二
3
青々とした木々が鬱蒼と茂る細い小道を歩く。その木々のせいで湿気が保たれている。湿度による蒸し暑さ、色彩効果による涼み、日陰の効用のどれが勝っているのかわからない。少なくとも一番勝っているのは太陽に熱せられた空気に違いない。日陰に入ろうとも暑さが少し和らぐだけで、暑いことに変わりはなかった。
サークル会館へと続くこの道はもうすでに歩き慣れた道だった。途中にある野球場には目もくれない。
相も変わらず(変わったとしても良い方向には変わらないだろう)古臭いサークル会館に着くと冷房の効いていないロビーが蒸し暑さを倍増させる。ロビーでは何かの運動部三人が、自販機の飲み物を求め並んでいた。彼らの顔は汗と泥で黒ずんでいたが、不快には思わなかった。多加志も同じ経験を何度もしているからだ。
時折額から零れる汗を拭いながら階段を上る。二階の一番右奥がミステリー研究会の部室である。
七月の終わり、ミス研に入部してから四カ月目になる。ミス研の入部希望者であるにもかかわらずミステリーを読んだことがない多加志は戸惑いも多かった。先輩たちも困惑しただろう。だか彼らはちゃんと多加志を歓迎してくれた。ミステリー初心者の多加志と容姿端麗の明日香という組み合わせに、何かを勘ぐった先輩もいたが、事実なので多加志ははぐらかしはしても否定や反論はできなかった。
彼も少しずつミステリーを読み進めている。
予想外だったことが二つある。一つは、新入部員が今村明日香と自分の二人だけだったことだ。マイナーな部類のサークルというのは間違いではなかったようだ。
そしてもう一つは、自分の読書速度の遅さである。人並み以上に遅い。それに対してミス研の部員は基本的に読書家であるため人並み以上に速い。もともと持っていたキャパシティも踏まえれば、読書量は月とスッポンである。
彼は部室の鍵を開ける。何でも最近盗難事件が流行っているので、鍵を掛けないと事務に怒られるようだ。鍵を掛けずに盗難にあっても保障してくれないらしい。鍵代五百円はサークルに入っての最初の出費である。
そういえば出費で思い出したが、大学に入って驚いたのが奢られる頻度の高さである。何かにつけて先輩は奢ってくれる。遠慮して購買部で見つけても極力話しかけないように勤めてしまうくらいだ。来年には奢る側に回るのだから今のうちにということも考えられるが、気後れしてしまう。
世の中遠慮した人間から損をしていくのだなと思う。
部屋に入ると真っすぐに窓へ向かい、全開にした。エアコンなどという画期的な道具はここにはない。だが、扇風機すらないのはいかがだろうか。だが、零細サークルにそんな予算はない。
窓には金網が填めてあって牢獄を連想させる。だが外すことはできない。丁度、鈍い金属音がその金網から発せられた。当たらないとわかりきっていても反射的に彼は後ずさった。
彼はため息をついた。彼の視線の先には野球場がある。つまりこれは飛んできたファールボールを防ぐための金網である。いつも通る野球場はB球場と呼ばれ準硬式野球の球場で、こちらが硬式用のA球場。サークルに入るまで全く気がつかなかった。
自ら遠ざけたものがこんなに近くにあるとは、何ともやりきれない思いだ。まだ野球に未練がある証拠である。
普通の人ならば「自分は野球が好きだけど、もう十分。違うことに挑戦してみたけど、野球は好きなまま」と考えるのが普通だろう。多加志にはそれができない。ならば、自分は普通ではないのだろうか。
どうにも、「好きなことができないのなら、それを嫌いになるしかない」という無意味な強迫観念があるようだ。そこまで自覚していても直すのはなかなか難しい。
「……考え込むのは悪い癖だ」
彼は気を取り直して部屋の隅にあるテーブルへと向かう。テーブルの横には水道も完備されていて、飲むことも可能だ。ただ、他県からやってきた先輩は断固として飲もうとはしない。どうやら水道水は飲むものではなかったらしい。
テーブルの上にはマグカップや皿、スプーンなど一通りの食器が揃っている小さな棚がある。棚に入っているおかげで埃は溜まりにくいが、誰もが使うので使用後はしっかり洗わないと衛生上良くない。
ココアやティーバッグ、インスタントコーヒーなどが置いてあるが、多加志はコーヒーメーカーをセットする。インスタントは飲まない主義だ。
「あ、おはよう、保川君。お、まだ間に合う?」扉が開くと今村明日香が入ってきて、笑顔で手を振る。
「やあ」多加志も挨拶に答え、質問に答える代りに多加志はコーヒーを一人分足して、水も加えた。
「ありがと」明日香は部室の中央にある二つの長机の周りを囲むパイプ椅子の一つに腰掛けた。
コーヒーメーカーが音を立て始める。
多加志は部屋の反対側の本棚に向かった。そこには様々な作家の推理小説が詰まっている。歴代の先輩たちの置き土産である。要は、いらなくなった本を置いていくのだ。ポーから始まり(最初ポーと聞いたときは人の名前だとは思わなかった)、現代の作家まで、海外、国内を問わずあるが、所詮処分品の寄せ集めのため、同じ作家でもハードカバーだったり、文庫本だったりと不揃いである。なぜかクイーンやクリスティなど数が少ない。人気があるのだろうか(ちなみに一ヶ月くらいクイーンは女だと思っていた)。クリスティはミステリーの女王と呼ばれているらしいから、そうなのだろう。
多加志はこの本棚の一割も読了していない。彼は一冊の文庫本を手に取り、明日香の向かいの席に座る。明日香が多加志が手に持った本の表紙を覗き込んだ。
「あ、それ、おすすめだよ。もう十五年くらい前のだけど。いわゆる……」
「ちょっと待って」多加志は右手を突き出して制止する。「君はいつも嬉しそうに語るけど、いつの間にかネタバレになってるんだよ」彼は目を細めて言った。
「う、ごめん。あ、そうだ。テストどうだった?」彼女はわざとらしく右手を頭の後ろに添えて謝ると、話題を変えた。
部室に二人しかいないのは今日まで学期末試験だったからである。じきに他の部員たちも集まるのではないか。だが、体育会系の部活のような厳しさはないので半分も集まらないかもしれない。全員集まったとしても七名しかいないのだが。つまり、あと一人来るだけでほぼ半分、もうひとり来れば過半数を超えてしまう。
野球をやっていた頃とは雲泥の差である。雲が良いとは思わないし、泥が悪いとも思わないが。
「あと一点でこの大学に落ちていた僕には無理があるよ」多加志は肩をすくめて言った。
多加志は入学後、自分の成績が気になり成績開示したのだが、驚くべきことに合格点より一点上、順位で言うと下から二番目、いわゆるブービーである。そんな彼には試験は容易な物ではなかった。高校時代トップクラスだった成績が、大学に入ると最下層とは。背伸びをしたのがいけなかっただろうか。
単位を落とすと親がうるさそうだ、と多加志は気が重くなった。
「そう? 君なら大丈夫だよ」
「何の根拠があって……」
「私の友達だから」彼女は自信ありげに微笑む。どうにもこの笑顔をみると根拠のないことでも確かなように思えてしまう。全くもって変わった女の子だと思う。
彼女はきっと優秀なのだろう。こちらも全く根拠はない。
いつの間にかコーヒーメーカーの音が止んでいたので、多加志は立ち上がってそちらに向かった。二人分のマグカップを棚から取り出してコーヒーを注ぐ。自分の分のマグカップに砂糖とミルクを加えて、両手にマグカップを持ち机へと向かう。砂糖の入っていない方を明日香へと渡した。
「ありがとう。でも……」明日香は声を落として目を細める。「見てたよ」
「何を?」彼はわかりきっていながらも尋ねる。この問答はいったい何度目だろうか。
「砂糖、入れたでしょ? ミルクも」
「君のには入れてないよ」
「それも見た。入れてたら……」彼女は微笑んでいるが、目は笑っていない。「張り倒す」
「そういう物騒なこと言わないでよ」彼は顔をしかめる。
「コーヒーに砂糖を入れるなんて、邪道」段々と彼女の声が低くなっていく。
「苦いよ」
「苦くないコーヒーなんてコーヒーじゃない」
このままだと熱血ドラマよろしく、机をバンッと叩きだすのではないだろうかと多加志は思った。ちゃぶ台ではなくて良かった、と考えながら彼女の話を聞いていた。
「カフェインの量は変わらないよ」
「コーヒーの目的はカフェインの摂取じゃないし」
「どうでもいいけど、君の趣向を他人に押し付けないでほしいな。誰もが君みたいにブラックが好きなわけじゃない。だいいち、世の中にはカフェオレなんてものも……」
「わー! ダメダメッ!!」彼女は目を強く瞑り、両手で耳をふさいで首を横にブンブンと振る。
よほどブラック以外のコーヒーが嫌いなのだろうが、何故なのだろう。トラウマでもあるのだろうか。だが、コーヒーに関するトラウマなど多加志には想像できなかった。
「なんだ? 新種の遊びかい? 今村さん。血、上るよ」扉が開き、長身の男が入ってきた。
「あ、おはようございます。高山先輩」
眼鏡がトレードマークの高山聡。ミステリー研究会の会長である。すでに大手商社の内定を貰っている。見た目から中身までエリートの塊である。陰では出木杉君なんて呼ばれているが、彼曰く、「出来る君くらい」らしい。自分で言ってしまうあたりが羨ましい限りである。
「そんなに首をブンブン振って、何か楽しいかい?」
「いえ、何も楽しくないです。むしろ不愉快です」明日香が即答し、多加志を睨む。
彼は苦笑いするしかなかった。
「まあいいや。君たち、バイトしてたっけ?」急に話題を変えると、彼はパイプ椅子に座った。
「いいえ、してません」
「あ、僕はこの間、面接を受けました。受かるかわからないですけど」
「そう。まだ詳しく決まってないけど、八月の半ばは空けておいてね」
「何かあるんですか?」明日香が首を捻る。
「ミステリーの定番、孤島の別荘」
「は?」まさか、そんなに都合のいい場所が実際に存在するのだろうか。
「と、いきたかったんだけどね」高山は苦笑して肩をすくめる。「そんなに都合のいい場所なんてめったに見つからない。けど、近いところを見つけた。
島尻島っていう、小さな島だ。人口は三百人くらいだが、人家から離れたところにキャンプ場がある。トンネル一本でしかつながっていないから島民はめったにキャンプ場に来ないし、ちょっとした孤島気分だ。ま、コテージじゃなくてテントだけどね」
「そう、ですか」
それはもはや孤島の別荘とは全くの無関係で、単なるキャンプではないだろか。だが、嬉しそうに語る高山を見るとそんなことは口が裂けても言えない。
それよりも問題は費用だ。島ということは移動は船だろう。船の相場もキャンプ場の相場もわからないが、たいそうお金がかかるだろう。諸費用も加えれば相当だ。
「お金、かかりますよね?」
「ん? まあ、できるだけ抑えるつもりだけど、それなりにかかるだろうな」
多加志は自分の経済状況について考える。バイトはまだしていない。早く先日受けた面接の合否が知りたい。
もちろん、今までにしたこともない。高校はアルバイト禁止だったのだ。隠れて働いている生徒もいたが、彼は部活があったのでどのみちそんな選択肢はなかった。小遣いも少ない。貯金はほとんどない。親戚付き合いもほとんどなかったから、お年玉がほとんどないのだ。出不精の親を持つと苦労する、なんて親不孝なことは言えないが。
「行かなきゃ駄目ですか?」
「えー!? 行こうよ、保川君」明日香が潤んだ目で多加志を見つめる。その目は卑怯ではないかと多加志は思うが、何も言えない。
「そうだぞ、保川くん。今回行かなかったら部員との溝が深まるぞ」高山は右手で落ちかけた眼鏡を押し上げながら言った。
確かに、ミステリー初心者の多加志はサークル内で若干浮いた存在だと言わざるを得ない。今のところ問題はないが、行事に参加しなかったりすると、本格的に爪はじきに会ってしまうかもしれない。
多加志は明日香を見た。彼女はどこぞのコマーシャルのチワワのような表情で多加志を見ていた。CMの俳優ではないが、そんな目で見られたらノーとは言えないではないか。そういえば、いつの間にかあのコマーシャルはなくなった。今はどんな内容になっていただろうか。全く印象がない。
「……わかりました。行きます」
その時の明日香の表情を見て、とりあえずは良かったと多加志は思った。