二
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キャンプ場に戻ると五時を回ったところだった。男性陣はまだテントを張っていたが、既に一つは出来上がっている。現在二つ目の中盤といったところだろうか。さすがにずっとやっていたわけではないだろうが、時間が掛かっているということはキャンプ経験者がいないのかもしれない。文化系の人間が集まっているから無理もないかもしれないが、丹田などは経験があっても良いのに、と思った。
だが、彼は家でゆっくりしていたい派だと言っていたのを思い出す。人は見かけによらない。一見チャラチャラした(本質もそうだが)彼がこのサークルにいるのが良い証拠である。
女性陣は料理の準備に取り掛かるところだった。といっても、今夜の予定はバーベキューなので野菜を切るだけ、それと米を炊くだけである。と言うのは、主婦の苦労を知らないだけかもしれないが。
明日香はすぐに女性陣の方へと駆け出していった。
多加志もテントを張るのを手伝おうと男性陣の方へと向かう。もっとも、多加志もテントを張った経験などなかった。いないよりはマシだろうという判断である。彼らも既にコツを掴んでいるはずだから教われば良い。
ところが、途中で水場から出てきた二年の鷹梨苑子に声を大声で呼ばれた。ボブカット、というよりはおかっぱに近い髪形である。言語的には同じらしいが、どう見てもおかっぱである。
「おーい、保川君。薪斬っといて!」彼女は少し苛ついているように見えた。
「あれ、バーベキューに薪使うんですか?」
「ご飯炊くのに炭じゃ無理でしょ。道弘がやってるはずなんだけど、遅いから見てきて!」
彼女はセンターの方を睨んだ。「あの野郎……」という女性らしくない暴言は聞かなかったことにした。
米を薪で炊くということは、飯ごうを使うのだろう。小学校の林間学校以来見ていない道具だ。
「わかりました」多加志は機嫌の悪い鷹梨から離れたくて、足早にそこを去った。
センターの方に向かうと倉庫の前で、煙草を燻らせている丹田を見つけた。切り株の上に薪を立て、鉈を突き刺したまま、彼自身は別の切り株に腰掛けていた。
「あ、お帰ぇり。デートどうだったよ?」彼は肺に溜まった煙を吐き出すと、ニヤついた表情で聞いてきた。
「あれがデートだとしたら、ムードもへったくれもないですね」多加志はその煙に咳き込みつつ、思ったままを口にした。
実際、自分のいた意味がわからなかった。そもそも、ボディーガードという名目で連れて行かれたのだが、その必要性は微塵も感じなかった。危険な要素など一つもない。当たり前と言えばそうだ。そんな物騒な島なら来ていないはずだ。
「何だよ、つれないな」丹田はもう一度ゆっくりと煙を吐き出した。
「ちなみに言うとデートスポットになりそうなところもなかったですし」
これはさすがに島民に失礼かとも思ったが、少なくとも通ったルートにはそれらしいものはなかったのは事実だ。明日にでも明日香の従兄にでも聞いておこうかと思った。
「こんな島だからな。さーて、無駄話はこれくらいにしてと」丹田は立ち上がった。
「どこ行くんですか? ちゃんと薪割ってください」
「あれ? 交代じゃないの?」
「交代するほど割ってないじゃないですか!」
周りを見渡すと、割れた薪は一本しかなかった。どれだけの時間サボっていたのだろうか。
「ちゃんと仕事してください。……あ、人の事言えないか」
多加志は言ってから自分が今まで町に行っていて、仕事を一つもしていない事に気がついた。明日香のボディーガードは仕事に入らないだろうか。
「おう、そうだぜ。じゃ、任せた!」丹田は煙草を持った手を高々と上げて挨拶すると、テントの方に歩いていった。テントは二つ目が終わったところのようだ。
丹田が残していった煙が霧散していくと、ようやく多加志は深く息を吸った。どうにも煙草の煙は苦手である。かといって何か言うと機嫌を損ねてしまうから厄介だ。
多加志は薪を割り始める。黙々と作業を進めていく。よくよく考えれば、今までこういった地味な仕事が多かった。一人でやる作業、陽の目を見ない作業を押し付けられる傾向にあった。部活内ではもちろん、クラスでも体育会系の部活にいながら、中心の輪にはなかなか入れずにいた。
性格が控えめだったため、致し方ないと思っていた。環境が変わってもあまり大差がないのはやはり性格のせいだからだろうか。
多加志はため息をついた。
「あれ、どうしたの? ため息なんかついて」明日香がひょっこりとあらわれた。文字通りひょっこり、急に出てきたので多加志は驚いた。ちょうど鉈を手放しているところだったので何も起きずにすんだ。
「びっくりしたなあ。仕事はいいの?」
「薪の回収に参りました」明日香は直立して軍隊の敬礼の真似事をした。
多加志は彼女の子供っぽい仕草に微笑みつつ、薪の量を考える。肝心のバーベキューは炭を使うし、米を炊くだけだからそれほど必要ではないだろう。
「ああ、はいはい。たぶんもういいよね。持って行くよ」多加志は薪を集めようとする。
「で?」
「で? って何が?」
彼女を見ると後ろ手を組み脚を交差させて立っていた。微妙に傾げる首の角度が絶妙で、魅力的に見えた。少し、ドキリとした。
「ため息が」
「ああ、いや、別に」
明日香は何も言わずに多加志をじっと見つめている。やがて彼は根負けして、大きく息を吐いてから話し出した。多加志が切り株に座ると彼女も空いていた切り株に座った。
「いや、今までこういう地味な仕事ばっかりしてたなあと思って。あれだよ、学校祭とかで余った役をあてがわれる、とか。体育のサッカーとかバスケとかでディフェンスばっかりやらされるとか。基本的に陽の目を見ない仕事ばっかりさ」そう言って多加志は肩をすくめる。
そういえば幼稚園の発表会は何の話だったか忘れたが、バナナの役だった。すでに生き物ですらない。バナナというのが妙に恥ずかしかったのでそれは言わないでおいた。幼稚園や小学校の発表会ほど自分の立ち位置を実感するものはない。そこで立ち位置を思い知って、そのまま育っていくのかもしれない。人間の可能性は狭い。
「そういう仕事も重要だよ」
「わかってるよ。ただ、たまには中心にいたいと思う事もあるわけだよ。センスの欠片もない野球を続けてたのも、好きだからっていうのと同じくらいそういう理由があったんだ。目立ちたい、みたいなそういう欲求だよ」
「そういう事はあった?」
「あったよ、一回だけ。公式戦の、しかも全校応援で登板したんだ。そのときは無我夢中だったけど、今思えば楽しかったなあ」
多加志はその時のことを思い出す。今でも思い出せる。三回にエースが捕まって、二点を失いなお一死二・三塁。そこで監督がタイムをかけて審判に駆け寄る。
ブルペンで投げ込んでいた多加志は「早すぎる」と思いながらも監督がこちらを見たので慌ててマウンドへ。
千人の観客がどよめきだす。
わけもわからず七球の投球練習が終わり、審判がコール。わけもわからないまま、二者連続の四球で押し出しで一点を謙譲。さらにヒットで一点。だが、その後味方の好守に助けられながら四回から八回までスコアボードにゼロを刻んだ。一つアウトを取るたびに拍手、声援。男女問わずクラスメートの声が聞こえてきた。
九回にピンチを招いてマウンドを降りたときも惜しみない拍手を送られた。自分でも主役になれるんだと感無量だった。三番手が抑えて延長戦に持っていってくれたのも救いだった。
「大学でまたそういう思いをしたいとか思わなかったの? あ、いや、そういうんじゃなくて、えっと、そういうのっていうのは、あの、えと……」
「大丈夫、意味は通じてるから。一緒にいたくないとかじゃないって事でしょ?」多加志は微笑む。
「そう、そういうこと」彼女は胸を撫で下ろす。
デジャヴだな、と多加志は思った。彼女は感性豊かだが、ある程度法則があるらしい。
彼女のその様子を見てなんだか嬉しくなった。彼女が「一緒にいてほしくなくはない」と思ってくれている。本来二重否定は強調なのだが、この場合は控えめな表現ととるべきだろう。それでも、肯定的な気持ちを彼女が持っているのは仄かに気分がよい。
「えっと、何だっけ。あ、そうそう、大学でもう一度って話だったね。まあ、そういう気持ちもなくはなかったけど、やっぱりセンスがなかったからね。その試合もお世辞にも好投したとは言えなかったし」
今でも最初の押し出し四球が悔やまれる。あれがあったから口が裂けても好投だなんて言えない。それでなくても強い当たりが野手の正面を突いたりと、運が良かっただけとも言える内容だったのだ。引退した後でも、しばしば「あの内容でよく二点に抑えたな」という話をされる。
「なんと言うかね、性格的に無理なんだよ。ピッチャーって感じじゃない。と言うか、体育会系って感じじゃない。地味、控えめ、根暗。目立てないんだよ。人生送りバントって感じかな?」そう言って苦笑いする。
「三振するよりはいいと思うよ」
多加志は吹き出した。
「え!? 何?」彼女は目を丸くしている。
「バントの意味知ってる?」
シュートを知らなかったのにバントに対する切り返しが早かったのでつい笑ってしまった。素人(侮蔑ではない)の野球に対する知識がいまいちわからない。
「知ってるよ! アレでしょ、アレ」彼女はムキになって反論するが、どうやら説明できないようだ。多加志だって送りバントを説明せよと言われれば困ってしまうが、彼女のそれは本当に知らないように思えた。
意地を張っているその仕草が妙に可愛らしい。
「まあ、僕も説明しろって言われたら困るしね。知っていることにしといてあげるよ」
その言葉に明日香は少しむくれる。
「まあいいや、何の話だっけ?」
微笑ましいと思いながら彼は会話を元に戻した。
「地味だっていう話」
「ああ、そうそう」
「私が思うのはね」明日香は真剣な表情になる。「地味な仕事っていうのはね、誰もやりたがらないの。たまに、むしろやりたいって言う人がいるけど」
「小学校の学芸会は照明が人気だったと思うけど」
「それは、地味な仕事がいいとかじゃなくて、お芝居が嫌だってことでしょ? そういうのを除けば誰だって雑用なんてしたくない。だから、それを人に押し付けようとするわけ。特に明るい人、クラスの中心になるような人ね。そういう人はある意味で逃げてるんじゃないかな? だから、君みたいに文句も言わずにそういう仕事ができるっていうのはいいことなんじゃないかな、って。誰もやりたがらないことをできるのは立派だと思うよ。例えばさ、最近の企業は若者にリーダーシップを求めてるって言うけど、馬鹿みたいな話じゃない? リーダーが百人集まったらいい企業になるの? って感じでしょ。野球で言うと……」
「野手が全員四番バッターでも勝てない?」
別に特定のプロ野球チームを批判しているわけではない。もっとも、その特定のチームは最近そのことに気がつき始めたようである。
「そう、それ」
多加志は明日香の目を見つめた。いたって真剣に、真面目に、真摯に自分をフォローしてくれている。言っていることは至極当たり前のことではあったが、フォローされているということ自体が嬉しかったし、少し元気が出た。
「ありがとう。薪、運ぼうか」