一
1
「どうしたの?」明日香がもう一度尋ねてきた。
その声で、過去の回想に耽っていた多加志はその旅から帰ってきた。
船が大きく揺れた。
「気分でも悪いの?」
「気分の定義によるかな。具合は悪くない。機嫌は、ちょっと悪いかな?」
多加志は彼女の目を見ずに言った。見てしまったら負けのような気がした。
「そんなに来たくなかったの?」
「いや、来たかったよ。お金があれば」
「ああ、それでか。ごめんね、無理に来させちゃって」
「いや、君は悪くないよ」たぶん、という言葉を多加志は呑み込んだ。
明日香を見ると、教会に懺悔に来た人のように申し訳なさそうな暗い顔をしている。自分と違って感情豊かだ、と思う。
「そんな暗い顔、しないでよ」居たたまれない気持ちになって、救いを求めてさりげなく周りを見渡した。
するとすぐ近くに一年上の先輩の姿を見つけた。二年生の丹田道弘。彼は多加志と目が合うと、こちらに寄って来た。
「何だぁ? 保川、今村をいじめてんのか?」彼はややニヤついた顔で聞いてきた。
どう見ても野次馬の顔である。彼に救いを求めたのが失敗だったことにすぐに気が付いた。
「いじめてません!」
「そうカッカすんなよ。じゃあ、被害妄想か?」
「加害妄想です」多加志は呟くように言った。
「ひどいよ、保川君」明日香は恨めしそうに多加志を睨んだ。
「まあまあ、お前ら一年同士仲良くしろよ。なあ、ライター持ってねえか?」丹田はポケットから煙草とライターを取り出し、ライターが点かないことに気づくと二人に尋ねた。
「ないですよ。未成年ですから。てか、先輩も未成年じゃないですか!」多加志は目を細めて咎めるように彼を見た。
「んだよ、固いこと言うなって。酒は飲むくせに」
「あれは、不可抗力です」
実際のところ多加志が酒を飲むのはサークルの飲み会の時だけである。この未成年飲酒の問題は、大学が二十歳からになるか、成人年齢が十八歳にならないと解決しないだろう。
外国では~、と言い訳する輩がごくたまにいるが、そう言うならば外国に行ってはどうだろうか。日本には日本の法律がある。
それでも昔と違い、未成年飲酒に対する世間の目が厳しくなっていることは事実であるから、おそらく今より縮小していくのは間違いないのではないか。多加志としてはそちらの方がありがたい。
「しゃあねえな」丹田は舌打ちして辺りを見渡す。「あ、下山サン。火、持ってないすか?」
話しかけられたのは三年生の下山薫。下山は黙ってこちらに歩いてくるとポーチから立派な銀のライターを取りだした。
「下山さん、煙草吸うんですか?」明日香が驚いた様子で聞くと彼女は首を横に振った。
「吸わないよ。いろいろと役に立つから持っているだけ」
多加志は、いろいろとは何だろうかと考えたが、答えを見つけることはできなかった。
「そういえば、今向かってる島尻島ってどんなところなんですか?」多加志はふと思って尋ねた。
「さあ? 今年が初めてだから俺らも行ったことないし。キャンプ場はちゃんとしてるみたいだけど、所詮キャンプはキャンプだよ。部長はミステリーと無理矢理つなげたいみたいだけど、無理がある」
「いいじゃない。たまにはこういうことも」
「そうすかね? 俺は毎日のんびり過ごしたいタチなんで」丹田は煙草を挟んだ右手を挙げると、それを挨拶にして三人から離れていった。
「ところで、島尻島って変わった名前ですよね。何か意味があるんですかね?」丹田がいなくなって、その場に沈黙が流れたので多加志は場つなぎに思いついたことを聞いた。
「島の尻にある島だから」その質問に答えたのは下山ではなく明日香だった。
「島なんてなくない?」
「あるじゃない、大きいのが」今度は下山が言った。
「……ああ」しばらく考えてやっと納得がいった。「二人とも物知りですね」
船は相変わらず、面白味もなく単調に進む。船が出発して三時間ほどでようやく島が見えてきた。
「やっと着いた……。三時間って長くない?」多加志が伸びをしながら言った。
「長いよ。函館・青森間で三時間四・五十分。稚内・礼文で二時間。津軽海峡を越えるよりは短いけど、十分長い」
「……なんでそんなこと知ってるのさ?」これは物知りの域を超えていると思う。
一行は船を降りた。田舎の港、という印象がぴったりの寂れ具合である。船を降りると白いバンと中年の男性が待っていた。どうやらキャンプ場の管理人のようだ。高山と話をしている。
「ようこそいらっしゃいました。キャンプ場の管理をしている古村です」たれ目でおとなしい印象を受ける男はやはり見た目通りの低姿勢の礼を見せた。
「少し歩くよ」高山が言った。
事前に調べているらしい。とはいえ、さすがに下見には来ていないだろう。インターネットとは便利だなと改めて思う。
「荷物は車に載せて構いませんよ」古村が言う。
バンの後ろを開けて、テントやバーベキューセットなど、サークルの道具から載せていき、余裕が出たので結局私物も全部載せてしまった。
運転席には女性が座っていて、どうやら古村の妻らしい。よく喋るので妻という表現よりも奥さんという方がしっくり来る。この車は役所の物なので、事故を起こしたら大変だと笑っていた。ただ、ほとんど古村しか使わず、今では家に置いておくほどの私物と化しているらしい。ちなみに彼女は主婦で、役所とは関係ないようだ。
ここで、キャンプ場が、役場の管理下にあることを知った。
車は先にキャンプ場へ向かっていった。女性優先で車に乗っていっても良いという提案があったが三人の女性は誰も手を上げなかった。一行も古村について歩き出す。
十五分ほどで街中を抜けて細い道を歩く。アスファルトで舗装されているが、左右は林である。さらに歩くと小高い山にぶつかりトンネルが走っている。
「キャンプ場とはこのトンネルでしか繋がってないんです」古村が汗をぬぐいながら言った。
トンネルを抜けると今度は木々でできたトンネルを通る。緑色の色彩効果で少し涼しくなった。その先はアスファルトの細い道以外は草だらけの場所だった。よく言えば自然豊か。悪くは言わないでおく。しばらく歩くと適度な開けた草原に出た。どうやらここがキャンプ場のようである。少し先に建物が見える。
先ほどの車が建物の前にあった。
「あちらがキャンプ場のセンターです。水道と電気はちゃんと通っています。シャワーもあります。でも、水道は外にあるのを使った方が早いですね。何かあったら中の管理人室に電話がありますから。私がそこにいることもありますが、いなければたいてい役場にいますので、そちらにかけてください。横の建物が物置です、見ての通りですけど。薪や工具などはあの中に入っています。では、何かありましたらお呼びください」
古村夫妻が帰っていったあと、まずはテントを立てることになった。男子部員が中心となって動き出す。
「あの、ちょっと町の方に行ってきてもいいですか?」途中で明日香が高山に声をかけた。
「え? 何で?」
「実はこの島に従兄がいて、挨拶に行きたいんです」
「そう、いいよ。けど一人で大丈夫かい?」
「もしかしたら昔話に華を咲かせて暗くなっちゃうかもしれませんね」明日香は微笑んだ。
「じゃあ、一人連れて行ったら? けどあんまり遅くならないでね。一応サークル活動の一環として来ているわけだから、こっちの方に参加してもらわないと」
「ええ、わかっています。誰を連れていけばいいですか?」
「誰でもいいよ。ボディーガードにふさわしい奴を持っていきなよ。なんてね」
「じゃあ、保川君で」明日香がそう言った瞬間、丹田が口笛を鳴らした。
「いいのか? こいつ勇気なさそうだぜ」丹田が意地悪く言う。
「勇気のなさそうな人を選びました」明日香はまた微笑む。多加志には意味がわからず、首を捻るばかりだった。
出発前に下山が「保川君なら安全よね」という声を聞いた。安心ではなく安全と言ったので、明日香の言った意味も何となくわかったが、要するに男らしくないという事なのだろう、どうにも喜べなかった。
2
「何でここに入ろうと思ったの?」
来た道をそのまま引き返している途中で彼女が尋ねた。
ここで「君がいたから」とか突然言ったりしたらどうなるだろう。おそらくドキッとなるよりは引かれてしまうだろう。ある意味思い出深い夏の記憶にはなるだろうが、それはブラックのコーヒーよりも苦いものになるだろう。
「いや、なんでだろうね?」多加志は曖昧な言葉を返す。
彼女とは目線を合わさない。彼女なら目を見るだけで見抜いてしまいそうな気がした。
こうして、彼女から目を逸らすことが多加志には多い。
「この間まで全然知らなかったんだけど、野球部だったんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、なおさらどうして? 野球はやろうと思わなかったの?」
「うん」
数秒間沈黙。どうやら彼女は答えを待っているようだ。しかし、あえて促さないのは彼女なりの配慮だろうか。
「才能がないってわかったからかな? いや、違うな。もとからわかってたんだけど。やっぱり、好きっていうだけじゃ続けてられないんだよ」
「そうかな?」
「そうだよ。どんどん門戸は狭くなっていく。高校の数と比べて大学の数なんてたかが知れてるだろ? 社会人野球なんてほとんどない。だから、見切りをつけたやつから草野球にはしっていく。けど、僕は真面目にやりたいし、それができないならやらない方がいいかなって」
「やればいいじゃない。あ、いや、そうじゃなくて。私としてはミス研に残ってほしいんだよ? けど、えっと……」明日香は慌てて弁解する。多加志は微笑んだ。
「ありがとう。でもね、うちの野球部の成績知ってる? 全国大会にも出るくらいなんだよ。それが、一公立校の控えピッチャーが入ったところで出番はないよ」
「え、ピッチャーだったの!? 凄い!」
明日香が尊敬の眼差しに切り替わった。多少大げさに見えるが、これが彼女の特性だろう。
「だから凄くないんだって」多加志は苦笑する。「ピッチャーっていう生き物はね、三種類いるんだよ。四番ピッチャー型と九番ピッチャー型。九番ピッチャー型は二つに分かれてて、ピッチャーをやってるから無理せず九番ってやつと、ピッチャーしかできないからやってるやつ。僕は三番目。というか僕は基本的に運動センスがないんだよ。実は体育の授業で5を取った事がない」多加志は苦笑から嘲笑に変わった。「ただ、たまたま、偶然、それなりのカーブが投げられたんだよ。コントロールは良くなかったけど四球を出すほどじゃない。でもって、いい具合に真っすぐがシュートするから、それでなんとかやっていたわけだよ。わかった?」
たぶん野球の素人にはわからない会話だなと思いつつ多加志は聞いた。
「わからないのは」明日香は首を傾げながら言った。「なんで最後にサッカーの話が出てきたの?」
多加志は目を見開いた。そして、おかしさが衛星中継みたいに遅れて込み上げてきて、声を出して笑った。
3
町の方に出ると、といっても、そもそもこれを町と呼ぶのか村と呼ぶのかは定かではない。とにかく、民家がちらほらと見え始めた。印象としては間違いなく”寂れた”というのが正しいだろう。家と家の距離が遠い。もちろん何十メートルも離れているわけではないが、自分の住んでいる地域と比べれば一目瞭然である。その家自体も、親の実家のおじいちゃんが住んでいそうな古いものばかりである。
人通りも少ない。しかし、田舎を題材にしたドラマや、ダーツを地図に投げつけて刺さったところにロケに行くバラエティなどをイメージすればその通りで、別段寂しいというわけではなく、時折見える雑談の輪などが社交性を見せつけていた。都会の孤独と比べればこちらの方が賑やかだといえるのではと思ってしまう。
「で、君のいとこはどこにいるの?」
「わからない」明日香は首を傾げながら微笑んだ。
「連絡はとってるんじゃないの?」
「何も。この島に来るのも言ってないの。その方が楽しいでしょ?」
”楽しい”の主語は何だろうか。間違いなく彼女の方である。いわゆるドッキリ。される方からしたら全くの迷惑だ。ただ、この場合は微笑ましい程度のもので、確かに楽しいかもしれない。というよりは、遠いところから知り合いが訪ねてきたら、それもいきなり、驚くだろうがそれよりも嬉しいだろう。そう考えると、彼女はただ単に面白がっているわけではないようだ。
ちなみに、多加志はバラエティの中でドッキリが一番嫌いである。人を騙して何が楽しいのかと思ってしまう。
町の中心らしき場所まで来た。商店があり、飲食店があり、とそれなりの活気が感じて取れる。島の地図が描かれた看板があったので覗いてみた。現在地は島の中央よりも少し東よりだった。東端には港があり、そこから多加志たちはやってきたことになる。見たところ、商業施設は港付近に固まっているようだ。この辺りはまだ住民向けの施設が多い。キャンプ場は島の西に位置していた。こうしてみると、島の小ささがわかる。
明日香は人の良さそうな(あくまで多加志の主観である)女性が店番をしている肉屋に近づいた。
「あら、見ない顔だね? 観光客かい?」少々、いや、多少、太った、否、ふくよかな中年の女性が聞いた。
「ええ、キャンプに来たんです」明日香は笑顔で答える。「ちょっと聞いたいんですけど、近野さんの家はどちらですか?」
「この島には三世帯いるよ」
「近い野原の方です」
「ああ、京太君のとこね?」
「あ、そうです!」
「そしたら、もっと山の方だわ」そう言って女性は指を差す。だいたいキャンプ場と現在地を結んだ線に対して垂直になる方角だ。北の方角だ。「けどね、今はたぶん町民会館にいるんじゃないかい? この先だよ」今度は道路の先を示した。道路は坂道になっていて、その先に民家ではない、明らかに公共機関と思われるような建物があった。
「ありがとうございます!」明日香は頭を下げた。多加志もあわせて礼をする。
二人は言われた通りに坂を上っていくが、見た目以上に坂はきつく、明日香はすぐに息を切らしてしまった。
「何で……平気なの?」目的地にたどり着くと、彼女は膝に手をついて睨むように多加志を見た。
「いや、一応元野球部」
明日香の妬みの視線を無視して、多加志は建物を観察する。ベージュ色の建物で、いかにも町民会館という感じだった。何がそう思わせるのかははっきりわからないが、こういった建物はたいてい玄関に庇屋根が付いていて、窓は磨りガラス。外には花が植えられていて、壁の色は茶色かベージュ。そういったところからだろう。
森林を背景にたたずむ建物は落ち着いた雰囲気が感じ取れた。
中から若い男性が出てきた。
「京太君!」明日香が叫んだ。青年は目を細め明日香の方を見ている。次第に目を見開いて笑顔になる。
「明日香?」
「はい! お久しぶりです。元気でしたか?」
「元気も何も。どうしたのこんなところまで」
「サークルでキャンプに来たんです」
「はあ、なるほどね」近野はゆっくりと頷いている。
多加志は近野を観察した。二十代後半くらいだろうか。割と背は高めですらっとしている。女性受けのしそうな顔つきである。なんとなく、「ああ、同じ家系なんだな」と思った。
「で? わざわざ俺に会いに来たの?」
「ええ。そうですよ」
「まいったな。何もないよ」
「別にいいですよ」
「お茶くらい出したいんだけど……。ところで」近野は多加志の方を見た。
「あ、はじめまして。保川多加志です。今村さんの友人です」
「へえ、友人ねえ」その言い方に先輩の丹田と同じ匂いを感じた。
「京太君。そういう言い方、失礼ですよ!」
彼女に失礼だ、と多加志は思った。
「ごめんごめん。とにかく、まだ仕事なんだ。キャンプ、楽しんできなよ」
「明日来てもいいですか?」
「え? 別にいいけど」
少し困惑しながら、何もないよ、と付け加える。
「じゃあ、明日また来ます」それでも彼女はそう言い、笑顔で手を振った。