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離島と推理の正味 Show me your mystery  作者: 春谷公彦
七章 予期しない不機嫌/風の強い崖
17/20

     4


「車来てるよ」明日香が後ろを振り返って言った。

 多加志も後ろを振り返ると、銀のセダンがゆっくりと迫っていた。明らかに多加志が邪魔になっていたので道端に避けた。運転席で、初老の男性が頭を下げた。

 車は多加志たちを通り過ぎてもさほどスピードは上げなかった。この島でスピードを出そうものなら人の一人や二人は簡単に轢いてしまうかもしれない。

 車が通ったことで思い出したが、この島に来て驚いたのが、信号がないことだ。信号がないのに、車は普通に走っている。もちろん、信号がない分、一時停止の標識は多かった。

 確かに、車はそれほど通っていない。かといって全くというわけではない。通っていないからと言って気にならないし、通ったからと言って気にならない。住宅街に信号がないのと同じで一時停止の標識だけで十分なのだろう。

「そうだ、知ってる?」彼女が言い出した。

「何が?」

 この質問とこの切り返しは日本全国で使われている最も不毛なやり取りだろう。それでも、多加志は何の抵抗もなく返事をした。

「この島にはほとんど信号がないんだよね」彼女も同じことを思っていたらしい。

「みたいだね」

「けど、島に一個だけあるらしいよ」

「へえ。何のために?」

「島を出てく子供たちが、向こうでルールを守れるように、だって」

「ああ……なるほど。面白いね、それ」

 信号機を知っていても、使ったことがなければわからない。百聞は一見にしかず、ということだろうか。

 警察は現場を見ていない。警察が百回調べたところで、一度見た自分たちに及ばないということになるのだろうか。

 だとすれば、事件を解決するのは明日香以外にいないのだろう。

「……悪い冗談だ」多加志は彼女に聞こえないように呟いた。

 昼が近づいてきたので昼食をとることにした。食堂は「みき」以外にも少しはあったが、「みき」に行くことにした。

 食堂は混んでいた。客層の大半が腕っ節の強そうな男で、おそらくは漁業関係者であろう。昨日と同じパターンだった。

「いらっしゃい、あら!」瞳が出迎えてくれる。「ごめんなさいね。結構混んでるでしょ? それにムサイ男ばっかり」

「瞳ちゃん、そりゃねえだろうよ!」入り口近くのテーブルで聞いていた中年の男が笑いながら言う。

「ごめんなさい。どうしよう、カウンターでいい?」

「いいですよ、全然」

 二人はちょうどカウンターの隅が二つ空いたのでそこに腰掛けた。明日香の隣の五十代ほどの男が睨んできた。瞳はそれに気が付かなかったようだ。

 睨まれる覚えはなかったのでそのまま無視したが、あちらはちょくちょくこちらを睨んできていた。何だか気まずい。彼女を男の側に座らせてしまったのも男として不甲斐ないが、予期できないことであったのでどうにもならない。

 男は白髪で皺の多い顔だった。漁で鍛えられているのか体つきは良かったので五十代かと思ったが、もう少し上かもしれない。

 居心地が悪かったのでさっさと注文を済ます。

 注文を終えたところで、男の方から話しかけてきた。

「あんたら、島の者じゃねえな」低い、太い声だった。

「ええ、そうですけど」

 明日香はそう言って眉をしかめた。普段の彼女ならもっと会話を弾ませるような言葉を繋いだのだろうが、どうしたのだろうと思っていると、ほのかにアルコールの匂いが漂ってきた。

「ああもう! 斎藤さんったら、またお酒飲んで!」多加志と明日香の分の水を持ってきた瞳が彼を見て言った。

 斎藤の目の前には酒が置かれている。日本酒か焼酎か、多加志はビールとカクテルの一部しか知らないので判断はできなかった。

「斎藤? 漁労長の?」独り言のように明日香が言ったが、斎藤には聞こえたようだ。

「ああ!? 文句あんのかあ!?」

 口から米粒が飛んだ。かなり汚い。

「斎藤さんっ、お客さんに突っかからないでよ!」

「俺も客だろうが!」叫ぶように斎藤が言う。

 白髪混じりの髪から覗く頭皮が真っ赤になっている。瞳は怯んで、持っていたお盆を盾にするようにして距離を取った。

 にわかに周りもざわつきだしてきた。店自体がそれなりの喧騒だったのでほとんどの客が気が付いていないが、多加志たちの近くの客はみな困ったようにこちらを見ている。

「外の奴らはいけ好かねえ」真っ赤な目で斎藤は睨む。

「なあ、斎藤さん、あんた飲みすぎだよ」

 近くの中年の男が寄ってきて斎藤の肩をそっと掴むが、彼はそれを払いのける。

「三輪のやつだって、本土から来たやつが殺したんだろうが! 島の奴らが殺すはずねえ!!」

「ちょっと、いい加減にしなよ……」

「うるせえっ!!」

 男が再び斎藤の体を掴もうとすると、彼は乱暴にそれを振り払った。その拍子に彼が食べていた丼ぶりとコップが地面に落ちて鈍い音を上げた。

「きゃあっ!?」

 大小いくつもの破片になってそれは割れた。その音で初めて食堂が静まり、皆が視線を斎藤に注いだ。

 多加志たちはとっさに立ち上がってその場から数歩下がった。

 何を思ったのか斎藤は立ち上がろうとするが、足元がおぼつかずにふらふらとよろけた。 

 それを男が支えた。

「ったく、帰るよ斎藤さん。おい大嶋、肩貸せ」

「あっ、はい」その場にいた三十半ばほどの男が立ち上がる。二人で斎藤の肩を片方ずつ組んだ。斎藤はもう抵抗しなかった。うつむき気味の顔は焦点が合っていないようだった。

「悪いな瞳ちゃん、俺は斎藤さんを家まで連れてくからよ」

「いいですよ。ツケときますから。すみません、菅野さん」彼女は深々と頭を下げた。

 彼らが去っていくと慌てて瞳がどこからか塵取りを持ってきて破片を拾い出す。

「おいおい、何があったんだ?」厨房からだろうか、年配の男性が不機嫌そうな表情で出てきた。

「あ、お父さん。斎藤さんがまた飲んだくれちゃって……」

「またか? まったく……」彼はため息をついた。「こないだからずっとそうだ。働かねえで昼間っから酒飲んで……。気持ちもわからんでもないが。ったく。瞳、悪いけど片づけといてくれ。掃除機もかけてくれよ」

「いいけど……、昨日から掃除機の調子悪いみたいなの。なんか詰まっちゃったのかな?」

「ああ、じゃあ裏の物置から古いの持ってこい。たぶんまだ使えるから。鍵はレジの下だ」

 彼は客に向かって申し訳なさそうに頭を下げると厨房へと下がっていった。厨房から女の声が聞こえた。おそらく瞳の母だろう。

 瞳は塵取りであらかた破片を拾い終えると、レジの下の戸棚から鍵を取り出して外へ出て行った。

 多加志たちの料理はまだ来ていなかった。

「大丈夫? 怪我ない?」多加志は明日香に尋ねた。

 しかし、彼女からの返答はない。

「今村さん?」

 彼女は茫然としたように立ち尽くしていた。


     5


 結局、彼女は店を出るまで一言も話さなかった。どことなく不機嫌である。

 彼女は勝手に歩き出した。

 しばらく彼は彼女に話しかけることができなかった。おそらく、今までで一番機嫌が悪いだろう。

 周りを見渡すと、どうやら近野の家までの道のようだった。どうやら帰るつもりらしい。だが、多加志の泊まっている旅館は反対方向だった。仕方がないので近野の家で時間を潰させてもらおうか。

 そんなことを考えている横で明日香は、増々不機嫌になっているようだった。これ以上不機嫌になられても困る。

「あの、今村さん?」現状を変えるために、恐る恐る多加志は尋ねた。ただ、何か変わるとは思えなかった。

「何?」彼女は短く答える。彼女は進行方向を向いたままだ。

「どうして怒ってるのさ?」

「私の一番嫌いな言葉、知ってる?」

「知るわけないじゃないか」

「『簡単なことだった』だよ」

「……何、それ?」

 わけがわからなすぎて多加志は考えることを放棄した。最近思考の放棄が多すぎるなと感じた。良い傾向ではない。人間、考えることを止めると馬鹿になる。それでも考えられなかった。

「ミステリーで探偵がひょんなことから解決の糸口を見つけて、っていう。実際にそう言っている探偵が何人いるかっていうのは置いておくけど」

「はあ……」多加志は曖昧に頷くしかなかった。

 近野の家が見えてきた。

「何で? 何で今まで気が付かなかったのに、そんな些細なことで、しかも事件とは関係ないようなことで一気に片が付いちゃうの? だから、私はこの言葉が大っ嫌い」

「いや、まあ、それはわかったけど、それがどうしたっていうのさ?」

「言わせたいの?」進行方向を向いていた彼女の顔が初めて多加志の方を向いた。

 睨んでいた。蛇に睨まれた蛙の気分がわかった気がした。

「何を? っていうか全然意味わかんないんだけど」多加志は目を逸らして言った。

 彼女は黙ったまま歩く。何も言ってくれないので多加志は答えを聞くのを諦めた。

 近野の部屋の前まで来た。ポケットから鍵を取り出す。いつの間にか鍵を借りていたようだ。

「簡単なことだったんだよ」

 明日香は近野の家の扉をバタンと閉めた。彼女の言葉が、先ほどの答えだと気づくのに時間を要した。

 そして、それを理解した頃、ガチャ、と鍵が閉まる音がした。


     6


 部屋に入ることを拒まれた多加志はしばらくそこに立ち尽くしていた。

 時計を見た。まだ、午後一時半だった。これから一人で時間を潰さなくてはいけないらしい。日は若干傾いている。どうせだから冷たいものでも買って食べようかと思った。

 来た道を引き返す。

 小さな商店を見つけたので、そこでアイスクリームを買った。店の前にベンチがあったのでそこに腰かけた。食べていると頭が痛くなった。このメカニズムはよく雑学で取り扱われるが、多加志はどうしても覚えられなかった。

「……はあ」

 ため息が出た。頭痛のせいではない。

 彼女の機嫌は相当なものだった。彼女は「簡単なことだった」と言った。それは彼女の嫌いな言葉らしい。そして、探偵が事件解決のときに言う言葉、らしい。つまり、簡単なことで事件がわかってしまったから機嫌が悪いのだろう。

 彼女は何に気が付いたのだろう。様子がおかしくなったのは食堂でのやり取りの後だ。あのとき、事件につながるような何かがあっただろうか。

 多加志は思いつかなかった。漁労長の斎藤が酔っぱらっただけではないか。それが事件と何の関係があるのだろう。

「わかんないや」木べらを咥えながら彼はつぶやいた。

 商店にゴミ箱はなかった。捨ててくださいとも言いにくい。仕方なく彼はそれを持ったまま歩き出した。

 当たり前だが、アイスを買って食べただけでは時間はそれほど潰れない。まだ二時前だった。とりあえず、目的もなく歩き出す。

 いつ帰れるだろうか、と考える。彼女は事件についてもうわかったようだったから、もしかすると明日には帰れるかもしれない。もちろん、警察がその案を採用すれば、ではあるが。

 彼女の思考能力には脱帽する。次から次へと考えが浮かんできているようだ。そしてそれは一見自分勝手にも見える行動力ともつながっているのだなと思う。思考が卓越しているからそれを確かめるために行動するのか、行動するから必要な条件式がそろって答えが出せるのか。おそらくどちらも正しいのだろう。

 多加志にはない能力だ。多加志は思考するときに立ち止まる。一度立ち止まって吟味する。そして、それが正しい、あるいはかなりの確率で正しいと推測されるときだけ行動する。立ち止まる時間がないときは思考すらできない。思考できないから経験値が上がらない。

 彼女は考えながら行動できる。行動しながら考えられる。

 これが彼女との差だろう。違い、ではない。

 両者は一見、対立する二つの方法論に見えるが、多加志の場合は、ただ単に考えているときの行動スピードが限りなくゼロに近い、行動しているときの思考スピードが限りなくゼロに近い。それだけのことだ。性質の違いではなく、性能の違いだ。

「僕はどう見られてるんだろうな……」

 ふと思った。もしかすると、どうとも考えていないのかもしれないと思った。その確率が一番高いという判断を下した。このときのスピードは早かった。

 嘆息。

 意中の女性と二人でいて、このような小難しいことまで考えて、何の進展もない。自分に呆れるしかなかった。

 思考中の体は障害物を避けるというプログラムに従って歩いていた。考えながらではこの程度の命令しか体に下せない。歩行に関しては何も考えていないので、自然と知っている道を通っていた。

 ちょうど三木の店の前だった。二時間前に訪れている。ここに入る理由はなかった。

 だが、別の場所で時間を潰せる気がしなかった。

「いらっしゃいませ……あれ?」多加志を見て瞳は驚いたようだった。

「あ、すみません」思わず多加志は頭を下げる。

「明日香ちゃんは?」

「あ、いや、その……」どう説明すれば良いだろうか。

「ふーん。喧嘩したんだ」彼女はそう理解したらしい。

 喧嘩と呼ぶにはあまりに理不尽だったが、似たようなものだろう。

「それで、時間を潰したいんだ?」

「まあ、近いです。けど、お邪魔ですよね」

「いいよ、適当に座って。お冷ぐらいサービスするから」

 多加志はカウンター席の端に座った。ここにきてやっとアイスのゴミを捨てることができた。

 客はまばらだったが、ゼロではなかった。瞳が水を持ってきてくれた。先ほどアイスの糖分で喉が渇いていたので有り難かった。瞳はそのまま別のテーブルへ向かって、食器を下げたりテーブルを拭いたりしていた。

 じっとしているのも辛かったので、多加志は立ち上がって本棚まで向かった。多加志の好みに合うものはやはりなかった。仕方なく、有名だが多加志は読んだことのなかった格闘漫画を読むことにした。

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