No.13 傷の行方
みーんみんみん。じーわじわじわ。
不揃いでただ喧しいだけの合唱が耳を劈く。
周り一帯から囲むように聴こえてくる。まるで自分を叩き起こそうするように五月蝿く騒ぐ。
「蝉……?」
あまりに五月蝿いので、身体が怠いのにしょうがないと言った様子で目を開ける。
額に手の甲をつけて眩しいく当たる光を遮り、辺りを見渡す。そこには見慣れた、変わらない、いつもの景色が広がっていた。
茶色く草も生い茂る地面。無数に生え並ぶ木々。その木々の枝葉の隙間から零れる陽射し。
風で揺らぐ木の葉の影、懐かしい匂い。それらを見てすぐに気付いた。
「あぁ……よく視る、懐かしい景色。これは――――」
これは夢だと。何度も視て、何度も覚める。よく視る懐かしい夢。
その場に立ち尽くし、いつもと変わらない懐かしい景色を眺める。
あれだけ五月蝿く感じていた蝉の合唱は、今では心地よく感じる。
「よく視るのに懐かしい、か。ははっ……」
自分の矛盾した言葉に、何か笑いが出た。昔の夢で懐かしいのに、頻繁に何度も視ていたら懐かしいとは言えるのか。
それに、見過ぎたせいか夢が始まったばかりですぐ、これが夢だと解った。
今、自分が寝ていて、自分の夢の中で自分がいる。そう思うと自分の頭ン中に入っているようで、なにか変な感覚。
だが、これがいつも視る例の夢だと解ったのなら……当然、この後に起きる事も解る。
そう、いつもと変わらない夢……だから。
「結末の解る夢程、つまらないモノはねぇな」
この夢の終わり方……それにも何度も目の当たりにしている。
寝覚めのいい終わり方ならまだしも、寝覚め最悪だからな。そんな最後があると解って、スキップして喜ぶなんて出来やしない。
夢の中なのに目が覚めた時の現実の事を考えると、足取りが重くなる。まぁ、まだ立ったままで歩いてもいないけど。
だけど、このままずっとここで立ちっぱって訳にもいかない。
結末は解っていても、夢だと解っていても。
陽射しを遮っていた手を下ろして、左右を木で囲まれた道を進む。
一歩一歩、ゆっくりと。
ゆらゆらと揺れる枝葉から、木漏れ日が地面の模様を忙しく変える。
夢の中だと言うのに、額に汗が滲む程に暑い。これじゃ現実と大して変わらないと思ってしまう。
しかし、夢ってのは寝ている自分が造り出した世界でもある。
要は自分で好きなように出来ちゃうって事。だから夢と言ったって暑いモンは暑いし、頬っぺたをつねれば痛い。
夢でだって感覚はあるらしい。本当、なんでこんなに凝った夢を視るんだかね、俺は。
自分自身の視る夢に愚痴を零しながら歩き、木々の小道を抜けて広い境内に出る。
「あっつ」
木陰のカーテンが途絶え、眩しい陽射しが照らしてくる。本当にリアルな夢で、陽射しもちゃんと熱い。
足は止まらずに歩き、神社を横切る。再び木々のカーテンの中に入り、熱い陽射しから逃れた。
そして、一直線に迷う事なく最終地点を目指す。
土を踏み締め、風を感じて。
「やっぱ何度見ても、大きいよなぁ」
この夢の最終地点である御神木。他の木とは見てわかる程に大きい。
右手をそっと添えて触れると、がっしりとしたその身体に力強さを感じる。
周りは木に囲まれて緑色に染まる、この場所。風で揺れる度に琥珀色の木漏れ日は地面を彩る。
「……」
静かに目を閉じる。
今、この風景なのも少しだけ。もう間もなく、いつものようになる。
肌を触れていた柔らかな風が無くなり、段々と空気は熱を帯びていく。暑さとは別の熱さが辺りに立ち込め、さっきまでの静けさが少しずつ消える。
代わりに、パチパチと何かが弾けるような音と、焦げた臭いが漂い始める。
そこで目を開ける。後ろを振り向いて、変わらない終わりを視る為に。
「やっぱり……変わらないのかよ……!」
目前に広がる景色。
それは赤くなっていた。夕焼け色のオレンジにも近い赤で。
さっきまでの緑色など一切無い。草、木、葉、枝、花……全ての姿が無くなっている。
全てが、燃えている。赤い炎に包まれて、目に映るモノを燃やしている。
陽射しの熱さとは別の、炎の熱さが肌をちりちりと焦がす。
暑くて、熱くて、自分までも燃えてしまいそう。夢とは思えない程にリアルな夢。
拳を作る。暑さと熱さで握る手には汗がじっとりと滲み出ていた。
「クソッ……なんでだ、なんでだよ!」
作った自分の拳を強く、御神木に叩きつける。
「なんでいつもこうなるんだ! なんで何度も同じ夢を視るんだよ!」
激しく何度も叩きつける。ごつごつした木の表面に手を擦り剥きながらも。
だが、炎は止まらず景色を飲み込んでいく。次から次へと。
燃え盛る炎は蒼かった筈の空さえも、赤く燃え染めていた。
「なんでっ、全部燃えちまうんだよぉ……」
力が抜けたように膝を落として地面に着く。
御神木を叩いていた手には擦り傷が出来て、少量ながら血が出ている。痛みはある。夢なのに。炎が熱い。夢なのに。
「何をしてぇんだよ……」
自分の夢で自分の大切な場所を燃やし、自分自身を苦しませている。
自分が一体何をしたいのか解らない。
とうとう御神木にまで火が回り、その大きな身体が炎に蝕まれていく。
辺りには木々の面影も無くなり、飲み込んでいく炎がゆらりゆらゆら、めらりめらめらと踊り回る。
「俺はどうしてぇんだよ!」
叫んだ。炎に囲まれて、その中心で。
訳の解らない自分に、ただ一方的に大切な場所が燃やされていく理不尽さに。
「クソォ!」
御神木に付いた炎を振り払おうと、上着を脱いで必死に仰ぐ。しかし、そんなものは焼け石に水にすらならず、炎は激しさを増していくだけ。
上着にも火が移り、白い生地を焦がす。
「あ、れ……?」
だが、ここで一つ可笑しな点を見付ける。燃えている上着が、よく見れば可笑しかった。
燃えているのは別に可笑しくない。ただ、燃えている部分が可笑しい。
上着は仰いでいる端部分からではなく、手で持っている部分から燃えていた。
「なん、で……?」
不思議でならない。炎を仰いだ部分は全く燃えていないのに、持っている部分は勢い良く燃えている。
まさか、これは――。
「俺が……燃やしている!?」
上着を離し、自分の手の平を見つめる。燃えて黒炭になった上着の一切れが、手の平に残っていた。
それを炎はさらに燃やして消し去る。ここで初めて気付いた。
自分の手の平が、身体が炎に喰われているのに。
「いや、違う……燃えているのは……」
――――――俺……?
* * *
「う……ん………」
自分の声と共に、重たく感じる瞼を開ける。開いた目は半目で、入ってきた光が眩しく、視界もぼやけてよく分からない。
耳も機能している。さっきからドタドタと周りが五月蝿く何か騒いでいる。
「――ッ――き――――い――」
だけど、まだ頭は機能せずに寝ているらしい。自分の目が何を見ているのか認識してくれないし、耳に聞こえてくるものも何なのか聞き分けてくれない。
だったら頭が起きるのを待つしかないと、ぼやけている景色を眺めてそれまで時間を潰す。
段々とぼやけていた視界もはっきりとしてきて、遠近も掴める風景になってきた。
そして、自分が見ていたのは天井だった。白い、真四角のタイルが綺麗に並んだ天井。
自分の部屋のではなく。見知らぬ、天井。
意識から遅れて頭が起きてきた。お陰で耳に騒がしく聞こえただけの音を、頭が声へと認識を変えていく。
「――輩! 咲月先輩! 私が分かりますか!?」
そして、変換された声が沙姫の声だと頭が答えを出す。
首を少し左へ動かすと、天井だけだった風景に横から沙姫の顔が入ってきた。
「沙、姫……?」
何度も沙姫は俺の名前を呼び掛けていた。その顔は、目が赤く腫れぼったくなっているような。
「あれ、ここ……どこだ?」
見上げていた天井が見知らないって事は、今、自分は知らない場所で寝ているという事に気付く。
やっと頭は起きて、いつも通りの回転をしてくれるようになったようだ。半開きだった瞼はぱっちりと開けて、目だけを左右に動かして部屋を見回す。
部屋は全体的に清潔さを思わせる白で、自分が寝ていたベットは壁の傍で窓が目の前にある。
「なんで俺、こんな所で……っ痛……」
上半身を動かすと、身体の節々に痛みが走る。耐えられない痛みではないので、我慢して起こす。
そこで自分は白いスーツと白い布団のベットに寝ていた事を知った。
上半身を起こしきると、くらりと立ってもいないのに立ち眩みがした。額に手を当てて治まるのを待つ。
「ダメよ、咲月君! 動かないで寝てなきゃ!」
立ち眩みが治って沙姫の隣を見ると、沙夜先輩が立っていた。
多分、沙姫と一緒にさっきから居たんだろうが、気付かなかった。
沙夜先輩の表情も明るいものでは無く、疲れた様子が強く見える。
「沙夜先輩……? 2人揃って何をして……って、うわっ」
なんで自分が寝ている所に2人がいるのか不思議に思っていたら、いきなり腹に衝撃がきた。
「沙姫?」
その衝撃の正体は沙姫で、俺の腹に顔を埋めるように抱きついてきた。何がなんだか解らず、頭の上にはハテナマークが出る。
「ひ、ひぃぃぃん……よかったよぉ……」
すると、沙姫は顔を埋めたまま声を裏返して泣き始めた。突然泣き始めた沙姫に、理由も分からず困惑してしまう。
「お、おい、一体どうしたってんだよ?」
「ぐすっ……だって、だってぇ……私のせいで咲月先輩が大怪我しちゃって……」
ひっくひっくと息を荒げて沙姫は答える。
「ケガ……?」
最初、なんの事か分からなかったが、段々と脳ミソが自身に起こった出来事を思い出してきた。
自分がどうなったのかを。
服を掴み、胸元を開けて自分の身体を見る。朦朧とした意識ではあったが、しっかりと覚えている。
そうだ。俺は沙姫を庇って胸から下へバッサリと斬られた。おびただしい量の血を流して、倒れたんだ。
だが……。
「あ、れ? 傷が……ない?」
はだけた服の間から覗ける自分の素肌には、斬られて出来た筈の傷が見当たらなかった。普通、あれだけ大きく斬られたのなら、相当の傷痕が残っている。
なのに傷と言える傷が一切無い。いや、肘や頬には擦り傷など小さなものはある。
だけど、胸の傷だけが無くなっている。
綺麗に跡形もなく消えた訳ではなく、薄らとかさぶたが斬られたであろう傷の形で出来ていた。
「なんで……」
俺は斬られた。確かに沙姫を庇って斬られた。なのに傷が最初からなかったかのように消えている。
こんな不可思議な事があるのか……?
「ほら、沙姫。嬉しいのは分かるけど離れなさい。ようやく目が覚めたのに、咲月君の傷が開いちゃうでしょ」
沙夜先輩が背中を擦りながらなかなか泣き止まない沙姫を宥める。
「……うん」
ぐすぐすと顔を涙でぐしゃぐしゃにして、沙姫はようやく埋めていた顔を上げて泣き止んだ。
ずずずっと鼻水もすすって。
「これで涙を拭きなさい」
沙夜先輩はズボンからポケットティッシュを取り出して沙姫に渡す。
「……ありがと」
沙姫はそれを受け取って涙を拭いて、チーンと鼻をかむ。
腹ン所が涙で濡れてちょいと冷たい。あーぁ、ご親切に鼻水もつけて。まぁ、俺を心配して泣いてくれたんだからこれ位構わない。
寧ろ感謝するべきか。
「やっとお目覚めか。本当によく寝るな、お前は」
沙姫や沙夜先輩とは別の、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
泣く程に心配してくれていた沙姫とは違い、そいつは心配どころか最初に口にした言葉が皮肉だった。
「数少ない取り柄の1つなんでね」
その皮肉に顎をしゃくれさせて適当に流すように答える。
部屋のドアの方を見ると、制服を着たエドがいた。
「あ……? 誰だ、その人?」
すると、エドの隣に一人の女性が立っていた。
整った顔立ちに、肩まで伸びた栗色の髪。ほんのりとかけた化粧、薄らと赤く塗られた口紅。すらりとしたスタイルで、レディーススーツを綺麗に着熟している。
沙夜先輩よりも年上で、見た感じ大人のお姉さん。
「血色は良好……とはいかなくとも、悪いって訳でもなさそうね」
カツカツとヒールを鳴らして女性はこちらに近づいてくる。
「エド先輩に深雪さん」
沙姫は二人に気付いて名前を呼ぶ。名前を呼ぶって事は沙姫はこの女性を知っているようだ。
「意識もはっきりしているし、瞳孔も開いていない」
沙姫が深雪さんと呼ぶ女性に指で目を開けられ、ペンライトのような物で光を当てられる。
「ちょ……」
「脈拍も正常。擦り傷以外に目立った外傷も無し」
抵抗する間もなく慣れた手付きで手首を掴んで脈拍を計られ、身体の周りを少し見られる。
「うん、大丈夫。問題無いわ」
一通り調べ終わったら、女性は両手を腰に当てて一息吐く。
「あの……誰?」
半ば強引に身体を調べられ、少しぐったりとしながら沙姫に聞く。
「あぁ、ごめんね。自己紹介が遅れたわね。私は高峰深雪って言うの、よろしくね」
自己紹介の最後に、にっこりと笑顔。
「はぁ……どうも」
その笑顔は可愛いと言うより綺麗で、赤い口紅が大人の魅力を感じさせる。
「深雪さんが咲月先輩の傷を手当てしてくれたんですよ」
鼻にティッシュを当てながら沙姫が教えてくれる。
「え、そうなの? それはどうもって言うか、すいませんと言うか……」
って、今更だけど着てる服が変わってる。ジャージを着ていた筈なのに、今は病院で入院している人が着るような服だ。
さすがにあんな泥まみれの服のままベットに寝せる訳にもいかないか。
「手当てって言っても、軽く包帯巻いたり絆創膏を貼っただけよ。大した事はやってないわ」
絆創膏を貼っただけって……やっぱり胸の傷は無かったのか……?
胸元を触り、服を強く握り絞める。
「やぁ。顔色を見た感じ、大丈夫そうだね」
いつの間にか深雪の後ろに、白羽さんが周りに混ざっていた。室内だからだろう。いつも被っているハットは被っていない。
「白羽さん」
本当、この人は急に現れたりするな。出現条件とかがあったりするんだろうか?
「どうだい、咲月君の容体は」
「はい。意識もちゃんとしてますし、脈拍も普通です。問題は無いと思われます」
「そうか、それはよかった。なかなか目を覚まさなかったからね、心配だったよ」
白羽さんの質問に背筋をビッと伸ばし、はっきりとした口調で深雪さん答える。
「何か……欲しい物はあるかい、咲月君?」
「いえ、特には……」
白羽さんは俺の目を見て小さく微笑う。
しかし、白羽さんが見る目が何かを言いたがっているようなのは気付いた。
「……いや、そうだな。そういや腹が減ったから、なんか食いモンが欲しいかな」
胸を掴んでいた手を腹に移動させ、左右に動かして腹を擦る。
「はいはい! なら私が近くのコンビニで何か買ってきますよ!」
鼻をかんだティッシュを丸めてゴミ箱に捨て、元気になった沙姫が挙手する。
「でも、ここからだとコンビニよりスーパーの方が近くにあるわよ?」
「なら材料を買ってきて何か作ります! その方が安あがりだし栄養もありますから!」
深雪さんにスーパーの方が近いと教えられ、沙姫はいつもの元気な様子で部屋から出ていく。
「おーい沙姫ぃ、がっつりしたモン頼むわー!」
「解りましたぁ、任せてくださーい!」
注文すると、沙姫は廊下から大声で返事をする。走って出ていった為、廊下から聞こえる沙姫の声は段々と小さくなっていく。
「でも沙姫ちゃん、勢い良く出ていったけど……スーパーがある所、知ってるのかしら?」
「……へ?」
深雪さんが言った言葉に、気の抜けた声を出してしまった。
「知ってる訳ないですよ……全く、本当にいつも考え無しで動くんだから」
はぁ、と特大の溜め息を1つ吐いて、沙夜先輩は肩を落として額を手で隠す。
「しょうがない、じゃあ私も一緒に行こうかしらね」
「あ、なら私も行きます。あの子、勢いで余計な物まで買いそうですから……」
そう言って沙夜先輩と深雪さんの2人は、部屋から出ていく。
「あぁそうだ、深雪君」
廊下に出た所で、白羽さんが深雪さんを呼び止める。
「はい、なんでしょう? あ、沙夜ちゃんは先に行って沙姫ちゃんを入り口で止めててくれる? あのまま走られたら合流するの大変そうだから」
「はい、わかりました」
深雪さんに言われ、沙夜先輩は走って先に行く。
「彼女達の好きな物を買ってあげて構わない。領収書を忘れずにね」
「了解です。相変わらず太っ腹ですね、白羽さんは。それじゃ行ってきます」
それでは、と深雪さんは手を軽く上げたあと、早歩き後を追っていった。
一番騒がしかった奴が出ていき、部屋には少しばかりの静かになる。
「……で、ご希望通り沙姫と沙夜先輩を席から外させてたけど?」
その静かさを数秒間だけ堪能したから、白羽さんへ口を開く。
「すまなかったね、咲月君を使ってしまって。それにしてもよく気付いてくれた」
「まぁ、ね。なんとなくそんな感じがしてさ。それに、俺も聞きたい事がある」
もう一度胸元の服を強く掴む。
その様子を見ながら、白羽さんは近くにあった椅子を引いてベットの隣に座る。
「傷の事、だね?」
「俺は……俺は確かに斬られた筈だ。なのに目が覚めたら、ある筈の傷が無い……あれは夢だったとでも言うのかよ!」
大きな声をあげ、静かになった部屋には俺の声が響く。
さらに強く握る服には、無数の皺が出来る。
「いや、夢なんかではない。君は確かに、胸から腹にかけて大きな傷を負った」
響いた声が部屋から抜けるのを待ってから、白羽さんは答える。
「私が君の所へ駆け付けた時、君は傷から驚く程の血を流して倒れていたよ」
足を組み、白羽さんはいつもの冷静な口調で話を進める。
「正直、私も焦ったよ。地面に流れる血の量を見れば危険な状態なのは一目瞭然だ。早く止血をして、応急処置をしなくては手遅れになると思ったよ」
「やっぱり……俺は、斬られていたんだ……」
服から手を離し、かさぶたが出来た部分を触る。手には微かに、でこぼことしたかさぶたの感触がざらりとした。
「でも待てよ! じゃあ傷は!? なんで傷は無くなってんだよ!?」
いくら薄れていく意識の中だったとは言え、あの血の量、そして斬られた凶器をを考えれば、どれだけ大きな傷だったかが解る。
そんな傷が、目が覚めたらほぼ完治している……なんて話、夢が溢れる魔法の国でも無いこの世界でどう説明が着こうか。
「それなんだが……今言ったように、私が君の所へ来た時には確かに傷があった。だが……」
「だが……なんだよ?」
一度目を瞑って間を貯める白羽さんに、緊張を覚える。
そして、次に白羽が放った言葉はとても信じられるようなものではなかった。
「止血をしようと私が傷を見た時には……すでに塞がっていた」
「塞がっ……は?」
白羽さんの言葉に、固まる。
一体、何をどうやったら斬られた直後に傷が治ると言うのか。まさか、知らない内に自分でゲームみたいに復活の呪文でも唱えたのか。
とにかく、頭は軽く混乱しそうになっていた。
「正しくは治り始めていた、か。君の傷はみるみる内に塞がっていった」
「いや……は? え……?」
そう言われて、解りました、なんて鵜呑みに出来る訳がない。
「そんな馬鹿げた話が……」
「それが本当の事だ、匕。俺も後から合流した時には既に、お前の周りには大量の血が残っていたが傷は無くなっていた」
椅子に座る白羽さんの後ろ隣に立って、エドが会話に入ってきた。
白羽さん、エドの二人は揃って真面目な顔をしている。とても嘘を言っている様子には見えない。
「でもよ、いくら本当の事だっていっても……一体どうやったら一瞬で傷が治るんだよ……?」
こんな言葉を使いたくはないが、これが奇跡……ってヤツなのか?
「それだが……実は私に一つ、心当たりがある」
白羽さんは顎を落とし、少し上目線で話す。
「心当たり……?」
「あぁ。もしかしたら、の話だけどね」
その目付きは鋭く、俺は少しばかりたじろぐ。
「それで、その心当たりってのは?」
だが、たじろぎはしたものの傷が治った理由を聞きたい気持ちの方が勝っていた。
「……いや、言っておいてなんだが、それはまだ伏せておこう。あくまで私の推測だからね」
そう言う白羽さんではあったが、その顔は強ばっており、どこか確信を持っていると言った表情をしている。
「……わかったよ」
正直、気になって仕方がないと言うのが心情たが、白羽さんが言わないのはそれなりの理由があっての事だと思い、聞きたい気持ちを押さえる。
「すまない。だが、もし私が睨んだ通りだった時には……ちゃんと話すよ」
白羽さんは口を斜めにして小さく微笑うが、目付きは鋭いまま。目が笑っていない、と言えばいいのか。
「ただ、いくら傷が治ったと言っても、あの出血量だったからね。輸血が間に合ってよかったよ」
「輸血……じゃあ、ここは病院なのか?」
首を左から右へ、ぐるーっと回して部屋を見る。
しかし、その部屋は病院の個室と言うにしては広く、ベットだけじゃなく色んな物がならんだ棚や、机がある。
それを見て、ふと学校の保健室を思い出した。
「いや、病院じゃない。ここは私が使っている事務所みたいな所だ」
「えっ……じゃあどうやって輸血したんだよ?」
「私達の仕事が仕事だからね。いざと言うときの為に医療用具は一通り揃えているんだ。それで輸血パックもいくらか置いてあってね、それで君に輸血出来たのさ」
なるほど。確かに、SDCの捜査は危険がある。
人を簡単に拉致、誘拐をするし、あのテイルやコウとの戦闘を考えれば命だって危ない。現に、俺がそうだったからな。
それに白羽さんの性格上、小さな不安要素だって無くそうとする人だ。いざと言うときの為に、医療用具を揃えているのは不思議じゃない。
「それに、深雪君は医療関係を少し噛っていてね」
「深雪……あぁ、さっきの人か」
へぇ、あの人がねぇ。言われれば確かに、俺が目ェ覚めた後に身体を診られた時は手慣れた感じだったな。
「さて、深雪君達が戻ってくるまでに話を済まさなくてはならないからね。少し急ごうか」
「あぁ、そうか」
わざわざ沙姫達を買い物に行かせて席から外させたんだ。聞かれたくない内容の話なんだろう。
「咲月君……君はその胸に傷を付けた少女と、顔見知りだったらしいね?」
白羽さんの質問を聞いて、頭脳の奥から一つの気になる事を引っ張り出てきた。
ちゃんと働きだしたと思っていた頭脳は、未だに本調子ではなく、今になって大事な事を思い出した。
「そうだ……モユは、モユはどうなったんだ!?」
ベットから落ちてしまいそうな勢いで、俺は白羽さんに問い詰める。
「落ち着くんだ。傷は無くなったと言っても、君は怪我人なんだからね」
白羽さんはベットから身を乗り出す俺の肩に手を当てて落ち着かせる。
「彼女の名前はモユ、と言うんだね?」
「……あぁ」
少し俯き、足に掛けられた布団を握り締める。
「彼女とは一体どういう関係なのかな?」
「そんなに親しいって訳じゃねぇよ。前に一度、学校で偶々会って話をしただけだ」
「うん。しかし、君はそれなりに仲が良さそうだった。と聞いているが?」
「……」
俺は答えず、俯いている頭は動かさないで無言のまま横目で白羽さんを見る。
「沙姫君から話を聞いてね」
その視線が何を言いたいのかにすぐに気付き、白羽さんが答える。
「……あぁ、なるほど」
なんで白羽さんがモユの事を知っているのか疑問に思っていたが、沙姫から聞いたのか。
沙姫は俺が斬られて気を失うまでの大体は見ていた。神社での事件はSDCに関わっている。聞き出されて当然か。
「別に仲はよくねぇよ。神社で会ったので二回目だし。ただ俺が勝手に気に掛けてるだけだよ」
横目で見ていた白羽さんへの視線は、布団を握る手へと戻る。
いつもなら、何かしら横から言葉でちょっかいを出してくるエドは静かに話を聞いている。
さすがに、真剣な話をしている時はしてこないか。
「それで……それであの後モユはどうなったんだ!?」
俯かせていた頭を上げ、再度白羽さんに問い掛ける。
白羽さんは一息つき、おもむろに口を開ける。
「彼女は連れていかれたよ……テイルに」
「連れて、いかれた……」
がくりと肩の力が抜け、また顔を俯せる。
「やっぱり、そうだったのか……」
真白い布団を見つめながら呟く。
自分はそれに気付いていた。だが、それを認めたくないと、それは間違いであって欲しいと、気付かないフリをしていた。
自分の頭はそうやって何度も否定する事を、否定していたのに。
「それじゃあ、モユは……」
喋る俺の声は、微かに震える。布団を握る手の力も無意識に強くなり、布団に出来たシワの数が増える。
「恐らく……いや、変に遠回しに言うのはやめよう。テイルに連れていかれた所を見ると、彼女は確実に明星君と同じで人体実験の被験者だろう」
「――――ッ!」
下唇を噛む。言葉を殺して、肩を震わせて。
「……やっぱり、そうだったのかよ」
解っていた、解っていたさ。だけど、あんな小さな子供までもが実験のサンプルにされるなんて……。
しかもそれが、子供の頃の自分と重ね合わせてしまう位に似て、ほんの少ししか喋っていないにしても……。
先輩のように知り合いが実験体にされるのが、俺は嫌だった。そうであって欲しくなかった。
「やっぱり……という事は、咲月君はそのモユという少女がSDCによる実験の被験者だと知っていたのかい?」
「知っていた訳じゃない。ただ、白羽さんが来る前にテイルがそんな事を匂わすような事を言っていたんだ。それで、なんとなくだが……そんな気がしていた」
「うん、なるほど」
白羽さんは顎に手を当てる。
「なぁ……なぁ、モユも、モユも助け出してやれねぇかな?」
頭を俯かせたまま、白羽さんに言葉を放つ。
それは何かに縋るような、普段の俺からは想像出来ない表情でだったろう。知り合ってから日の浅いエドから見ても、それは珍しと思う程に。
「君は、自分を殺そうとした相手を助けて欲しいと言うのかい?」
「違うっ!」
まるで白羽さんの言葉を掻き消さんとばかりに、大きな声をあげる。
白羽さんはそれに少し驚いたのか、目を少しだけ見開く。
「あれは、違う。モユは……俺を殺そうとしたんじゃない」
俺には解る。昔の自分と似ているからこそ、解る。
「それは……どういう事かな?」
意味ありげな俺の言葉に、白羽さんは興味を見せる。
「あいつは解らないんだ……何が善くて、何が悪いかが。ただ言われた事だけをやるように教えられたんだ」
そうすれば怒られもしない、間違っていない。そうやって生きていく事しか知らない。
「だからモユは俺を殺そうとしたんじゃない。何も解らないから……そう言われたから、言われた通りにやっただけなんだよ……! モユは、モユはただ……」
両手で拳を作り、ぎりり、と音がする程に強く握る。
モユはまだ何色にも染まっていない。何が正しいのか解らない。それだけの話。
俺や沙姫を襲ったのも、それは悪意でも敵意でも、殺気でも悪気でもない。
たった一欠片の邪気も無く、たった一片の曇りも無く。そう、モユはただ――。
「――――無邪気なだけだったんだ」
今、自分の足に掛けてある布団のように真白く、汚れの無い。だから、何色に染めるのも簡単。
真白く透き通ったままにするのも、黒く濁った色に染め上げるのも。
だから……だから、凛が俺にしてくれたように、俺もモユを助けてやりたい。
生かされるのではなく、生きるという事を教えてやらならなければ、ガキん時の俺みたいに面白い事なんてひとっつもねぇ人生になっちまう。
「無邪気、か。面白い言い方をするね、咲月君は」
顎に手を当てたまま白羽さんは小さく微笑う。
「そのモユという少女がSDCでの実験の被験者ならば、彼女も拉致、または誘拐された可能性が高い。なら、私達も彼女を助けるのは当然の事だ」
それを聞いて安堵する。
もし白羽さんに拒否されていたら、俺は自分一人ででもモユを助けようとしていた。だが、モユの他に先輩をも助けださなくてはならない。
コウを相手にするだけでも精一杯なのに、加えてモユまで助けだすなんてのを1人でやるのは、無理に近い。
「それに私と君は協力者なんだ。私だって出来る限りの事はする。だがしかし、奴等に関する情報がなかなか見つからない。となると……今の状況が続けは、咲月君とエドのSDCだけが頼りか」
ふむ、と声を盛らして白羽さんは少し困った様子の顔をする。
「そういえば、君の連絡のお陰でテイルがいる事が分かった訳だが、なんであんな時間に神社なんかに?」
「あぁ、ランニングをしてたんだよ。少しでも身体を動かして昔の勘を取り戻そうと思って」
俯かせていた頭を上げて、白羽さんの質問に答える。さっき見せた弱々しい表情から普段と変わらない様子に戻っていた。
「勘?」
「実家にいた頃と比べて、こっちに来てから学校やバイトやらで身体を鍛えてなかったせいで、すっかり鈍ってさ。それで」
「なるほど。では、テイルの雰囲気に気付いたのはそのランニング中に偶然、か」
白羽さんは再度顎に手を当てて、何やら考え込む。
「いや……それがもしかしたら、偶然じゃないかも知れない」
「どういう事だい?」
「実は、その神社で祭りがあったんだ」
祭り、の所でちらりとエドを見る。
「あぁ、あった。知らない内に、途中でお前は帰りやがったけどな」
エドは俺が途中で抜け出して帰ったのを思い出し、じとりと睨む。しかし、それを無視して話を進める。
真剣な話だから反応しなかったってのもあったが、半分騙された形で祭りに連れていかれた事をまだ根に持っていた。
「その祭りが何か関係が?」
「祭りで神社を歩き回ってていたら、時折妙な感覚がしたんだ。背中から服の中に砂を入れられたような、ザラついた感じが」
祭りの雰囲気には程遠く、その場には似つかわない感覚。
「それが気になって、ランニングついでにまた神社に行ったんだよ。そしたら、テイルの雰囲気を感じたんだ」
「ザラついた感じ、か。エド、それはお前も感じたのか?」
白羽さんは後ろを向いてエドに話し掛ける。
「いえ、俺は何も……感じていたらすぐに連絡していたと思いますし」
「うん。なら、咲月君だけが気付いたのか」
後ろに向けていた身体を正面に戻して、白羽さんは唇を隠すように手を当てる。
「やはり、人より感が鋭いか……」
そして、俺にはよく聞こえない小さな声で一言呟く。
「え?」
「いや、なんでもない」
何を言ったか聞き取れなかったが、反応した俺に白羽さんは気にしなくていい、と手を胸元の高さまで上げる。
「私が聞きたかった事は以上だ。次は咲月君の番だ、聞きたい事があれば答えよう」
白羽さんは手を下ろして、両手を組んだ足の上に乗せる。
「聞きたい事……」
何かあるかと頭の中を探ってみると、幾つか気になっていた事があった。
一番気になっていたのはモユの事だが、それ以外にも同じ位に気になっていた。
「エド、俺がいなくなった後……コウとはどうなった?」
沙夜先輩が神社に戻って来てしまい、コウに気付かれる前に離れさせようと別れた後。
俺とエドの二人がかりで相当のダメージを与えはしたが、それでもエド一人で相手をするとなると安心は出来ない。
「……残念だが、また逃げられた」
エドは腕を組んだまま肩を少し竦ませて息を一つ吐く。
「あれだけダメージを与えたのに、それでもダメだったか」
「あぁ。正直、とてもじゃないが倒せる気がしなかった。手負いの獣は危険、って言葉が嫌な程わかったよ」
出来ればその時にコウを捕まえて起きたかったが、二転三転としていたあの状況じゃ無理か。それに2人で戦ってもギリギリだった。
「途中、運良く草むらで銃を見付けてなんとか凌げはしたが……それでも互角とは言い難かった」
「テイルに弾かれたヤツか」
森林でコウと戦っている間に神社の敷地近くまで移動していた。弾かれた銃もそう遠くまで飛ぶ筈もない。なら、銃が見つかってもおかしい話じゃない。
「だけど、あんなにブチ切れていたコウがよく途中で退いたな」
俺とエドに何度もブン殴られて血管が浮き出るぐらいに頭に来ていたのに。あの様子なら、どちらかがやられるまで止めない勢いだった。
「それがな、テイルが来たんだ」
「テイルが?」
でもアイツは白羽さんが相手をしていた筈だ。
「いきなり現れてな。『状況が変わった』と言ってコウを引き上げさせた」
「だけどよ、テイルは白羽さんと戦り合っていたんだろ? なんでコウの所に来たんだよ?」
まさか、白羽さんはテイルにやられたってのか? いや、だけど白羽さんには傷らしい傷は見当たらない。
「咲月君、そこからは私が話そう」
エドと話している間に白羽さんが入る。
「私は確かにテイルと戦っていた。なまじ互いの実力が近いだけにね、そう簡単に勝負は着かずに長引いてしまっていた」
白羽さんが話し始めると、さっきまで喋っていたエドは黙って話を聞いている。
「君達の事も気になっていたのでね、これ以上長引くのは良くないと思い、一気にケリを着けようとしたんだ。それに気付き、テイルも本気を出し始めた」
「テイルが、本気……」
それがどれだけ凄い事なのか、すぐに理解した。
まだ一度も戦り合った事は無いが、テイルの強さがどれ位なのかは嫌でも分かる。
自分の近くに来た事に気付けない……その差は歴然だ。
「しかし……本気になったかと思えば、まともに戦り合う事無く、奴はいつもの調子に戻ったんだ。何かに気付いた様子でね。さっき、エドが言ったのと同じように『状況が変わった』と言って」
「まさか、その状況が変わったってのは……」
その言葉に引っ掛かる事が一つ、思い浮かんだ。と言うより、その時に自分の目の前で起きていた事を思えば、その他に無いと言える。
「そうだ。君が思った通り、モユという少女の事だろう」
「やっぱり……」
白羽さんが口から出した答えは、俺の頭にあったものと同じだった。少し考えれば簡単に予想のつく答え。
「沙姫君から聞いたんだが、その少女は突然叫びだして様子が急変したそうだね?」
「あぁ。それは2回あって、一回目は確か……神社全体の雰囲気が変わって、空気が重たくなった時に……」
言葉を途中で止め、先程の白羽の話を思い出すと気付く。
モユの様子が急変した理由と思える事に。
「モユが急変したのは、まさか……テイルの……?」
白羽さんは目付きを鋭くして俺が気付いた理由を話しだす。
「恐らく、テイルの雰囲気に触れてしまった事が原因だろうと、私は考えている」
やはり、いや、それしかない。テイルの雰囲気が変わったのとモユの様子がおかしくなったタイミングが重なり過ぎている。
「そして、すぐにテイルはその場から去っていった。その少女を連れ戻る為にね」
「去っていったって……逃げようとしたのを白羽さんは見逃したのか?」
テイルと互角に戦えるなら、テイルを追っ掛けて捕まえるまでとはいかなくても、追い付くぐらいは出来た筈だ。
「テイルが去り際に君が危なくなっている事を私に言ってきてね。それで君の雰囲気が弱まっているのに気付いて、私は君の所へ行ったんだ。奴との決着なんかよりも、人の命の方が大事だからね」
「あ……」
それを聞いて俺は何も言えなかった。
白羽さんがテイルを追わないで、気付いてすぐ駆け付けてくれたお陰で自分は生きていると言えるかもしれない。
「君の所へ行った時は本当に驚いた。君は血まみれで倒れ、沙姫君は泣きじゃくり、沙夜君は必死に止血しようとして、例の少女は叫びをあげていた」
「え、待ってくれ。沙夜先輩もいたのか!?」
俺がまだ意識があった時までは、その場には沙姫とモユしかいなかった。沙姫先輩は神社の境内にある出店の所にいた筈だろ。
「何やら様子が変で、君の後を追って探していたら叫び声が聞こえ、そこで君と沙姫君を見つけたと聞いている」
「そっか……。でも、待てよ。白羽さんより先にテイルはモユの所に向かったのに、テイルはいなかったのかよ?」
これじゃ話が合わない。テイルより遅く俺の所へ向かった白羽さんが先に着くのはおかしい。
白羽さんの話が本当なら、先にテイルがモユの所へ来ている筈だ。なのになんで白羽さんが先に着いている?
「それは多分、途中でエド……いや、コウの所へ行ったからだろう」
「コウの……そうか。そういえばエドの所にテイルが来たって言ってたな」
なるほど。じゃあ白羽さんはテイルが途中でコウの所に寄っている間に先を越したのか。
「コウがテイルに言われて引き上げた後、俺も雰囲気を辿ってお前の所へ行ったが……まさかあんなになってるとはな。おまけに人数も増えているときた」
エドは肩で息を吐いて、参ったよ、と言いたげだ。
「そして、エドが来る少し前にテイルが来てね。叫び止まない少女に何やら薬品らしき物を注射して眠らせ、担いで行ったよ」
白羽さんは椅子の背もたれに寄り掛かり、溜め息じみた息を吐く。
「ま、お陰で俺だけがそのモユって少女を見れなかった訳だ」
残念そうにエドは白羽さんに続いて溜め息を吐く。
その残念そうなのは、ただ単にモユを見れなかった事なのか、俺をいじる為のネタを見逃した事なのかは解らない。
「って事は、沙姫と沙夜先輩はコウと会っては……」
「コウはテイルに言われてすぐ去っていったからな。2人とは会っていない。それがどうかしたか?」
それを聞いて、ぶはぁーっと息を吐いて安心する。
「よかった……」
「私から見てもコウは危険だ。接触しなくて良かったが、君のその様子だと他にも理由がありそうだね?」
俺の反応を見て、白羽さんがその訳を気にする。
「白羽さんが言うようにコウが危険だからってのもある。けど、沙姫と沙夜先輩は、先輩と知り合いなんだ」
「そうか。確か、明星君と沙夜君はクラスメートだったね」
「あぁ……だから、別人格だと言っても、行方不明になっていた先輩がいきなり現れて、しかも、あんなに豹変していたら……」
「確実に、少なからずショックを受けていたろう」
少しの間、部屋に静寂が走る。その中、白羽さんが座っていた椅子が、ぎしりと軋む音を鳴らせる。
「先輩と沙夜先輩は仲が良かったらしいんだ。コウはそれを面白がるだろうし、俺は沙夜先輩が悲しむのを見たくない」
しかも、沙夜先輩を殺しにかかるのは目に見えている。それも人格はコウでも、先輩の身体を使ってだ。
「奴の性格上、元の身体の記憶にあった人を殺るのを愉しむ傾向があるからな」
エドは白羽さんのように顎に手を当てて俺の言葉に返す。
実際、エドの言う通り。現に俺やエドを殺すのに異常なまでに執着しているし、それを愉しんでいる。
「ふむ……なら、今回はなんとか沙夜君達はコウと会わずに済んだが、やはり明星君の知り合いとの接触は極力避けさせるべきか」
白羽さんは椅子の背もたれに背中を預けたまま腕を組む。
「しかし、奴等の出現するのがいつなのかが不明確な以上、それは難しいな……」
そう言いながら表情を少し強張らせる。
「だが、出来る限りの事はしてみよう。小さな事しか出来ないとは思うけれどもね」
一度、白羽さんは腕を組んだまま肩を竦ませて苦い顔をする。
「今回は偶々会わずに済んだけど、このまま行くと多分……結局は沙姫と沙夜先輩はコウと会っちまう」
「うん? 咲月君、それはどうしてかな?」
眉をぴくりと微かに動かし、白羽さんは俺の言った言葉に反応する。
「え、いや……俺とエドがコウに初めて会ったのは夜の街中じゃなくてSDCだったろ。だったら、コウはまたSDCに現れる。俺とエドが参加しているならば、絶対と言っていい程に」
ならば、沙姫と沙夜先輩もSDCに参加している以上、次のSDCでコウと接触する可能性がある。
俺が初めてコウと対面したSDC。それに沙姫と沙夜先輩の二人が参加していた。
今思えば神社だけではなく、その時も偶々二人はコウと接触せずに済んでいた。
「それは解る。だが、それが何故、彼女2人がコウと接触してしまう理由になるんだい?」
しかし、白羽さんは俺の言っている事は理解していたが、コウとの接触する理由がどこにあるのかが解らないといった様子。
「何故も何も、沙姫も沙夜先輩もSDCに参加しているからだろ」
なんで白羽さんが分かりきっている事を聞いてくるのかと、不思議に思いながら答える。
「なんだって!?」
聞いてきた白羽さんが返事に答えるよりも先に、白羽さんの隣に立っていたエドが声を出した。
「なんだよ、急に大声を出しやがって……」
別に驚かせるような事を言った覚えの無く、エドの反応に少しばかりたじろぐ。
「咲月君、今言った事は本当なのかい?」
白羽さんは組んでいた腕を解き、エドの前に片腕を出して抑える。
「あ、あぁ。でもそれは白羽さんだって知っている……んだよ、な?」
明らかに目の前にいる二人の様子が可笑しく、喋っていた台詞が途中から歯切れが悪くなる。
「違う……のか?」
でも、エドは転校して来てから学校に通う生徒を調べてたんだろ? 前に学校の教室に沙姫が来た時に、沙姫と沙夜先輩と面識が無いのに知っていたし。
だから当然、二人がSDCに参加している事も知っているもんだと思っていたんだが……。
「ッ、そうか。学校生徒は軽く調べた程度のまま途中で別の調べ物をし始めたから、まだ完全に生徒を調べ終わってなかったんだった。しくった……」
エドは頭を掻いて塩っぱい顔をする。
「いや、それは私が優先的に調べるように言ったんだ。エドのせいではない」
そんなエドに白羽さんは気にするなと言葉を掛ける。しかし、エドはやっちまったと言いたそうにまだ頭を掻いている。
「もしかして、知らなかった?」
二人の様子を見て、何故か申し訳ない気持ちになりながら恐る恐る聞いてみる。
「知らなかったよ……なんで早く教えてくれなかったんだっ!」
「んな事言われてもよ、俺はとっくに知ってるもんだと思ってたんだよ!」
悪気があった訳ではないのにエドに怒鳴られ、それに少しムッと来て怒鳴りに近い声で返す。
「やめろ、エド。これはこっちのミスだ。咲月君に非は無い。すまなかったね、咲月君」
白羽さんに言われたエドは何かを言いたそうではあったが、白羽の言った事は正論で何も言い返さずに静かになった。
「あぁいや、別にいいけど……勝手に知ってるもんだと思い込んでた俺も悪かっただろうし」
そういや、エドって白羽さんの言う事は大人しく聞くよな。
俺にとっては協力者だけど、アイツにとっては上司だからな。言う事も聞くか。
「でもよ、なんで俺がSDCに参加してるのは知ってて、沙姫と沙夜先輩が参加してるのは知らなかったんだよ?」
さっき学校の生徒を軽く調べた程度だっつってたのに、俺だけ参加しているのを知ってるのは可笑しい。
「前に言ったろ。クラスで雰囲気を探ってたらお前だけが読感術に気付いたから目を付けた、って」
あ、あぁー……言われてみれば確かにそんな気がするようなしないような……。
エドが転校してきて早々、授業中に寝ていた時に雰囲気を探られたのは覚えている。しつこく探って来るんで、腹が立って次の授業はサボって屋上に行ったんだっけ。
「で、屋上で嘘の怪談話でカマを掛けて、お前の反応を見てSDCに参加していると睨んだんだよ。あと、お前の先輩もな」
「あ、あの時か。あったな、そんな事も」
給料日後で久々の飯と言える飯を食えるって時にエドが屋上に来たんだ。あん時はまだ素性も知らないし協力もしてなかったから、かなり嫌ってたしムカついてたなぁ。
まぁ今もムカつくのは変わってねぇけどな、コイツは。
「他の生徒は名簿を調べて名前と顔を頭に入れた程度だ。だから、あの姉妹の事は知っていたんだ」
「なるほどね、そういう事だったのか」
それなら沙姫と沙夜先輩がSDCに参加しているのを知らなかったのも納得する。
「どうしますか、白羽さん。あの姉妹の事を今から調べましょうか?」
「……いや、彼女達の事は私が直接聞こう。さすがにSDCの事を単刀直入に聞いたら警戒されるだろうからね、それとなく聞いてみる」
少し考えた後に、白羽さんはエドに返答する。
「他にもSDCに参加している人を知っていたりはしないかい?」
「沙姫と沙夜先輩以外は知らない。二人がSDCに参加しているのを知ったのも、知り合ったのも偶然に近いし」
沙姫をSDCで助けたのが切っ掛けで知り合ったんだよな。
別に女の子に手を出す男達が許せなかったとか、多勢に無勢だっから助けたとか、そんな立派な理由じゃない。
自分は嫌だったから。目の前で起きると頭に浮かんだ光景を見るのが。そんなただの自分勝手で沙姫を助けた。
そしたら沙姫が俺の顔を知ってて屋上にお礼ね肉まんを持って来たんだっけ。
「そうか。うん、あの姉妹がSDCに参加しているのを知れただけでも十分か」
白羽さんは何かを考えるかのように顎を少し下げ、視線を斜め下へとやる。
「しかし、お前も酷な事をしているな。匕」
「あ?」
白羽さんが喋り終わったのを見計らって、エドに話し掛ける。だが、言ってきた意味がよく解らず、一文字で言葉を返す。
「あの二人がこのままSDCで生き残っていけば、最後には嫌でも必ず当たる。その意味はお前だって分かっているだろ?」
「……あぁ、解っているよ」
話し掛けられて一度はエドを見ていたが、今は目を逸らして足に掛かっている布団を見つめる。
エドの言っている事は分かる。それに正しいって事も。だから俺は、思わず目を逸らしてしまった。
「危険が伴う事を知っていながらも参加するって事は、彼女達にそれ相応の覚悟がある。そして、それ程の覚悟を持ってまで叶えようとする願いも。それをお前は……」
「輪っている! 解っているよ!」
エドが全てを言い切る前に、大声で遮る。
俺だって、大分前から解っていた。理解していた、気付いていた。そんな事をしたら、お互いが辛くなるだけだっていうのは。
前に一度、先輩にも言われた事もあった。それなのに俺は、会話をしたり遊んだりするのが楽しくて、温かくて……。
それで、ここまであの二人と仲良くなってしまった。
「それでも俺は……何があろうと、誰が相手だろうと、全部薙ぎ倒して願いを叶える」
これだけは何がなんでも譲れない。
俺は今まで、それだけを目標に生きてきた。それを一時の感情で曲げてしまったら……それは、自分があの日から生きてきた意味を否定してしまう。
「確かに今は先輩を助けよう為に白羽さんと組んではいる。だけど……俺は何より、自分の願いを叶えるのを優先するのは変わらねぇよ」
相手に何と思われようと、いつかはそうなる事を解っていたのに、過ぎた所まで仲良くなってしまった自分の責任。
例え、沙姫と沙夜先輩と戦り合う事になったとしても、俺は迷い無く倒しに掛かる。
一切の情を捨てて、本気で。
「……お前がそう言うなら、もう俺は何も言わないけどな」
そう言うエドだったが、本当は何かを言いたそう、どこか納得出来ずといった顔をしていた。
だが、俺の雰囲気がその言葉は本気だと物語っており、エドは開きかけた口を塞いだ。
「さて、粗方話したかった事は話し終えた。丁度良く買い物に行った深雪君達も帰ってきたようだしね」
「帰ってきた? なんで分かるんだ?」
読感術を使って雰囲気を感じたのか?
「音さ。玄関の扉が閉じた音がしたからね。それで気付いたのさ」
「音、ねぇ」
とは白羽さんは言うが、そんなのはちっとも聴こえなかった。でも、そういうのは住んでいる人にしか分からないってのがあるからな。
実際、俺も実家にいた時は廊下を歩く音で誰が歩いているのか解ったりしていた。
「証拠に、廊下から話し声がするだろう?」
「あ?」
白羽さんに言われて、耳を澄ましてみる。すると、何を喋っているかは分からないが、確かに聞き覚えのある声が段々と部屋に近づいてくる。
そして、元気と食欲だけが取り柄の後輩が勢い良く走って部屋に入ってきた。
「たっだいまぁ、咲月先輩!」
大きなスーパーの袋を両手に持って、沙姫が騒がしくご帰宅。
あ、いや、自分の家じゃないからご帰宅ってのは間違いか?
「随分と買ってきたなぁ、お前」
「はいっ! 張り切って作りますよぉ!」
でも買い過ぎじゃねぇか? 俺の飯を作るだけなのに、サイズ大の袋が三つとか。
がっつりしたモンを希望をしたが、がっつりと大量は意味が違うぞ。
「ちょっと、沙姫! もう少し落ち着きなさい!」
沙姫に遅れる事三十秒。沙夜先輩と深雪さんが部屋に戻ってきた。走って来たのか、沙夜先輩は少し息を切らせている。
「だって、咲月先輩がお腹減ってるんだから急いだ方がいいじゃん」
沙夜先輩は息を切らせているというのに、沙姫は息一つ乱れていない。
「あ、深雪さん。お台所ってどこですか?」
「こ、ここから出て……右に真っ直ぐ、行けば……給湯室があ、あるわ。そこで、作れるから」
深雪さんは膝に手を乗せて上半身を倒して、息を整えながら沙姫に答える。その様子はかなり辛そうだ。
「右に真っ直ぐですね。咲月先輩、すぐ用意しますから!」
と聞くや否や、沙姫はまた騒がしく部屋から出ていく。
「あ、沙姫! すいません、深雪さん。落ち着きが無くて……」
「い、いいのよ」
深雪さんはやっと顔を上げたものの、まだ息は乱れている。
「じゃ、私は沙姫を手伝って来ます。ちょっと、沙姫ー!」
沙夜先輩は深雪さんに一礼してから廊下に出て、沙姫の名前を叫んで追い掛けていった。
「あいつがいると本当、騒がしくなるな」
いい意味でも悪い意味でも。
「深雪さん、大丈夫ですか?」
息を整えようと壁に寄り掛かっている深雪さんに、エドが声を掛ける。
「だ、大丈夫。大丈夫よ」
返事をする深雪さんだが、それはエドに言っているのか自分に言っているのか。
「やっぱり歳なんじゃないですか、深雪さん?」
「失礼ね! 私はまだピチピチのにじゅう……歳よ!」
叫ぶようにエドに言い返すが、途中からいきなりモゴモゴと口籠もり、よく聞き取れなかった。
「そんな隠さないで二十八って言えばいいじゃないですか。知らないのは匕だけなんだし」
「ちょっ……エド! 何女の子の歳をバラしてるのよ!」
「女の子って歳じゃないでしょう、深雪さんは」
深雪さんはエドの暴露に、顔を赤らめて怒る。が、息が切れて体力がまだ回復していないのか、その場で声を荒げるだけ。
腕を上げて『殴るよ!』と身体で表すも、動けないのでは意味が無い。
「へぇー、深雪さんって二十八歳なんだ」
深雪さんの歳を知り、関心する。
「うぅ……歳を言いながら私を見て納得しないで……」
振り上げていた腕を下ろし、その手で深雪さんは顔を隠す。そして声は震えて泣き声のように聞こえる。
「いやいや、違うって深雪さん。納得したんじゃなくて逆に驚いたんだよ。年齢より見た目が若いと思って」
「……若い?」
そう言うと、顔を隠してオヨヨ、と泣いて震わせていた深雪さんの肩がピタリと止まる。
「私も深雪君はまだ若いと思うよ。一緒に飲みに行くと、いつも私の倍はいくからね」
そこに白羽さんもフォローらしき事を横から入れる。
「ほら、白羽さんもこう言ってる」
へぇ、深雪さんって酒に強いんだ。
いやでも白羽さん。それは一応若いって証なのかも知れないけど、別の意味で歳食ってるように思えるぞ。おじさん臭くて。
「そうよね、私だってまだまだ大丈夫よねぇ!」
深雪さんが顔を隠していた手を退けるとそこには機嫌を直した笑顔があった。
一度手で顔を隠して、その手を退けると表情が変わっている。まるで大魔人である。
「咲月君、何か困った事があったらいつでも私の所へおいで。お姉さんが相談に乗ってあげるから!」
若いと言ってくれてたのがそんなに嬉しかったのか、深雪さんは満面の笑みで話し掛けてくる。
「は、はぁ……」
あまりの笑顔過ぎて、なんて返していいか分からずただ相づちを打つ。
「そうだ、忘れない内に。はい、白羽さん。領収書です」
深雪さんはスーツの内ポケットから財布を出し、中から紙幣程の紙を取り出す。
「あぁ、すまない。ご苦労だったね」
「それとこれ、レシートです」
そう言い、領収書と一緒にレシートも渡す。それを受け取り、白羽さんは領収書とレシートに目を通す。
「沙姫君は何を作る……」
そして二つを見た瞬間、白羽さんの言葉が途中で止まる。
「……? 白羽さん?」
どうしたのかと思って白羽さんを見てみると、白羽さんは領収書とレシートを見て固まっている。
表情はいつもの冷静なままだが、よく見ると片方の眉がヒクついている。
変わらない表情なのだが、何故か白羽さんの顔が引きつっているように見えた。
「沙姫君は随分と……買ったようだね」
平然とした顔をしている白羽さんではあったが、その声からは明らかに動揺している。
「沙姫の奴、一体いくら買ったんだ?」
白羽さんの表情を固まらせる程となると、余程の金額なんだろう。
いや、いくら買ったかっつーか、何を買ったんだ?
「うん。これで咲月君が元気になるのなら安いものだ」
そう言いながら白羽は領収書とレシートをスーツの胸ポケットに仕舞うが、やはり声は動揺で微かに震えている。
その様子を見て、レシートの欄に一体何が書かれているのかが気になってしょうがなかった。
しかし、聞くより先に白羽さんがレシートを仕舞ったので、聞くタイミングを逃してしまう。
「さて、と。沙姫君の料理が出来るまで時間がある。雑談でもしようか?」
話題を変える白羽さんの声には、動揺の色は消えていつもの様子に戻っていた。
「雑談、ねぇ」
「咲月君とはSDCの話ばかりで、雑談なんてした事がなかったからね」
言われてみればそうだな。白羽さんとはSDCの話しかした事がない。
「つっても、話す事なんてあるか?」
今までにした事が無かった為、いざ雑談しようと言われても話題が出てこない。
「なんでもいいさ。雑談とはそういうものだからね」
とは言われても、そのなんでもいいのが出てこないから困っているのだが。
「エドから聞いたんだが、今週で学校は夏休みに入るらしいね?」
話題が出てこないのを察してか、白羽さんが話題を振ってきた。
「あー、そう言えばそうだった。来週からは夏休みかぁ」
最近、ゴタゴタしていてすっかり忘れていた。普通だったら夏休み前で心を踊らせてるんだろうが、普段サボりまくっている俺には余り実感が無い。
まぁ、嬉しいっちゃ嬉しいけどね。出席日数のヤバイ授業は受けなくていいし、赤点も無かったから補習も無いし。
何も気にする事無く夏休みを満喫出来る。
「えっと……三日後だっけか、終業式は」
今週の残り日数を指折りして数える。
「匕、良かったな。終業式は三日後じゃない。一日縮まって二日後だ」
「あぁん?」
エドは終業式の事を言っているのは理解出来たが、言葉の意味はさっぱり解るらず、俺は片眉だけを顰め、指を3本立てたままエドの方を見る。
「お前、今日は何日か分かるか?」
「んなの、二十六日の火曜日だろ?」
祭りに行った昨日が二十五日だったんだから、今日はその翌日なんだから未十六日だろ。食生活や生活週間は狂ってても、日にちや曜日感覚は狂ってませんて。
「残念ハズレ。今日は二十六日じゃなくて二十七日の水曜日だ」
「にじゅうななぁ!?」
指折りをした手を直さないまま、エドの言った言葉に驚く。
「実はね、咲月君。君は神社で倒れた後、丸一日ずっと眠っていたんだ」
エドの隣から白羽さんが、感覚で一日分が吹っ飛んだ俺が混乱をしないようにと説明をする。
「丸一日、寝てた……?」
おいおい、そりゃ俺は元からよく寝る方だけど、丸一日は寝過ぎだろうよ。大怪我をして気を失ったとは言え、その傷はすぐに治ったって言うし……。
今の自分の身体を見てもいつもと何ら変わりようは無い。
あるとしたら、所々の擦り傷。後は沙姫との組み手での筋肉痛が多少残っているぐらい。至って健康ですよ。
「しかも、二十六日と言っても、もう一日の半分以上は終わって今は午後の五時だけどな」
「五時ぃ!?」
それを聞いて何故か窓から外を見て空の色を確かめてしまう。
夏ならば六時過ぎ辺りから陽が沈み始める。当然色はまだ赤くなく、綺麗な青が広がっていた。
って、白羽さんは丸一日寝てたって言ったけど、それ以上じゃねぇかよ!
えーと、気ぃ失って倒れたのが二十六日の夜中一時だとして、二十四時間の今は午後五時だから足して……四十時間!?
俺、四十時間も寝てたのかよ! マジで寝過ぎだろ!
「それに、後で二人にお礼を言った方がいいわよ」
やっと息が整ったのか、ドア近くの壁からベットの所まで歩きながら深雪さんが会話に入ってくる。
「二人?」
「沙姫ちゃんと沙夜ちゃんの事よ」
深雪さんはヘソの辺りで腕を組み、俺に答える。
「彼女達、匕君が目を覚ますまで時間あればずーっとここに居たのよ」
「え、本当ですか?」
「本当よ。沙姫ちゃんなんか、最初はわんわん泣いていたんだから。大丈夫だって言っても離れようとしないし、夜だって殆んど寝ていないわよ、彼女」
あ……じゃあ目が覚めて沙姫の顔が腫れぼったく見えたのって、それだったんだな。
沙姫の奴、そんなに心配してくれたのか……。
「今日だって、学校に行かないでずっと居るって騒いでたんだから。私と沙夜ちゃんが説得して何とか行ってくれたけど」
本当に大変だったのよ、と言うように深雪さんは肩を竦ませながら大きく息を吐く。その言葉を聞いて、俺の頭には子供みたいにだだを捏ねる沙姫が浮かんでいた。
「だけどもやはり、少し心配になってね。私がエドに頼んで、学校で二人の様子を見てもらってたんだが……」
白羽さんが話して、横目で隣のエドに視線をやる。
目が合ったのでも無いのに、エドは白羽さんに自分が話せと言われたのに気付いて、その続きを話す。
「姉の方は気丈なんだな。内心では気に掛けている様子だったが、学校では普通にしていた。そして妹の方は見て解る程に元気が無くてな。逆に、周りの友達に心配される程だったよ」
「そんなに……」
沙姫が友達から心配される位に元気が無くなっていたってなると、余程だったんだろうな。
あいつの一番の取り柄は明るさと元気だからなぁ。それが無いんじゃ、沙姫を知っている奴はみんな心配もするわ。
「それで学校が終わったら、二人は速攻でまたここに来たのよ」
そうか……本当に心配を掛けてしまってたんだな。
そこまでしてくれていると、感謝の気持ちもあるが申し訳なさも出てくる。
「しかもあの二人、俺よりも早い時刻の電車に乗ってきたんだぞ」
学校が終わる時間は同じなのに、一体どうやって乗ったのか……とエドは不思議そうな表情をする。
「電車?」
そこで一つ、電車という言葉に引っ掛かりを覚える。
「あぁ、そういえば言ってなかったな。ここは学校がある立花町じゃない。そこから駅二つ離れた所だ」
「えっ、ここ立花町じゃねぇの!?」
部屋を見て病院ではない事はなんとなく予想は付いていた。それにさっき、白羽さんが自分達が使っている事務所だと言っていたし。
だけど、神社があった町から駅二つも離れた場所だとは全く思っていなかった。
「環境や費用の関係でね、少し離れた場所にしたんだ。それに、SDCSを行っている街に私達が住み着いたら、警戒されてしまいそうだからね」
白羽さんは椅子に深く座り直し、椅子の背もたれにゆっくりと背中を寄り掛ける。
「まぁ、確かに警戒とかされそうだな」
いくら目的のものを見付けたからって、出てくるまでドアの前でずっと張られてたら出るモンも出て来なくなるからな。
「だが、なかなか良い所だよ、ここは。緑もあるし、何より住みやすい」
そう言って白羽さんは満足した様子で小さく微小う。
「結構広かったりするしな」
エドが少し自慢気な顔をして話し掛けてくる。
「広い?」
しかし、俺は自分が今居る部屋しか知らない。そんなただ広い、と言われてもどれだけの広さか分からなければリアクションのしようが無い。
「そうだな……大体、一軒家の二つぐらいはある」
ポケットに手を入れ、エドは近くにあった机に浅く腰掛ける。
「二つ、か」
しかし、広さを知っても大して驚きもしなかった。
「なんだ、反応が薄いな」
「いやまぁ、広いのは十分に解ったよ」
一軒家が二つの広さってのは、本当に十分広いってのは解っている。解っているんだが……沙姫の家を思い出すとやっぱな。こう、凄さが半減しちまうんだよなぁ。
あそこの家は道場に加えて広い庭まであるからな。霞んでしまって反応も薄くなってしまうってもんだ。
「あ……あれ? そういえば水晶がない!?」
目が覚めてすぐに白羽さんの話を聞いていた為、今まで気付かなかった。
胸元に手を当て、付けていた筈のネックレスが無いのに気付いて慌てる。
「水晶? あぁ、それならほら。そこの棚に置いてあるわよ」
深雪さんが指を差す方を見ると、俺が使っているベットのすぐ隣に小さな木製の棚があった。
男性の腰あたりの高さで、ベットに座ったまま手を伸ばせば届く。その棚の一番上に、水晶のネックレスが置かれていた。
「よかったぁ。神社に落としたのかと思った……」
水晶を棚の上から取り、無くしていない事に大きく息を吐いて安堵する。
ただその反面、とても大事な物であるのに、少しの間とは言え忘れてしまった自分に腹が立っていた。
「随分と大事にいているようだね?」
今の慌てようを見て、白羽さんは少し気になったんだろう。
「……あぁ、大切な物だよ。これは」
ネックレスを首に掛け、水晶を手の平の上に乗せる。水晶は青紫色に淡く微かに輝いていた。
「そういえば、深雪さんに傷の手当てをしてもらったお礼をまだ言ってなかった」
胸元に出来ているかさぶたを見て思い出す。
「いいわよ、そんなの。大した事はしてないもの」
深雪さんは両腕を腰に回して、軽い口調で話す。
「でも……」
「いいのいいの。私は自分の仕事をしただけだし。それに、私にお礼を言うなら沙夜ちゃんと沙姫ちゃんに言ってあげなさい」
「……解った、そうする」
これ以上無理にお礼を言おうとしても深雪さんが嫌がるだけだろうし、言っても困らせるなら言わなくていい。
無理して言っても相手が困るなら、それはお礼の言葉じゃないもんな。
「今思ったんだけど、深雪さんの仕事って医療関係?」
「私? 私の仕事は医療じゃないわ。それはオマケみたいなものよ」
「オマケ、ですか……」
って事は、事務とかそんなのかな。さすがにエドみたいにSDCに参加して調査しているとは思えないし。
「深雪君にはね、外部調査をしてもらっている」
「外部?」
白羽さんが口を開き、深雪さんから視線を移す。
「そう。エドはSDCに参加して内側から調べるのとは逆に、深雪君は過去にSDCが行われていたと思われる場所、学校や街等を外側から情報を集めてもらっているんだ」
過去でSDCが行われていた場所って……確か、前に屋上でエドに聞いた話では、8年前に戸ヵ沢で起きた連続殺人事件がSDCの可能性があると言っていた。
という事は、深雪さんは戸ヵ沢の街に行って調べたりしているのか。近くの学校に通うエドと違って戸ヵ沢まで移動するのは大変そうだな。
……戸ヵ沢がどこにあるかは知らないけど。
「そ。だから医療はオマケなのよ。昔に医療関係を噛っていたっていうのもあって、誰かが怪我をした時は私が見たりしてるのよ。今回みたいにね」
「そうか。てっきり俺、深雪さんは専属医とかそんなのだと思ってた」
でも見直してみると、深雪さんは本当に綺麗にレディーススーツを着熟している。見た目では医者よりも働き者のOLって感じがする。
そう思うと、調査で街を歩き回る深雪さんを想像すると営業に回された人みたいだな。
「あと、匕君が持っていた財布と携帯とかも棚に置いてあるからね」
あ、そういえば水晶だけに気を取られて他の物は忘れていた。
もう一度、棚の上を見てみると水晶が置いてあったすぐ隣に財布、携帯、部屋の鍵がまとめて置いてある。
水晶を取った時は焦っていたせいか、全くある事に気が付かなかった。
「咲月先輩、お待たせしましたー!」
雑談もいい感じで一区切り着いた所で、大量の食材を持って台所……正しくは給湯室へ走っていった沙姫が部屋に戻ってきた。
そして、手には料理の乗ったお盆を持っている。
「ほう、いい香りだ」
「確かに美味しそうな匂いがするな」
白羽さんとエドは、沙姫が持ってきた料理の匂いを嗅いで興味を示す。
「咲月先輩の希望通り、がっつりした物を作って来ました!」
その二人を気にも止めずに、沙姫はベットに座る俺の所へ歩いてくる。
そして、じゃん! と効果音を口で言いながら作ってきた料理を俺に見せる。
「おおっ!」
その料理を見て、思わず声が出た。お盆の上には丼茶碗と普通大の皿が一つ。
丼茶碗には香ばしい肉の香りを漂わせ、それだけで涎もの。
皿の方は刺激的な匂いがし、辛味を象徴させるその色は、見た目だけで汗が滲み出てきそう。
「麻婆豆腐と海老チリを作ってみました! ちなみに、麻婆豆腐は下にご飯があって麻婆丼になってます!」
中華料理が得意なだけあり、沙姫は自信満々な表情をしている。
「これは凄いね」
「見たら俺も腹が減ってきたな」
白羽さんはいつの間にか椅子から立ち上がっており、エドと二人で後ろから覗いて沙姫の料理の実力に驚いている。
沙姫の中華料理は沙夜先輩が認める程。普通に料理が出来る人から見ても凄いと思うだろう。
「あ、でもどうやって食おう……」
さすがにベットの上で直に置いて食べる訳にもいかない。零したらシーツや布団が汚れてしまう。
「あぁ、それならこうすれば食べられるだろう?」
そう言って白羽さんはベットの横部分をいじり出すと、折り畳まれて収納されていた板が出てくる。
それをまるで橋のようにベットの両横の手すりに掛けて、テーブルが出来た。
「うわ、病院のベットみてぇ」
なんとまぁ高性能なベットだこと。
前にこんな感じのベットを病院で見た事がある。取り敢えず、これで沙姫の料理が食える。
「はい、咲月先輩! 思いっ切り食べちゃってください!」
沙姫はお盆をテーブルに乗せる。元々は腹が減っていた訳ではないのに、いざ料理を目の当たりにすると香りに釣られて腹が減るから不思議。
しかしこう……作った沙姫だけならともかく、他の人に見られていると食いづらいな……。
「い、いただきま……」
少し食べ辛さを感じながらも、お盆の上にある中華料理店でよく見る、独特の形をした白いスプーンを手に持つ。
確か、れんげって言うんだっけ。このスプーンって。
「どう、沙姫。咲月君、料理食べた?」
さぁ食べようか。とれんげを構えた時に、沙夜先輩が部屋に入ってきた。
れんげを構えたまま、入ってきた沙夜先輩を見る。
「まぁだ。って言うか、たった今食べようとした所に姉さんが来たの!」
「あら、ごめんなさいね。あの、せっかくなので皆さんの分も作りましたので、良かったらどうですか?」
にこりと笑って、沙夜先輩は給湯室の方に手を差し向ける。
「ほう、それは有り難い。では私は頂こう」
「俺も貰う。匕のを見たら腹が空いたし、あいつが食べているのを見ているだけってのは腹が立つ」
「本当っ!? 私も頂くわぁ! あ、確か部屋の冷蔵庫にビールがあったわね」
沙夜先輩の誘いに、調査部の三人は嬉しそうに即答する。それだけ、沙姫の料理が美味しそうに見えたのだろう。
「深雪さん、まだ陽も落ちていないのに飲むんですか……」
「いいじゃない、エド。ビールの一、二本なんて水と変わらないわよ。水と」
「だったら水を飲んだらいいでしょう」
「そんな元も子も無い事を言わないの。本っ当、可愛げないわよねぇ、あんた」
なんて会話をしながらエドと深雪さんは部屋から出ていく。
「あ、待ってください。まだ皿に盛っていないので、今から盛りますね」
その二人の後ろを付いて沙夜先輩も再び部屋を出ていき、給湯室に向かう。
一気に部屋にいた人数の半分がいなくなり、部屋が多少広くなったように感じる。
「さて、夕食にはまだ若干早いが、私も頂いてこようか」
白羽さんは左手に付けていた銀色の腕時計を見る。
「それでは咲月君、今日はゆっくりと休むといい。明日は学校があるからね」
その言葉を最後に、白羽さんも部屋から出ていった。
「あっと言う間に人が減ったなぁ、おい」
六人もいたのに今は俺と沙姫の二人しかいない。まぁ、お陰で視線を気にせずに料理を食えるけどね。
「んでは、今度こそ本当にいただきます。っと」
ずっと持ったままだったレンゲで、ようやく麻婆丼を掬う。そして、最初の一口を豪快に食べる。
「どうですか……?」
料理を食べたのを確認してから、沙姫が感想を聞いてきた。
「いや、相変わらず美味いな。お前の中華は」
その証拠にほら、レンゲが止まりませんよ。
「えへへ、よかった」
感想を聞くと、沙姫ははにかむように笑って椅子に座る。
いやはや、この海老チリもまた美味いな。ピリッと程よい甘辛さと、海老のプリプリとした食感。海老が結構大きいんで食べ応えもある。
「ん? なんだ、顔にご飯粒でも付いてるか?」
料理に夢中になっていたら、ふと沙姫がこちらを見ているのに気付いた。だが、その表情はさっきまでの明るさは無かった。
「いえっ、そうじゃない……んです。そうじゃなくて、その……」
沙姫は弱々しく、そしてどこか申し訳なさそうに口を開く。
「怪我、大丈夫ですか?」
「怪我? あぁ、全然大丈夫だよ。ほれ」
持っていた丼をテーブルに乗せ、元気なのをアピールするように左腕を大きく回す。
「けど、あんなに血が出てて……」
神社の時の事を思い出したのか、沙姫は頭を下げて俯く。
「まぁ、血は多少出たみたいだけど輸血したしな。傷だって大した事ねぇよ。明日にだって学校に行けるし。沙姫が気にする事じゃねぇよ」
「でも、でも! 私を庇って咲月先輩が怪我をしたから……」
沙姫は俯かせていた顔を上げ、少し腫れぼったくさせて赤くなった目を潤ませてこちらを見る。
確かに、気にするなと言われて気にしないのは難しいか。
「沙姫、深雪さんから聞いたぞ。お前、俺が眠ってた間、自分はろくに寝ないでずっとここにいてくれてたんだって?」
「……はい」
それは俺を心配してってのもあるだろうが、自分が怪我をさせてしまったという責任も感じていたからだろう。
沙姫は根は真っ直ぐで素直だからな、人一倍責任を感じていたのかもしれない。
「それだけで十分だって。それに美味い飯も作ってくれたしな」
だからもう、本当に気にするな。と言うように沙姫に笑ってみせる。
「俺はこの通り元気だし、飯だって一人で食える。だから、お前がこれ以上気に病む事はねぇよ」
「ですけど……」
「あのなぁ、そんな顔で心配されてちゃ逆にこっちか気にするっての。もし立場が逆だったら、お前だって心配され過ぎると困るだろ?」
自前の元気で、周りまで明るく賑やかにするのが沙姫の良い所の一つでもある。
それがそんな怒られた後の子供みてぇな顔をされてちゃ、元気なのも元気じゃなくなる。
「……そうですね、解りました!」
沙姫は頭を下げて一度考え込んだあと、俺の言葉に納得して頭を上げる。
その顔は、いつもの笑顔に戻っていた。
「どうせ結局、いつも咲月先輩には言い負かされるますからね。だったら、早めに折れた方がいいですもん」
沙姫は苦笑にも近い笑みを見せる。
「そうそう。お前は元気と食欲だけが取り柄なんだから」
「なっ、失礼ですね! 他にもありますよ!」
「じゃあ何があるんだよ?」
「え? えー、っと……早食い、とか?」
「そりゃ食欲と変わんねぇだろ。食い気ばっかりだな、本当」
つーかそれは取り柄じゃない。特技だ。
「ぐっ……う、五月蝿いですねぇ! いいですよ、もう! それより冷めちゃうから早く料理食べてくださいよ!」
「あははは、悪ィ悪ィ」
他には沙姫は気付いていないかも知れないけど、この切り替えの速さも取り柄の一つだと俺は思うけどな。
ただ単純なだけかも知れないが。
「そういや、携帯はどうなった?」
沙姫の調子が戻ったとは言え、いつまでも怪我の話をする訳にもいかないので話題を変える。
「多分、見付からないだろうから新しいのを買う事にしました……」
肩を落として、沙姫は残念そうに答える。
ただ新しいのに買い替えるのなら嬉しいものなんだが、携帯を無くしたから買い替えるってのは落ち込むよな。
予想外の出費な上に、データも無いからまた友達とかに電話番号やアドレスを聞かなくてはならない。
沙姫は明るくて元気な性格だから、友達とか沢山いそうだしな。もう一度教えてもらって登録するのは大変そうだ。
ま、俺だったら数える位しか登録している人がいないから、無くしてもそんなに痛くない……それ位しか知り合いがいない自分の人望の薄さには多少、心が痛むけども。
「だから明日にでも、携帯ショップに行って買ってこようと思って。夏休みに入っちゃったら教えてもらう機会が無くなっちゃいますから」
あぁ、そうか。明後日にはもう終業式だった。
そうなると友達と会う機会が無くなるから、それまでに新しいのを買ってアドレスとか教えて貰わないと、夏休みの間は連絡取れないもんな。
「なら、買いに行くの付き合ってやるか? 一緒に行くだけだけど」
ここで心配掛けたお詫び、とか言って買ってあげれば格好良いんだろうが、そんな金も度胸も無い。
それに、お詫びなんて口にして言ったら沙姫は『私のせいで咲月先輩が怪我をしたんだから、心配するのは当たり前です!』とか言われそうだ。
「あ、お願いします! 私一人で行くのはちょっと心細いなぁ、って思ってたんですよ」
「じゃ明日学校終わったら行くか。放課後、昇降口で待ってるからよ」
「はい! 解りました!」
沙姫は携帯電話を無くしたのだから、前以て待ち合わせ場所を決めておかなければならない。
教室まで迎えに行くってのもあるけど、また沙姫の友達に面白そうな目で見られそうだからやめておこう。
「沙姫、そろそろ電車の時間だから帰るわよ」
沙姫の名前を呼び、再び沙夜先輩が部屋に戻って来た。この部屋と給湯室を何度も行き来して大変そうだ。
「もうそんな時間? それじゃ咲月先輩、私は帰ります」
沙姫は座っていた椅子から立ち上がる。
「おう。今日は家でぐっすり寝ろ」
「はい。多分、爆睡ですよ」
もう既に、沙姫は少し瞼を重そうにして眠そうだ。無理もない。学校でもずっと起きていたらしいからな。
「沙夜先輩も、心配掛けました」
「気にしないで。咲月君も、元気そうだけどお大事にね」
そんな沙夜先輩も表情には疲れが見えていた。そして2人は部屋から出ていき、自分の家へと帰っていった。
一人になった部屋で、海老チリを掬って海老一匹を一口で食べる。
すると――――。
「……痛っ」
海老の尻尾が歯に挟まった。




