三
7
近くでガタンという音がした。
「彼女とはどうして喧嘩したの?」
急に話しかけられて多加志は顔を上げた。すると、瞳が椅子を一つ分飛ばして座っていた。店内の時計を見ると既に三時を回っていて、客は多加志一人になっていた。
多加志は漫画を閉じた。絵は好みではなかったが、有名だけあって面白かった。だいたい、多加志は絵で読むかどうかを決めるのでこういった読まず嫌いが多い。
「別に喧嘩じゃないんですよ」多加志は苦笑する。「今村さんが、勝手に不機嫌になったんですよ」
多加志はコップの水を飲もうとして、一度手を止めた。一度すべて飲み切っていたのを思い出したからだが、氷が溶けてまた溜まっていたので、結局口につけた。
「今村さん? 自分の彼女なのに随分他人行儀ね?」
多加志は水を噴き出しそうになった。だが、それをこらえると今度は器官に入ってしまって、盛大に咳き込んだ。
「あらあ、大丈夫? そんな照れなくたって」
「彼女じゃないですよ」多加志はまた咳き込んだ。「同じサークルで同じ学年ってだけです。一年生は僕ら二人なんで、一緒にいることが多いってだけです」
「そうかなあ?」
「そうです」多加志は即答した。
「まあ、そういうことにしておこう」彼女は楽しそうに笑った。「でも、君が知らずのうちに何かしたんじゃないの?」
カウンターの上にピッチャーが置いてあったので、それを手に取って瞳の方を見た。彼女は黙って頷いたので礼を言って水をコップに注いだ。
「いや、原因はたぶんわかってるんですけど……」
「ほらきた!」
「違いますって。彼女、事件の謎を解いたらしいんですけど、その解き方に納得いってなかったみたいで」
瞳は理解できないようで、瞬きを繰り返していた。
多加志は説明しようとして、躊躇った。経緯を説明して、明日香が推理ごっこに興じていると言ったら、彼女は島民として「不謹慎だ」と怒るだろうか。
多加志の頭脳はその確率を割り出せずに行動できずにいた。
「事件って、三輪さんの?」彼女は言った。
彼女から言い出したのだから、反応せざるを得ない。今のところ怒るといった兆候はない。
「ええ。言いましたよね、僕ら目撃者になったって。それで、あれこれと考えちゃうわけですよ。それで、何か、わかっちゃったみたいです」
「へえ、でも違うんじゃないの? 素人が何考えたって警察に勝てるわけないじゃない」
「そう、ですよね」
怒る、の他に、相手にしない、という選択肢があることに多加志は気が付かなかった。
少しほっとした。多加志は物事を悪い方から考えるから、変に身構えてしまうのだ。それでも、その方が安全だから、改められない。フェールセーフを壊したくはない。
「けど、それで機嫌を損ねちゃったみたいなんですよ」
「そんなこと、あり得る?」
「だって、自分で言ってましたから」
「そうなんだ」彼女は声を出して笑った。「面白い。明日香ちゃんって変わった子だね」
「僕もそう思います」多加志もつられて笑った。
「で、犯人は誰?」
彼女は急に真面目になった。少しは期待しているのかもしれない。
「教えてくれませんでしたよ」
「そっか……」彼女は悲しそうな顔つきになった。「斎藤さんが言うみたいに、外の人間だったらいいのに」
「僕は殺してません」
「ごめん、そういう意味じゃないよ」
「いえ、大丈夫です。そう思うのが普通だと思います。一度に二人も亡くなって、周りの人間がやったとは考えたくないですよね」
「そう、西田さん……だっけ? あの人も亡くなったんだよね」
「西田さんは知らないんですか?」
「名前は知ってるよ。けど、詳しくは知らない。三百人しかいない島だけど、三百人もいたらそういう人も何人かいるよ」
多加志は高校時代を想像した。一学年三百二十人、見たことのない顔はいないだろうが、名前を知らない人の方が多い。それで納得した。
「斎藤さん、大丈夫でしたか?」多加志は話題を変えた。
「今日のことは大丈夫。けど、三輪さんが亡くなってから、ずっとああだから。犯人がわかったら殺しちゃうんじゃないかしら」
「斎藤さんは殺しません。その前に犯人は警察に捕まります」
「冗談だよ。本気にした?」
「あっ、すみません……。けど、本当にすぐに捕まります」
「どうして?」
「今村さんがすでに解決してるからです」
瞳は笑いを堪えていた。多加志自身、痒くなりそうな台詞で、苦笑しそうだった。
「………………ふっ」
多加志の方が耐えられなくなって、笑ってしまった。
「すみません。今のなしで」多加志は両手で顔を覆ってしまいたかった。両手を合わせて瞳に訴える。
「彼女のこと、すごい評価してるんだね」
彼女はその訴えを聞いてはくれなかった。多加志は諦念の息を吐いた。
「ええ、彼女、変わってますから」
「そういうところがいいの?」
「え? いいって、何がですか?」
「だって、明日香ちゃんのこと好きなんでしょ?」
どうしてこういうことを言う輩が多いのだろう。
8
その後も少し話をした。しかし、彼女も仕事があったし、いつまでも邪魔をするわけにもいかないと思い、しばらくして多加志は礼を言って店を出た。
まだ日没には遥か遠い。いっそのこともう旅館に戻ろうかとも思った。だが、戻ったところで何もない。キャンプだというので本も携帯ゲームも持ってきていない。
展望台にはすでに行った。滝にも行った。他の観光スポットは、知らない。
役場に行こうと思った。なんとなく、事件について調べてみたくなった。明日香はすでに解決しているらしい。ならば、自分の出る幕はない。
けれど、彼女に少し追いついてみたくなった。彼女と同じ道をたどれば、少しは近づけるかもしれない。
役場に向けて歩き出すと、見たことのある白いバンが見えた。古村の車だ。
そのまま通り過ぎると思っていたが、予想に反して車は多加志の前で停まった。
たれ目で優しそうな顔が覗いていた。
「あれ、確か、キャンプに来てた子だよね?」車の窓を下げて古村は言った。
「覚えてるんですか?」
「うん。近野君と電話してた子だよね。えっと、安井君?」
「保川です」
「ああ、ごめんごめん。帰ったんじゃなかったっけ?」
「みんなは帰りました。僕ともう一人、ちょっと帰れないんですよ」
「忘れ物? じゃないよね。昨日の話だもんね」
「ええ、ちょっと……」説明しても良いのか多加志は迷った。
「まあ、いいや。どこに行くの?」
「あ、役場までです」
「ちょうど良かった。乗ってく? 今、行くところだけど」
「あ、じゃあ、お願いします」
多加志はぐるっと回って助手席の扉を開けた。
「でもね、今、警察がいっぱいで居心地が悪いんだよね」
「あ……」多加志は足を止めた。「すみません。やっぱりいいです」
「そう?」古村は不思議そうに首を傾げた。
「ええ。特に用事があるわけでもないし、警察がいたら居心地悪そうなんで」
「そう、それじゃ」
古村は去っていった。排気ガスの匂いが不快だった。少し咳き込む。
「よく考えれば当たり前じゃないか」
警察が動いている。そう考えるだけで、多加志の意志は風船のようにしぼんでいった。これは警察の仕事だ、多加志の考えは結局そこに戻っていった。
これが自分と彼女の差だ。
「違う。差じゃない、違いだ」何を根拠に言っているのだろう、多加志は自分に呆れた。
9
三輪の八百屋の前まで来た。何がしたかったわけではない。
警察がちゃんと動いていると認識したとき、多加志のやる気は風船のようにしぼんでいったが、今はたぶん、空気が抜けてその惰性で動いているのだな、と思った。
カラフルな縦縞だが、色あせた庇屋根の下で、シャッターは相変わらず降りていた。張り紙がしてあるが、読むまでもなかった。特に話を聞こうなどとは思えなかった。
いつになったらこの店は再開するのだろうか。殺された三輪昭仁の妻は立ち直れるのだろうか。
そういえば、子供はいるのだろうか?
そう考えると、殺された被害者について、表面的なことですらわからない。それで事件について考えようなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。失礼、と言ってもいいかもしれない。
三輪については瞳から多少は話を聞いていたが、西田についてはさらに知らない。近野に聞こうかとも思ったが、もういい加減にした方が良いのでは、とも思えた。
帰ろうと思い歩き始める。肉屋の前を通ったが、話を聞こうかと少しだけ迷って止めることにした。これ以上は無駄だ。まだ惰性で動いている。
だが、レジ前にいた谷内田と目が合ってしまった。仕方なく会釈する。
すると彼女は目を細めてこちらを凝視した後、思い出したように言った。
「ああ! 京太君の従妹の友達? 彼氏?」
「友達です」
仕方なく多加志は近づいていった。
「今日はどうしたの?」
「いえ……。散歩です。残念ながらお遣いじゃありません」最近、饒舌になってきているなと思った。
前なら、二、三度話しただけの人にこのようなことは言わなかっただろう。明らかに明日香の影響だな、と自己分析する。
「あら残念」彼女は肩を少しだけすくめた。「安くするよ」
「いえ、大丈夫です」
「つれないねえ」
彼女は苦笑して肩をすくめた。だが、迷惑に感じているようには見えない。元から観光客には期待していないのだろう。
「あの……、前、事件前日の夕方に三輪さんを見たって言ってましたよね?」
思わず聞いてしまった。しかも、正確には当日、しかも事件の数時間前だが、説明するのが面倒だった。
「え? そうだよ。聞いた話だと私が最後に見たらしくてね。警察にいろいろと聞かれたよ」
「どこで見たんです?」
「どこって、店の前だよ」谷内田は八百屋の方を指差した。わかりきっていたが多加志もつられて振り返る。
先ほどと寸分違わぬ景色だった。
「どんな様子でした?」店に向き直って尋ねる。
「それねえ、警察にも聞かれたけど、そんなのいちいち見てないよ」
「あ、すみません。ここから見てたんですか?」
「そうだよ。三輪さんが出て行った後は、奥さんが店番してたけどね」
「三輪さんに子供っていました?」
「いたよ、二人。けど、二人とも島を出てったよ。警察の尋問みたいだね」彼女は少し不機嫌そうだった。
こんなことする必要はなかったのに、と後悔して、礼を言うと多加志はその場を離れた。
遠くから店の屋根を見ると「谷内田精肉店」とあり、営業時間は午後七時半までだった。
「死亡推定時刻は八時プラマイ三十分……」
もういい加減に寝よう、と多加志は旅館へと帰った。