一
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帰り際に熊代にいつまでこの島にいるのか尋ねられたので、今日帰る予定だと伝えたところ、まだ不明な点が多いのでしばらく滞在して欲しいと要望された。もちろん宿泊費等は警察で負担するという話だった。
明日香は二つ返事で引き受けた。もちろん、これは慣用句であって、目上の熊代に実際に「はいはい」と二つ返事をしたわけではない。
多加志はこの先のスケジュールを思い出しながら、親に連絡さえすれば大丈夫だろうと判断して承諾した。
とりあえず高山に報告しなければいけないだろうと思い、ひとまずキャンプ場に戻ろうかと思った。
ところが明日香はひとりでに歩き出し、町民会館から五分ほどの公園に入っていった。置いていくわけにもいかず、多加志も後をついていった。
彼女はベンチに腰掛けた。
公園は滑り台、ジャングルジムなどの定番の遊具が数点と、それなりの広さを持った広場があり、ベンチは遊具を背にして広場全体見渡せる所にあった。
彼ら以外には広場でキャッチボールをしている少年二人しかいない。彼はあまり少年たちを意識しないように意識して努めた。
「一体どういうことだと思う?」彼女がおもむろに口を開く。
「何が? それより戻った方がいいんじゃないかな?」
「それは置いておいて」予想はしていたが彼女は聞く耳を持たなかった。「どうして死体の位置が変わっていたかってこと」
「刑事さんが言ったとおり爆風で飛んだんじゃない?」
彼は答えた後で腕時計に目を走らせた。十時八分。確か十一時出発だったはずだから、後片付けの最中か、もしくは既に終わっていて出発までのんびりしているか、どちらにせよなかなか帰ってこない自分たちのことを案じているかもしれない。
「じゃあ聞くけど、火事だって気づいたのはどうして?」
「どうして? どうしてだっけな……。そう、確か焦げ臭かったんだよ。それでガラスが割れて落ちてきてそれでだよ」
「じゃあ可能性は薄いんじゃない? 爆発音で気づいたのなら別だけど」
「あ、そうか。物が吹き飛ぶほどの爆発だったら気づくもんね」
「そう、つまり犯人は故意に死体を移動させたということになるの。その意図がわからない」
「君にわからないんじゃ僕じゃ到底わからないね」
多加志は考えようとも思わなかった。彼は二人の少年に目を向けた。どうしても気になってしまう。中学生か高校生くらいだろうか。しかし投げている球はどう見ても赤いラインが入った硬式球である。中学生は軟式球のはずだが、この島に高校はあっただろうか。
「……あ」
ふと、ズボンのポケットに入れてあった携帯電話が振動しだした。一瞬メールかと思ったが、なかなか止まないので電話だと気づき、慌てて取り出した。
そのディスプレイに通知されている名前を見て多加志の気は重くなった。
「……もしもし」
『もしもし保川君。僕の言いたいことがわかるかい?』高山である。
「すみません。でもちょっと深い訳が……」
『ちょっとなのか深いのかどっちだい?』
「ああ……どちらかというと深いと思います」
『ほう。じゃあその深い訳とやらを聞かせてもらおうか?』
「はい、最初は軽い散歩のつもりだったんですけど」
軽く嘘をついた。このほうが話しやすいだろう。彼女はともかく、少なくとも多加志はそう思っていたのだからあながち嘘というわけではない。
「ちょっと警察の人に呼び止められまして」
『警察? そういえば丹田が何か言ってたな。口止めされているとか何とか。警察沙汰だったのか。何があったんだい? あ、言ってはいけないのか。でも部長として最低限のことは知っておかないと。まさか当事者じゃないだろうね』
ちなみに正確には部長ではなく会長である。
「それは大丈夫です。詳しいことは言えないですけど、ある事件の目撃者に僕と今村さんがなってしまいまして。それでこの二日間サークルの方の活動はできずじまいだったんですよ。まあ、それで今日も色々と聞かれて。あの、それで、僕らしばらく島に残らなくちゃいけなくなっちゃたんですよ」
『そうか。うーん、それなら仕方ないね。わかったよ。荷物は……そうだな、こっちまでどのくらいかかる?』
「そうですね」
多加志は頭の中に地図を描いた。だが、こういった作業は苦手だった。仕方なく、適当に答える。
「三十分くらいですかね」
『ちょっと遠いな。それじゃあ、君たちの荷物は僕らが持っていってあげるよ。そっちの方についたらまた連絡するから。それまで適当に時間を潰しておいてよ』
「すみません、わざわざ」
『いいさ。仕方ないよ。それじゃ、また後で」』
「はい。失礼します」
電話が切れた。
「荷物、持ってきてくれるってさ」多加志は隣でぶつぶつ何やら呟いている明日香に声をかけた。
しかし、彼女は彼のことなど見えてないかのように考えに耽っているようだった。
仕方なく彼はキャッチボールをする少年二人をじっと眺めることにした。
どう見てもまだあどけなく、高校生には見えない。とすると来年から高校に入学する中学三年生で、硬式球に慣れておこうと二人で練習しているのだろうか。
自分が中学三年の頃など、そんな考えなどには全く及んでいなかった。その頃から自分の技術に限界を感じていたし(今にして思えばちっぽけなレベルでの悩みだった)高校に入学して、部活を見学しに行ってからやはり野球が諦めきれずに慌てて入部したのだった。
それと比べれば彼らの何と先を見越した考え方だろうか。羨ましい。こういった人間が見る見る上達していってチームを引っ張るような選手になるのだろうか。
しかし、よく見ると彼らの技術は所詮中学レベルといったところで、高校三年間を経た多加志にとってはとても未熟、ある意味では苛立たしくもあるようなものだった。
「あっ!!」
背の低い坊主頭の少年が声を上げるとボールは相手のはるか上を通過しそうになり、中背で眼鏡の少年が高くジャンプしてかろうじてキャッチした。
(あの投げ方じゃそうなるな)
「どこ投げてんだよ」
「ごめんごめん」
「ったく」
眼鏡の少年はボールを投げ返す。一見相手の胸元に綺麗に向かっていったように見えたボールは坊主の少年のグラブを掠めて後ろに逸れていった。
「ちゃんと取れよ!!」
「……ごめん」彼はボールを追いかけていった。
(今のはシュートしたそっちが悪いよ。取れなかった方も方だけど)
それからも彼らは見事なまでのドタバタキャッチボールを披露してくれた。どちらかというと坊主の少年の方がやや劣るようで、先ほどは高めに投げてしまったと思えば、今度は相手の膝もと目掛けてボールが向かっていった。彼がキャッチャーのように姿勢を低くしていれば最高のストライクボールだったのだが、そうではないので最高に取りにくいボールになってしまった。
眼鏡の少年も相手の取れる範囲に投げてはいるものの、胸元に正確に投げているかといえばそうではなかった。
最初は微笑ましく見ていた多加志だったが、見ているうちにいても立ってもいられなくなった。
ついに多加志は立ち上がって二人のもとへも向かっていった。
少年二人は見知らぬ男が近寄ってきて、わけもわからないようで警戒していた。
「邪魔してごめん。ちょっと気になったからさ」多加志はできるだけやんわりと警戒を解くような口調で話しかけた。
「君たち高校生?」下に見られるよりは上に見られた方がいいだろうと思って尋ねると二人は首を横に振った。
「中学生です。……来年から島を出て高校に行くんです」
坊主の少年が躊躇いがちに言った。(おそらく)野球部だけあって言葉使いは丁寧だ。
「そう……じゃあ、硬式は初めて?」
「そうだけど。……お兄さん、何?」眼鏡の少年が尋ねる。
「あ、いや、別に。キャンプでこの島に来たんだけどさ。あ、僕も高校で野球やってたからさ」
「じゃあ、大学生?」
「うん。二人のキャッチボール見てたら気になるとこが色々あったから」
「あ、そう」
どうも眼鏡の少年の方はあまり快く思っていないようだ。別に気にしたりはしないが、目上に対する言葉使いもあまり良くない。
「あの……、教えてくれるんですか?」坊主の少年が聞いた。
「邪魔じゃなければ」
多加志がそう言うと坊主の少年は眼鏡の少年を見遣る。見遣られた方の少年は不服そうな表情を見せたが、肩をすくめて頷いた。
二人は軽くボールを投げながら距離を取っていく。二十メートルを超えたあたりからボールに勢いが乗っていく。だが、先ほどとほとんど変わらず、両者とも荒れ放題の球筋だった。
多加志は先に問題の多そうな坊主の少年の方から手を加えることにした。
「うーん。結構荒れてるね」
「そうなんです……。ずっとこうで」
相手からボールを受け取ると、少年は多加志の方を向いて聞く体制になったが、調子が良くないせいか、指摘されて俯き加減になった。
「力んでるからだよ。もっと力を抜かなきゃ。どのくらいでボールを握ってる?」
多加志はそう言って自分の右手を握りこぶしにして突き出した。それを見て少年はそれをボールに見立てて握った。
「わあ……。駄目だよそんなに強く握っちゃ。右手出して」多加志は少年の右手を落としてしまいそうなくらいの軽さで握る。
すると少年は目を見開いて驚いた。
「ええ!? こんなに軽く握るんですか?」
「そうだよ。よく珍プレー好プレーとかでピッチャーが振りかぶってボールを落としたりするの見たことあるでしょ? あれ、軽く握ってるからだよ」
そういえばあの番組は最近見ないな、もしかしてもうやっていないのではと思い、少年に通じるか不安になったが、彼は何も言い返さなかったので、おそらく通じたのだろう。
「って、これピッチャーの話だったね。ポジションは?」
「……この島、子供が少ないから野球部がないんです。高校で向こうに行ったらちゃんとやろうと思って」
よく考えれば、人口三百人の島にどれだけ子供がいるのかを考えれば、九人も必要なスポーツは行われないだろう。つまり彼にポジションはない。これは高校に入ってから、険しい道のりになるだろうなと思った。
それでも多加志は無理だとは思わなかった。何せ体育で5を取ったことのない自分ができたのだから。アドバイスを続ける。
「そっか。でもどのポジションでも一緒だよ。あんな近い距離で力んで投げたら暴投になるでしょ。とりあえず、軽く握って投げてみて」
「はい」
少年がボールを投じる。それは山なりにゆっくりと眼鏡の少年のグラブに収まった。
「違う違う。軽く握るんだけど。ゆっくり腕を振ったら駄目なんだよ。投げる瞬間にピュッとちょっとだけ力を入れるのさ」
とは言うものの、それが一番難しい。基本的に一番簡単なことは一番難しいし、複雑なことの方が案外簡単だったりするのだ。
ところが、二・三度繰り返すうちに少年は力まずともボールを速く投げれるようになり、課題だったコントロールも大きく改善された。どうやらセンスはあるようだ。
「ね?」多加志は少年に笑いかけた。
「あ、ありがとうございます!!」
多加志は眼鏡の少年の方へと移る。余所者が気に入らないのか、あまり態度は良くない。
「俺も何か直すところあるんすか?」
「あるよ。一杯」
不機嫌そうに少年はボールを投げる。
彼の投げたボールは相手の取れる範囲にあったが、またしても坊主の少年がグラブで弾いてしまった。
「ヘタクソ!!」少年は罵声を浴びせる。
「けど、今のシュートしたよね」
「取れる範囲だろ」
「どこを守るかわかんないけど、もっといいボールを投げてやらなきゃ。取れる範囲だったらいいなんて考えてたら大事なところでミスするよ」
「じゃあ、どうすりゃいいんすか」
「簡単だよ。グラブの位置を変えればいいのさ」多加志は投げる真似をする。投げ終わった後の左手を巻き込むようにして左肩につけた。「こうやって引いたときに左肩につけちゃうから体が開いてシュートするんだ。こうやって体の中心に引いてこなきゃ」今度は左手を体の中心からやや左、丁度心臓の辺りに持ってきた。「ピッチャーこそグラブを後ろまで引いちゃう人とかもいるけど、いい野手は特にグラブを中心に持ってきてるよ。今度テレビ見てみなよヤクルトの宮本とか、凄いよ」
言われて少年は渋々、言われたとおりにした。最初こそ投げづらそうにしていたが、次第にコツを掴んだのか、スムーズに投げるようになった。シュートもあまりしなくなった。
「あ……」予想以上にすぐ直ってしまったのが意外だったのか、少年は声を漏らす。
「さて、そろそろ行くかな」多加志は指導を終えて立ち去ろうとする。
「……あ、ありがとうございました」眼鏡の少年が少しバツが悪そうに言った。それを多加志は笑顔で返す。
「いいよ、全然」
「本当にありがとうございました」坊主の少年も深々と頭を下げる。
礼をする二人を背に多加志は明日香の元へと戻る。彼女は既に思考を終えていたようでこちらを見て微笑んだ。そして立ち上がるとゆっくりと歩き出した。
「格好良かったよ」
「いいよ、お世辞は」
「そんなことないよ。本当に格好良かった。さすがだね」
「教えれるのは中学生までかな。高校生になると僕より上手な人はたくさんいるから」
「そういうこと言わないで素直に受け取っておいた方がモテると思うよ」
「覚えておくよ。それより、何かいいアイディアは浮かんだのかい?」
「全然」
そのときの明日香の不機嫌そうな表情を見て、聞かなければ良かったと多加志は思った。