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No Title  作者: ころく
11/85

No.10 読感術

7/23


 ――――るな。


 ――え――――な。


 燃え――な――――ッ。


 ――燃えるなッ!



    *   *   *



「ッ!?」


 勢い良く瞼を見開く。ドクッ、ドクッと心音が五月蝿い。身体も熱く、身体中が汗だらけ。

 思考が低下していたのか、今見上げているのが自分の部屋の天井だと気付くのには、数十秒かかった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 荒い呼吸。脳が酸素を求めて何度も吸い、吐く。天井を見つめて、脳に酸素が充分に行き渡るまで繰り返す。


「天井……? あぁ、天井か」


 自分が見ているのが天井とは気付いていたが、頭がそれを認識していなかった。

 ようやく頭が働き始め、自分が天井を見ている理由。つまり、寝ていた事を思い出した。

 もぞりと布団を除けて上半身を起こす。

 額に手を当て、気持ちを落ち着かせる。指が前髪に触れると、汗で濡れていた。


「また、あの夢か」


 身体が熱く、怠さが残るこの症状が起きるのは、決まっていつもの夢を視た時だ。

 凛と約束した場所が、赤く炎で染まっていく夢。

 ここの所、ほぼ毎日のように視る。これじゃ、いつか身体が保たなくなりそうだ。せっかくバイトも無くなって、体調管理をしっかりしても夢のせいで体調が崩れちゃな……。

 ポタリとシーツの上に、顎から汗が滴り落ちて一つのしみが出来る。


「あつ……」


 夢を視ると身体が熱くなるのはいつもの事だが、今日はいつもに増して熱い。額から手を離して、部屋を見回してみると、エアコンが動いていない。

 しかも、窓は閉めっぱなしで時計の針は昼前を差している。そりゃこんだけ汗も掻くわな。

 どうやら、汗を掻いてた理由は身体が熱いってのもあるが、部屋が暑過ぎなのが一番の理由だったみたいだ。

 いつもはエアコンのタイマーを予約しておくんだが、昨日はし忘れて寝てしまったのか。二度寝をしたら熱中症、または脱水症状を起こしてポックリ逝ってしまいそうだ。

 ま、どっちにしろこの暑さじゃ寝る事はまず無理だけど。

 枕元に置いてあったエアコンのリモコンを取り、電源を入れる。早く部屋を涼しくしたいので、温度を低めに設定する。

 ベットから下りてリモコンをベットの上に軽く放り投げ、汗で濡れて少し重くなったTシャツを脱ぎながら風呂場へ向かう。

 あの夢を視て、熱くなった時はいつもシャワーを浴びて身体を冷ましている。怠くなった気分を引き締める、というのも含めて。

 脱いだ服を洗濯機の中に突っ込んで、風呂場に入る。

 蛇口を回すとシャワーから冷たい水が出てくる。それを頭から浴びて、身体の火照りを冷ます。


「は、ぁ……」


 シャワーを浴びる中、大きく息を吸って吐くと、息が熱く感じた。

 それから数分、立ったままシャワーを浴びて身体の熱が下がった。

 一度頭をシャワーから離して、前髪を手で掻き上げる。

 もう充分に熱は下がったから、シャワーを止めようと蛇口に手をかける。


「あんだけ汗を掻いてたからな。一応、身体も洗っとくか」


 ちゃんと昨日、風呂に入ったんだが、午後に沙姫ン家に行く約束をしている。

 だから、臭かったりしたら失礼なのでもう一回洗っておこう。まぁ、沙姫の家に行ったら組み手をする訳だから、また汗は掻くんだけれども。

 頭と身体を洗って風呂場から出て、バスタオルで頭を拭きながらパンツ一丁で部屋に戻る。

 部屋はエアコンのお陰で涼しくなっており、先程の灼熱地獄から打って変わってオアシスへ。

 脱ぎっぱにしてあった部屋着のジャージのズボンを取って履く。

 寝る時はパンツとTシャツだけど、普段部屋で過ごす時はさすがにズボンを履かないと。

 エアコンの前に移動して、風に当たりながら髪の毛を乾かす。

 濡れた髪の水が床に落ちないように、バスタオルは首に掛ける。


「さってっと、飯は何を食おうかなっと」


 手を腰に当て、風を顔に受けながら考える。

 あまり食欲は湧かないんだが、午後は沙姫と組み手をするから何か食っておかないと体力が保たない。

 とは言っても、結局は何を食うかは決まってる訳で。

 最近は買い物に行ってなかったから冷蔵庫は淋しくなっている。いや、買い物に行ってもあまり買わないから寂しいのはいつもなんだけどね。

 今日の朝飯兼昼飯のメニューはいつも通り、作り置きして冷凍してある野菜炒めでござい。

 ここ最近は野菜炒めブッ通し。テスト期間中からこれだから……うわ、一週間も野菜炒めオンリーの食生活だ。

 自分の事ながら、軽く引いてしまった。自分でも一週間も野菜炒めしか食ってないのに、今初めて気付いたわ。

 でもこれはこれで……良い意味での偏食なんじゃないか?


「あ、そろそろ飯食わないと」


 時計を見ると正午過ぎになっていた。

 二時に沙姫ン家に行かないといけないから、それまでに食ったモンを消化出来るように余裕を持たないといけない。

 飯食った後すぐに組み手をして、具合悪くなってリバースなんかしたら終わりだ。


「うぅ、さぶっ」


 長く風に当たり過ぎて、今度は逆に寒くなってきた。

 新しいTシャツをタンスから出して着る。バスタオルは余っているハンガーに掛けけておく。

 にしても寒いな。と思ったら、早く部屋を涼しくしようとエアコンの設定温度を下げたんだった。

 ベットの上からリモコンを取って、設定温度をいつも通りの温度に設定し直す。

 さて、野菜炒めオンリー生活の記録を更に更新しようか。

 再びリモコンをベットに投げ、部屋から出て冷蔵庫のある流し場へ行く。部屋を冷やし過ぎてしまったせいか、部屋から出てエアコンの効いていない流し場へ行くと、丁度良い暖かさだった。

 けどきっと、すぐに暑くなるんだろうな。身体が冷えてるから、暖かく感じるのは最初だけで。


 冷蔵庫の上の扉、冷凍庫から冷凍保存をしておいた野菜炒めを取り出す。

 野菜炒めは作った後、冷ましてからサランラップに包んで冷凍してある。

 タッパーとかを使えば詰め込んで冷凍庫に入れるだけで手間は無いんだが、サランラップだと一食分に分けれる。

 だから、食べる時に冷凍庫から取り出してチンするだけで済むのだ。

 学校ある日で、寝過ごして時間が無い時なんかはすぐに食べれるから助かったりする。

 ……まぁ、遅刻しそうな時は大概朝は抜いているけども。


「ありゃ、もう少ししか無いな、野菜炒め」


 野菜炒めを取り出した際に冷凍庫を覗いてみると、野菜炒めは残り二つしかなかった。

 かなり作り置きしたんだけどな。やはり、一週間も続けて食べてれば無くなるか。

 冷凍庫のドアを閉めて、棚から皿を1つ取って冷凍野菜炒めを乗せる。当然、このまま食卓へ並ぶ訳ではない。

 ちゃんとレンジで解凍します。

 レンジに入れてスイッチを押し、解凍し始める。その間に冷蔵庫から昨日の残りのご飯を取り出しておく。

 ご飯を取り出したら他にやる事はなく、解凍が終わるのをレンジを見つめて待つ。

 大して動いてもいないのに、早くもこの場が暑くなってきた。

 ほらな、思った通り暖かく感じるのは最初だけだ。あ、なんかアレだな。考えてみたら俺も解凍されてるみたいだな。

 エアコンの効いている部屋が冷凍庫で、冷えて寒くなった俺が野菜炒め。で、この暑ーい流し場がレンジの中。そんで暑く感じてきたら解凍終了、ってか。

 不味そうな野菜炒めだな、と苦笑していたら、チーンと解凍の終了音が鳴った。


「はいはいっと」


 レンジから野菜炒めを取り、こぼさないようにラップを丁寧に開いていく。

 そして、一気に野菜炒めをご飯の入った器に入れる。

 そう。皿の上にではなく、ご飯の上に野菜炒めを盛る。これなら解凍した時に使った皿は汚れないで済む。

 ラップはゴミ箱に捨て、皿は流し場に置いておく。

 野菜炒め丼となったご飯の器と箸を持つ。


「今日は何で食おうか」


 冷蔵庫を再び開けて、数ある調味料を漁る。

 さすがに一週間も同じ味の野菜炒めを食べれはしない。三食目あたりで飽きてくる。なので、最近は色んな物を野菜炒めに掛けて食べている。

 昨日は青じそドレッシングを使ったから、今日は……。


「おし、マヨネーズでいくか」


 そういや調味料の王道、マヨネーズはまだ試していなかった。

 マヨネーズを野菜炒め丼にぶっかけて、冷蔵庫に戻す。部屋に戻ると、温度は丁度良くなっていた。

 本当、人間って少しでも暑かったり寒かったりするだけで文句言うよな。俺もバリバリその一人だけどさ。

 野菜炒め丼をこぼさないようにと一度テーブルに置き、床に座る。


「いただきます、と」


 手を合わせて野菜炒め丼を食べる。

 さすがマヨネーズ。しっかりと野菜炒めとマッチしている。

 昨日の夕飯に試みた青じそドレッシングはミスマッチだったからなぁ……。

 不味いんだけど残すのは勿体ないからって無理矢理に食った。そのせいか、昨日よりも野菜炒め丼が数倍美味く感じて箸が進む。

 ペロリと野菜炒め丼を平らげて、ベットに寄り掛かりながら一息つく。腹休みをしつつ、リモコンでテレビの電源を入れて暇潰しをする。

 別に観たい物がある訳でもないので、テレビが映った時のチャンネルのままリモコンを置いた。

 テレビに映っているのは、この時間では有名なバラエティー番組でサングラスを掛けた司会が出ている。

 テーブルに置いてあった携帯電話を取り、メールが来ていないか確認をするも、誰からも来ていなかった。パタン、と携帯電話をたたんでテーブルに戻す。


「んぁー……」


 その場で両手と両足を伸ばして軽くストレッチ。力を抜いて、だらりと両手両足が床に落ちる。

 あー、快適快適。この脱力感と満腹感がなんとも言えない。

 このままダラッと約束の時間まで時間を潰してもいいんだが、一人暮らしってのは時間がある時にやらなきゃならない事が結構あるんだな、これが。

 よっこらせっと、爺臭い言葉を吐きながら立ち上がる。空になった器を持って、流し場へ行く。器に汚れがこびり付かないように、中に水を入れる。

 冷蔵庫を開け、扉の内側の部分からお茶のペットボトルを取り出して冷蔵庫を開けっ放しでお茶を飲む。

 ゴクゴクと喉を鳴らしながら三口程飲んだ後、ペットボトルを冷蔵庫に戻して扉を閉める。


「さぁて、働きますか」


 首の左右に動かして間接をパキポキと鳴らしながら、風呂場に向かう。向かった理由は洗濯。

 時間がある時にやっておかないと、どんどん溜まるからなぁ。しかも、季節が季節だからすぐ汗臭くなって臭ったりするから大変。

 さっき脱いだTシャツも一緒に溜まっていた洗濯物を洗濯機に突っ込む。

 洗剤を入れてボタンをピッピッピ。ゴウン、と床に響くような機械音が鳴って洗濯物を洗濯機の中で回され始める。

 これで洗濯物は洗い終わるまでは放置でOK。この間に他の事をやる。一人暮らしって言うか、生活の基本だ。

 再び流し場に戻り、先程の水を入れて置いた器をささっと洗う。容器と箸だけなので洗うのには時間は掛からない。

 洗った容器の水を軽く切ってから、乾いたタオルで拭き取って棚に仕舞う。もちろん箸も。

 容器を拭いたタオルで濡れた手を拭き、流し場の隅に置いてある炊飯器から釜を取り出す。

 そして、屈んで冷蔵庫の隣に置いてある大き目のプラスチックの箱を開ける。その中には米が入っている。


 仕送りで母さんがよく送ってきてくれるので、米だけには困らない。親戚が米を作っていて、よく貰っていたのを覚えている。

 その一部を俺に送ってくれているんだと思う。ただ、不規則な生活でよく食事を抜いたりしているので、余ったりして困る時もあったりする。現に今も余ってたりする。

 自分で自分の事を貧乏学生貧乏学生と言っているけど、贅沢な悩みを持ってるもんだ。


「夜、朝、昼だから……一カップ半ぐらいか」


 米掬いとして使っている紙コップで炊飯器の釜に入れる。

 プラスチックの箱の蓋を閉め、立ち上がって釜の中に水を入れる。米を研ぐとシャッ、シャッと独特な音がした。

 入れた水が白くなり、米も一緒に流さないようにしながら水を釜から流し出す。それを二度程繰り返して、適量の水を入れて炊飯器に入れる。


「予約時間は七時でいいか」


 沙姫の家に行くのは二時だから、いくらなんでもそれぐらいの時間には帰ってきてるだろ。

 炊飯器の予約タイマーを七時にセットして、これで仕事終了。やる事は終えたので部屋に戻る。


「あー、しまった。テレビつけっ放しだった」


 さっき見ていたバラエティー番組は終わっていて、今は別の番組がテレビに映っている。テレビの右上に表示されている時間を見ると、一時を過ぎていた。

 そろそろ行く準備をするか。

 以前、図書館に勉強しに行った時に使ったのと同じショルダーバッグに、替えのTシャツと運動用ジャージのズボン、タオルを詰め込む。

 部屋着のまま沙姫ン家に行く、なんてのは出来る訳が無いので着替える。

 組み手をしに行くと言っても、一応女の子の家だ。オシャレをするとまではいかないにしても、それなりの服装で行くべきだろう。

 穴の空いた靴下なんか履いていったら恥ずかしいったらありゃしない。穴が空いていないかをしっかり確認して、靴下を履く。

 テレビを見て時間を確認すると、バラエティー番組はテロップが流れ始めていた。

 ちょっと早い気もするけど、そろそろ出ようか。遅れて着くより多少早く着いた方がいいだろうし。

 ショルダーバッグを肩に掛けて、テレビとエアコンの電源を消す。出窓の鍵を閉めてあるかもチェック。

 盗まれるような物は何も無いが、用心として一応。


 携帯電話と財布、ネックレスも付け忘れていない。靴を履いて外に出て、ドアの鍵を閉める。一度ドアノブを回して鍵が掛かったか確認。

 よし、それじゃ行きますかね。

 エレベーターを使って一階まで降りて、マンションから出る。出た途端、むわりと熱い空気が肌に纏わり付く。太陽さんは今日も頑張って働いているようだ。

 以前に沙姫ン家に行った時は、道が分からず一旦スーパーまで戻ってから自分の部屋へ戻った。だが、ランニングついでに周辺の道を調べたお陰で今回は部屋から沙姫ン家までの道のりが分かり、最短距離で行ける。

 スーパー経由で行くと、片道で二十分ぐらい掛かってしまう。それが最短距離だと五分程短縮出来る。掛かる時間的に、距離は駅前まで行くのと同じ位か。


 途中、行き道で見つけたコンビニに寄る。コンビニで時計を見てみると、やはり少し早く出てしまったようなので軽く立ち読みをして時間調整。

 こっちの頼みに付き合ってもらうのに手ぶらで行くのもどうかと思い、飲み物を二本程買ってコンビニにさようなら。

 一つは組み手をするからスポーツドリンクを、もう一つはなんとなくオレンジジュースを買った。

 スポーツドリンクは二リットル、オレンジジュースは一.五リットルもあるので、合計三.五キロ。四捨五入すれば四キロ。ずっしりとくる重さだ。

 あとは何処にも寄らずに沙姫の家まで一直線に向かう。

 暑い中、黙々と歩いて沙姫の家に辿り着いた。しかし、ここに来るのは二度目だけど本っ当にでかいし広いな。

 沙姫の家の塀が見えても、入り口まで少し歩かなきゃならない。塀に沿って歩き、入り口の門の前に着く。

 扉が開いていなかったらどうしようかと思っていたが、既にちゃんと片方だけの戸が開いてあった。

 チョロっと門の周りを見回してみても、呼び鈴らしき物は見当たらない。となると、中に入って家の前まで行かないとダメなようだ。

 お邪魔しまーす、と小さく言いながら門をくぐって敷地内に入る。

 石畳の上を歩いて玄関の前まで行き、呼び鈴を探す。が、探すと言う程探しもせずに簡単に見付かった。

 何故か呼び鈴を押す時は変に緊張してしまう。スーハーと一度深呼吸をしてから、呼び鈴を押す。ポチッとな。


 すると、ピンポーンという軽快な音ではなくて、ジリリリリリッと昔の黒電話のような音が鳴った。

 なんか、一昔前の呼び鈴の音だな。まぁ、家も古風だから合ってるっちゃ合ってるんだけどね。

 少し待っていると、家の中から『はいはーい』と声が聞こえてきて、廊下を走る足音が近づいて来る。

 玄関のドアのガラスに、人影がうっすらと映ったと思ったらカラカラとドアの引き戸が内側から開けられる。


「いらっしゃい、咲月君」

「ども」


 中から出てきたのは沙姫ではなく沙夜先輩だった。

 軽く頭を下げて挨拶をする。


「さ、中に入って。今日も暑いから来るの大変だったでしょう?」


 沙夜先輩に言われ、玄関で靴を脱いで家にあがると、中はひんやりと外よりも空気が冷たい。

 はー……やっぱり涼しいな、この家は。明らかに温度差を肌に感じる程に涼しい。冷房を使っていないでこの涼しさだもんな。

 俺の部屋じゃあり得ない話だ。きっと今頃はサウナ状態になってるんだろうよ。


「沙姫ーっ、咲月君来たわよーっ!」


 沙夜先輩は廊下の奥へ大きめの声を出して沙姫を呼ぶ。


『――――――ッ!』


 何を言っているのか解らないが、奥の方から沙姫が何やら叫んでいるのが聞こえる。

 そして、聞こえると思ったら今度はドタドタと階段を降りる音が。


「ホンット、落ち着きないわね」


 沙夜先輩はおでこに手を当て、小さい溜め息を一つ。

 直後、慌ただしく廊下の奥から沙姫がやってきた。


「は、早かったですね。咲月先輩」

「まぁな。遅れないように部屋を出たし」


 早く出過ぎたからコンビニにで少し立ち読みした事は言わなくてもいいか。


「呼び鈴が鳴ったんだから咲月君が来たって分かるでしょ? なんですぐ降りて来ないのよ」

「だって、呼び鈴が鳴ったからって咲月先輩が来たとは限らないじゃん」


 沙姫は、沙夜先輩が言う事を口煩く思ったのかちょっと反抗的な口調で返す。

 そりゃ確かに沙姫の言う通り、呼び鈴が鳴ったから俺が来たって確証はないけどよ……それでも時間で予測が付くでしょーよ。


「アンタねぇ……」


 沙姫の態度がカチンときたのか、沙夜先輩の声に重みが入り始めた。

 沙姫も『何よ?』と言うように口を釣り上げている。


「あぁそうだ。ほい、コレ。手ぶらはどうかと思って買ってきた」

「何ですか、これ?」


 コンビニで買ったジュースのペットボトルが二本入った袋を沙姫に差し出す。

 袋を受け取り、中を覗き込む沙姫。


「あ、ジュースだ」

「暑い中で動くからな。飲みモンは欲しいと思ったからよ」


 袋を渡して手が軽くなった。三キロってのは地味に重い。


「いいんですか?」


 視線を袋から俺に変えて聞いてくる。


「道場を使わさせてもらうし、組み手にも付き合ってもらうんだからこれくらいはな」

「それじゃ、有り難く頂いちゃいます。あ、ぬるくならない内に冷蔵庫に入れてきますね」


 沙姫は袋を持って、駆け足みたいな足取りで台所へ入っていった。

 なんか喧嘩に発展しそうな雰囲気だったからな。割り込んでジュースを渡して正解だったようだ。

 また姉妹喧嘩で巻き込まれるのは勘弁なんで。


「ごめんね、咲月君」


 いきなり隣にいた沙夜先輩に謝られる。


「え? 何がです?」

「今、気を使ってくれたでしょう?」


 沙夜先輩に言われ、一瞬ドキリと心臓が鳴る。


「あそこで咲月君が入ってくれなかったら、きっと口喧嘩になっていたと思うから。ありがとね」


 ありゃりゃ。なるべく自然に会話を持っていけていたと思ってたのに、沙夜先輩にはバレてたか。

 ありがとう、なんて礼まで言われたら、なんか恥ずかしい。


「いや、そんな別に……俺はまた姉妹喧嘩に巻き込まれたくなかっただけですよ」

「そうね、この前は咲月君も巻き込んじゃったものね」


 今思えば低レベルな喧嘩だったと、沙夜先輩はクスリと口を手で押さえて笑う。


「咲月君がそう言うなら、そう言う事にしてあげるわ」


 いえ、そう言う事にしておくも何も、それが本心なんですけど……まぁ正直、二人が喧嘩して雰囲気が悪くなるのは嫌だったけどさ。


「私達も台所に行きましょうか。暑い中歩いて来たんだから、喉乾いてるでしょ?」


 そう言って沙夜先輩も台所の方へと足を向ける。


「いえ、今日は組み手をしに来たんで、出来れば早く始めたいんですけど……」

「あぁ、そうだったわね。沙姫ー?」


 足を止めて、沙夜先輩は台所の方に向かって沙姫の名前を呼ぶ。


「なにー?」


 呼ばれて、沙姫は台所の入り口から頭をひょっこり出してきた。


「咲月君、組み手を始めたいらしいから着替えて来なさい」

「え、もうですか? ジュース飲まないんですか? 今入れようとしてたのに」


 沙姫はお預けを食らった子供のような顔をしている。

 と言うかお前。ジュースを冷蔵庫に入れに行くっつって台所に行ったのに、なんで飲もうとしてんだよ。


「ほら、早く。元々そういう約束だったんでしょ?」

「はーい。もう、わかりましたよぅ」


 渋々と沙姫は台所から出て来る。


「咲月先輩、道場で待っててください。着替えたら行きますので」


 そう言って沙姫は、階段を上って二階にある自分の部屋へと戻って行く。


「じゃ、咲月君。道場に行きましょうか」

「あ、前に一度使わせてもらったんで一人で行けますよ」


 ここから道場への渡り廊下の入り口が見えるし。


「そうね。この間使ったから分かるわよね」

「そうそう、沙夜先輩。どっか着替えれる場所ないですかね? 俺もこの格好のままってのも」


 今のままでも組み手を出来ない事もないんだけどね。

 けど、ジーパンで組み手をして汗を掻いたらペタペタくっ付くし、重くなる。

 それに、女には分からないだろうけどトランクスがたまに食い込んだりしちゃう。

 あれは一度なると本当に気になっちまうんだよ。


「それなら道場の右奥に小さいけど更衣室があるから、そこでいいかしら? 私達は使っていないから少し汚かったりするけど……」

「いえいえ、全然OKですよ」


 着替える場所に更衣室を貸してくれるのに、文句なんて出る訳がない。これ以上に何を望もうか。


「それじゃ、組み手頑張ってね。後で飲み物持っていくから」


 じゃあね、と一度だけ手を振って沙夜は台所に入っていった。

 さて、道場に行こうかね。沙姫が来る前に着替えないと。

 渡り廊下に出る戸の前まで来た時、台所から沙夜先輩の声が聞こえてきた。


「沙姫ったらジュース出しっ放しじゃない!」


 ……俺はもう姉妹喧嘩を避けれるアイテムは持っていない。次にまたさっきみたいになったら、今度は回避方法がないぞ。

 心で喧嘩が起きない事を祈りつつ、道場の中に入る。


「えっと……右奥、だっけ?」


 確かに、奥の方に引き戸が右側左側両方にあるのが見える。右側の引き戸を目指して歩く。

 途中、上座に掛けられている掛け軸が目に入って気になった。

 その掛け軸には、『静心制意せいしんせいい』と達筆で書かれていた。


「静心制意……?」


 普通は誠心誠意、だよな? 真心を込めましょうねーって意味の。

 けど、これは静心制意と書かれていて字が違う。読みは多分同じだと思うけど。


「っと、あぶね」


 掛け軸に気を取られ過ぎて戸に頭をぶつける所だった。

 掛け軸に書いてある言葉については、後で沙姫か沙夜先輩にでも聞いてみればいいか。

 木製の引き戸を開け、更衣室の中に入る。

 すると、中にはロッカーなんて物は無く、木で出来た棚が壁際にたくさんある。まるで一昔前の学校のみたいだ。


「おっと、見入ってる場合じゃなかった。着替えよ」


 肩に掛けていたショルダーバッグを床に置き、中からジャージのズボンとTシャツを取り出す。

 上のTシャツは着替えなくてもいいと思うが、今着ているのは私服用で結構気に入っている。それに少し高かった。

 組み手をやって伸びたり破けたりしたら嫌なので、以前に安く買った無地のTシャツに着替える。

 下もジーパンからジャージに履き替えて、靴下は脱ぐ。

 道場で靴下を履いたまま動き回ってみろ。確実に滑って転ける。

 下手に転けたりしたら痛いぞぉ。打った所がアザになったりするからな。

 てな訳で、靴下は脱ぐ。それに昔っから組み手をやる時は裸足だった。


「しっかし、沙夜先輩は汚いって言ってたけど……」


 俺の部屋より綺麗だぞ。

 あまり使用してないからかカビ臭さはあるものの、しっかりと掃除されている。

 今だって室内にある窓も開けてあって、換気もしているし。これで汚いって言うなら、俺の部屋はもう物置小屋だよ、物置小屋。

 やっぱり女の子ってのは綺麗好きなんだな。


「咲月先輩、お待たせしまし……あれ? またいない?」


 道場から沙姫の声が聞こえてきた。着替え終わって来たようだ。


「いやでも……この前は暗闇の中に隠れていたから、今度は姿消して光の中に隠れてるとか?」


 そんな事を言いながら沙姫は片手を前に出して、見えない何かを触ろうと手を左右に動かす。


「俺はカメレオンかっつーの」


 更衣室の戸を開けて、沙姫にツッコむ。


「あ、いた」

「いた。じゃねぇ。俺はどこのビックリ人間だよ」


 更衣室から出て、沙姫の近くまで歩み寄る。

 裸足なので、歩く度にペタペタと足音がする。床が少し冷たく、それがちょっと気持ち良かったり。


「や、やだなぁ咲月先輩。冗談に決まってるじゃないですかぁ!」


 何かを触ろうと前に出していた手を大きく振って笑う沙姫。冗談と言っているのに慌てているように見えるんたが。


「えーと……あ、咲月先輩も着替えたんですね」


 少し目を泳がせた後、沙姫は俺の服装が替わっている事に気付く。

 こいつ、あからさまに話題を変えたな。


「あぁ、動きやすいようにな」


 まぁいいか。いくら何でも本気で言う程、お馬鹿ちゃんじゃないだろ。……多分。

 沙姫は俺と違い、上は道着を着ていて本格的だ。下にはスパッツを履き、まさに運動をする格好。


「さてと、準備運動でもするか」


 両手の指を絡ませ、手の平が上を向くようにして腕を伸ばす。


「そうですね。まずは身体をほぐさないと」


 沙姫も前屈をしてストレッチをする。

 組み手だって下手をすれば怪我をする。そうならない為にも準備運動は欠かしてはならない。

 十分程、沙姫と二人でストレッチをして身体をほぐす。


「よし、これぐらいでいいかな」


 最後に首を軽く左右に回してストレッチを終了させる。

 歩いて来たからか、少しだけど身体も温まっている。


「私もいいですよ。準備OKです」


 沙姫はぐぐーっと背伸びをして、ふぅと一息だけ吐く。


「そんじゃ、始めるか」


 二人は道場の真ん中へ移動し、三メートル程度の間を開けて向き合う。


「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 同じ言葉を二人が同時に発し、その言葉が一つに重なる。

 そして、言葉を発するのと一緒に一礼をする。

 組み手や練習と言っても、相手への礼儀は忘れてはいけない。小さい頃に親父から五月蝿く言われていた事の一つ。

 いつも言ってくる親父はウザかったけど、その言葉には当時まだ幼かった俺でも納得していた。

 それによく、しっかりと礼儀が出来る奴は強いと言う。礼に始まり礼に終わるって言葉があるくらいだ。


「んっ!」


 沙姫はパンッと両手で頬を一度叩き、気合いを入れる。


「さぁ咲月先輩、どこからでも!」


 沙姫は足を開き。重心を落として構える。

 それは以前、SDCで数人の男に囲まれていた時に見たのと同じ。

 しっかりと腰を落とし、重心にもブレが無い。無駄の無い、いい構えだ。

 一度、大きく空気を吸って深く息を吐く。


「……よし」


 こちらも足を肩幅程開き、半身にして構える。腰を落とし、足は床をしっかりと踏む。


「行くぞ」


 床を強く蹴り、勢いを付け間合いを詰める。

 その勢いに乗せて、まず手始めに沙姫へ右手で掌打を放つ。


「わわっ」


 しかし、沙姫は掌打を身を後ろに引いて簡単に避ける。

 そこを更に踏み込み、左手で二撃目の掌打を続けて繰り出す。


「わっと!」


 だが、それも一撃目と同じく身を引いて軽く避けらた。

 上手く避けている。後ろに下がりながらも自分の間合いの維持もしっかりしている。思っていた以上に沙姫は腕が立つようだ。

 更に続けて前蹴り、肘打ち、もう一回掌打を出してみたもののスルリと避けられた。

 初めの掌打二発は避けられてもいいと思って出したが、その後の3発は当てるつもりでやった。

 なのに、こうまで簡単に避けられると悔しくなってくる。


「んなくそっ!」


 少しムキになって避けられた掌打の勢いを使って回し蹴りを放つ。

 が、しかし、それも避けられ、さらには上手く側面に入り込まれた。


「やば……」


 一旦下がって間合いを取りたい所だが、回し蹴りを放ってしまったので床に着いている足は軸足1本だけ。

 そして沙姫は左手で俺の腕を、右手は肩を掴んで右斜め下に押し込むように力を入れ、軸足を足で左方向へ払う。

 するとアラ不思議。目の前にいた筈の沙姫が消えて道場の天井が見える。

 ――――ズダンッ!

 道場に大きな音が響き渡り、視界は天井から道場へと忙しく変わる。


「大丈夫ですか、咲月先輩?」


 いやー、思いっきり豪快に投げられたわ。

 結構凄い音がしたもんだから沙姫が心配して聞いてくる。


「おう、全然大丈夫だ」


 派手に投げられはしたものの、痛みはまったくない。

 沙姫に手を引かれながら立ち上がる。


「沙姫が投げた時に掴んだままにしてくれたからな」


 そのお陰で足から落ちて、頭を打たなくて済んだ。沙姫が俺に気を使ってくれたんだろう。


「よしよし、良い感じだ。この調子で続けよう」


 気持ちいい程綺麗に投げられはしたが、これなら感覚を取り戻すには丁度良さそうだ。

 沙姫は中々できるし、俺に対して遠慮もしていない。これなら俺も遠慮しないで出来る。


「もういっちょ行くぞ」


 沙姫に向かい、再び構える。


「どうぞどうぞ、いくらでも」


 構えた俺に対して、沙姫も構えて迎える。その顔には少し笑みが浮かんでいた。

 どうやらさっきの投げで、ちょっといい気になっているご様子。

 別に腹が立った訳では無いが、投げられっ放しってのもどうかと。

 よし、なら次は投げを狙おう。直接投げに行くとバレやすい。当て身での牽制を二、三発絡めてから掴みに入ろう。


「ふっ!」


 先程と同じく、俺から攻めて沙姫が迎える形で組み手が再開される。




    *   *   *




 それから一時間弱。二人で休まずに組み手をやり続ける。


「おおぉっ!?」


 沙姫の胸元を目がけて突きを放つも、沙姫はそれを手で払い、自分自身の突きの勢いを利用されて投げられた。

 ズダン、と道場にまた同じ音が響く。これで天井を見たのは何度目だろうか。


「っかー、まぁた投げられちまったぁ」


 投げられて道場の床に寝た状態で大の字になる。


「はぁ、はぁ……さっきは咲月先輩に投げられましたからね。お返しです」


 息を切らせながら、えへへと笑う沙姫。

 一時間以上ひたすら組み手をやれば当然息も切れる。俺だってゼェゼェ言ってるし。


「何がお返しだよ。俺より明らかに投げた回数が多いクセに」


 今の所、沙姫に一体何回投げられたよ? 優に十は超えているぞ。

 俺はその半分も沙姫を投げれていない。

 息を切らせながらも身体を起こして立ち上がる。ずっと動き回っていただけあって、身体が少し重たく感じる。


「ここいらで休憩しよう、さすがに疲れた」

「そ、そうですね。私も疲れました」


 そう言って沙姫は笑うも、疲れていて笑顔に元気がない。

 ヨタヨタと歩いて壁際の床に置いていたタオルを拾って顔の汗を拭く。


「咲月先輩も使います? 二つ持ってきましたから」


 拾ったタオルの一つを沙姫に差し出される。


「あぁいや、いい。自分で持ってきたから」


 俺も沙姫と同様、体力が無いのか少し覚束無い足取りで更衣室に行き、ショルダーバッグからタオルを取り出す。

 ついでに携帯電話で時間を見てみると、午後三時を過ぎていた。


「一時間ちょいか、意外とやってたなぁ」


 携帯電話をバックの上に置き、タオルでわしゃわしゃと顔の汗を拭く。

 首周りの汗を拭きながら更衣室を出て道場に戻ると、沙姫は床に座って壁に凭れ掛かっている。


「おい沙姫、運動してからすぐ座ると痔になるぞ」

「なんですかソレ。って言うか、女の子は痔になんてなりませーん」


 誰からかは忘れたが、昔どっかで言われた覚えがある。

 余程疲れたのか、声に張りが無い。疲れプラス暑さで喋るのが面倒なんだろう。

 つーか、痔は男女関係無しに万人がなるっての。


「暑いからって適当に答えるなよ」


 まぁ、確かにすんごく暑いけどな。元々気温が高い上に、動き回った後じゃ尚の事。

 なんかこう、身体の熱がオーラみたいなのが出てるような感覚がしたり。

 今が冬だったら絶対身体から湯気が出てる。


「そうだ、咲月先輩。渡り廊下を出てすぐに水道があるんですよ。そこでタオルを水で濡らして使えば、少しは暑さを紛らわせられるんじゃないですか?」

「そうだな。結構汗を拭いたし、一回絞ってくるか」


 冷たいタオルで拭いた方が気持ちいいし。


「じゃ、私のも一緒にお願いします」


 沙姫は自分のタオル手に持ってを俺の前に出す。


「お前、初めっから俺に行かせるつもりだっただろ?」


 いきなりタオルを濡らせばー、なんて言い出すからなんか変だとは思ったんだよ。


「だって動きたくないんですもん」

「……ったく」


 沙姫のタオルをぶっきらに受け取り、渡り廊下に出る戸へ。

 年上をパシリに使うたぁ、いい度胸だよ、全く。

 なんだか少し沙夜先輩の大変さが少し分かったかも。

 でもそういや、俺も先輩に昼飯を買わせに行かせた時あるな。いや、あれはジャンケンで負けた罰だからパシリじゃない。

 道場を出て渡り廊下に出る。


「沙姫は出てすぐって言ってたけど……」


 辺りを見回してみると、戸から出てすぐ左手にあった。

 蛇口を回して水道から水を出し、タオルを濡らして絞る。意外と出てくる水は冷たい。

 濡らした自分のタオルは首に掛け、次に沙姫のタオルを水に濡らす。


「まったく絞らないで持って行ってやろうか」


 とは口で言うものの、ちゃんとタオルを絞ってやる。

 蛇口を閉めて水を止めて、道場の中に戻る。

 沙姫は変わらず壁に凭れ掛かったまま。


「ほらよ、濡らしてきてやったぞ」


 少し強めに絞り、丸めたタオルを沙姫に投げつける。


「あいたっ!」


 すると、タオルは見事に沙姫の頭に当たった。


「何するんですか、咲月先輩!」

「濡らしてきてやったんだ。礼は言われても文句を言われる覚えはねぇぞ」


 沙姫はむーっ、と顔を膨らませる。


「ありがとうございますぅ」


 膨れっ面で礼を言い、タオルが当たった部分を手で撫でながら、沙姫は床に落ちたタオルを拾う。


「冷たくて気持ちいー」


 タオルを顔の上に乗せる沙姫。

 息をする度に、口の部分のタオルが膨れたりへこんだり。

 濡れタオルで暑さが多少紛れたのか、声の張りが戻ってきた。現金な奴だな。


「なんて格好してるのよ、沙姫」


 道場の入り口から声が聞こえ、振り向いて見る。


「あ、姉さん」


 顔からタオルを取って、沙姫は声の主を呼ぶ。

 沙姫が今言った通り、居たのは沙夜先輩だった。


「お疲れ様。飲み物持ってきたわよ」


 沙夜先輩は飲み物とコップを乗せてお盆を持って、道場の中に入ってくる。


「やたっ、姉さん気が利くぅ!」


 さっきまでの疲れきっていた沙姫はどこに行ったのか、立ち上がって沙夜の所まで走って行く。

 声の張りだけじゃなく、表情に元気まで戻った。

 本当に現金な奴だな、お前は。


「咲月先輩、どっち飲みます?」


 お盆の上を見てみると、飲み物はスポーツドリンクと縦長のガラス容器に入った麦茶が置いてあった。


「俺は麦茶がいいな」


 スポーツドリンクでも良かったんだけど、それは俺が買ってきたヤツだった。

 自分が買ってきたのを飲むってのは、別にいいんだろうがちょっと抵抗があったので麦茶に。

 それに純粋に麦茶の方が飲みたかった。

 コップに麦茶を注ぎ、沙夜先輩が持ってくれた。


「はいどうぞ、咲月君」

「ども、ありがとうございます」


 コップを受け取って麦茶を飲む。大きめなコップなので、結構な量が入る。

 一時間も組み手をしていて、喉が乾いていたので一気に飲んで半分ぐらい無くなった。

 麦茶はすごく冷えており、喉から胃へ冷たいのが通っていくのが分かる。


「姉さーん、おかわり!」


 俺より先にジュースを注いでもらった沙姫は、一気飲みで全部飲み干して更にコップを突き出しておかわりを求めている。


「はや……」


 以前にファミレスで昼飯を食った時に薄々感じてたけど、沙姫ってもしかして大食いの早食いか?

 大盛りカルボナーラだけじゃなく、前に軽々とカレーを二杯食ってたし、肉まんを貰った時も五個と一人分にしては多かったしな。


「それぐらい自分で入れなさい。まったく、本当に食い意地ばっかり……」


 呆れた表情で沙姫を見る沙夜先輩。

 その言葉を聞いて、沙姫が普段から結構食っている姿が簡単に想像出来る。


「はは……」


 食ってばっかの沙姫の姿と、沙夜先輩の姉の大変さを想像して苦笑いが出てしまった。

 その苦笑いを隠すように麦茶を一口飲む。


「道場の真ん中で立ったまま休憩もなんだから、端に行って座りましょうか」

「そうすね。俺も座って休みたいし」


 立ってはいるものの、足にあまり力が入らない。

 沙夜先輩はお盆を持って壁の方へ歩いていく。


「あ、ちょっと姉さん! 私まだ注いでる途中だってば!」


 お盆を持っていかれ、ペットボトルとコップを持ちながら慌てる沙姫。


「端まで移動するだけ。別に片付けるんじゃないわよ」


 沙姫は移動する沙夜の後ろを急ぎ足で追い掛ける。

 なんでもない会話なんだろうけど、なんかのほほんとするな。

 そんな事を考えながら、沙夜先輩と沙姫を追って壁際まで移動する。壁に寄り掛かり、その隣に沙姫が座る。そして、沙夜先輩は対面という形になった。

 冷たい飲み物に濡れタオル、それに風も入り口から時折そよいで来るので十分に涼しい。

 残り半分の麦茶を飲み干し、沙夜先輩から二杯目の麦茶をもらう。


「で、どう? 沙姫はちゃんと咲月君の相手になってるかしら?」


 コップに麦茶を注ぎながら、沙夜先輩が聞いてきた。


「そりゃもう、十分過ぎる程に。バッタンバッタン投げられましたよ」


 ははっ、とまた苦笑いをする。

 何回も投げられはしたが、沙姫が腕や服を掴んだままにしてくれたり、ちゃんと受身を取っていたので疲れはしてるが身体へのダメージは殆んど無い。


「派手な音が何度もしてたものね。あれは咲月君だったんだ」

「そうです。あれの大体八割方俺です」


 投げ返してやろうと思っても、逆に投げ返し返しをされて俺ばっか投げられた。もう途中からは投げられる事を前提で突っ込んで行ってたし。


「でも、すんません。いきなりの頼みで道場を貸してもらって」

「いいのよ、全然。どうせ私達以外に使ってないしね。それに……」


 沙夜先輩は横目で三杯目のジュースを飲んでいる沙姫を見る。


「最近飲み食いばかりで、グータラ生活であまり動かない奴にはいい運動よ」


 沙夜先輩はあえて名前を伏せているが、明らかに誰なのか分かる言い方をする。


「むっ。姉さん、それって私の事ですか?」


 飲んでいる途中だった沙姫はコップを口から離す。


「あんた以外に誰がいるのよ。テスト期間中からずっと食っちゃ寝してたじゃない」

「ぐぐ……」


 沙姫のコップを持っている手の力が強くなる。力が入って手が震えるのでコップの中に入っているジュースも波打つ。


「ね、姉さんだってテスト期間中は勉強ばっかりして運動をしてなかったじゃん!」


 聞いている方が痛々しくなるぐらい苦し紛れな事を言う沙姫。

 まるで勉強ばかりしてたのが悪いみたいに言ってるが、テスト期間中に勉強するのは至極当然の事だぞ。

 それに、言葉が吃ってる時点で自分が不利になっている事を認識してる証拠だ。


「私はちゃんと勉強の休憩の時なんかに一人で素組みしてわよ。間食ばっかり取ってた誰かさんと違ってね」


 さすが沙夜先輩だ。性格がしっかりしてるから生活管理もしっかりしてる。

 俺も少しは見習うべきだろう。つっても、俺の部屋には素組みが出来る程のスペースは無いけども。

 沙姫先輩は言い返せなくなったのか、沙姫は『くぅー』なんて言いながら悔しがっている。


「姉さんの裏切り者ぉ! 自分だけ隠れて運動してるなんて!」

「別に裏切っても隠れてもないわよ。あんたがただズボラな生活をしてただけでしょ」


 まったくもって沙夜先輩の言う通り。俺が言える事じゃないが、グータラ生活をしていた沙姫が悪い。


「~~~~ッ!」


 声に鳴らない声を出して沙姫は歯を食い縛っている。

 どう考えても十対零で沙姫の負けだ。いや、勝ち負けなんかは関係無いんだけどさ。


「咲月先輩ッ! 休憩終わりです、組み手を始めますよッ!」


 ダンッとお盆の上に強くコップを置いて立ち上がる沙姫。


「じゃ、私は出て行こうかしらね」


 沙姫に続いて沙夜先輩も立ち上がる。


「あ、行っちゃうんすか?」

「居ても邪魔になるだけだもの。それに沙姫も休憩前よりやる気出たみたいだしね」


 道場の真ん中で帯を締め直している沙姫を見て沙夜先輩は小さく笑う。


「狙い通り、ですか?」


 沙姫には聞こえないぐらいの声の大きさで沙夜先輩にボソッと呟く。


「あらやだ、咲月君気付いてたの?」


 沙夜先輩は少し恥ずかしそうな表情をする。


「だって、明らかに沙姫を煽ってたじゃないすか」

「やっぱり解かっちゃったか」


 垂れてきた前髪を耳に掛けながら苦笑する沙夜先輩。


「あぁでも言わないと、いつまでダラけてるか分からないもの、沙姫は」


 沙夜先輩を見てると、本当に姉ってのは大変だなぁと思うよ。親が居ないから尚更、ってのもあるんだろうな。


「ごめんなさいね。本当は咲月君の為の組み手なのに」

「いえ、まったく構いませんよ。俺も身体を動かせればいいし」


 あとは感覚を取り戻せれば尚の事。

 一年以上もサボってたら、やっぱそう簡単には戻らないみたいだ。現に沙姫には面白い位に投げれてるからな。

 取り戻し始めればもうちょっとマシにはなると思うんだが。


「咲月先輩ッ! 早く始めますよ!」


 沙姫はさらに気合いが入って俺を待っている。

 ここまでヤル気が出ている上に、少しムキになってるって事は、思い当たる節があるんだろう。お腹とか体重とかが。


「はーいはい、今行くって」


 コップに入っていた麦茶を一気に飲み干して、お盆の上に置く。

 休んだお陰で腕や足のダルさも消えた。水分も補給したし、組み手を再開しますかね。


「ん、っと」


 膝を使って立ち上がり、沙姫が立っている道場の真ん中まで移動する。


「それじゃ沙姫、私は駅前まで出掛けてくるから」


 沙夜先輩は道場の入り口で沙姫に声を掛ける。


「買ってきて欲しい物があったら買ってくるわよ? お菓子とか」


 『お菓子』の部分をわざと強調する沙夜先輩。


「いーらーなーい!」


 そんな沙夜先輩に、イーッと表情を強ばらせる沙姫。最後まで沙姫を煽りますか。


「そう? じゃあ咲月君、沙姫の相手お願いね。麦茶とかは置いて行くから、好きに飲んじゃっていいから」


 そう言って沙夜先輩は道場から出て行く。


「もう、姉さんった余計な事言って……」


 そっぽを向きながら沙姫は頬っぺたを膨らませる。

 普段細かい事は気にしなさそうな沙姫だが、やっぱり私生活をバラされるのは恥ずかしいようだ。


「でも、女が思ってる程男は気にしないけどなぁ」


 グータラな生活をしていたらしいが、別に太ってるようには見えない。変わった様子は無いけど。


「そんな慰めはいいですよ……どっちにしろ太ったのは変わり無いんですから!」


 沙姫は膨らませた頬っぺを更に膨らませる。

 あ、やっぱり太ったんだ。沙夜先輩は一言も沙姫が太ったなんて言ってなかったのに、自分でバラしたな。


「そうなのか? 俺は太ったようには見えないけど。むしろ痩せている方だろ、沙姫は」


 このまま機嫌を損ねたままで雰囲気が悪くなるのもな。少しながらフォローをしよう。


「本当ですか……?」


 顔はそっぽを向いたままだが、目はこちらを見て、膨らんでいた頬の空気は抜けていく。


「本当だって。それで太ってるっつったら、大半の女が太ってるって事になるぞ」


 まぁ、沙夜先輩が沙姫を煽ったのは太ったからじゃなくてグータラ生活を直させる為なんだけどな。


「ですよね、そうですよね!? まだ全ッッ然大丈夫ですよね!?」


 そっぽを向いていた顔がやっとこっちを向いてくれたはいいが、その顔の表情は安心したのか輝いている。と言うか、輝き過ぎている。

 しまった。ちょっとフォローし過ぎたか。

 せっかく沙夜先輩が無理矢理に沙姫を煽ってまでヤル気を出させたのに、それを俺が無駄にしたら駄目だよな。

 ひょっとしたら俺が沙夜先輩に怒られるかも……?

 普段はしっとりおしとやかな分、怒ると恐そうだもんな。沙夜先輩って。


「あー……でもその、なんだ。そう余裕ブッ込んでいると手遅れになったり、な」

「そんな事ないですよぉ。それに今、咲月先輩は太っていないって言ったじゃないですか」


 ヤバイ。さっきまでの沙姫のやる気が消えかかってる。あんなに気合いを入れていたのに。


「それはあくまで今だけであって、もしかしたら明日にはプックリなってるかもしれないだろ?」

「そんな一日で急に体型が変わったりですよぉ」


 沙姫はケラケラと笑っている。

 こら本当にヤバイぞ。マジで沙夜先輩に怒られるやもしれん!

 なんとかしてもう一度沙姫にやる気を出させないと、きっとまたグータラ生活を送る。

 何か方法は……いや、そうか。俺も沙夜先輩みたく煽ればいいんだ。

 それに煽るのに丁度いいネタもある。


「沙姫、お前さ」

「え、なんです?」


 表情は完全に沙夜先輩に煽られる前に戻っている。


「そんなんだから、お前だけ彼氏が出来ないんじゃないか?」


 カチン、と沙姫の動きが止まった。表情はそのまま。

 前に組み手の約束を取り付けた時に見つけたネタだ。

 多分、沙姫は気にしてると思うんだよな。友達二人はいて自分だけはいないんだから。


「食っちゃ寝のグータラで面倒臭がりだろ」


 いやぁ、気にしなくていいなんてフォローしてから煽るなんて……矛盾した行動してんなぁ、俺。


「それに太ったのに俺に言われたからって安心して……」


 ふと気付くと目の前に足がある。

 ……へ? 足?


「おわっ!?」


 勢い良く顔を目がけて飛んできた足を、屈んで避ける。

 それは沙姫の蹴りだった。


「ちょ、沙姫ッ!?」


 一歩下がって距離を取る。というか、いつの間に沙姫は距離を詰めたんだ?


「組み手を始めるって言ったじゃないですかぁ」


 表情は笑っているが、眉間やらに影が掛かっていて明らかに怒っている。

 これは逆鱗だった……かな?


「行きますよ、咲月先輩!」

「ちょい、タンマ!」


 しかし、沙姫は聞かずに向かってくる。




    *   *   *



 組み手を再開してからどれだけ時間が経ったろうか。あれから休憩を取らずにずっと組み手を続けている。

 たまに水分を補給するだけで、休もうとしても沙姫が休ませてくれなかった。


「はいっ!」


 沙姫が俺の腹を狙って左手の突きを放つが、それを右手で払って距離を取りつつ横にずれる。

 始めの方は受身で投げ主体だった沙姫だったが、休憩後からは打撃を主体にガンガン攻めてくる。

 どうやら、少しだけ煽ったつもりが、少しじゃなかったみたいだ。


「んっ!」


 そして、沙姫は直ぐ様は続けて顔を狙った右手での突きを出す。


「ほっ」


 しかし、その突きを首だけを動かして避ける。

 さらに、右手で沙姫の手首を掴み、素早く左手で沙姫の掴んだ右手の外側から顔へ突きを出し返す。


「ッ!」


 防御が間に合わず、反射で沙姫は目を瞑る。

 しかし、顔へ当たる直前に突きを止める。

 顔へ衝撃がこないと、沙姫がそーっと目を開ける。


「はい、俺の勝ち」


 沙姫が目を開けたのを見計らって、寸止めをした拳の人差し指で沙姫の鼻の頭をぴんっとデコピンする。


「あいたっ!」


 掴んでいた手首を離すと、沙姫は鼻を手で押さえる。


「今日は終わりだ。もう動けねぇ!」


 息を切らせながら床に勢い良く座る。

 もう無理。本当に動けない。動きたくない。


「ったー……また咲月先輩に一本取られちゃった」


 沙姫は鼻を撫でながら、少し目を潤ませている。


「咲月先輩、運動してからすぐに座ると痔になるんじゃないんですかー?」

「ハァ、ハァ……お前な、どんだけブッ通しで動いてたと思ってんだ……」


 今は顔を上げる気力すらねェのに、立ってるなんて無理だっつの。

 それに、女の子が痔なんて言葉を普通に言うな。


「へへっ、実は私もかなり限界だったり」


 沙姫もその場にペタンを尻を着く。

 そりゃそうだ。俺がへたって沙姫がへたらない筈がない。

 あーもう、腕とかダルい。と言うか、動かし過ぎたからすんげぇ重く感じる。加えて暑い。暑くて熱い。身体がすごく熱くて汗が止まらない。

 壁際に置いてあるタオルを取りに行くのもしんどいので、Tシャツの袖で額の汗を拭いてその場を凌ぐ。


「咲月先輩、休むのも良いですけど、ちゃんとストレッチしないと」


 沙姫は座ったまま脚を開いて、上半身を開いた脚に沿って倒している。


「あー、そうだな。ストレッチはしとかないといけねぇな」


 俺も沙姫と同じようにしてストレッチをする。


「いやしかし……沙姫、お前って身体柔らかいのな」


 ストレッチをしている沙姫を見て、思わず言ってしまう。

 それもその筈。なんせ沙姫は脚を真横にまで開いた上に、上半身は床にペッタリと顔が着く程に倒している。

 そんなのを目の前でされたら、思うより先に口から出もする。


「そんな事ないですよ。咲月先輩だって柔らかいじゃないですか」

「お前に言われたってお世辞にすら聞こえねぇよ」


 でも、沙姫と比べれば確かに劣るが、同年代の奴等と比べれば柔らかい方だと言える。

 武術をやる者は、身体の柔軟さは必要不可欠。筋肉だけあればいいってもんじゃない。


「昔はもうちょっと柔かったんだけど、ここ最近サボってたからなぁ」


 最近、と言っても一年以上だが。昔は脚を開いた状態で余裕で床に肘を着けれたけど、今はギリッギリなんとか着くぐらいだ。

 やっぱ鈍ってんなぁ。後半は俺が押し気味だったけど、全体で見ると沙姫が圧倒的に勝ってた。

 読感術を使えばもう少しはいい勝負になったんだろうけど、まず身体の感覚を取り戻したかったから使わなかった。


「……沙姫さ、前にSDCで読感術どくかんじゅつを使ってたよな? あれって誰に教えてもらったんだ?」


 前というのは、あまりにも堂々とSDCの最中に学校を歩いていた沙姫を俺が隠れていた茂みに引っ張り込んだ時の事。

 その時に、沙姫は『周りには人の気配は~』なんて言ってたのをうろ覚えだが覚えている。

 気配ってのは多分、雰囲気の事だと思うんだが……。


「あの、なんですか? その読感術って」


 ところが沙姫はキョトっとした顔で疑問文を疑問文で返してきた。

 へ……? 読感術を知らない?


「お前、読感術が使える……んだよな?」

「その読感術が何なのかが解らないんですけど」


 本当に沙姫は解らないらしく、困ったような表情をしている。


「だって前に……ほら、SDCで俺がお前を茂みに引っ張った時あったよな?」

「んー、と……あぁ、ありましたねぇ」


 顎に人差し指を当てて少し考え、すぐに思い出す。


「あん時にお前、『周りには人の気配は無い』とか言ってなかったか?」

「えー、あー……言ったような言わないような……」


 沙姫は腕を組み、首を斜めに曲げて考えている。

 覚えていないのか、うーんと唸って思考を続けている。


「あー、いや、覚えていないならいい。そうか、沙姫は読感術は使えなかったのか……」


 どうやら俺の勘違いだったみたいだ。人の気配、なんて普通じゃ言わないし使わない。

 だから、てっきり沙姫は雰囲気が読めるもんだと思っていた。


「で、その読感術って何なんです?」


 曲がっていた首を縦に戻して読感術が何なのかを聞いてきた。

 俺があれだけ聞いてくれば、気にもなるだろう。


「ん? あー、読感術ってのは感覚を読む術って書くんだ。感覚って言っても、相手の雰囲気を読むんだけどな。そうする事で相手の動きを読んだり、近くに人が居るかどうかが分かる」


 読感術はSDCは関係無いし、白羽さんとの秘密事項でも無い。

 それに、知っている人は知っている事だ。隠す事もないだろ。


「へぇー。凄いですね、それ。人の気を読むなんて」


 沙姫は俺の言っている事をちゃんと信じているらしく、話を聞いて驚いている。

 普通はまず嘘じゃないかと疑われるんだけど。


「そうでもねぇって。それに気なんて大層なモンじゃねェよ。雰囲気だ」


 ま、一応雰囲気にも気って入っているから似たようなもんかもな。


「でも、その雰囲気を読むのってどうやるんです? こう、キュピーン! って急に感じたり?」


 キュピーンの所で、手をおでこの前まで突き上げる沙姫だが、一体なんのジェスチャーだ?


「そんなに便利でも楽じゃねぇよ。なんて言えばいいかな……?」


 沙姫は突き上げた手を魚の尻尾みたに左右に動かしている。しかも、少し真剣な顔で。

 もしかして雰囲気を読み取ろうとしているのか?

 しかし、当然の事ながらそれは無理だぞ、沙姫。そんなんで読み取れるなら苦労はしない。例えそれで読み取れるようになったとしても、いちいちそんな動きをするのは嫌だ。

 と言うか、その手の動きをやめろ。少し気持ち悪いから。


「たまにさ、妙に気が利く奴がいたりするだろ? 喉が乾いている時に丁度良く飲み物を買ってきたり」

「ああ、いますねぇ。学校とかで鼻かみたくなった時に、タイミング良くティッシュくれる人とか」


 沙姫は腕を下ろして、手を動かすのをやめてくれた。


「それを何段階も強くしたのが読感術になるんだ」

「気が利く人をですか?」

「そう。気が利く奴ってのは無意識に微弱ながら相手の雰囲気を読めてんだよ。それに、誰だって普通に雰囲気を読んでいたりする」


 初めはストレッチをしながら喋っていたのに、気付けば話をしやすいように胡坐で座っていた。


「学校なんかでよ、同じクラスの奴で『アイツ今日は元気ないな』とか『コイツ、なんか機嫌悪そう』って思う事あったりしないか?」

「あ、ありますあります。大体そういう時って彼氏と喧嘩したー、って言うんですよね」


 多分、それは前に見た沙姫の友達の事だな。

 はぁ、と肩を落としながら溜め息を吐く。

 彼氏のいない沙姫に、友達の彼氏の愚痴を長々と聞かされるのは辛いんだろう。


「じゃあ沙姫。聞くけど、その人が機嫌が悪いってのはどうして気付いた?」

「え? どうしてって言われても、なんとくって言うか、そう感じたって言うか、そんな雰囲気がして……あっ」


 沙姫は俺が言いたい事に気付いて、口を開ける。


「な? お前だって知らない内に雰囲気を読んでいるんだ。ま、さらに分かり易く言っちまえば空気が読める奴って事だ」

「あ、凄い解り易い。そっかぁ……言われてみれば確かに、私も雰囲気を読んでいたんだなぁ」


 沙姫も知らぬ間にストレッチを止めて、可愛らしく女の子座りをして話を聞いている。


「でも、ただ雰囲気が読めるだけじゃ相手の動きを読んだりは出来ない。他に鋭く正確な観察力と洞察力が必要なんだ」

「観察力と洞察力、ですか」

「それが無けりゃ上手く読感術を使えない。ただ空気が読める人と大差ない」


 沙姫は目を細めにして道場内を見回したり、俺をジッと見つめたりしている。

 本人は鋭い観察力と洞察力を出しているつもりなんだろうが、俺から見るとただ眼が悪い奴が遠くの物を見ようとしている姿にしか見えなかった。

 たまに指を使って意味も無いないのに目を釣り上げたりもしている。

 まるで一人でにらめっこしているように見える。


「そうだな。じゃ一回やって見せるか」

「あっ、見たい見たい!」


 釣り上げていた指を離して胸元で両手を合わせてパンッと叩く。


「今から読感術でお前の雰囲気を読む。行くぞ」


 一度目を瞑り深く呼吸をしてから、瞼を開けたと同時に沙姫を凝視する。


「あ、え……?」




    ◇   ◇   ◇




 見られた瞬間、前から何かにグンッと押される錯覚。

 身体全体が押され、後ろに倒れてしまいそうな感覚。

 風も無い、触られてもいない、身体は動いていない。

 ただ見られているだけなのに、何かが圧迫する。

 けど、嫌悪感は無い。押してくる何かは、力強くとも怖さは無かった。

 それどころか、優しさを感じる。悲しい優しさ。


 だけど、これは――。

 誰の、優しさ――――?


「おい、沙姫ッ!」

「え、あ……え?」


 目をパチクリさせて、沙姫は現実に戻る。


「大丈夫か? ボーッとしてたけど」

「いや、その……はい、大丈夫です」


 さっきのは何だったのだろう、と頭を傾げる。

 気のせいだったのか。だけど、あれは……涙が出てしまいそうな程に悲しくて――――優しかった。




    ◇   ◇   ◇




「悪いな、ちと強く探り過ぎたみたいだ」


 読感術を使える奴は、自分が誰に読感術で読まれるとそれに気付ける。

 俺が沙姫に読感術で読まれた事に、今確かに沙姫がそれに反応した。読感術が使えないのにだ。

 もしかしたら、沙姫には結構素質があるのかもしれない。


「いえ……で、何か解りました?」

「いや、まぁ……一応読めはしたけど、ずっと一緒にいたから大した事は言えないぞ」


 読感術は雰囲気を読んで相手の心理を推測したり、状況を読み取ったりする。

 だけど、ついさっきまで組み手をしていた沙姫を読感術で読んだとしても、普通にパッと見でも分かるような事だ。


「感じとった雰囲気は力強さがなく、疲労困憊で疲れ切っている」


 とまぁ、今まで一緒にいた奴が相手じゃ本当に大した事は言えない。


「本当に大した事じゃないですねぇ。それ位なら私だって解りますよ」


 なんて沙姫に言われる始末。

 期待外れだったらしく、沙姫は呆れた顔をしている。


「そう言うなよ。これの一番凄いのは相手を見なくても分かるって所なんだからよ」

「相手を見ない?」


 呆れ顔から今度はキョトンと首を曲げる。


「例えばここに壁があって、互いに姿が見えないとするだろ?」


 自分と沙姫との間を手で境界線を引く。


「互いに見えないし、居る事も知らない。だけど、読感術を使えば、壁の向こうに沙姫の雰囲気を感じ取って居るのを知る事が出来るんだ」

「え、それって凄いじゃないですか!」


 ついさっき『大した事じゃないですねぇ』って言ってた奴が、今は身を乗り出して驚きながら興味津々な目をしている。


「それが読感術の一番の利点なんだ。雰囲気を読んで動きを探るのはその次、って訳だ。それも結構重要なんだけどな」

「うわー、すんごい便利じゃないですか、それ! かくれんぼで!」


 ……この歳になってかくれんぼなんてしないっつの。しかも、なんでかくれんぼ限定だよ。


「だけど、いくら便利でも探れる範囲ってのがあってな。俺は大体半径五十ートル位が限界」

「なんか微妙な広さですね」

「雰囲気を探るのを一方向に絞れば百メートル位まで範囲を伸ばせたりもする。まぁ、それはあくまで俺は、だ。人によってはもっと広い奴だっているしな」


 それでも俺の五十メートルってのは広い方らしい。誰と比べたかは知らないが、昔親父に言われた事がある。

 そういえば、エドも読感術を使える。アイツは一体どれぐらいの範囲を探れるんだろうか?


「で、それで相手を見つけたら後は相手の状態を見分ける。観察力と洞察力で」

「そういえば言ってましたね。その二つが必要だって」


 沙姫は乗り出していた身を戻して、元の女の子座りになる。


「それでさっき沙姫を探って分かった事が、汗を多量に掻いていて唇が少し乾き欠けている。それからは何らかの激しい運動をしていた事が解る。水分が不足しているのも」


 そう言いながら、胡坐をかいた膝の上に肘を乗せる。


「しかも、すぐそこには冷えてはいないが飲み物がある」


 目線を麦茶とスポーツドリンクを乗せてあるお盆に向ける。そして、沙姫も釣られて同じ方向を見る。


「となると、次に沙姫は高い確率で飲み物を飲もうとする」


 お盆から視線を対面の沙姫に戻して、沙姫も丁度こちらを見て2人は目が合う。


「ま、これ位は勘のいいガキでも分かったりするか。そうだな、もう少し言わせてもらえば……」


 言われた事が当たっていたのか、沙姫は何も喋らない。


「俺から見て左、沙姫には右肩か。左肩よりも少し上がっているな」


 その言葉に沙姫はピクリと反応する。


「そして、何度か左手で触る度に小さく動くのは……痛み、か。多分、組み手中に右肩を痛めてしまった。その証拠に、さっきから左腕は動かしてはいるけど、あまり右腕は動かしていない」


 黙って話を聞いている沙姫の額から一粒の汗が頬を伝って床に落ちる。

 それは組み手をして出た汗なのか、それとは別の汗なのか。


「右肩が上がっているのは、痛まないように姿勢をズラしているから。足のストレッチしかしなかったのはそれが理由、とかな」


 ゆっくりと左手を動かして、沙姫は右肩を触る。

 それと一緒に、ゴクリと唾を飲み込む音が自分の耳に大きく鳴った。


「とまぁ、こんなもんだな」


 身体を後ろに倒して、それを両手で支える。そして、胡坐をかくのをやめて足を伸ばす。


「おい、沙姫? またボーッとしてるけど大丈夫か?」


 右肩部分の服を掴んだまま、沙姫は固まって動かない。

 何時間も組み手しっぱなしだったから、疲れてボーッとしたりもするか。


「大丈夫です、大丈夫ですけど……その……」

「当たり過ぎてて怖い、か?」


 身体を小さく跳ねさせ、沙姫は俺から視線を反らす。


「そうだろうな。そんな心ン中を覗かれたような事をされたら気味悪いよな」


 想像以上に読みを正確に当てられて、沙姫はかなりショックを受けている様子。


「俺もそう思うよ。だから、普段は滅多な事じゃ読感術を使って深くまで読まないようにしている」


 それじゃまるで、相手の機嫌を気にして生きているみたいだ。

 そんな生き方はつまんないし、何より面倒臭い上に疲れる。


「でもま、言い訳をさせてもらえば、読感術ってのは心を読んでる訳じゃないって事は覚えといてくれ」

「……え?」


 視線を反らして床を見ていた沙姫の顔が上がる。


「なんだよ、沙姫。お前は俺がお前の心を読んだと思ってたのか?」

「だって、そうじゃないんですか!?」


 沙姫はどこで勘違いしたのか、読感術は心を読むものだと思ったらしい。


「違ぇよ。最初に言っただろ、雰囲気を読むって。俺は心を読むなんてエスパーな能力は持ってねぇよ」


 手を振って沙姫の勘違いを否定する。


「だって、私が喉が乾いてる事も当てたし、肩を痛めたのも当てたじゃないですか!」

「それは俺がお前を洞察力と観察力を駆使して見て、推理した結果を言っただけだ。今のは当たったけど、外れる事だって普通にある」


 沙姫はポカンと気が抜けたような顔になっている。


「じゃ、じゃあ咲月先輩は本当に心の中を読んだんじゃないんですね!?」


 ズズイとまた身を前に乗り出す沙姫。


「だから、そうだって言ってんだろ。お前が勝手にそう勘違いしただけだ」


 沙姫は黙ってジッと俺の目を見つめる。

 ここで目を反らす理由もないので、俺も沙姫を見つめ返す。

 それに、目を反らしたら嘘をついていると疑われてしまいそうだ。


「……っはー、よかったぁ」


 そして、沙姫が大きく安堵の溜め息を吐く。

 互いに見ていた時間はほんの数十秒だったのだが、なぜかそれが妙に長く感じた。


「なんだ、心を読まれたら困る事でもあったのか?」

「ありますよぉ! 心を読まれたから、私はてっきり何キロ太ったか知られたと思ったんですよ!?」


 バンバンッと床を激しく叩く沙姫……っておい、ちょっと待て。


「もしかして、読感術を使ってお前の雰囲気を読んで心境を当てた時にショックを受けてたのって……」

「心を読まれて体重を知られたと思ったからですよ!」

「な……」


 なんだそりゃーっ!

 俺はそのショックを受けたお前の顔を見て罪悪感を感じてたんだぞ!

 それがなんだ、それはただの勘違いでしかも増えた体重が理由かよ!?


「でも、そうじゃなくてよかったです。安心しました」


 よかったです、じゃねぇ。心を痛ませた俺の良心を返せ。


「でも、やっぱり便利ですよね。読感術って」

「あぁ? なんでだよ?」


 また胡坐をかき、膝の上に肘を置いて頬杖を立てて少し機嫌が悪そうに答える。


「だって、それが使えれば姉さんが怒っていたら事前に逃げれますもん」


 しかし、俺が機嫌が悪くなっているのに気付いてないのか気にしていないのか、沙姫は笑いながら話している。


「逃げる以前に、沙夜先輩を怒らせなければいいだけの話だろうが」

「むー……でも姉さんってば、私は悪くないのにすぐ怒るんですよ!?」

「嘘こけ。沙夜先輩が意味無く怒る訳ねぇだろ」


 どう見たって沙夜先輩は人に八つ当たりをするような人じゃない。

 むしろ、怒る事が滅多にないと思う。


「嘘じゃありませんよ!」

「本当かぁ?」


 頬杖をしたままジトリと沙姫を見る。


「うっ。す、少しは私も悪いと思……」


 沙姫の目は早くも視線から反らして明後日の方へ。

 しかし、俺は沙姫をジッと見たまま逸らさない。

 顔も明後日の方を向いている沙姫は、チラッと俺を横目で見てみると、目が合ってまたすぐ逸らす。


「や、やっぱり半分は私のせい……かなぁ?」


 頬を人差し指で掻きながら、ハハッと顔をヒクつけながら笑う沙姫。

 どうやらコイツは嘘をつくのが下手なタイプみたいだ。


「半分、ねぇ……」


 沙姫は半分って言ったが、この様子だと実際は九割はコイツが悪いな。

 沙夜先輩、ハゲたりしなきゃいいけど。

 なんて沙夜先輩の心労の心配をしていると、家の方からカラカラと玄関が開いた音が小さく聴こえてきた。

 それと一緒に『ただいまー』という声も。


「あ、姉さんが帰ってきたみたい」


 道場の入り口の方を見ながら言う沙姫。

 廊下を歩く足音が一度止まったと思うと、またし出して段々と道場に近づいてくる。

 家と道場の繋ぎ廊下を渡り、沙夜が道場の入り口から顔を出す。


「わっ……咲月君の靴があって居間にいないと思ったら、二人共まだやってたの」


 沙夜先輩は少し驚いたような呆れたような、複雑な表情をしている。


「姉さんおかえりぃー。その袋は?」


 沙姫は沙夜先輩に片手を上げてブラブラと手を振る。

 帰ってきた沙姫の手には小さめの茶色い紙袋が。


「これ? 本屋さんで本を買ってきたのよ」


 紙袋を見えやすいように胸元あたりまで持ち上げて、こちらに見せる。


「漫画っ!?」

「違うわよ、小説」


 一瞬目を輝かせた沙姫だったが、中身が漫画じゃないと知るとその輝きはすぐに消えた。

 漫画を期待していた沙姫だけど、沙夜先輩は漫画を読むのか?

 小説は凄くしっくりしてイメージ通りって感じがする。けど、漫画はちょっと読んでる姿が浮かばないな。


「ところで沙姫、今日の夕飯当番はアンタでしょ? もうとっくに五時過ぎてるけど大丈夫なの?」

「え、嘘っ!?」


 慌てふためきながら周りを見回す沙姫だが、残念ながら道場には時計が無い。


「はい、時計」


 左手に付けている腕時計を沙姫に見せようと、手首の内側をこちらに向ける沙夜先輩。

 沙姫は沙夜先輩の所まで走って行き、手を掴んで食い入るように腕時計を見る。


「うわっ、本当だ! 五時どころか半過ぎてる!」


 時計で時間を確認して驚く沙姫。


「早く夕飯の準備しなきゃ!」


 沙夜先輩から手を離して、沙姫は道場から出ていく。


「シャワーはどうするのー?」

「五分で済ますー!」


 出ていった沙姫に沙夜先輩が少し大きな声で聞く。

 それに沙姫は叫びながら答え、ドタバタと慌ただしく繋ぎ廊下を渡って家に戻る。

 俺がここに着いた時もあんな感じで騒がしく二階から下りてきたよな。


「本当、少しでいいから落ち着きを持ってくれれば有難いんだけどねぇ……」


 沙夜先輩は溜め息を吐きながら近くまで歩いてくる。

 困ったと言いたげな仕草をしてはいるが、呆れながらも顔は少し笑っている。まるでやんちゃな子供を持った母親みたいな。


「組手、どうだった? 満足のいく内容で出来たかしら?」


 沙夜先輩は床に置かれていたジュースとコップを乗せたお盆を屈んで取りながら、横目で俺を見る。


「十分過ぎる内容でしたよ。まさか沙姫があんなに腕が立つとは思ってなかった」


 お陰でいいリハビリになった。ただ、一日だけの組み手で昔の感覚を取り戻すのはいくら何でも無理。

 出来ればあと数回はやりたい所だが、沙姫との組み手の約束は今日だけって事になってるからなぁ。

 どうにかしてまた組み手に付き合ってもらいたいけど、沙姫にも都合があるだろう。無理に頼んで付き合わせるのも気が引ける。


「沙姫との組み手は結構やるけど、私も負け越したりするからね」


 苦笑いをしながらお盆を持って立ち上がる。

 麦茶は半分以下に減って、ジュースなんかはもう二、三杯飲んだら無くなりそうな位にまで減っていた。

 そういえば、前に沙姫が自分は沙夜先輩よりは強いって言ってた覚えがある。


「でも、沙夜先輩は素手じゃなくて槍を使う方が得意って聞いたけど?」


 素手同士だったら負けないけど、槍を使われたら勝てないと言ってたのも。


「あら、よく知ってるわね」

「前に沙姫から聞いてさ」


 あ、ヤベ。今タメ口になっちまってた。沙夜先輩は気にしないって言ってたけど、やっぱ直さないといけねぇよな。


「私は沙姫より二つ上だから、当然先に武術を学び始めたんだけど……昔は私って結構華奢でね、それに病弱だったのよ」


 沙夜先輩は立ったまま壁に寄り掛かって話をする。

 すげぇ意外だ。確かに沙夜先輩は沙姫よりも物静かで大人しいけど、しっかりしていて華奢とか病弱ってイメージは全然しない。


「ふふ、意外でしょう? そんな私に比べて沙姫は昔からあのまんま。華奢な私は身体が稽古についていけなくて覚えが悪くてね。気付けば後から始めた沙姫に追い抜かれちゃってたのよ」


 沙夜先輩が病弱だったってのは意外中の意外だったけど、沙夜はまんま予想通りなのな。すんごい想像しやすいわ。


「それが凄く悔しくてね。私も負けたくないから一生懸命頑張るんだけど、体力が無いからすぐへばったりして差は開くばかり。無理をしちゃって次の日に風邪をひいた事もあったりしたわ」


 昔は大変だったわ、と苦笑いをしている。

 沙夜先輩ってそんなに身体弱かったんだ。よくそれで武術をやり続けれたと思う。


「だから、あの頃はいつも元気な沙姫が羨ましかったりもしたわ。今は羨ましくないけどね」


 皮肉を言って笑う沙夜先輩に釣られて、俺も一緒に笑ってしまう。釣られたと言うより共感した、が正しいが。


「そしてある日、素手じゃなくて武器の使い方を教えてもらったのよ。勿論、沙姫も一緒に」

「その武器ってのが……」

「そうよ、槍。でも、まだ当時は子供だったからね。槍と言っても、それに模した小さい木刀だったけど」


 まぁ、そうだよな。いきなり本物を使わせないよな。それに大きさ的に子供が使えるもんじゃない。


「それで使い方を教えてもらったんだけど、そしたら私が予想外に模槍を扱えたみたいで凄く褒められたのよ」


 お盆に乗せてあるコップにまだ少し残っている麦茶。

 その麦茶が微かに揺れるのを見つめながら沙夜先輩は当時の事を懐かしがる。


「素手での稽古じゃ褒められる事なんて殆んど無かったから、それはもう嬉しくて嬉しくて」


 その時の事を思い返して頬笑む沙夜先輩。


「だから、また褒めてもらいたくて毎日毎日欠かさずに稽古したのよ」


 単純でしょう? なんて言いながらクスクスと微笑う。


「それに、唯一褒めてもらえたものだから、これだけは沙姫には負けちゃいけない、って思ってね。隠れて必死に一人で練習もしたりしたわ」


 へぇ、沙夜先輩って頑張り屋だったんだ。でなきゃ病弱だったのに今の今まで武術をやり続けれないもんな。

 才色兼備で努力家で、家事もバッチリ。完璧じゃねぇか。それに、少し負けず嫌いってのもある……かな。

 沙姫もそんな所があるから、そこはやっぱり姉妹なんだなぁ。


「でね、必死に練習したのはいいんだけど……沙姫ったら素手のは覚えが早いのに、槍術はてんで駄目だったのよ。模槍を頭にぶつけたり、足の小指の上に落としたり。まるでコントよ」


 うわー、これまた簡単に想像出来るわ。

 今の沙姫がそんな事をしたら爆笑モンだけど、幼い頃だったら面白いってよりも可愛いって思いそうだ。


「私は身体が弱い分器用で、沙姫は身体が丈夫な分不器用だったみたい」

「いやでも、沙夜先輩が病弱だったってのは正直驚きましたけど」

「今は年に一回に風邪をひくかどうかだし、沙姫だって不器用だったけど料理を作れるようになったしね」


 今の沙夜先輩は病弱には見えない。武術を続けてたのが身体が丈夫になった理由の一つに入るんだろうな。

 または沙姫の私生活で相手をしている内に、気付いたら丈夫になってたとか。

 不器用だったという沙姫は今晩の飯当番らしく、今頃は台所で食材と向かい合っているんだろう。


「時が経てば、いくらでも変わるものね」


 時が経てば変わる、か。


「あら、私なにかおかしい事言ったかしら?」

「え?」

「だって咲月君、笑ってるから」


 言われて、口元に手をやると俺は無意識に笑っていたのに気付いた。

 別段変な事を言った覚えが無いのに、笑われて沙夜先輩は不思議に思ったらしい。


「あぁいや、沙夜先輩の言う通りだと思って」


 昔は病弱だった沙夜先輩を意外だと言ったが、昔と比べると俺だって自分で意外と思う程に変わった。

 それだけに、沙夜先輩の言葉が笑ってしまうくらい共感出来た。

 昔はこんなに喋りもしなければ、話す相手すら居なかった。口を開く相手と言えば、クソ親父と母さんだけ。あとは必要があれば学校の先生ぐらい。

 当時はそれでもいいと思っていたし、そのままがいいとも思っていた。言われた事をやれば怒られもしないし、何もしなければ何もされない。


「昔と比べるとね、俺も結構変わったんでつい笑っちまって」


 頭を掻きながら微苦笑する。

 そして、そんな俺を変えたのが凛だった。

 アイツと知り合ってから、俺は変わっていった。今まで世界観が変わるのと一緒に。

 初め、俺は凛に対して漠然とした憧れがあった。

 自分が持っていないモノを持っていて、自分が出来ない事が出来ていた。その自分に無い凛の魅力に憧れ、惹かれた。

 そして、変わった今の自分は嫌いじゃない。

 今でもまだ人付き合いは少ないが、こんな自分になってから昔よりは知り合いが増えた。

 最初に知り合ったのは先輩か。それから沙姫と沙夜先輩とも。あ、えーと、一応エドもか。


「へぇ、じゃあ昔の咲月君ってどんなだったの?」


 興味を持ったのか、沙夜先輩が聞いてくる。

 話してあまり気持ちのいい内容ではないが、沙夜先輩の昔の話を聞いたのに自分だけは話さないのはずるい気がする。

 重い部分は省いて話せば問題は無いか。


「周りから根暗って言われるぐらい物静かなガキでしたよ」

「咲月君が? ちょっと思えないわねぇ」


 沙夜先輩は少し目を見開いて驚いた表情をしている。

 昔の自分が嫌いだった俺にとって、沙夜先輩の言葉は誉め言葉に聞こえた。


「それに友達も殆んど居なかったな。喋るのも苦手だったし」


 こういう奴がイジメの対象になるんだろうけど、武術をやっているのを周りは知っていて俺は大丈夫だった。


「意外だわ。今の咲月君を見ると、全然想像出来ないわね」


 沙夜先輩はまだ目を少し見開いて驚いたまま。

 沙夜先輩が病弱って聞いた時の俺もこんな感じだったんだろう。

 意外って言われたけど、それは俺も同じ。昔の俺だって、将来こんなになるとは思いもしていなかった。


「まぁ、そんなだから沙夜先輩の『時が経てばいくらでも変わる』って言葉が笑っちまう位に共感したんですよ」


 人は変わるのが難しいって言うけど、実際は何か切っ掛けがあれば簡単に変わる。

 それでも、俺は多分……今の今までに変わり過ぎた。


「……そうだったの」


 沙夜先輩から驚いた表情は無くなっていたが、話を聞いて昔の俺に同情したのか悲しそうな顔をしている。

 俺は別に同情してもらおうとかで話したつもりじゃないし、されても困る。


「でもね、私は昔の咲月君を今話で聞いただけだけど、今の咲月君が一番良いと思う」


 どうにかして今の雰囲気を変えようかと考えていた時に、沙夜先輩が続きを話し始めた。


「知り合ってからあまり日も経ってない私が言うのも変だけど、私から見たら今の咲月君は生き生きしているように見えるから」

「生き生き、ですか……?」


 自分じゃ分からないけど、そうなのか?

 今は生き生きしているかどうかは分からないけど、昔の俺は死んだ魚の目をしていのは分かる。


「あ、ごめんなさいね。勝手に色んな事を言っちゃって……」

「いや、全然構いませんよ。生き生きしてるかは分からないけど、今の自分は好きですから」


 今では毎日がそれなりに充実していると思う。

 学校に行っても屋上でサボって、部屋に戻っては寝ている。

 これのどこが充実しているのか、と思われそうだが、昔と比べたら遥かに充実していると俺は言い切れる。

 ただ、最近は色んな事が起き過ぎてゴタゴタしてるけどな。


「そう言ってもらえると助かるわ」


 一度肩で息をして、にっこりと微笑む沙夜先輩。

 なんだか少し恥ずかしくなって目を反らす。

 すると、目を逸らした先には組み手を始める前に気になった掛け軸が視界に入った。


「そういえば沙夜先輩、気になってたんですけど……あれってなんです?」


 掛け軸に指を差して聞いてみる。


「あれ? あぁ、掛け軸の事?」


 俺が指差した方向を見て、沙夜先輩は掛け軸の事だと気付く。


「そうそう。静心制意せいしんせいいって書いてあるけど、あれ字が違いますよね?」


 本当は組み手の休憩中にでも沙姫に聞こうと思っていたんだけど、すっかり忘れていた。


「そうね。あれは父が書いた物でね、字は当て字なのよ」


 父ってのは読んで字の如く、父親の事だろうな……と言うかそれ以外に無い。

 って待てよ。沙夜先輩の父親が書いた掛け軸がここに掛けてあるって事は……。


「この道場主が父なのよ。私と沙姫に武術を教えたのもね」


 やっぱりそうか。家に道場がある時点で薄々予想はしていた。

 武術を使える事と家に道場があるのを考えれば自然とその答えが出てくる。


「でも、今は家にはいないけれどね」

「それで、意味は何なんです?」


 前に言ってたな。確か両親は揃って出稼ぎしてるんだっけか。

 まさか読み方が同じで意味も同じって事は無いだろ。


「これはね、『静かな心を持って相手の意を制せ』って意味なの。簡単に言うと、常に心静かに冷静になって相手の動きを読め。って事ね」

「へぇ、なるほど」


 聞けば納得が出来る意味だ。

 それに、その掛け軸の意味は対人戦では重要な事。感情に任せて熱くなってしまえば攻撃も単調になりやすいし、まともに頭も働かなくなる。

 常に心は冷静に構える事、これがまず相手を倒す為の一番の基本と言える。

 基本がしっかりしていないと、それ以外も全て疎かなままだ。

 それを解っている沙夜先輩の親父さんは、それ相応の実力を持っていると思える。


「ちょっと長話になっちゃったわね。お盆を片付けないと」


 沙夜先輩は壁から背中を離して、寄り掛かるのをやめる。


「そうですね。俺も着替えて帰らないと」


 じゃないと、きっと夕飯を食べて行けと言われ……。


「あら、せっかくなんだから夕飯食べて行きなさいよ。咲月君」


 ちゃったよ、オイ。

 さすが沙夜先輩だ。掛け軸の通り、相手の意を制してるよ。


「いやその、この前も頂いたから今日は遠慮しますよ」


 二回連続で夕飯を食べて行くのはさすがに悪い。

 今日は大人しく帰って野菜炒め丼に合う調味料を開発してますよ。


「予定でもあるの?」

「そういう訳じゃないんだけど……」

「ならいいじゃない。遠慮なんかしないでいいから、ね?」


 とは言われてもなぁ。やっぱり抵抗はある。


「実はね、今日咲月君が来るっていうから沙姫が私と当番を変わってまで料理を作るって張り切っててね」

「え、沙姫がですか?」

「そうなのよ。ほら、前に沙姫が料理出来るって話をした時に、咲月君は半信半疑で信じてなかったでしょ?」


 あぁ、そんなのあったな。

 沙姫が料理作れるのは沙夜先輩が本当だって言うから信じたら、沙姫の奴少し不機嫌になったんだっけ。


「あれをまだ気にしてるみたいなの」


 沙夜先輩はクスクスと笑う。


「だから昨日、大量に食材を買ってきたみたいだし。『絶対咲月先輩にギャフンと言わせてやる!』なんて言ってたのよ」

「ギャフン、ですか」


 普通は『美味い』とかじゃないか? 第一、リアルにギャフンなんて言う人はいないから。


「だから食べていってあげて。沙姫の事だから、多分沢山作ってると思うのよ。じゃないと、夕飯が余っちゃって勿体ないでしょ?」

「うーん、そうだなぁ……」


 沙夜先輩もこう言ってるし、何より沙姫には組み手に付き合ってもらったしな。

 沙姫が俺に食べさせようと料理を作ってるのに、それを分かってて食べずに帰る方が失礼だ。


「じゃ、帰ったら後が恐そうなんで今日も御馳走になります」


 食べずに帰ったら後で沙姫に文句を言われそうだし、それにせっかくの厚意なんだから素直に受けよう。


「えぇ、そうしてくれると助かるわ。二日連続で中華は私も少しきついから……」

「二日連続?」


 あ、そうか。余ったら次の日の食卓にまた並ぶか、弁当のおかずになるかのどっちかだもんな。

 沙夜先輩は沙姫と二人暮らしだけど、一人暮らしの俺と親が居ない同士やる事はあまり変わらないみたいだ。

 ただ、質は違うけどな。次の日のおかずになる料理の質は。


「それじゃ、私はこれを片付けるから。咲月君は着替えが終わったら客間で寛いでて」

「あ、はい」


 そう言って沙夜先輩は道場から出ていった。

 客間……ってあぁ、この前わびさび煎餅を食べたあの居間の事か。


「さて、んじゃ着替えるか」


 床に置いていたタオルを拾って更衣室に行こうとしたが、手にしたタオルがかなり濡れている。

 これじゃ汗を拭けそうにないので、一回水で洗ってこようと道場を出る。

 水道の蛇口を回して水を出して、三回程濡らして絞ってを繰り返えす。最後は強めに絞り、蛇口を閉めて道場に戻る。

 更衣室に向かう途中に絞って丸くなったタオルの端を持って、上から下へ一気に振って遠心力でタオルを伸ばして元の形に戻す。首に掛けるとヒヤリと冷たく気持ちいい。

 更衣室に入り、道場には誰も居ないけど一応扉を閉める。

 首に掛けたタオルは左手に持って、右手だけを使ってTシャツを脱いでいく。

 しかし、汗で濡れているもんだから肌にくっ付いて中々脱げない。

 なんとか少しずつ脱いでTシャツはバッグの横に軽く投げ、上半身を濡らしたタオルで汗を拭く。


「しくったな。来る時に寄ったコンビニでボディスプレー買ってくるんだった」


 晩飯を食べていく予定じゃなかったから、組み手が終わったらすぐに帰るつもりだった。

 だから、ボディスプレーを買うなんて事は頭になかった。一応身体の汗は拭いたし、服も着替えるから大丈夫だとは思うけど。

 ジャージも脱いで、バッグの上にかぶさっていたジーパンを取って履く。さすがにパンツの替えまでは持ってきていなく、パンツが汗で濡れて冷たいのは我慢だ。

 上も来る時に着ていたTシャツに着替えて靴下も忘れずに履き、 脱いだTシャツとジャージ、タオルはバッグの中に突っ込む。

 携帯電話と財布をジーパンのポケットに入れ、ショルダーバッグを肩に掛けて更衣室から出る。

 道場から出る前に、入り口で振り向いて道場を一回見回す。

 そして、頭を下げて道場に一礼。


「ありがとうございました」


 礼と言うのは試合をする相手だけではなく、試合をするに至って使用した場所にも感謝の意を込めてする。

 それが礼儀である。と、これもまたクソ親父に教え込まされた事だ。

 頭を上げて道場から出て、繋ぎの渡り廊下を通って家の中に入る。

 廊下には、嗅いだだけでも腹が空いてしまいそうな香ばしい匂いがしてきた。これはもしかすると、沙姫の料理はかなり期待してもいいのかもしれない。

 さて、台所に行っても沙姫の邪魔になるだけだろうし、沙夜先輩に言われた通り客間に行ってよう。

 玄関から一番近い部屋なんでどの部屋か覚えている。


 客間に着くと、戸は開けっ放しにされていた。

 部屋に入ると開いているのは戸だけではなく、入って右側の障子も開いていた。

 この間来た時は時間が遅かったからか閉まっていたから分からなかったけど、障子を開けると縁側があった。

 縁側の出窓も開けており、客間から庭が見える。

 バッグは部屋の隅の方に置いて、座布団の上に座る。戸は開けっ放しにしてる為、時折廊下で嗅いだいい匂いが鼻に入ってくる。

 部屋の時計を見ると六時を過ぎていた。寛ぐのはいいが、やる事がない。

 寛ぐのと暇をするのは別だ。

 テレビはあるんだけど見る気が起きない。と言うか、リモコンがどこにあるか分からないし。

 なのでとりあえず……。


「んぁーー、っと」


 寝転がってみた。仰向けになって畳の上に寝転がり、部屋の天井を仰ぐ。

 はぁー、なんて深い溜め息を吐いて大の字になる。

 数十秒ボケーッとしてから右腕を動かして、顔の前で手の平を2、3度グッパッと握ったり開いたりする。

 拳を握るのに力があまり入らず、腕は重い物を持ち上げるでもないのに少し震えている。


「こりゃ明日は筋肉痛かな」


 腕の力を抜くと、人形の腕のように畳の上に落ちた。少し動かしただけで腕は疲れて、ダルい。

 そりゃあ、一年以上もやっていなかった組み手をあれだけブッ続けてやれば筋肉痛もなるさ。

 一体何時間やったよ? 沙姫の家に着いたのを二時として、着替えをしたのを入れて二時半か。

 やめたのが大体五時半過ぎで、そっから休憩時間を除いて……うわっ、約三時間はやってた事になる。

 身体が怠くて、なんか帰るのが面倒臭く思ってしまう。

 晩飯を食ったら満腹感でもっと帰るのが面倒に感じるんだろうなぁ。

 縁側の出窓からそよ風が入ってきて前髪が微かに靡く。


「あー、楽だぁ」


 組み手の疲労感で身体の力は抜け、そよ風は肌を撫でる。

 そして、畳の匂いがいい感じにリラックスさせてくれる。

 自然と瞼が閉じていき、意識が遠退いていく。




   *   *   *



 ――燃え―――。


 ―――燃――るな――。


 違――燃え――――は……。




   *   *   *




「はっ!?」


 ビクリと身体が跳ね、閉じていた瞼が勢いよく開かれる。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 荒く激しい呼吸と心音。また例の夢を見てしまったらしい。


「やべ、寝ちまってた」


 額に手を当てながら上半身を起こす。時計を見ると、十分程しか経っていなかった。

 はぁ、と深く息を吐いて額の汗を手で拭い取る。

 最近、本当にあの夢をよく見る。前は一ヶ月に一回に見る程度だったのが、今だと毎日のように見ている。

 だけど、いつもは何時間も寝てる時に見ていたのに、今みたいに少しの仮眠で見たのは初めてだ。

 一体何でこんなにも頻繁に、しかも同じ夢を見るのか……。お陰で、ただでさえ組み手をして身体が疲れてダルいのに、さらにダルくなった。

 それに、あの夢を見た時の一番のネックは気分まで悪くなる事。寝て起きる度にこれだと、寝るのが嫌になりそうだ。

 ついさっきまでは良い気分だったのが、夢のせいでひっくり返ってしまった。


「はぁ、ったく……」


 愚痴の一つでも言いたかったが、自分が勝手に見ている夢にどう愚痴を言えばいいか分からず、出るのは溜め息だけだった。

 畳の上に両手を着いて天井を見上げると、どこからかチリンと鈴の音が聴こえてきた。


「あ?」


 天井から視線を下げて部屋を見回そうとすると、左腕にフサッと良い感触。

 左腕の所を見ると、そこには一匹の猫が擦り寄ってきていた。


「猫?」


 毛色は黒一色で、身体は少し小柄で普通の猫より小さい。

 首には赤い首輪をしていて、その首輪には鈴が付いていた。さっきの鈴の音の正体はこれらしい。

 縁側の出窓が開いているから、きっとそこから入ってきたんだと思われる。

 猫は腕に身体を擦り寄せて来て、遊んで欲しいのかニャアと鳴く。


「遊んであげたいけど、勝手に家にあがって来たら怒られるぞ」


 猫の首の下を撫でてやると、猫は気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らす。


「あら、ニボ助じゃない」


 お盆に俺が買ってきたオレンジジュースを乗せて、沙夜先輩が部屋の戸の前に立っていた。


「あ、沙夜先輩」


 沙夜先輩は部屋に入り、テーブルの上にお盆を置く。

 すると、猫は俺から離れて沙夜先輩の傍へと歩み寄る。


「お腹でも空いたのかな?」


 沙夜先輩が猫の頭を撫でると、言葉を理解してるのかニャアと返事をする。


「じゃおやつあげようか。咲月君、喉が乾いてたら好きに飲んでね」


 お盆からコップとジュースをテーブルに置いて、沙夜先輩は小走りで部屋から出ていく。

 猫……いや、ニボ助は利口な事にしっかりとお座りして大人しく待っている。

 喉が乾いていたので、ペットボトルの蓋を開けてコップにジュースを注ぐ。ジュースを飲んでいると、ニボ助がこちらを見ていて目が合う。


「さすがにこれはあげれない……よな?」


 ニボ助が物欲しそうにしているように見え、コップに入っているオレンジジュースを見る。

 猫にオレンジジュースを飲ませるってのは見た時ない。普通なら牛乳とかなんだろうけど。

 まぁ、すぐに沙夜先輩が何か持ってくるだろうから我慢して待ってろ。


「ニボ助、おやつ持ってきたわよー」


 ほら来た。

 沙夜先輩は片手におやつなる物を持ってきて、ニボ助の前に座る。

 ニボ助の視線は沙夜先輩ではなく、沙夜先輩が持っているおやつに向けられている。

 おやつを持った手をニボ助の前に出すと、ニボ助は勢い良く食べ始めた。

 沙夜先輩が持ってきたおやつは、小さく食べやすいように切った魚肉ソーセージ。


「この猫、沙夜先輩が飼ってるんですか?」

「いえ、飼ってないわ。この子は野良猫」


 一生懸命におやつを食べるニボ助の頭を、沙夜先輩は空いてる片方の手で撫でる。


「野良? でもこの猫、首輪付けてますよね?」


 おやつを食べて動く度に、首輪に付いている鈴が小さく鳴る。


「あぁ、これね。この子、女の子だから私がオシャレさせようと思って付けたのよ」

「あ、こいつって雌だったんだ」


 って待て。雌なのに名前はニボ助?


「何度か家で飼おうと思ったんだけど、ニボ助ったらすぐにどっか行っちゃうから諦めたわ。たまーにこうしておやつを貰いに来るのが丁度良いのかもね」


 おやつを食べ終わったニボ助を持ち上げて、沙夜先輩は自分の膝の上に乗せる。


「自由気ままが猫の特徴だからなぁ。ところで、なんでそいつの名前ってニボ助って言うんです?」

「それはニボ助が初めて家に来た時にあげたのが煮干しでね、そしたら美味しそうに食べたのよ。それ以来、来た時には煮干しをあげてたの。だからニボ助」


 ね? と沙夜がニボ助に話掛けると、ニボ助はニャアと返事をした。


「でも煮干しばっかりあげ過ぎたのか、今じゃ煮干しを出しても食べなくなっちゃったのよね」


 煮干しを食うからニボ助だったのに、それじゃニボ助じゃねぇじゃん。

 そもそも雌なのに助ってのはどうよ?

 このどっかズレた感のあるネーミングセンスは、名付けたのは沙姫っぽいな。


「名付け親が私だから、その分可愛く見えちゃうのよね」

「え、名前を付けたのって沙夜先輩なんですか?」

「そうよ。可愛い名前でしょう?」


 あ、あっれー? てっきり俺は沙姫が付けたと思ったんだけど……。

 才色兼備で完璧な沙夜先輩に意外な一面発見。ズバリ、ネーミングセンスが無い。


「ニャア」

「あら、どうしたの? おやつはもうないわよ?」


 沙夜先輩と話をしていると、ニボ助が沙夜先輩の手を前足で触ってきた。 沙夜先輩が手を開いて何も持っていないのを見せると、ニボ助は鳴きながら沙夜先輩を見る。


「おやつ、足りなかったんじゃないですか?」


 ニボ助の仕草は明らかにおやつを欲しがっている。


「いつもあげてるのと同じ量をあげたんだけど……あ、そうか。わかった」


 沙夜先輩はニボ助の意図にに気付き、頭を撫でる。


「咲月君の言う通り、足りなかったみたい。多分、おやつじゃなくて御飯を貰いにきたのよ。時間が時間だしね」

「あー、なるほど。それじゃ、あれ位のおやつじゃ足りないよな」


 時間はすでに夕刻を過ぎている。人間の俺が腹が減ってるように、猫のニボ助も当然腹を空かせている。

 それに考えてみれば、おやつって時間じゃないしな。


「私達も少ししたら晩御飯だから、その時にあげるからちょっとだけ我慢してちょうだいね?」


 そう言いながら沙夜先輩がニボ助の頭をもう一度撫でると、ニボ助はニャアと鳴いて返事なのかどうか分からない返事をした。

 だけど、俺も腹減ったなぁ。たまにする廊下からのいい匂いが空腹を刺激してくる。

 今の時刻は六時四十分を過ぎた所。沙姫が道場を出ていったのは五時半あたりだったから、一時間で飯を作るのはさすがに無理だ。

 早くても後三十分は待たないといけないだろうな。なまじ良い匂いがするから、ちょっとした生殺し状態だよ。

 今にも腹の虫が鳴りそうな腹を擦りながら、沙夜先輩と遊ぶニボ助を見ていると廊下から足音が近づいてくる。


「姉さーん、咲月先輩、ご飯出来ましたよー……あ、ニボ助だぁ!」


 沙姫が部屋の戸から顔を出したかと思ったら、凄い速さでニボ助の所へ行く。


「いつ来てたのよー?」


 ニホ助の喉元を撫でて、じゃれて遊ぶ沙姫。


「ついさっき、咲月君が一人の時に来たみたい。それより、ご飯が出来たんじゃないの?」

「あ、そうだった。ご飯出来ましたんで、ささ、台所へ」

「だってよ、ニボ助。じゃ、ご飯食べに行きましょうか」


 ニボ助を抱きかかえて立ち上がり、沙夜先輩は部屋から出ていく。


「あーっ! 私もニボ助を抱きたいのにぃ!」


 羨やましそうな目で、出ていく沙夜先輩の後ろ姿を目で追う沙姫。

 続いて俺も台所へ行こうと立ち上がる。


「しっかし、料理作んの早ェな。一時間ぐらいしか掛かってねぇんじゃないか?」

「それは午前中に下準備してたからですよ。いくら何でも、何も準備無しからで一時間で作るのは無理ですから」


 沙姫と話ながら廊下に出て台所に向かう。

 笑いながら沙姫は言ってるけど、俺の料理は準備無しでも二十分もあれば楽に作れたりする。

 そりゃ適当に野菜を切って伝家の宝刀、焼き肉のタレを入れて炒めるだけだもんな。後はそれに塩胡椒を混ぜる程度。でもまぁ、男料理ってのはそういうモンだろ。

 台所に入ると沙夜先輩が冷蔵庫を開けて、何か考えながら中を見ている。


「何してるの、姉さん?」

「んー? ニボ助のご飯に何あげようか考えてるんだけど、これといったのが無くて……」


 冷蔵庫を漁る沙夜の隣には、ニボ助が自分専用と思われる皿の前で大人しく座って待っている。


「前に安かった時に買った猫缶がまだ余ってなかったっけ?」


 沙姫は冷蔵庫の隣にある戸棚の中を調べ始める。


「ほら、やっぱりあった」


 探して間もなく棚から猫の絵が描かれたラベルが貼られた缶詰が見つかる。

 そして、それを沙夜先輩に渡して、沙夜先輩はニボ助の皿に缶詰めの中身を盛る。

 するとニボ助は、待ってましたと言わんばかりに勢い良く食べ始めた。


「さ、私達も食べましょうか」


 この沙夜の一言が合図のように、三人は椅子に座る。

 場所は前回と同じ所に座った。と言うか、既にもう箸やらコップやらが置かれていた。

 食卓の上に並べられた料理を見ると、自分の料理とは比べ物にならない程に豪華だった。


「おぉ……こりゃすげぇ」


 あまりの凄さに口から勝手に言葉が出てしまう。それ位に凄い。

 テーブルの真ん中にある春巻きに続き、シュウマイ、カニ玉。そして、俺がここ毎日お世話になっている野菜炒めに似ている回鍋肉。

 ただ、俺の野菜炒めと大分違う。見た目も良ければ、当然味も良いだろう。

 そして何より、肉が入っている。なんて素晴らしい。なんて豪華だ。前に沙姫は中華料理が得意と聞いてはいたが、これは大したもんだ。

 まだ食ってはいないけど、見た目だけでも得意だってのは解る。


「はい、咲月先輩」


 ご飯を盛られた茶碗を差し出されたので受け取る。見た感じ若干大盛り。

 今気付いたけど、この前と違って沙姫と沙夜先輩の席が変わっている。多分、沙姫が料理当番でご飯を盛るからだろう。

 そして、沙姫と沙夜先輩にもご飯が行き渡る。


「それじゃ、冷めちゃう前に食べましょう! いただきまーす!」


 沙姫に釣られるように俺も手を合わせる。


「さぁどうぞ咲月先輩、食べてみてください!」


 勧めてくる沙姫は自信満々という表情。

 促されて春巻きを一つ小皿に取り、少し大口で一口食べる。


「咲月先輩、どうですか?」


 沙姫は期待と不安が混ざった表情で感想を聞いてくる。

 これは……ヤバい、半端無く美味い。

 一応、頭には『見た目は良いが味はハズレ』ってのも予想として入れていた。だが、これは見た目も味も完璧だ。


「正直に言う。マジで美味い」


 こんだけ美味いなら、もう素直に言うしかない。

 表面はサクッ、パリッといい歯応えがして中はトロッとしている。

 出来たてだからか少し熱かったが、この熱さがまた良かったりする。


「やたっ! これが私の実力ですよ!」

「あぁ、こりゃ確かに侮ってたわ。まさかここまで美味いとは……」


 春巻きをまじまじと見つめながら感心する。


「それにね、咲月君。その春巻きは沙姫の手作りなのよ?」

「はぃ!?」


 これを手作り……だってこれ見た目も味も店で出しても大丈夫なレベルだぞ。

 色だって綺麗な狐色だ。


「よくこれだけのを一時間で作れたな、本当」

「もう具を皮で巻いて油で揚げるだけって状態にして冷蔵庫に入れて置きましたから。だからあまり時間は掛からないですよ」


 そういやそうだ。沙姫は餃子だって作れるって言ってたもんな。

 もう一度春巻きをまじまじと見てみても、やはり市販の物とならんら変わらない。


「あ、もしかしてまだ信じてないんですね? 証拠に春巻きの具材を言ってみせましょうか? 春雨、木耳、挽肉……」

「いいっていいって! もう十分信じてっから!」

「本当ですかぁ?」


 疑うような目で俺を見る沙姫。どうやら、この間少しからかい過ぎたようだ。


「本当だって。あまりに美味いから感心してたんだよ」


 正直、ここまで美味いとは思ってなかったからな。見た目だけでも凄いのに、それ相応の味だし。


「……」

「あ? どうしたよ、沙姫。急に黙って」


 返事が来なかったので、沙姫を見ると何か呆けた顔をしていた。


「え、あ、いやその……まさかそこまで美味いと思ってくれるのが意外で」

「んだよ、俺が素直に美味いって言ったら気持ち悪いってか」

「ち、違います、違いますよ!」


 だけどまぁ、沙姫の反応も当然っちゃ当然か。この間あんだけからかったら、こんな反応もするわな。


「じゃ、まさかこれ全部手作りなのか?」


 ずらっと並ぶ豪華な料理。春巻き、シュウマイ、カニ玉、回鍋肉。全部で四種類。


「手作りなのは春巻きとシュウマイだけです。カニ玉と回鍋肉は市販の素を使って作りました。さすがに全部を手作りは時間が足りないですよ」


 いや、それでも十分凄ェよ。沙姫の料理と俺の料理を比べたら、俺のは料理と言えないもんよ。


「ほら、沙姫。私達も食べましょ。ニボ助なんかもう食べ終わっちゃってるわよ」


 何ですと?

 言われてニボ助の方を見てみると、本当に食べ終わって皿は綺麗に空っぽになっていた。


「本当だ、ニボ助食べるの早いねぇ」


 沙姫がニボ助に話掛けると、一言だけニャアと鳴いて台所から出ていく。


「あ、ニボ助帰っちゃった。ご飯食べ終わったら遊びたかったのにぃ」

「またお腹が空いたら今日みたいに来るんだから」


 残念がる沙姫をなだめる沙夜先輩。

 猫は気ままだからな。自分の目的を果たしたら、すぐにまた別のどっかに行ったりもんだ。


「それじゃ、私も食べようかな。いただきます」


 手を合わせてから、沙夜もご飯を食べ始める。

 しかし、沙姫の料理が美味いのはいいんだが……この量、三人で全部食えるのか?

 その後、他愛の無い雑談をしながら三人で夕食を取る。

 結果、やはり全てを平らげるのは無理で、シュウマイと回鍋肉が少し残してしまった。

 あのおかずでご飯無しなのも寂しいので、二杯目をもらって健闘はしたものの、あの量はキツかった。

 だが、春巻きとカニ玉は全部食べたのは褒めて欲しい所だ。

 数個のシュウマイと少量の回鍋肉、これなら後日二人でも処理出来るだろう。


「あー、本当食った。もう何も入んねぇ」


 椅子の背もたれに寄り掛かって腹を擦る。

 もう胃にたくあん一切れすら入る隙間もねぇ。


「咲月君、沢山食べたわねぇ。私の倍は食べたんじゃない?」

「残すのも悪いと思って食べたんですけど……ヤバい、食い過ぎた」


 沙夜先輩は少食なのかあまり食べる方では無いので、倍食べたってのは有りがち間違いじゃないかもしれない。


「私は片付けてお皿を洗っちゃうんで、咲月先輩は客間でテレビでも見て休んでてください」


 全員の皿を幾つかに分けて重ね、流し場に運ぶ沙姫。食事当番ってのは片付けも兼用みたいだ。

 しかし、客間は台所から出てすぐなのだが、腹が苦しくて椅子から動きたくないという心境でもあったりする。


「ねぇ、沙姫。急須知らない?」


 食器棚の前で沙夜先輩が沙姫に聞く。


「あ、ごめん。昼間に洗ってそのままだった。急須ならそこに置いてあるから」


 沙姫はエプロンを着けながら目で急須の置いてある所を指す。

 沙姫が料理を作ってる間はずっと客間にいたから解らなかったけど、沙姫がエプロンをしている姿もまた新鮮だ。

 失礼な言い方かもしれないが、普段とのギャップがそう感じさせるのかもな。


「沙姫、ポットにお湯は?」

「入ってるよ。ご飯作ってる時に沸かしたの入れたから」


 沙姫からポットを受け取って沙夜先輩はそれをお盆の上に乗せる。


「咲月君、ここじゃ何だから客間に行きましょ」

「うぃ」


 重たくなった腹を担ぎ、沙夜先輩の後ろを付いて行って客間へ移動する。

 陽も落ちて、飯を食べる前とは変わってすっかり部屋は暗くなっていた。

 そんな部屋の中に沙夜は慣れた足付きで入っていき、電球の紐を引いて灯りを点ける。

 自分の家だから、ある程度何処に何があるか感覚で身体が覚えてるんだろう。

 チカチカと何度か点滅した後に、電球の明かりが点く。


「虫が入って来ちゃうから、網戸を閉めないと」


 沙夜先輩はテーブルにお盆を置き、縁側の開いていた出窓の網戸を閉める。


「咲月君、適当に座っちゃって」


 網戸を締め終えた沙夜先輩が客間に戻ってくる。

 適当に、と言われても、結局はこの前と同じ場所に座る訳で。

 腹が重くて立ってるのも辛い状態なので、定位置になりつつある場所に座ろうとした時だった。


「……ぬ?」


 飯の前まで俺が座っていた場所の座布団の上に、バレーボール大程の物体が乗っかっている。

 すると、その物体がをこちらを見て一言。


「ニャア」


 この声で分かるように、座布団に座っていた物体はニボ助だった。


「お前、帰ったんじゃねぇのかよ」


 俺の言葉にニボ助はニャアと鳴いて答え、尻尾を怠そうにプラプラと動かす。

 あぁ、なるほど。お前も俺と同じで腹が苦しいのか。

 なんて勝手に理解したつもりになったりしてみたり。


「あら、ニボ助帰ったんじゃなかったの?」


 ニボ助に気付いた沙夜先輩も同じ事を言う。

 そりゃそうだ、みんな帰ったもんだと思ってたからな。


「ふふ。咲月君、ニボ助に場所取られちゃったわね」


 沙夜先輩はこの間と同じ、今ニボ助が座っている対面に座り、急須にポットのお湯を入れている。


「みたいですね」


 溜め息を一つ吐き、別の場所に座ろうと思った時。なんと、ニボ助が立ち上がって座布団の上から降りた。


「おぉ?」


 ニボ助は『まぁ座れよ』と言いたげな顔で俺を見上げる。


「……これはどうしたらいいんですかね?」


 足元の座布団を指差して沙夜先輩に聞いてみる。


「ご厚意に与ったらいいんじゃない?」


 微苦笑をしながら沙夜先輩は質問に答えた。


「……じゃ、失礼します」


 ニボ助さんのご厚意、有り難く受け取らせていただきます。

 一度、ニボ助さんに会釈をして座布団に座る。


「よっこらしょ、っと」


 年寄り臭い台詞を言いながら尻を着く。

 さっきまでニボ助が座ってた為、尻が少し温い。


「はい、どうぞ。咲月君」


 お茶を入れ終わった沙夜が、湯飲みを差し出してくる。


「あ、どうもです」


 それを受け取って一口飲もうとしたが、持った感じだとまだ熱そうだったので、そのままテーブルに置く。


「あ、咲月君の近くのテーブルの下にテレビのリモコンあると思うんだけど、取ってくれない?」

「はいよ、っと」


 テーブルの下を覗き込むと、沙夜先輩の言う通りリモコンが入った箱があった。

 中にはテレビのリモコンの他に、別のリモコンも入っていた。きっとビデオやDVD類のものだろう。

 箱を取って沙夜先輩に渡すと、足の上に何かもふっとした触感がした。


「ニャア」


 見てみると、ニボ助があぐらをかいた足の上に乗っかっている。

 そしてニボ助は、何気ない顔しながら丸くなる。


「あのー、これは?」


 足の上で丸くなってあくびをしているニボ助を指差して、また沙夜に聞く。


「さすがに退けるのは失礼なんじゃない?」


 沙夜先輩はまた微苦笑をしている。

 そうだよな。俺はニボ助から一応席を譲ってもらった身だし。

 だけど、その譲ってもらった席に座った俺の上のさらに上に、ニボ助は乗ってきた訳なんだけれども。


「膝の上に乗るって事は、きっと懐かれたのよ。良かったじゃない、咲月君」

「懐かれた、ねぇ」


 別に動物は嫌いじゃないから構わないんだけど……俺は貧乏学生だから、いくら尻尾を振ってもあげれるものは何もないぞー。


「ま、いいか」


 俺の足の上で気持ち良さそうに寝ているニボ助の頭を軽く撫でる。

 そういや、タオルで拭いたとは言え組み手で汗を掻きまくったのに、こいつは俺の足が臭くねぇのか?


「何か面白いのはやってるかしら?」


 俺から受け取ったリモコンで沙夜先輩はテレビを点ける。

 沙夜先輩がチャンネルを変えていくと、バラエティ、クイズ、歌番組、ニュースとテレビの画面も次々と変わっていく。

 すると、とある番組でチャンネルが止められた。


「あ、これがいいわね」


 少し上機嫌そうに沙夜先輩が言いながらチャンネルを止めたその番組は、今の時期では定番のホラー番組だった。

 薄暗くしたスタジオで霊媒師らしき人が、何やら誰かの霊を憑依するとかしないとか言っている。司会の人が言うには、その筋では有名な人らしい。

 はっきり言えば胡散臭ささが物凄くするが、こういう番組は必ずするもんだ。

 心霊写真なんかはまだ自分の目で見て己で判断出来るけど、今テレビでやっている憑依は、憑依している本人以外は真偽が解らない。

 人は目に見えないモノには必ず疑いや恐怖を感じる。その反面、自分がどうしようもなく困った時には神だ仏だ奇跡だと見えないモノにすがる矛盾した行動を取ったりする。

 身勝手な生き物だな、人間ってのは。

 ……いや、SDCに参加してる俺がそんな事を言える立場じゃねぇか。


 テレビでは既に、霊媒師が誰かの霊を自分に憑依させて司会の質問に答えている。

 なんでも、憑依した霊は遥か昔、戦乱時代を生きた当時では有名な武将らしい。

 当時ではって事は、今の世には名前は残されてないんだろ?

 そんなん適当な事を言ったって誰も分かりゃしないじゃねぇか。


「沙夜先輩ってこういうの好きなの?」


 霊媒師の憑依を見た感じでは、この番組はハズレっぽい。


「まぁね。番組が好きって言うか、番組を間接的に好きって言えばいいかしら」

「……? 何ですかそりゃ?」


 沙夜先輩の言った意味がよく分からなかった。


「すぐ解るわよ」


 楽しそうに笑いながらお茶をすする沙夜先輩。

 そんなにこの番組が面白いのか?

 胡散臭い事を喋っている霊媒師を映すテレビを見ながら、俺もお茶を飲む。


「食器洗い終了、っと。姉さん、私にもお茶ちょうだーい」

「はいはい」


 片付けを終えて沙姫も客間にやって来た。


「あれ、なんでニボ助がいるの?」


 ニボ助が俺の足の上で丸まっているのを沙姫が見つける。


「ま、いいや。ほらニボ助、こっちおいでー」


 沙姫はしゃがんで手を二、三回叩き、ニボ助を呼ぶ。

 しかし、ニボ助は頭を動かして沙姫を見るも、俺の足から移動する気配は無い。


「ニャア」


 そして、ニボ助は沙姫に一鳴きして外方を向く。


「動きたくないってよ」


 相手にされなかった沙姫を笑いながらニボ助の言葉を勝手に通訳する。


「さっきだって私だけ遊んでないのにぃ……」


 ガックリと肩と頭を落として沙姫は落ち込む。


「ニボ助が嫌だって言うんなら仕方無いでしょ。お茶入れたからこっち来なさい」

「むぅー……」


 少し頬っぺたを膨らませて、沙姫は沙夜先輩の隣に座る。


 まぁ、本当にニボ助が嫌がったのかどうかは分からんけどな。

 さっきのニャアは、もしかしたら『あーとーでー』と言ってたのかも知れないし。


「いいなぁ、咲月先輩。ニボ助を抱っこできて」


 羨ましそうな目をして沙姫が見てくる。


「代わりに俺はこの体勢を維持しなきゃらねぇけどな」


 だから、足を動かして伸ばすことが出来ない。足が痺れてしまったらアウト。

 それに、実際は抱っこしてるんじゃなくて、こいつが勝手に乗っかって来たんだけどな。


「気が向いたら遊んでくれんだろうから、お茶飲みながらテレビでも見て待ってろ」

「うん、そうします……で、二人で何を観てたんですか?」


 お茶を啜りながら沙姫はテレビが映している番組を確認する。


「この時期じゃよくある心霊番組らしい。番組名は知らん」

「……え?」


 俺の返答を聞くと、口にお茶を運んでいた沙姫の手が止まる。

 キリキリとゼンマイ仕掛けの人形のような動きで沙姫は首を動かして、顔を俺の方へ向ける。


「えっとね、『夏の特番、恐怖の心霊怪奇二時間特大スペシャル! あなたは本当の恐怖を知る。今夜は一人じゃ眠れない……』って言う番組名らしいわよ、これ」


 どこから出したのか、いつの間にか新聞でテレビ欄を眺めてる沙夜先輩。

 しかも親切にサブタイトルまで教えてくれた。


「九時までやるみたいだから、あと一時間半はあるわね」


 そう言って新聞を折り畳んで床に置く。

 その顔はどこか楽しそうに見えるのは気のせいか?


「ねね、姉さん、他のを見ない? 咲月先輩もそう思いません?」


 なんとも慌ただしく俺と沙夜先輩を交互に何度も見る沙姫。


「私は別に変えてもいいわよ。でも、咲月君がこれを見たいって言ったから、咲月君に聞かないと……ねぇ?」


 え、俺!? んな事は一ッ言も言ってねぇんですけども!?


「そうなんですか、咲月先輩!?」


 なぜか妙に必死になって沙姫がこちらにテーブルから身を乗り出して言い寄ってくる。


「いや、俺は……」


 なんで沙夜先輩はそんな訳分かんない嘘を吐くんだ?

 ズズイと近づく沙姫の隣で、死角から俺に向けてウインクをする沙夜先輩が見えた。

 それを見て、俺は頭の中でピピーンと音を立てて気付いた。

 はっはーん、なるほど。そういう事ですか。


「俺は……なんですか?」


 沙姫の声が聞こえ、視線をすぐ様沙夜先輩から沙姫へ戻す。


「俺はこれが見てぇな。こういう特番はこの時期にしかやってないだろ?」


 いやぁ、俺も鈍くなったもんだ。沙姫の急な慌てようを見ればすぐ気付くだろうに。


「い、いやでもホラ! 夏の特番は他にもあるじゃないですか、ね? そっち見ましょうよ?」


 この心霊番組からチャンネルを変えようとする必死さ、こりゃ確定たわ。沙姫は心霊系は駄目らしいな。


「んー、俺はこれでいいや。これはこれで結構面白ぇし」


 沙姫が心霊系が駄目だという確信を持ちながら、わざと知らないフリをしてからかう。


「あ、私もっと面白い番組が他にあるの知ってますよ! そっち見ません!?」


 自分が心霊系が駄目なのがバレているとも露知らず、なんとしてもチャンネルを変えようと必死の沙姫。

 そんな様子を見て、沙夜先輩は沙姫の影で声を殺しながら笑っている。

 ぶっちゃけ、俺も笑うのを堪えるのに必死だったり。しかし、こうも面白いと更に悪戯心がくすぐられてしまう。


「あれ、もしかして……沙姫ってこういうの嫌いなのかなぁ?」


 挑発するような口調で話す。沙姫は負けず嫌いな所がある。だから、こうして煽るような言い方をすれば……。


「べ、別に嫌いじゃないです! 全っ然平気ですよ!」


 ほらね、こうなる。ただ沙姫は気付いてないのか、言葉の所々の声が裏返っていたぞ。

 沙夜先輩なんか口を手で押さえながら俯いて、肩が震えている。つまり声を押し殺して爆笑してるって事だ。


「ならいいじゃねぇか。お茶を飲みながら心霊写真鑑賞でもしようぜ」


 沙姫とのやり取りをしている間に霊媒師は消えて、今は番組に投稿された心霊写真を霊能力者が検証している。


「あ、う……そ、そうですね」


 チャンネル変えに失敗して、力が抜けるように座る。


「ほら沙姫、あの光の球ってオーブって言うらしいわよ」

「ふ、ふーん」

「おい沙姫、見ろよ。写真に写ってる人の足が全部無くなってるぞ」

「へ、へぇー」


 沙姫に話を振っても、返ってくるのは一言だけ。チラリチラリとテレビに目を向けはするが、すぐに反らしてお茶を飲んで誤魔化している。

 ちょっとからかい過ぎたかな。しょうがない、そろそろ解放してやるか。


「なぁ、沙姫。お前、本当はこういうの嫌いなんだろ?」

「き、嫌いじゃないです! ただ少し苦手なだけですぅ!」

「なんだそりゃ?」


 新手のトンチか何か? 嫌いじゃないのに苦手ってどういう意味だよ。

 まぁ、一度意地を張って言った手前、今さら正直に吐ける訳もないか。

 だが、現時点で既に限界に近いのが解る。多分、後少し攻めれば折れると思われる。なので攻めよう。


「うわっ、この写真は凄いぞ。二枚の写真を合わせると男が叫んでる顔になるってヤツ。おい、沙姫も見ろって。なぁほら」


 俺でも少し怖いと思ってしまう程の心霊写真が出てきて、それを見ろよと勧める。


「んぅー……」


 沙姫は顔を俯かせ、身体を震わせてカタカタと湯飲みが音を立てる。


「もうっ! 正直に言いますよ! 私はこういうのは駄目なんです、怖いんですよ! だから、ね? 他のを見ましょうよぉー?」


 勢い良く頭を上げて暴露したかと思えば、半泣きになりながらチャンネルを変えようと縋ってきた。


「ぷっ……く、くく……」


 我慢の限界が越えたのか、沙夜先輩はとうとう笑い声が漏らした。


「あーはっはっはっ! やべぇ、は、腹痛ぇ!」


 堪らず俺も声を出して爆笑する。


「え、え、え?」


 いきなり笑い始める俺と沙夜先輩の予想外の行動に、沙姫は状況がうまく掴めず戸惑いながら二人を交互に見る。


「あ……あー! もしかして二人して私をからかってたんですねぇ!?」


 沙姫はやっと自分がされていた事に気付いく。


「って事は姉さん、咲月先輩にバラしたでしょ!?」

「私はバラしてないわよ。咲月君は自分で気付いたのよ」


 笑い過ぎてか涙目になりながら沙姫に答える沙夜先輩。


「絶対嘘だぁ!」

「本当だってば。ねぇ、咲月君?」


 沙夜先輩は目に溜まった涙を指で拭う。


「沙夜先輩の言う通りだよ。いきなりあんな必死になってりゃ誰だって気付くだろ。あー、本当笑ったわ。超腹痛ぇ」

「ぐぐ……いいですよ、もう! チャンネル変えますからね!」


 沙夜先輩の目の前に置いてあったリモコンを取ってチャンネルを変える。


「それにしても……くくっ、沙姫が心霊系が駄目だったとは……」


 必死だった沙姫の顔を思い出したら、また笑いが込み上げてきた。


「もういいじゃないですか! そろそろ私だって怒りますよ!?」

「あぁ悪い悪い。いや、これでも一応やり過ぎたと思ってんだから」

「……本当ですかぁ?」


 沙姫は半開きの目で疑うようにジトッと俺を見る。


「本当だって。ほら、この通り」


 ペコリと頭を下げる。


「なーんか信じられませんね」


 頭を下げたのにも関わらず、沙姫はまだ信じてくれない。

 ま、あんだけイジったらばそういう態度になりもするか。


「あ、じゃあ本当に悪いと思ってるなら、一つ私の頼みを聞いてください」


 頼み、ねぇ。まぁ、無理難題じゃなくて許容範囲内ならば構わない。


「別にいいぞ。アイスか? ジュースか? それともお菓子か?」

「食べ物じゃないです!」


 さっきやり過ぎたと謝ったばかりなのに、また沙姫をからかう。


「冗談だって、冗談。で、頼みって何なんだ?」


 道場での沙夜先輩と沙姫の会話を思い出してしまって、ついついまたやっちまった。


「そのですね、もし明日暇だったら組手しませんか?」

「へ? 組手?」


 予想外の頼みで、少しばかり気の抜けた声を出してしまった。


「そうです、組み手です。だって、たった一日動いただけじゃその……落ちないじゃないですか。色々と」


 途中から口籠もらせ、顔を少し赤らませながら話す沙姫。

 普段は細かい事は気にしない感じなのに、体重には敏感な所はやっぱり女の子なんだな。


「そんなゴニョゴニョしないでハッキリ言えばいいじゃない。ダイエットに付き合ってください、って」

「う、五月蝿いなぁ! 姉さんは黙っててよ!」


 元々、俺からもう一度頼んでみるつもりだったけど、向こうから言ってくるとは。これはラッキーだ。

 しかも明日という、二日連続で組み手が出来るってのは大きい。

 次にやるまで中途半端に間が空いてしまうと、取り戻しかけていた勘もまた戻ってしまう。


「もしかして予定あったりしますか?」

「いやいや、予定はない。基本俺は暇してるから」


 バイトをやめて以来、時間が余る事が増えた。だから、土日なんかはやる事がなくて暇。


「それぐらいの頼みだったら全然オーケー。いくらでも付き合ってやる」


 それで俺も昔の感覚を取り戻せる。さらに沙姫はダイエット出来るで一石二鳥だ。


「本当ですか!? やたっ!」

「でも、今日みたいに夕飯でご飯を三杯も食べたら意味ないんじゃない?」

「もう、なんで姉さんは一々横槍を入れるのよ!?」


 なんだか姉妹口喧嘩に発展しそうな気配がするのは気のせいであって欲しい。

 とにかくまぁ、組み手がまた出来るのは有難い。

 正直言うと、ご馳走を食った満腹感に浸れてて組み手の事なんて頭からすっぽり抜けていた。

 もしかしたら、沙姫が言ってこなかったら忘れっぱなしで帰っていたかも知れない。


「時間はどうします?」

「ん? んー、別に今日と同じでいいんじゃないか?」


 今日より早くして組み手をする時間を増やしたとしても、体力的に最後は時間が余ってしまいそうだ。


「そうですね。じゃ、明日も今日と同じ時間で」

「おう」


 これで暇だった明日の予定も、有意義な日曜日に変わった訳だ。


「寝坊助しないで、ちゃんと起きなさいよ」

「いくら私でもそんな時間まで寝ないわよーだ」


 お茶を飲みながら横槍を入れる沙夜先輩に、ベーッと舌を出す沙姫。

 本当、仲の良い姉妹だねぇ。と、心の中で少し皮肉を入れてぼやく。


「あ、これ私の好きな曲だ」


 テレビから流れてきた音楽に反応して、沙姫がテレビを見る。

 釣られて……って訳でもないが、沙姫が好きだと言う曲がどんな物か気になってテレビを見てみる。

 話をしていて気付かなかったが、沙姫は心霊番組から歌番組にチャンネルを変えていたようだ。


「これ、気に入ってCD買っちゃってさぁ」


 テレビには五人程のバンドグループが出て、女性ボーカルが歌っている。

 テンポも良いし、ボーカルも歌が上手い。いかにも若者受けしそうな感じだ。

 こうやって歌番組に出演して歌っているって事は、結構有名なんだろう。


「それにこの曲、ドラマの主題歌にもなってて人気が凄いのよね」


 沙夜先輩も知っているみたいで、さっきまで口喧嘩紛いな事をしていた二人は仲良くテレビを見ている。


「へぇ、そうなんだ。初めて聴いたよ、これ」


 いくら人気があって若者向けの曲でも、俺が聴くような曲ではないな。


「え、本当ですか!?」


 沙姫は目を開いて驚いた顔をする。


「いや、本当だけど……あれ、俺なんか変な事言ったか?」

「だってこれ、すんッッごい人気なんですよ!?」

「んな事言われてもなぁ……俺ってそんな流行に敏感でもないし、興味も大してねぇもんよ」


 別に流行に乗ってないからって死ぬ訳でもねぇんだし。

 それに、周りがやってるから自分もやる。みたいなのは好きじゃない。自分が好きなモンだけで十分だ。


「うっひゃあ、同年代にこれ知らない人いたんだ……」

「私も、ちょっとビックリしたわ」


 な、なんだよ、その天然記念物でも見るような眼差しは! しかも、沙夜先輩まで!

 だってほら、俺って普段はあまりテレビ見ない方だし、つい最近までは暇な日はバイトだったし。

 なんて心の中で言い訳染みた事を言ってみたり。まったくもって無意味だが。


「咲月先輩ってもしかして、音楽とか聴かない人なんですか?」

「最近の流行り曲には疎いけど、それなりに聴くぞ。ただ、かなり限られたヤツだけだけどな」

「ふーん。じゃ、どんなのを聴いてるんです?」


 沙姫が気に入っているアーティストは歌い終わり、テレビには違うアーティストが映っている。

 その違うアーティストには興味が無いのか、沙姫は俺との話を続ける。


「俺が聴くのはインディースのヤツでさ。あれよ、ほら。前にアドレス教えた時に言っただろ?」

「アドレス? あー、ありましたね。えっと確か……ディープキューブ、でしたっけ?」

「そうそう、それ。一度聴いたら気に入って、それ以来CDが出れば全部買ってる」


 実家を出て、こっちに引っ越してきた時に知ったんだよな。

 どこに何があるかを調べようと街をブラブラと歩いてて、たまたま寄ったCDショップで流れてたんだ。


「へぇー。ディープキューブだって、姉さんは知ってる?」

「いいえ、私も知らないわね」

「まぁ、マイナーだから。知ってたら逆に俺が驚くよ」


 だから、最初CDを見つけるのには苦労した。

 店内では曲が流れてるのに、そのCDショップには置いてねぇんだもんな。

 街中を探し回って、ようやく置いてるのを見つけたのは小さい店だった。見た感じ個人経営っぽくて店内は狭いんだが、インディーズの品揃えが完璧と言って良い程。

 むしろメジャー物は殆んど無かった。もしかしたらインディーズ専門でやっているのかも知れない。

 そこには今でも新曲が出る度にお世話になってる。

 内心、あまり売れてないように見えるので、店がいつ潰れてしまうか心配だったりする。

 あの店が無くなってしまったら、他にCDを買える場所が無い。それは凄い困る。出来ればずっと潰れずにいて欲しい。


「さてと、腹に隙間も出来たし……そろそろ帰ろうかね」


 湯飲みに入っていた残りのお茶を一気に飲み干す。


「もう帰っちゃうんですか? この前は九時あたりまで居たのに」

「今日は大分動いたから早めに休もうと思ってさ。明日も組み手するんだろ?」


 それに汗をかいたからシャワーも浴びたい。


「その方がいいわ。最近、この辺りは物騒な事が起きてるから……ね」

「あ、そっか……」


 少し空気が重くなった。

 沙夜先輩が言った物騒な事と言うのは、今この街で起きている連続行方不明事件だ。

 表ではその行方不明になった一人に、先輩も入っている。

 沙夜先輩は先輩と同じクラスだし、沙姫は屋上で一度は顔を合わせた事がある。

 空気が重くなったのは、未だに行方不明となっている先輩を思い出したからだろう。

 本当はSDCに拉致され、実体実験の被験体にされてしまっている。

 これは秘密事項だから二人に教える事は出来ない。と言うか、教えない方がいい。信じるかどうかは別として、ショックは受けると思う。


「ま、とにかく今日は帰るよ。ニボ助、悪いけど場所移動だ」


 ニボ助の両前足の脇に手を入れる形で持ち上げ、足の上から降ろす。

 じゃあな、と言ってニボ助の頭を一撫でして立ち上がる。


「それじゃ、私は見送りついでに戸締まりしに行こうかしらね」


 そう言って空になった湯飲みをテーブルに置いて、沙夜先輩も腰を上げる。


「沙姫は道場の戸締まりをお願い。開けっ放しにしちゃってたから」

「はーい。行こ、ニボ助」


 沙姫はニボ助を持ち上げて抱っこする。


「じゃ咲月先輩、気を付けて帰ってくださいね。明日寝坊しないでくださいよー」

「お前もな」


 道場の戸締まりをしに、沙姫は部屋からニボ助を連れて出ていった。

 隅に置いていたショルダーバッグを拾い、肩に掛ける。

 なんぼか食休みしたけど、なんかまだちょっと苦しいな。

 腹を擦りながら部屋を出て、玄関で靴を履く。


「足元見える? 電気点けようか?」

「あ、大丈夫です。見えます見えます」


 客間の開いた戸から明かりが漏れて、足元は余裕で見えた。

 沙夜先輩はサンダルを履いて玄関のドアを開ける。

 時間は九時になってはいないにしても、既に夜の時間帯。外は暗くなっていた。

 門の所までの数メートルを沙夜先輩と二人で歩く。


「咲月君、ごめんなさいね」

「ごめんなさいって、何がです?」


 会話が少しばかり途切れたと思っていたら、いきなり沙夜先輩に謝られた。

 しかし、一体何に対してのごめんなさいなのかが解らなかった。


「ほら、さっき客間で空気を悪くしちゃったから……」


 沙夜先輩は俺を見ずに話して、視線をやや下げている。


「なんで謝るんです? 別に気にしてないし、謝られるような事をされたとも思っていないですよ」


 確かに空気は多少重くなったりはしたが、沙夜先輩が謝るような事ではない。


「でも、私のせいで嫌な事を思い出させたでしょう?」


 横目で俺を見て、沙夜先輩は申し訳なさそうな顔をする。


「嫌な事、ですか?」

「うん……だから謝らないと、って。明星君と、仲良かったんでしょう?」


 沙夜先輩が先輩の名前を出すと、門の前で足をピタリと止める。


「あ、ごめんなさい。また気分悪くさせて……」

「いや、別に」


 しかし、俺は沙夜先輩と目を合わせずに背中を向けたまま。


「でも、やっぱり嫌なものね。身近な誰かが急にいなくなるなるっていうのは……それが親しい人だったら尚更、ね」


 沙夜先輩は自分の服の胸元部分を掴んで、話す声はいつもより弱々しい。


「……大丈夫ですよ、沙夜先輩」


 斜め後ろに居た沙夜先輩へ振り返る。


「あの気分屋の先輩の事だ。どうせまた、いつもの思い付きやら気紛れでどっかほっつき歩いてんだろうよ」


 腰に手を当てて、呆れ顔をして地面へ溜め息を吐く。


「気付けばひょっこりと、何食わぬ顔をして変わらずに帰ってきますよ。心配するだけこっちが損をするってモンです」


 呆れ顔の次は、苦笑いをする。


「だから、大丈夫です。先輩は必ず……帰ってきます」


 沙夜先輩に対しての言葉ではあったが、それ以上に俺は、自分自身に言い聞かせていた。

 それは自身に、先輩の身体であるコウとの戦いに対する覚悟と、必ず先輩を取り戻す決意を再度確かめる為でもだった。


「……ふふっ、そうね。あの明星君だもの。咲月君の言う通りかも知れないわね」


 俺の苦笑いに釣られ、沙夜先輩も苦笑いをする。


「沙夜先輩って随分と先輩の事を気に掛けてますけど、仲良いんですか?」


 以前にも、先輩を探しに屋上にまで来た事があった。

 それがきっかけで沙夜先輩と知り合えた訳だが。


「そうねぇ……仲が良い、とはちょっと違う気がするわね。私ってね、クラスの委員長をやってるのよ」


 あぁ、それは前に聞いた。確かそれも屋上で初めて会った時だっけ。


「それで明星君は問題児だったから、私がよく注意とかしてね」

「あぁ、そっか。委員長ですもんね」

「だけど、明星君ったら全く聞きもしない。遅刻は当たり前のサボり常習犯。授業に出てきたと思えば早弁か居眠り」


 うっ……耳が痛い。早弁はしないけど、それ以外は全て当てはまる。

 もしかして、今更だが俺って先輩と似た者同士だったり?


「学校で顔を合わせる度に私が注意して、口争いなんかしてね。そんなのが一年以上も続いたら、なんだかもう疲れたわ」


 沙夜先輩は溜め息を吐きながら肩を落として、呆れ顔……と言うよりは諦め顔になっている。


「え、一年以上?」

「そう。明星君とは入学して以来ずっと同じクラスなのよ。本当、もう腐れ縁よね。私も前もやってたからまたやって、なんて言われて三年続けて委員長やってるし」


 そう言ってまた溜め息を吐く沙夜先輩。

 先輩と沙夜先輩って一b年生の時からずっと同じクラスだったのか。ちょっとビックリだ。


「一年生の頃は、委員長を任されて気負ってたんでしょうね。今思えば自分でも口煩いと思う程に明星君に突っ掛かってたりして。でも、二年生に上がったてみたら、また委員長でしかも明星君も同じクラス。二年の初めも口煩く注意してたけど、二年目の委員長で少し余裕が出来たのかな。なんだか自分でも注意ばかりするのが馬鹿らしくなったのよ」


 なんか沙夜先輩の話を聞くと、委員長ってのも大変だなぁ。

 クラスの面倒な仕事だけじゃなくて、クラス全体をまとめなきゃならないんだもんな。

 俺のクラスの委員長は……あ、桜井か。


 先輩同様、俺も遅刻とサボりは十八番。って事は、俺ってクラスの問題児って事になる。

 でも、桜井はあんま注意とかしてこない。むしろ、普通に話をする。

 もしかして俺、注意しても無駄だって諦められてんのかも。


「だから、注意するだけじゃなくて会話もするようにしてみたりね。気付いたら普通に雑談なんかする位の仲になってたのよ」

「先輩って結構、気さくな所があるからなぁ」


 だから、俺も出会ってすぐに仲良くなれたんだと思う。


「それにほら、明星君って賑やかな事が好きだったりするでしょ? 運動会や文化祭とか」

「あー、そういえば去年なんかも張り切ってましたね」


 そうそう、先輩って普段はサボり上等のクセに、学校行事には進んで参加してたな。

 昼間は屋上で授業をサボって、放課後になったら文化祭の準備だー、なんて言って張り切ってたのを覚えている。

 活動時間が逆になってるってのな。


「そういうイベントの準備や小道具作りを手伝ってくれて、委員長の私としては凄く助かったわ。考えてみたら、多分それが一番の仲が良くなった切っ掛けだったのかもね」


 クスッと小さく沙夜は笑う。

 やっぱり、そういう学校行事をやるから仲が良くなったりするんだな。

 面倒臭いからって毎回サボってる俺は、今でもクラスで友達と呼べる奴はいない。

 明らかにクラス内では浮いちゃってるね、俺。


「……っと、いけない。せっかく咲月君が早く帰ろうとしたのに、ここで長話をしちゃったら意味無いわね」


 ハッと沙夜先輩は口に手を当てる。


「そうですね。ここで区切らないと、また話し込んじゃいそうだ」


 ははっ、と軽く笑い、止まっていた足を再び動かし門を潜って敷地から外へ出る。


「気を付けてね、咲月君。折角仲良くなったんだから、咲月君も居なくなったりしないでね」

「ははっ、大丈夫ですよ。それに、明日も来なきゃ沙姫に怒られますからね」


 冗談か本気か分からない沙夜先輩の言葉に、笑いながら答える。

 この場合、普通なら冗談だと捉える場面だが沙夜先輩の表情は笑っておらず、冗談とは捉えられなかった。

 だが、俺はそれに気付かないフリをして、敢えて笑って答えた。


「それじゃ沙夜先輩、おやすみなさい」

「えぇ、おやすみなさい」


 振り返り際に軽く手を振り、帰り道を歩く。

 今日は久々の充実した休日だった。さっさと帰ってシャワーを浴びよう。

 今夜は寝付きが良さそうだ。



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