二
3
今は八月である。日照時間が一番長いのは六月二十二日頃の夏至であるが、そこから地球が温まるのに時間がかかるために、暑さのピークは八月上旬である。今は八月中旬なので、それから少ししかたっていない。
だから何だというわけではないが、要はまだ暑い。
まだ午後三時である。日光は正午に真上に上るが、その後地面が暖められて一番暑くなるのが午後二時頃。中学校の理科で習う知識だ。それから一時間しかたっていない。
だから何だというわけではないが、要はまだ暑い。
おまけに、キャンプの荷物まで持っているのだ。左肩から斜めにかけたスポーツバッグのショルダーベルトの部分が蒸れている。おそらくバッグを下ろしたら、汗でくっきりと跡がついているだろう。
「どうしよう……」
警察からは何も言われていないので、今のところ行動の指針はない。適当に時間を潰すこともできるが、どうすべきか。
多加志は明日香の方を伺った。彼女は何か目的があるかのように歩いている。
「今度はどこ?」
「お買いもの」彼女はそれだけ言った。
彼女はやたらと根拠づけて長々と話す場合と、答えだけを端的に言う場合がある。どういった場合にどちらになるのかはまだ付き合いが浅くてわからない。
「お土産でも買うの?」
「いや、肉とか野菜とか。京太君の家の冷蔵庫空っぽなんだから」彼女は笑った。
「なるほど」
合点がいった多加志は黙って明日香の後をついて行く。
最初に向かったのは肉屋だった。キャンプの初日に近野の所在を尋ねた肉屋である。
「いらっしゃい! あら? 確か、キャンプの……」女性が言った。
彼女は存在感のある体躯で愛想を振りまいていた。看板を見る限り、どうやら谷内田という名前のようだ。
「覚えているんですか?」
「そりゃね。肉屋を訪ねる観光客なんていないからさ。あんた、京太君の彼女かい? あれ、でも……」そう言って彼女は多加志を見た。
「いえ、従兄なんです」
「ん? 彼氏に会いに従兄を連れて来たの?」彼女は大げさに首をかしげた。
「違いますよ。京太君と従兄妹同士なんです。彼はサークルのキャンプに一緒に来た友達です」彼女は顔の前で手を振って否定の意を示した。
「あら、じゃあ、智美さんの子かい?」
「あっ、はい、そうです!」
明日香は嬉しそうに身を乗り出した。谷内田もそれを聞いて満面の笑みになった。
「本当? 懐かしいわあ、智美さん元気?」
内輪の会話についていけなかったので、多加志は別の方向を向いていた。ただ、特に何があるわけでもなかった。魚屋の前で世間話をする主婦、買った物をシルバーカーに入れてあるく老人、シャッターの閉まった店。
世間話が終わっても、明日香が何を買っているのかわからなかった。牛、豚、鳥の区別くらいはなんとなくわかるが、部位の名前などは言われてもわからない。
「あの、八百屋さんって、やってます?」やがて遠慮がちに明日香が尋ねた。
「あるよ。けどねえ……」谷内田は顔をしかめて声のトーンを落とした。
「事件があったのは知っています」
「ああ、そう……。そこの角だけどね」彼女は指を差した。
道路の角にひっそりと八百屋があった。シャッターが閉まっている。先ほど視界に入った店だ。前を通る人はそこを一瞥しながらそこを去っていく。二人以上で通るとひそひそ話をしながら通っている。
「今はやってないよ。あんなことがあった後だからねえ。お通夜もまだだし。司法解剖? そんなのをするんでしょ? 可哀想に……。私、見たんだよ。一昨日の夕方かな? 旦那がどこかに出かけるところ。それきりだったみたいで……。ああ、ごめんごめん。こんなこと言ってもしょうがなかったね。八百屋だったね。ちょっと遠いけどね、もう一軒あるよ」
別の八百屋の場所を教えてもらって、多加志たちは少し沈んだ気持ちで肉屋を後にした。
4
その後、別の八百屋を訪ねて、さらに魚屋にも寄って、夕方には近野の家へとやってきた。
近野は非常に疲れた表情だった。無理もないなと多加志は思った。
「疲れた……。と言うか仕事にならないよ。西田さんもいないし」テーブルに蹲るようにして近野は言った。
多加志は近野にコーヒーメーカーを借りて、準備をしていた。近野は自分でやると言ったが、彼の疲れた表情を見るとそうはいかなかった。
明日香は買ってきた食材を冷蔵庫に入れていた。
「あの、会館の焼死体が西田さんだったんじゃないですか?」言ってしまってから、言うべきではなかったかと悔やんだ。
近野は少し顔を上げてため息をついた。
「考えたくもないな。けど、それしか有り得ない。他にいなくなったって人は聞いてない」
「今村さん、そろそろ教えてくれないかな?」台所から振り返って多加志は言う。
「何を?」冷蔵庫に物を入れ終わった彼女は近野の向かいにクッションを敷いて座った。
「何か考えがあるんでしょ? 土の中がどうとか、風がどうとか……」
「ああ、それ。事件とは何の関係もないと思うよ。京太君、晩ご飯どうする?」
「それだけもったいぶったら気になるよ」
「明日香、話してくれ。その方がまだ気が楽だ。晩飯はその後でいい。それに、俺が作る」近野は調子の落ちた声で言う。
「いや、私が作るよ。……事件の方はね、本当に大したことじゃないんだけど。最初は会館が燃やされたでしょ? で、次は滝で発見された。火と水って来たから次は土か風かなって」
「火と水と土と風?」何だかゲームみたいだと多加志は思った。
「そ、四大元素。厳密には風じゃなくて空気だけど」
「四大元素……って、何?」
「世界の万物は火と水と土と空気の四つで構成されているという説だよ。古代ギリシャからあるのかな? これが擬人化した四精霊とかもあるよね。RPGとかやらない?」
「やるよ。そっか、あれってそんなところから来てるんだね。……じゃあ何? 四大元素になぞらえて殺人が行われてるってこと?」
「それにしては印象が薄い」
「そういうのってあんまり大っぴらになってない方がいいんじゃないの? だって、大っぴらになったら犯人がわかっちゃうでしょ」
「うーん。分類的には見立て殺人に近いと思うんだけどね。これって要するにオカルトなんだよ。何かになぞらえられている、その不気味さこそが意味があるんだよ。見立て殺人にはいくつか意味があって、『何らかのメッセージを与える』とか、『見立てることによってターゲットに精神的苦痛を与える』とかね。四大元素と聞いて『あっ、ヤバイ! 次は俺が殺される!』って思う人なんている?」
「島民みんな怯えてるけどな」近野がため息混じりに言う。
「それにね、四大元素をイメージさせるなら、四精霊だよ、やっぱり」
「四精霊って誰?」
多加志は自分の知識のなさに嫌気がさしてきた。
「サラマンダー、ウンディーネ、シルフ、ノーム。名前くらい知ってるでしょ」
「あ、うん。ゲームとかでよくいるね」
「それをイメージさせた方が効果的だと思う」
「うーん、じゃあ、研究所は? ほら、元素とか、科学っぽいし……」多加志は思いつきで言った。
コーヒーは出来上がったので持っていこうと振り返ったが、彼女がこちらを睨んでいたので動けなくなった。これでは砂糖を入れる隙がない。
「あのねえ。四大元素って古代ギリシャの発想なんだよ? 四大元素は全くの間違いで、元素の数は現在で百十八個、もっと増えるって話もあるし。知ってるでしょ、さすがに」
「いや、だからね」多加志は思いつきで発言したことを後悔した。なんとか繕おうとする。「つまり、科学に反対してるんだよ。この場合は研究所反対! って」
「じゃあ何で反対派の三輪さんが殺されたの?」
「あ……。うー、返り討ちにあったとか」
「それじゃ、返り討ちにした研究所側が、反対派の暗示をそのまま採用したことになるよ。矛盾たっぷり」
「あ、う。ギブアップ」コーヒーを運びながら言う。結局、砂糖を入れるのは諦めた。「思いつきで言っただけだから」
少し間が空いて、三人はコーヒーに口をつけた。
砂糖の入っていないコーヒーは多加志には苦かった。
「まあ、四大元素が関係なかったとしても、風って言ったら展望台かな?」マグカップをテーブルに置くと近野が言った。
「やっぱりそうなんですか?」
「海鳥しかいないけどね。というか、断崖絶壁なのが怖いよ。一回行ってみるといい。土は……、すぐには出てこないな」
コーヒーを飲んだからか、展望台の話になったからか、近野の顔色が少し良くなった。
「やっぱり違うのかな?」
「私は最初からそう言ってたけどね」彼女は目を細めた。
そう言うくせに昼間から考えっぱなしだったじゃないか、とは言わないでおいた。あまり揚げ足を取りすぎると嫌われてしまうかもしれない。
玄関からベルの音が鳴る。明日香が玄関まで行って出迎えた。島の若者の家から見知らぬ女性が出てきたらどう思うだろうか。だが、それは杞憂に終わり、やってきたのは乾だった。
「良かった。来てくれないかと思いましたよ」
今日の乾は私服である。ポロシャツにチノパンという地味な格好だ。
多加志は立ち上がってコーヒーを追加しようとしたが、乾は丁重に断った。
「いや、来ようか迷ったんですよ。でも、これは言っておかないと、と思いまして。あんまり、こうやって集まらない方が良さそうです」
近野が座布団を持ってきて四人は座りなおす。それぞれテーブルの一辺ずつに座った。
「やっぱり警察は共犯説を考えているんですね」
「何だって?」
明日香は冷静に言ったが、近野が驚いた。
「ええ、まあ。今のところは数ある可能性の一つですけど。状況から考えて僕たちが嘘をついていると考えた方が合理的ですから」
「嘘をつくのが合理的じゃない」
「もちろんです。けど、状況がもう合理的じゃないですから」
「こればっかりはどうしようもないですね。今日新しく入った情報はないんですか?」
「ありますよ。……本当は喋ったら怒られそうですけど。というか怒られます。そろそろ僕も容疑者になって、何も教えてくれなくなるかもしれません。まあ、仕方ないです。まずは、例の焼死体ですが、歯型から西田さんだと断定されたようです」
近野が肩を落とした。
「死体の損傷が酷くて死亡推定時刻はわからないようです。ですが、朝に役場を出たのははっきりしてますから。それから、次が問題なんです。三輪さんですが、死亡推定時刻がわかりました。けれど……」
「何です?」
「彼の死亡推定時刻は一昨日の夜八時頃だそうです。誤差は前後三十分程度のようです」
死体を発見したのが昨日の朝九時過ぎ。それよりも半日ほど前に彼は殺されていることになる。
「そんな馬鹿な?」近野が声を荒げた。「だって、一昨日は俺が……」
「そうです。だから気をつけた方がいいですよ。鍵を掛けたのが近野さんだとして、もし鍵を掛けていなかったらそれを知ってるのも近野さんだけです」
多加志は急な展開に少し頭が遅れ気味だった。話を整理すると、一昨日に会館の鍵を掛けたのが近野で、その夜に会館で三輪が殺されたことになる。つまり、犯行時刻に現場に入ることは不可能だったことになる、ということだ。
多加志は俄かには信じられなかった。そんな不可能なことが起こりうるのだろうか。まるでミステリーだ。近野が鍵を掛け忘れたとしか思えない。
「そんなはずない! 俺は鍵を掛けたぞ!」
多加志の考えとは裏腹に近野は断言した。声を大にして興奮している。
「お、落ち着きましょう」
「これだ……」明日香が呟く。「今まで何が犯人を護っているのかわからなかった。けど、これなんだ」