二
4
会館の裏は林になっていた。この先は何があるのだろうか。ここを真っ直ぐ行くとどこかに行き当たったりするのだろうか、そんなことを考えながら、明日香は裏口から中へと入る。
一階には目もくれずに真っ直ぐに二階へと向かう。先ほど現場を見たときに何かの違和感を覚えた。それが何なのかを確かめたかったのだ。
実際のところ、もう一度現場を見るのは精神的にかなりつらい。多加志には自分が平常であるように見えたらしいが、決してそんなことはない。
先ほどの状況を想像するだけで身の毛もよだつ思いがする。しかし、警察が来てしまってからはもう行動に移すことはできないだろう。
とはいえ、別に確かめなくても問題はないのだ。自分は警察ではないし、探偵でもない。そもそも探偵は本来殺人事件に関わったりしない。だいたいが浮気調査や素行調査など、ミステリーファンとしては夢のない仕事ばかりである。
どちらにせよ、自分は何の関係もない素人なのだ。それでも、その違和感を放っておくことは、背中の手の届かない部分がかゆいような不快感を覚えるのだった。その不快感を拭うには警察が来る(さらには乾が戻って来る)前の今しかないだろう。
階段を上り終える前に、生臭い血の臭いが鼻を突く。先ほどは、近野の悲鳴に呼ばれて少なからず慌てていたので気がつかなかったのだろう。嗅覚が麻痺していたのかもしれない。
実習室は学校の教室のように部屋の前後に引き戸の扉がついていて、手前の扉は今は開いている。
部屋の中を覗く前に、立ち止まった。緊張や恐怖から冷や汗が湧き出てくるが、深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
「…………よし」
もう大丈夫と感じた時点で中に一歩踏み出した。
すぐに違和感の正体がわかった。
「なんだ、簡単……!?」
突如、背後から何者かに首を絞められた。紐ではない、手でもない、腕だ。肘を巻きつけるようにして絞められている。
男だ。そう直感する。
相手の腕に手をかけて引き剥がそうとする。
振りほどこうとするが、力が足りない。
力を入れているせいで酸素があっという間に消費されていくのがわかる。
無理だ。
このままでは力尽きる。殺されてしまう。
せめて、顔を……。
何を言っている?
殺されたら関係ないじゃないか。
それすらも関係ない。
とにかく、苦しい。
早くしないと。
何を?
何でもいいから。
あと少し。
あと少し首が回れば。
よし! …………ちくしょう!!
見えたのは黒い目出し帽。
そりゃそうだ。
簡単に顔を見せてくれるはずがない。
駄目だ。
もう、駄目だ。
意識が遠のいていく……。
5
「あれ? 明日香は?」
しばらく沈黙が続いていたが、近野がたった今気がづいたかのように言い出した。キョロキョロとあたりを見回すその眼差しは心なしか虚ろである。
「さっき裏に行ったじゃないですか」
もしかして、気づいていなかったのだろうか。確かに黙って行ってしまったが、気づかないほどだっただろうか。しかし、確かにこの非現実的な状況では無理もないと思った。実際、自分も声も掛けずに放っておいたのだ。
「でも、ちょっと遅いですね」多加志は時計を見ながら言った。
しっかり計ったわけではないが、彼女が裏に向かってから十分ほどはたっているだろう。彼女のことだから(何を根拠とするかは定かではないが)現場を荒らしたりはしていないだろうが、それならば帰ってくるのが遅すぎる気もする。そもそも、何をしに行ったのかがわからない。
「見に行きますか?」
「ああ、変なことしてなきゃいいけど」近野は立ち上がった。
建物の横を通り裏口へと回る。その途中で近野が立ち止まった。
「……なんか、焦げ臭くないか?」
近野に言われて多加志も立ち止まる。確かに焦げ臭い。魚を焼きすぎて焦がしてしまった程度のものではない。もっと異臭と呼べるような強烈な焦げ臭さだ。だが、あたりを見渡しても特に変わったところはない。
「どこですかね? ……うわっ!!」
多加志が首を傾げた瞬間、何かの割れる音がして、上から何かが降ってきた。咄嗟に手を頭にかざす。
それはガラスだった。つまり二階の窓である。破片で頭を切ったりしなかったのが幸いだった。しかし、何故割れたのか、ハッとなって上を見上げると、割れた窓から炎が噴き出していた。
俄かには信じがたかった。
「ちょ、ちょっと待てよ!」近野はあまりに唐突な状況に声を荒げ、やがてふと何かに気がつき顔が引きつる。「明日香……」
スイッチが入った。
多加志は駆け出した。近野が何か叫んでいるが、もう聞こえない。
焦りで足がもつれそうになりながらも、裏口から中へと入る。まだ一階は無事のようだが、上からの熱気を感じる。
階段を駆け上がるが、最後に躓いて、膝を床にぶつけた。だが、痛みを感じる余裕もなかった。
実習室から容赦ない熱気が多加志を襲う。何かの怒りでも体現しているのだろうか、そう思いたくなるほどの威圧感、圧迫感、恐怖感。おそらく、中に入れば一瞬で灰になることができる。考えるまでもなかった。
だが、希望は残っていた。彼女は部屋の外にいた。部屋の前の廊下に横たわっていた。
「明日香!」
駆け寄り声を掛けるが応答はない。だが、まだ温もりは感じる。ただ単にこの炎の熱のせいなのかもしれないと一瞬よぎったが、そんなことを考えている暇はないと、考えるのをやめ、急いで彼女を担いで階段を下りる。後ろで大きな音がした。おそらく炎が廊下にまで侵食してきたのだろうが、確認する余裕などない。見向きもせず必死に建物から逃げ出した。
裏口から外に出ると全身の力が抜けてしまった。その拍子に明日香を放り出しそうになり、慌てて体に力を入れなおす。それでも、体が小刻みに震えてうまく力が入らない。
とはいえ、一応炎からは脱した。だが、まだ安心できない。一刻も早く建物から離れなければ危ない。
明日香を背負って表通りに出た。集まる野次馬を見て、初めて安全圏に入ったのだと、一息つくことができた。
その、いつの間にか集まった野次馬の先頭に近野の姿が認められた。彼は足の小指を家具の角にぶつけても足りないくらいの悲痛な表情をしていた。例えが悪かっただろうか。
「大丈夫ですよ。生きてます」多加志は微笑もうとしたがうまくいかず引きつってしまった。
だが、その言葉に嘘はない。先ほどから彼女の息遣いが聞こえてくるのだ。
それを聞いて、近野はその場にへたり込んでしまった。
「良かった……」
明日香を背負ったまま振り返る。当たり前だが、相変わらず会館の炎は燃え盛っていた。
「消防団には連絡したから、大丈夫だ」近野はよろよろと立ち上がる。
多加志はひとまず安心した。だが、それ以上に明日香の身が心配だった。
「救急車は?」
「ない。俺、車持ってないから、誰か車を持っている人に診療所まで運んでもらおう」
近野は周囲を見渡した。
6
彼女の口から小さなうめき声が零れる。多加志は過敏に反応して椅子から転げ落ちそうになった。真っ白いベッドで横たわる明日香をじっと見る。
数度の瞬きの後、彼女は目を覚ました。
「良かった……」多加志は目頭を押さえ、俯きながら椅子に座り直しもう一度、良かった、と呟いた。
「エアコン……」彼女が呟く。
多加志は顔を上げた。
「え? ああ、ちょっと寒いかな?」多加志は立ち上がりエアコンの温度を変えようとした。
ところが、この部屋にはエアコンがないことに気がつく。確かに古い診療所ではあるがエアコンがないのはどうだろうか。代わりに全開にした窓から心地よい風が吹いているのでよしとしよう。
ところで、彼女は何のことを言っているのだろう? 彼はわけもわからず、彼女を見つめた。もしかして彼女も部屋にエアコンがついていると思ったのだろうか。それなら窓も閉めた方がいいだろうかと、窓辺に寄る。
「いや、あの部屋、エアコンが全開だったの」彼女は先ほどまで気を失っていたとは思えないほど、しれっと言ってのけた。
「あの部屋って。あの?」多加志は窓を閉めるのをやめ、体の力が抜けたように椅子に座り込んだ。
血の気が引いていくのがわかる。何をそんなことを言っているんだ。さすがに、多加志も彼女がここまで変わっているとは思っていなかった。
「うん。あの死体があった部屋」
明日香のあまりの平静ぶりに多加志は言葉につまる。どうにも彼女の思考回路がわからない。
「あれ、京太君は?」彼女は首を扇風機みたいに回した。
「いないよ。たぶん町役場かな」
「ああ、駐在所じゃ狭いから? あ、ところで今何時?」
「君、思考がぶっ飛びすぎじゃない?」
「思考が早いって言ってほしいな」
「うん。ジェット機並みに早いよ」
「それって、結局飛んでるね。で、結局今何時?」
「午後三時。日付は跨いでないよ」
「五時間半か。……お腹すいた」
「僕もだ」
「何も食べてないの?」
「食べる気が起きない」
彼女がこんな目にあったことも、あんな死体を見てしまったのも、全てが原因で、空腹を訴える胃に対して全くの食べる欲求が湧いていなかった。
「何か食べに行こう?」
「僕の話聞いてた?」多加志は苦笑する。
その後、医師がやってきて診察した後に二人は解放された。明日香は運よく何も問題はなく、後遺症もないとのことだった。入院も進められたが彼女は断った。
二人は警察に話をするために町役場に行くことにした。というよりは警察に来るように言われていた。それこそ彼女が言ったとおり駐在所では狭いので、町役場を借りて事情聴取するらしい。
彼女の状態次第では警察の方から診療所に来る手筈だったが、明日香が行くと言い出したので、それに従った。
「会館はもう入れないかな?」診療所を後にして彼女が口にする。
「当たり前じゃないかな」
「警察でいっぱい?」
「警察がいなくたって入れないよ」
「どうして?」彼女は首を傾げる。
彼女の質問で多加志は、彼女がどういう死線をくぐってきたかを知らないことに気がついた。
「燃えてしまったから」
「え!?」彼女は驚愕からか立ち止まる。「そうか、どうりでヒリヒリすると思った」そう言って彼女は右手で右の頬を触った。
「ところで、どうしてあそこにいたの?」
「私、どこにいた?」
「僕が聞いてるんだけど。会館の中だよ」
「会館のどこ?」彼女は視線を落として考えにふけっているようだ。
「実習室の前に倒れてた」
「中じゃなくて?」
「うん。中じゃなくて廊下だったよ。だから、どうしてあそこに倒れていたの?」会話のペースをつかめずに、多加志は少し苛々してきた。
「首を絞められた」彼女はそっけなく答えた。
今度は多加志が驚き唖然とする番だった。思わず足が止まるが彼女は気にも留めずに歩いていく。
「ちょ、ちょっと! 首を絞められたって……!?」
しかし彼女は何も言わずに黙ってしまった。何を話しかけても上の空で、考えにふけって外部との交流をシャットアウトしてしまっていた。
多加志は仕方がないので遠くに見える海を眺めながら歩いくしかなかった。
「あ、そうそう」しばらくして彼女が口を開く。「私を助けてくれたのって、保川君?」
「え、ああ、まあ……」多加志はお茶を濁した。
ここで、そうだよ、と言うのも恩着せがましいし、違うと嘘を言うのも理由がない。どうにも曖昧な返事になってしまった。
「そう。ありがとう」彼女は微笑んだ。
それだけで火の海に飛び込んで良かったと思えた。
「けど、目が覚めたときに保川君がいたからそうかなって思ったんだけど、京太君の気もしたんだよね。何か『明日香』って呼ばれた気がしたから」
「……気のせいじゃないかな」
今度の答えは嘘をつく理由があったかもしれない。