では無い私がSDCに手を出せばどうなるか解らない」
そうか。SDCじゃないから、白羽さんは神社では姿を現してテイルと戦えたのか。
「それに、私はモユ君を守らなければならない」
「え、モユを……?」
「もし、私が君達と一緒にこの場を離れてSDCに向かえば、その隙にモユ君を取り返しに来るかもしれない。テイルにとって、私が一番厄介な筈だからね」
そうだよ。白羽さんがいなくなった隙に、モユを取り返しに来る可能性は十分にあり得る事じゃねぇか。
鬼の居ぬ間に洗濯、ってか。だけど、それは確実な方法ではある。
唯一テイルに対抗出来る白羽さんがいなくなれば、誰もモユを守り切る事は出来ない。
白羽さんは全ての局面を見て考えているんだ。
「白羽さん、モユにはこの事は……?」
「彼女はもうSDCから抜け出しんだ、話さなくていいだろう。それに、変に不安にさせる必要もない」
そう、だよな。わざわざ言わなくてもいいよな。
SDCの開始時間も夜の0時からで、モユが寝てから間に合うし、それなら気付かれないで出掛けられる。
「白羽さん。俺がSDCに行っている間、モユを頼む」
「うん、彼女は全力で守る。任せてくれ」
力強い返事と共に、白羽さんはいつものように微笑う。
白羽さんに任せておけば、モユの事は安心していいだろう。
問題なのは寧ろ、禁器を持つコウと戦わなければならない俺達の方か。
白羽さん程信頼は出来ねぇが、何か妙案があるエドに頼るしかない。
「じゃ、エド。コウの禁器はお前が言う通り任せる」
言いながら、ソファから腰を離して立ち上がる。
「あぁ、出来る限り善処するつもりだ。って、どこ行くんだ?」
「話す事はもう全部話したろ、用が済んだから御暇させてもらうよ。白羽さんも仕事の途中だったみてぇだし」
ドアまで歩き、背中を見せたまま顔だけを白羽さんに向ける。
「うん? 気にしなくて構わないよ。コーヒーをおかわりしようと思っていた所だ」
くいっ、と残り少なくなったコーヒーを一気に飲み干す。
って、まだ飲むのかよ。次で三杯目だぞ、しかもホット。よくまぁ汗を掻かずに飲める。
「いや、深雪さんも仕事中で大変そうみたいだし、モユの相手を代わってやんないと」
大量の書類と睨めっこしてゲッソリしてたしな、深雪さん。
「んじゃ、白羽さん」
軽く手を上げて挨拶し、ドアを開けて部屋から出る。
「なら、俺も失礼しよう。荷物を片付けなきゃならないしな」
エドも立っていた場所からドアまで移動する。
「白羽さん、失礼します」
俺とは違い、エドは丁寧に頭を下げて退室していく。




