三
5
「ああ、イライラする!」
「おいおい。女性もいるんだぜ? ムラムラするなんて思っても言うなよ」
「言ってません」
丹田がニヤついた顔で低俗な冗談をけしかけてくるが、それを軽くいなして多加志は団扇を扇いでいた。ただし、扇ぐのは自分にではなく、目の前にあるバーベキューセットである。扇げば扇ぐほど汗が吹き出てくる。努力が報われない。王様の横で大きな団扇を仰いでいる侍女の気分だった。つまり、多加志よりバーベキューセットの方が身分が上ということになる。
何だか、やるせなかった。
先ほどからバーベキューコンロの中では炎が燃え盛っている。もっとも、燃えているのは焚き付けだけで炭に燃え移る気配はまだない。焚き付けが、嫌われているのに気がつかずに意中の女の子にアプローチし続ける哀れな男子に見えた。
「しっかし点かねえなあ。炭、湿気ってんじゃねえの?」
丹田は煙草を燻らせながら言った。手伝う気はないらしい。
「ちょっと、道弘! サボってないで手伝いなさい!」
隣のコンロでうちわを仰いでいた鷹梨がキツイ声で丹田をしかる。仕方ねえな、と丹田は隣のコンロに移って鷹梨から団扇を受け取った。
彼はやる気のなさそうに団扇を扇いでコンロに風を送っている。四年の高山が隣で真剣にやっているというのにだ。
「おい、保川。やばいぞ! 消える!」
こちら側にいた四年の武田翔に言われて視線を戻すと、焚き付けは炭に炎を移すことなくその役目を怠惰にも終えようとしている。
「う、わっ!」慌てて団扇を扇ぐスピードを速めた。
火は一時的に息を吹き返したが、そのかいもなく火はだんだんとしぼんでいった。告白に失敗した男子よりも諦めが早い。
「保川君、ガンバレ!」
明日香が何もせずに微笑みながら励ましてくる。こういったことは男の仕事だから別に良いのだが。
「ああ、駄目だ。チャッカマンあります?」
ほぼ完全に火が消えてしまった。新しく焚き付けを用意しなくてはいけなくなって、周りに尋ねた。
「チャッカマンは商標登録だよ」と明日香。
少し、イラッとした。
「サビオ! サランラップ! サロンパス! いいからそういうの」
「サビオって何?」下山が首をひねる。
「絆創膏です」
「ああ、カットバンね」
「サロンパスじゃなくて普通に湿布だろ」武田も話に乗っていく。話がどんどんと脱線していく。
「ですよねえ」
「だろ? まあ、サランラップはいいとして」
「マッキーなんてのも使いますよね」
「あの、チャッカマン……」
「向こうで使ってるよ」明日香がにべもなく言う。
「はい」すると下山が銀のライターを手渡してきた。
「あ、すいません」多加志はそれを受け取るとトングで焚き付けを掴んで火を点けた。
チャッカマンと違ってリーチが短かったので、火が焚き付けに点いた瞬間に手を引っ込めた。
「さあ、扇げ扇げ」武田は自らも団扇を扇ぎながら多加志を急かした。
「ね、いろいろと役に立ったでしょ?」
下山にそう言われ、何が「ね」なのかわからなかったが、しばらくして船での会話のことだと気がついた。よくそんな他愛のない会話を覚えていたな、と思う。
「あ、これ点いたんじゃねえすか?」
ふと隣から丹田の声が聞こえてきた。見てみると炭が赤く光を放っている。あそこまで行けばあとは時間の問題だろう。
「おい保川、こっちも負けてらんないぞ」武田にそう言われて多加志は団扇を懸命に扇ぐ。
「腕が疲れる……」
「ガンバレ元野球部!」
間もなくしてこちらの炭にも火が点いてきた。だが、その頃には既に隣のグリルでは網が置かれてあとは食材を乗せるだけ、ついでに言えば各人すでにビールを用意していて、完全に準備万端である。丹田の優越感に浸った嫌味が耳障りだった。
「おし、これくらいでいいだろ」
武田がそう言うが早く、明日香が網を持ってきてコンロに乗せる。下山がみんなの分の缶ビールを持ってきてくれた。紙コップも用意していたはずだが、使おうとする者はいなかった。
「あ、ありがとうございます」
未成年なのに、と釈然としないものを感じながらも礼を言って多加志はそれを受け取った。何故だか下山はクスクス笑っている。
「何か変ですか?」
「いや、保川君って真面目なんだな、って」
何だか見透かされているようで、多加志は何も言えなかった。
高山がわざとらしい咳払いをしたので、彼の方を向いた。
「えー、今日は一日ご苦労様。何だか例年のように、ミステリーとはなんら関係ないような感じで過ごしてしまったけれど、楽しければ良しとしようか。まだ一日あるけれど、とりあえず気にせずに飲んでくれ。乾杯!」
「乾杯!!」
それぞれが周りの者と缶をぶつけ合ってから各々の量を飲み始めた。多加志はビールの苦味に耐えられずに一口だけで止めてしまった。つい、しかめ面になってしまう。
「さ、食べよ食べよ」明日香は特に苦手ではないのか、何事もなかったかのように肉を網に乗せはじめた。
「何だ、お前まだビール駄目なのか?」
「あと二年間ぐらいは駄目なんじゃないですか?」武田に問われて、冗談交じりでそう返す。
事実、未成年なのだからあと一年半ほどは待たなくてはいけないはずなのだ。
「そんなんじゃ社会人になったときつらいぞ」
「……覚えときます」
「そういえば、さっき高山さんが『例年』って言ってましたけど、今年が初めてじゃなかったんですか?」
うまい具合に明日香が別の話題へと切り替えてくれた。
「キャンプはな。いつもはミステリーゆかりの地を訪ねるっていう……」
「名目の名のただの観光」武田が言いかけたことに下山が続いて言った。「もう、本当にミステリーと関係してるのかわかったものじゃないですよね」
「まあな。誰か彼かここに行きたいって言って、たぶん浅見光彦が行ってるだろう、と」
「十津川警部っていう言い訳もありましたね」
「へえ、そうなんですか。楽しそうですね」そう言って明日香は持っていた缶ビールに口をつける。彼女はビールの苦味を何とも思わないのだろうか。
風向きが変わって、多加志の方に煙が来るようになった。目が痛くなる。場所を変えたかったが、小さめのコンロを四人で使っているので、逃げようがなかった。隣のコンロに移ろうか、なんてことも考えた。
遠くから車のエンジン音が聞こえてくる。気になって振り向くと、白いバンがやってきて、自分たちのいる所を避けていくと、センターの前で停まった。
おそらく古村だろう。他の部員たちも気にすることなく、食事と会話に興じている。多加志も、遠慮して自分の分がなくなってはたまらないと、食事に戻る。肉ばかりにならないようにと野菜を重点的に食べていると、今度は野菜ばかりになってしまっていた。
結局、交流が偏らないように、コンロも途中から気にせずにみんな移動しながら食べるようになっていった。
「あ、こんばんは」鷹梨がこちらに寄ってきた古村に気づいて挨拶する。
他の者たちもそれに気がついて各々挨拶をした。
「こんばんは。楽しんでますか?」
「ええ、それはもう」高山が言う。
「あの、これ良かったら使ってください」
古村が持っていたのは結構な量の花火だった。自分たちでも持ってきている分より少し少ないくらいだったが、それらをあわせれば十分すぎる量になる。
「え、いいんですか?」
「いいですよ。久しぶりのお客さんなんで、サービスです」古村はたれ気味の目をさらに緩めて微笑んだ。
「ありがとうございます!!」
「いえいえ。それじゃ、私は少し仕事が残ってますんで」そう言って彼はセンターの方に向かっていった。
「よーし、ロケット花火もちゃんとあるな」
丹田が古村が持ってきた花火を手にとって確認するように言った。多加志は何となく嫌な予感がした。
6
夕食が終わると花火が始まった。実に大量の花火が着火され、刹那の命を消費した。赤から紫まで可視光線の全波長がそこにはあり、時には幻想的な印象を持たせてくれた。正直なところ、先ほどのバーベキューよりも数倍煙たかったが。
やがて男子部員(主に丹田と武田)でロケット花火の打ち合いが始まり、多加志は逃げるように海の方へやってきた。
離れていく時に後ろを振り返ったが、三人に減ってもまだ打ち合いは終わっていなかった。高山も案外乗っている。
センターの方に目を向けると、まだバンはあった。腕時計を見ると、八時だった。将来は、このように遅くまで仕事をしていなければいかなくなるのかと考えると少し気分が海の藻屑のように沈んだ。
浜辺には人影が見えた。体育座りで、上を見上げている。近づいてみるとそれは明日香だった。彼は彼女の斜め後ろに立った。
「何してるの?」多加志は尋ねた。
「星が綺麗だなって。花火も綺麗なんだけど、煙たくって。保川君は?」彼女は座ったまま顔を斜めに上げた。
「逃げてきた。とりあえず、ロケット花火は人に向けるものじゃないと思う」多加志は口を尖らせて言った。
明日香がクスクスと笑う。
「もう、すごい数だよね。星座なんてわからない」
多加志は空を見上げる。今まで見たことのない光景だった。プラネタリウムなんて比ではない程の星。一面、星しかない。今見えているのは何百年、何千年前の光だ。それぞれが微妙に違った色彩で、生命の躍動を感じさせるようにうごめいている。
彼女の言うとおり、星が多すぎて星座などわからない。先人たちはどうやって星と星を結びつけたのだろうか。どういう意味を込めて星を繋いでいったのだろうか。
多加志は黙って空を見上げていた。すると彼女が再び口を開く。
「綺麗だ。だけど、これを見て綺麗だと思うってことは、普段が汚れているんだろうね」
「……君はやっぱり変わってるね」
「そう?」
「そう」そう言って片手を差し出して続きを促した。
「私たちの街で星が見えないのは、明るすぎるから。明るいのは電気を使っているからで、突き詰めれば化石燃料を使って二酸化炭素を排出している。つまり、地球を汚している、だから見えない。そもそも、星が当たり前のように見えたら、それが普通なんだから綺麗だとはあまり思わないんじゃない? そう考えると星を見て綺麗だと思うのは汚れている証拠だと思わない?」
「……あれ? それ、どこかで聞いたことあるよ」
「それはね、きっと、この前君が読んでいた小説だと思うよ」
「……ああ、そうかもしれない」
「けど、それはちょっと論旨が違うけどね。あれは、自分の内面が汚れているから、ご褒美みたいに自然がほしくなるっていう主張。その後で、環境について少しは触れてるけどね」
「どっちでもいいよ」
「そう? でも、言ってることはわからなくはないでしょ?」
「まあね。……でも、深く考えたくはないね」
「私も。実は言っておいてなんだけど、私は否定派かな。綺麗なものは綺麗と素直に思いたいし。花と一緒だよね。星と違って別に環境とか関係なくそこにあって、だけど綺麗。綺麗なものは綺麗なんだよ」
なるほど、と思ったが、ふと反論が浮かんだのでこの際なので言ってみることにした。ただ、彼女に勝てる気はしなかった。甲子園常連校と練習試合をするようなものだなと思った。つまり、良い経験になる。
「花だってそこらへんに咲き誇ってるわけじゃないだろう? 飽きるほど咲いてたら受け取る感想も違うんじゃない? やっぱり希少価値っていうのもあるんじゃない? 星も一緒でさ、これだけ見えるっていう希少価値だよね」
「向日葵畑とかラベンダー畑は?」
多加志は答えに窮した。と言うより、何だか馬鹿馬鹿しくなってきた。なぜこんな議論をこんな場所で繰り広げているのだろう。けれど、もう少し彼女と話していよう、と思った。
「それは置いておいてもいいかな? 話を少し戻そう。もともとあるからとか、ないからとか、そこは置いておいて、僕らが電気で夜空を照らすから星が見えないって言うのは事実だよね。ついでに電気を作るために空気を汚してるって言うのも事実。つまり、星が見えないのは空気を汚しているのと同じだよね。環境を壊したせいで見えなくなってるのに、それが見えたときに綺麗だって言ってるのはちょっとエゴが強いよね」
「否定はしないけど。例えば、人類が核融合発電に成功したとしたら、ついでに車も電気になって、住宅もオール電化。どんどん排気ガスが減って化石燃料の消費も減って、ってなっても夜の街は明るいままだし、星は見えない。そこまで来ると星が見えないことと空気を汚していることは関係なくなるよね。何十年、何百年先かはわからないけど。核分裂発電でそうするべきではないと思うけどね」
「よくわからなくなってきた」
「よくわからなくしたの」彼女は下をチョロッと出す。「論点のすり替えってやつかな」
「そもそも、何が論点だったっけ?」
「ま、わかってるのはね」明日香はそこで間を置いた。ここが会話のクライマックスとでも言いたげだ。「星は綺麗ってこと」
「結局?」多加志は声を上げて笑った。明日香も笑う。
夜の浜辺で二人きり。空には満天の星空、さざなみの音。笑い合う二人。
それでも。
ロマンティックなんかありやしない。