一
1
「痛っ……」
多加志は強烈な首の痛みで目が覚めた。目を開けると木目の天井が視界に飛び込む。自分の部屋の天井は白い。知らない天井だった。ここはどこだろうか……。
それから急速に頭が冴えてくる。何を馬鹿なことを、今自分は島の旅館に来ているんじゃないか、と思い出す。
「大丈夫?」
急な他人の声に過敏に反応する。誰かいるとは思っていなかった。
体を起こしてみると窓際の一人掛けのソファに明日香が腰掛けていて、足も座面に乗せ体育座りのようにしていた。昨日のワンピースとはうって変わってTシャツにジーンズだった。
「浴衣、はだけてるよ」
彼女に言われて自分の体を見ると、帯が解けてパンツが丸見えになっていた。
「あっ、わっ!」
慌てて布団で隠す。女じゃないのだから別にパンツくらい見られても減るものではないが、さすがに女性に見られるのは気恥ずかしかった。
「うなされてたから心配してたけど、大丈夫みたいだね」彼女は立ち上がって、窓を開けた。
まだ熱される前の心地よい風が送られてくる。そこで自分が汗だくになっていることに気がついた。
そして昨夜のことを思い出す。
「…………夢、か」多加志は両手で顔を覆った。
昨日は事件について考えているうちにいつの間にか眠ってしまったのだ。よくよく見上げれば電灯がついたままになっている。
どんどんと夢の内容が蘇ってくる。良い夢のときは起きた瞬間に霧散してしまうのに、悪夢のときだけ尾を引いてくるのはなぜだろう。思い出すだけで冷や汗が出てきた。
右手を首に持っていく。当たり前だがくっついている。首が痛いのは寝違えたのだろうか。
添えた右手でそのまま首を揉んだ。凝り固まっていて痛かった。
「そんなに悪夢だったの?」彼女は笑っている。
どこからが夢だったのだろう。
「ねえ、昨日ここに来た?」
「いや? 昨日はお風呂に入ってすぐ寝ちゃった。疲れてたのかな」
「お風呂って、近野さんの家の?」
「そうだよ」
「近野さんは?」
「京太君はもっと早く寝たよ。無理ないよね。島民からすれば私たちより精神的につらい」
「そう……」
全て夢だったのだ。近野が犯人などという考えを持った罰が当たったのだろうか。
「京太君に殺される夢でも見た?」
多加志はどきりとした。態度に出てしまったかもしれない。
「あら、本当に?」彼女の目が大きくなった。「もしかして京太君が犯人じゃないかとか考えているうちに寝ちゃったとか?」
「あ、いや、その……」
「保川君ってわかりやすいね」明日香は微笑む。
「君は読心術でも心得てるの?」
「heart? それともlips?」
「heartだよ」
「まあ、質問からして私と京太君が出てくる悪夢かなと。ここ数日の雰囲気でそういう夢が出てきてもおかしくないかなって。君がそういう現実的な夢を見るかはわかんなかったけどね。私なんて空を飛ぶ夢とか、怪物に追いかけられる夢とか、テストで〇点とる夢とか、そういうのばっかりだから」
「そういう夢の方が多い。テストで〇点はちょっと違う気がするけど」
「京太君は犯人じゃないよ」明日香は急に話題を戻す。
「君の従兄だから?」
「それは理由の一割。ヴァン・ダインの二十則って知ってる?」
「ヴァン・ダインは最近知った」まだ読んではいない。
「その中に『真の犯人は一人でなくてはいけない』っていうのがあるんだけどね。だから、普通は犯人が一人って思っちゃうわけだよ。けどね、絶対に一人では無理となるとやっぱり共犯者がいるって考えるよね。そこで、『絶対に一人でできるトリックがある!』って考えるのがミステリーファン。『共犯者がいたはずだ』って考えるのが現実の警察。ま、警察も馬鹿じゃないからそのくらい考えるし、犯人も馬鹿じゃないからそんな安易な方法は取らないけどね。それでも、共犯がいるというのは十分考え得ることだよ。それにね、乾さんが共犯だって考えてるでしょう?」
多加志は黙って頷く。
「共犯者って、一見して関係がわからないくらいじゃないと意味ないよ。すぐにばれちゃう。第一ね、この『犯人二人説』だと首を切断する理由がないんだよ」
「それはさ、見立て殺人なんじゃない? 例えばこの島に伝わる伝承があって……」
「ないない」明日香は手をひらひら振りながら苦笑する。「私、お母さんからそんな話聞いたことないもの」
「お母さん?」
「良く考えてみなよ。私と京太君は従兄妹なんだよ? てことは私の親、ちなみにお母さんなんだけど、親もこの島出身なんだよ。肉屋での会話、聞いてなかった?」
「あ…………」
「ね?」
彼女はイタズラっぽく微笑んだ。
2
多加志はその後、風呂に入った。悪夢のせいで汗が気持ち悪かったからだ。朝風呂というのもなかなか気持ちが良いと思った。
朝食を済ますと二人は島を歩くことにした。
かつては自転車で二時間ほどで島を一周できたらしい。だが、海洋研究所ができてから外周の一部が研究所の私有地になってしまい、文字通りに島を一周することはできなくなった。また、そのせいで多加志たちが通っていたトンネルからしかキャンプ場に出入りできなくなってしまったらしい。そのため、漁協関係者でなくとも研究所を良く思っていない人間もいるようだ。
そもそも、二時間もかけて島を一周する気はなかったので、適当に、それも徒歩で歩くことにした。
「そういえば、今村さんはこの島に来たことあったの?」多加志は尋ねる。
母親の故郷にキャンプとは、少し物足りなかったのではないだろうか。
「小さい頃は何度か来たらしいんだけどね。覚えてないなあ。京太君ともね、向こうで仲良くなったから。最初部長が言い出したときも、全然気づかなかったの」彼女は大げさに笑って見せた。
歩いていくとどんどん家並みから遠ざかっていく。やがて民家はほとんど見えなくなり、草木が多く目に付くようになる。
ふとキャンプ中の浜辺での会話が思い出されて失笑のような声が漏れる。
「どうしたの?」
「ああ、いや。自然豊かだなあって。そう思うのは普段が汚れているから?」
「君には選ぶ権利があるよ」真面目な顔で明日香が言う。「それについて私ともう一度議論するか、何も考えずに綺麗だなと思いながら歩くか」
「二番で」
「了解」彼女は吹き出した。
やがて木々も減り、開けた場所へと風景が変わっていった。草も背の低いものばかりで、土や岩もところどころ見える。
風が強い。この殺風景は人間のせいではなく、風が運んでくる潮のせいで植物がなかなか育たないのだろうか。確かに潮の香りが強くなってきた。生えている背の低い植物たちは潮に耐性があるのだろうか。
植物が多いから良い。少ないから悪い。そんな陳腐な理屈では証明できない自然がここにあった。そもそも、植物に囲まれたいなら、植物園に行けば良いのだ。
そろそろ三木の言っていた展望台だろうか。だが、話によるとこの時期には海鳥はもう滅多に見られないらしい。
「あっ、見て!」明日香が指を差す。
見上げると、数羽の鳥がいた。烏ではない。海鳥の一種だろうか。
「見れないと思ってたけど、良かったね」
しばらくすると展望台へと着いた。だが、驚いたのは柵に囲まれた簡単なスペースしかなかったことだ。崖から少し飛び出るように建てられている。これを果たして展望台と呼ぶのだろうか。
多加志は先端まで歩いた。
下を見下ろすと、刺々しい岩に波が飛沫を上げてぶつかっていた。ドラマの自殺シーンでこういった景色を見たことがあった。死ぬつもりなんてさらさらないのに、吸い込まれて落ちてしまいそうだった。
「……怖っ」思わず声が出る。
「高いところ苦手?」明日香が意外そうに尋ねる。
「苦手だって、今気づいたよ」
地元の電波塔に登ったときも、修学旅行で大阪の通天閣に登ったときも怖くはなかった。いくら展望台から下を見下ろしても「高いなあ」くらいの印象しか持たなかった。絶対に落ちないことを知っていたからだ。急にガラスが割れてそこから落ちてしまう確率なんて宝くじに当たるより低い。一等を当てるよりは高いだろうか。サンタクロースがいないとわかっているクリスマス、幽霊がいないとわかっている肝試し、それらも同じだった。
だが、これは違う。腰より少し高い位置までしかない柵しか身を護るものはない。身を護る常識を剥ぎ取って、限りなく原始に近い感情を沸き起こさせる。
「私は楽しいよ」明日香は柵に両手をついて身を乗り出すようにして言った。「さすがにこの柵がなかったら怖いけどね。友達と東京タワーに行ったときも全然怖くなかった。だって、タワーが崩れて落ちちゃう確率なんてたかが知れてるでしょう? だから純粋に景色を楽しめた」
「あ……」自分と同じだ、と多加志は思った。
「友達は怖がって窓際に寄ろうとしなかったけどね」彼女はそのときの様子を思い出したのか苦笑する。「人間ってちょっとした確率でも怖くなっちゃうんだよね。もし、って考えて。私はその確率がある程度高くても平気みたい。でもね、いいことばっかりじゃないんだよね。例えば、肝試しなんかそう。幽霊なんていないって知ってるから、暗いなあ位にしか感じないの。冷めてるでしょ?」
「気持ちはわかるよ」
「そういうときは思い込むの。幽霊がいるかもしれないってね。頭を切り替えるの。もし、の確率を下げる。それで幾分か楽しめる」
多加志はなぜ彼女に惹かれるのかわかった気がした。
同じじゃない。自分と彼女は相似形なのだ。同値ではなく相似。同じ形だから惹かれるし、大きさが違うから気になる。彼女の方が圧倒的に大きいから憧れる。
「あーあ、海鳥見たかったなあ」
「来年も来ようか?」多加志は思い切って言ってみる。
彼女がこちらを見る。
「どうだろう? 二年連続は無理なんじゃない? あ、でも実際に殺人事件が起きちゃったから、口実にはなるかもね。不謹慎だけど」
そうじゃない、とは言えなかった。彼は自分で自身が奥手だと自覚していたし、それが欠点であることもしっかりと認識していた。
それでも、言えなかった。それで良いとは思えなかったが、悪いとも思えなかった。そういう思考が悪いことだとは思えた。
「そろそろ戻ろうか」彼にはそう言うのが精一杯だった。
3
「つかぬことを聞くけどさ、僕たちはいつ帰れるんだろうね」
帰り道で多加志は言った。つかぬ、という用法があっているか心配だった。
せっかく観光気分で歩いているというのに、事件の話をしてしまうのはもったいなかった。だが、島から出られないというのは切実な問題であった。この島が嫌だというわけではなく、今後のスケジュールの問題だ。
「私たちの身の潔白を証明するまで、かな?」
「それって犯人が見つかるまでってこと?」
「違う違う。私たちに犯行が不可能だということがわかりさえすればいいんだよ、きっと。そもそも、詳しくは知らないけど、私たちをこの島に留めておく法的拘束力なんてないと思うよ」
「え、じゃあ、文句を言えば帰れるってこと?」
「普通はね。でも何かと理由をつけてきそうだけどね。現場の特殊性とか。ある意味密室だしね」
「密室? あれが?」
以前彼女が、犯人はミステリー的思考の持ち主、と言ったが、彼女の方がミステリー的思考だなと思った。
「ある意味、ね。だって犯行時刻は出入り不可能だったんだから。まあ、密室と定義するには条件が曖昧すぎではあるけどね。理論上、というか証言上、出入り不可能だったってだけだから。実際にそれを確認したわけじゃないし」
「まあいいや。僕たちの身の潔白って、どうすればいいんだろう?」
「さあ? 警察はたぶん、三つくらいの可能性を考えていると思う。一つは四人が共犯であること。二つ目は私たちが島の人間ではないことを考慮しての京太君と乾さんの共犯説。三つ目がその他」
「二つ目は僕も考えたよね。一つ目は? 僕は自分が犯人じゃないって知ってるから考えにくいんだけど」
「客観性が足りないね。つまり、あの会館で殺されていたのは最初から西田さんだったっていう考え方だよ。三輪さんを最初に殺して、滝に放置する。その後で西田さんを殺して焼いてしまう。そして、会館にあったのは三輪さんの死体だと証言する。そうすれば会館が閉まっていた時間に犯行は無理ってなるし、鍵を開けておく必要もない。関係者全員が犯人っていう、ある意味アガサ・クリスティの……おっと、ごめん」
多加志は彼女を睨んで牽制する。また彼女の悪い癖「ネタバレ」がでそうになったからだ。だが、これでアガサ・クリスティの何かの作品は関係者全員が犯人ということがわかってしまった。タイトルが出なかっただけ良かったとするしかなかった。
「でも、結局首を切った意味がないじゃないか」
「そう、結局はそこに帰結するわけ。そこまでいくと、『意味がない』っていう結論に至っちゃうよね。つまり『狂気』で済ましてしまうっていうことだけど」
「狂気、ね」
実際、目的があろうとなかろうと人間の首を切断するなんて、狂気以外の何ものでもないのではないか。
「そうでなくても、この場合、本当に犯行は無理だったという証拠がないから、違うと思うけどね。さっき言った通り、確認したわけじゃないから。本来、他の第三者に夕方六時で鍵が閉まっていたことを証言させなきゃいけない。けど、それがない」
「となるとその他? 漠然すぎだね」
「まあね」彼女はそれ以上何も言わない。
「もしかして、わかってる?」直感で多加志は聞いてみた。
「どうやったかが六割、誰がやったかは三割。どうしてやったかは全くわからない」
それはどのくらいわかっていることになるのだろうか。少なくとも多加志はゼロなのだから、相対的にはかなりわかっていることになる。
「首を切った理由も?」
「というか、そこがミソだよね」
「どうやったの?」
「その質問は、方程式を解いている途中で答えを聞くようなものだよ。解き方の入り口はわかった。けど答えはわからない。解いているうちに、やっぱり違ったってなるかもしれない。ある種の公式を使うことはわかったけれど、公式Aじゃなくて公式Bを使うべきだった、とかね」
「ごめん」
彼女にものを言うときはもっと良く考えてからでないといけないと誓った。
「それにしても『どうしてやったか』か。全く考えてなかったな。トリックばっかりに目がいって……。ミステリーの読みすぎかな?」
「違うよ。それは全く逆。ミステリーを読み足りないんだよ。ホワイダニットをテーマにした小説は少なくないよ」
これは手厳しい。