二
3
「そんな……」多加志は絶句するしかなかった。
「これは答えじゃない。与えられた条件から絞り込んだ答えの候補にすぎないよ。条件が不確定だから変域でしか答えを出せない。しかもその条件に「私たちの知ってる人物」っていう余計なものが入り込んでるから。ただ、彼と同じ条件の人間がこの島に何人いるかを考えれば、答えに限りなく近いと思う」
「信じられない……。じゃあ、あの花火も」
「私たちの目を逸らすためのものだろうね」
「けど、動機は?」
「わからないよ」彼女の声は冷たかった。「わかりたくもない。どうせたいしたことじゃない」
「たいしたことじゃないって……」
「推理小説……、というより推理漫画かな。あれに動機がしっかり描かれているのは、大人の事情だよ、きっと。殺人を犯すには相当な理由がいる、けど、それでも絶対にやってはいけない。そういう意味を込めてるんだろうね。
それが小説になると読者の年齢層が上がるからちょっとドロドロしてくる。けど、現実の事件はもっと血生臭い。お金のトラブル、恋愛の縺れ。それならまだいいよ。けど、もっと理解しがたい動機が一杯ある。そんなのにいちいち構っていたくない。
もっとも、それらが心身喪失状態とか言われて責任能力を問われないってのは許しがたいけどね。まあ、私が語ることじゃない。たぶん、反論も一杯出てくるから、このくらいにしておこう。ホワイダニットは小説の中だけで十分」
「まあ……君の意見はわかったよ。けど、本当に古村さんが犯人なのかな?」
「言ったでしょ、わからないって。けどね、いつもは車で移動しているのに、徒歩で、しかもスーツケースなんて持って歩いているのを見ると少し疑うね」
「何言ってるの?」
多加志は彼女の言っていることがわからなかった。とりあえず彼女を見て、さらに彼女の視線の先を追った。
そこには彼女の言った通り、徒歩でスーツケースを持った古村がいた。
「君がそんなこと言うから逃亡準備にしか見えないんだけど。いや、でも旅行かもよ?」
「奥さんを置いて?」
多加志はため息をついた。
「どうするの?」
「どうしようか?」
「知らないよ、僕は」多加志は両手の手のひらを上に向けた。
「話しかけてみようか?」
「は?」
「古村さーん!」言うが早く彼女はベンチを跳ねるようにして立ち上がって古村に声をかけた。
多加志は頭を抱えたくなった。
古村は立ち止まって目を凝らすようにしてこちらを見た。
「えっと、安村君。と、君もキャンプに来てたよね?」
多加志は訂正するのを諦めた。この短期間で三回も名前を間違えられたのは初めてだ。しかも、彼は二度目だ。至って普通の名前だと思うのだが。
「今村です」
「ああ、聞いてるよ。近野君の従妹だっけ?」
「はい、そうです。あの、旅行か何かですか?」
「あ、いや、まあ、そんなところ」古村は歯切れ悪く言った。
「あの、私たち、事件について考えてみたんですけど、聞いてくれません?」
多加志は背中に冷や汗が流れるのを感じた。
「事件って、あの殺人事件? 犯人がわかったの?」
「けど、自信がないんです。だから他の人の意見が聞いてみたくって」
「犯人は誰?」いつもは優しそうな彼の少し垂れた目が今は鋭くなっている。
「古村さんが一番よく知ってる人です」
古村は黙った。その意味を考えているのだろう。
おそらく数秒の間だろう。だが、多加志にはかなり長く感じた。このギクシャクした雰囲気をどうにかしたくてたまらなかった。
背中は冷や汗で冷たい。だが、心臓は今にも張り裂けんばかりに鼓動を速くしている。血液が過剰に体中を巡って、体温が上昇していく。
やがて、モーションを起こしたのは古村だった。
「きゃっ!?」
急に古村はスーツケースを押し付けるように突き飛ばした。そして、二人が怯んだ隙に走り出した。
明日香はスーツケースにぶつかって尻餅をついた。多加志も体勢を崩してよろけた。
「大丈夫?」
多加志は明日香に手を差し伸べた。
「追って!」
その手を取らずに彼女が言う。それを聞いて多加志は走り出した。
すでに差は開いていた。多加志は走るのが得意な方ではない。それでも、古村も同じようで、年齢差や運動歴などのおかげで少しずつ縮まってはいる。
だが、向こうは火事場の馬鹿力を発揮しているらしい。なかなか諦めてはくれない。
対する多加志は息が上がってきていた。長らく続く運動不足が祟っているようだ。
視線の先に走り去っていく古村を不思議そうに眺める二人組がいた。キャッチボールを教えた少年たちである。二人は多加志の姿を認めると会釈しようとした。
「ボール貸して!」
「え? あっ、はい! え?」
多加志は坊主の少年からボールを半ば奪うようにして受け取った。某漫画の真似事でもしてみようと思ったのだ。
漫画のように百メートル先の相手にぶつけるのは無理だ。そもそも百メートルも投げられない。だが、古村との距離はおそらく四十メートルほどだ。この程度の距離なら、不可能ではない。
投手・捕手間が十八・四四メートル。その他ベース間が二十七・四三メートル。これは高校の時に教え込まれた。三平方の定理で捕手・二塁間が三十八・七九メートル。これは自分で勝手に計算して覚えた。
この程度の長さなら、相手の取れる位置に投げなければいけない。相手の取れる位置とはすなわち相手の体だ。
頭に当ててはいけない。下手をすれば死んでしまう。
プレッシャーはある。
けれど、ボールカウント、ツー・スリーの緊張感と比べれば。
ツーアウト満塁のピンチに比べれば。
強豪私立の四番バッターの威圧感に比べれば。
多加志は助走をつけてボールを投げた。
それは直線に近い放物線を描いて飛んでいく。
それは古村よりも左に逸れているように見えた。
けれど、それは軌道を変えて古村に向かっていった。自分のシュート癖は自分が良くわかっていた。
そしてそれは古村の背中に当たった。
予期せぬ衝撃に古村はうまく対応できなかったようで、うめき声を上げると、その場でバランスを崩して倒れこんだ。
多加志は大急ぎで古村の傍まで駆け寄って、彼を押さえつけた。
「くそっ……」
古村は抵抗しなかった。
「なあ、いったい何?」二人組が走り寄ってきて、眼鏡の少年が聞いた。
「あ、ちょうどいいや。乾さん……えっと、駐在さんを呼んできてくれないかな?」
4
さて、どうしてこうなったのだったか。
保川多加志は考える。
彼は今、船の上にいる。不規則な規模で、それでいて規則的な間隔で襲う波が船体を揺らし、それがひどく不快な気分にさせた。船酔いしてしまわないか心配だったが、行きの船では大丈夫だったので、おそらく大丈夫だろう。
第一、船とはそういうものだ。そういうものなのだから受け入れてしまうしかない。世の中には受け入れがたいものは山ほどあるが、これはどちらかというと受け入れやすい部類に入るだろう。
今村明日香の人間性の方が受け入れがたい、なんて冗談も思い浮かんだ。
むしろ、雲ひとつない空、そこを翔けるカモメ、澄んだ青色をした海に、潮の香り。それらが、人工物に囲まれて汚れていく自分を浄化してくれるようで、その点においては気分が良い。
ただ、その人工物に囲まれた世界に今まさに戻ろうとしているのだ。少し、気分が沈んだ。
さて、どうしてこうなったのだろうか。
彼はもう一度考える。
「いやあ、凄かったよ、保川君」
人、半人分離れて同じく海を眺める少女、今村明日香が言う。その縮まった半人分のスペースがこの五日間の成果だ。
「ありがとう」
「いや、本当、凄かった。保川君が野球やらないなんてもったいないよ!」彼女は興奮したような笑顔で言った。 先ほどから異口同音で言い続けている。
最後に古村を仕留めた投球が、どうにも彼女の琴線に触れたらしい。それから彼女はスーパースターでも見るかのように接してくるのだ。
あの後、駆け付けた警察によって古村は連れて行かれた。彼は何の抵抗もしなかった。おとなしく罪を認めたのだ。
聞いたところによると、三輪の死体から、彼とは違う血液型の血が微量だが検出されたらしい。洗い流しきれなかったようだ。
また、多加志たちは知らなかったが、古村には西田殺害時のアリバイがなかった。朝、彼は役場には出勤していなかった。キャンプ場に客がいるとそういうこともあったらしいので誰も疑わなかったそうだ。ところが、彼がキャンプ場に来たのは昼ごろになってからだったようだ。ミス研の部員がそう証言したらしい。
古村の(正確には役場の)バンはこれから調べるようだ。血痕、それがなくてもルミノール反応が出るだろう。
つまり、いずれは警察も古村に辿り着く可能性は十分にあったということだ。否、むしろそうでなくてはいけないのだ。彼らはそれが仕事なのだから。
警察の情報は膨大だ。そうでなくては仕事にならない。比べて自分たちが得た情報など、溶けきらなかったココアの粉末くらい些末なものだ。
それでも、彼女はそこから答えを導いたのだ。
そんな彼女には畏怖の念さえ覚える。
彼女は相変わらず目を輝かせている。
「お世辞、ありがとう」やっと多加志は返答した。
「お世辞だなんてとんでもない! そりゃあ、私は野球のことあんまり知らないけど、知らないから無責任かもしれないけど、間近で見たら凄かったんだもの!」
彼女はぐっと拳を作って、熱弁した。少し距離が近くなった。
「ありがとう」この数分で何度言ったか、もう数えるのを止めてしまった。
「野球やろうよ! ……保川君がミス研からいなくなったら、それは寂しいけど」ここで少しだけ彼女の表情が曇った。「野球、好きなんでしょ?」
しかし、すぐにまた熱気のある顔になった。
「好きだよ。けど、やらない」
「何で!?」
「野球より、楽しいものを見つけたからかな?」
「何、それ?」彼女は首を傾げる。「ミステリー? そんなに気に入ってくれた?」
「うん、まあ、そんなところ」多加志は微笑んだ。
ここのところで一番の笑顔だろうという自信があった。
口にしようとは思わなかった。あまりにも臭くて気恥ずかしい台詞だ。
だから、心の中でつぶやいた。
(それは、君の推理ショーだ)