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Television 24h  作者: 多岐川暁
Chapter.I:TV307ch
3/6

Act.03

 酷い耳鳴りがする。遠く近く、頭に響くエラー音のような甲高い音が圭には不快だ。

 そして背中に当たる固い感覚に、ゆっくりと重い瞼を開く。見慣れない鉄骨むき出しの天井が目に映る。どうやら、ここにはユニットがまだ入っていない建物らしい。

 大抵、アパートやマンションなどを作った場合、ユニットタイプの内装をはめ込むのが主流だ。顧客のニーズに合ったユニットが提供されるのが普通で、選択肢は幅広い。

 痛みに顔を顰めていると、近づいてくる足音に再び目を閉じた。扉が開き、瞼の裏に光が差し込む。

「どうするんだよ、こいつ」

「始末するんだよ」

 最初の声に聞き覚えはない。だが、続いた声は大河内のものだ。それにしても、始末とは穏やかな話しではない。

「でも、こいつと一緒にいるの、あの五十嵐鋭司だぞ。大丈夫なのか?」

「別にこいつが五十嵐な訳じゃない。どうせ薬で動けないだろうし、深夜になったら外に運ぶぞ」

「どこへ?」

「密売所だ」

 意識がないふりをしていた圭の背筋にヒヤリと冷たいものが伝う。

 どこにあるのかは知らないが、密売所の噂は聞いたことがある。人身売買から草一本まで、商売になるものは何でも売るというのが密売所の噂だ。

 そんな場所に運ばれたら、人身売買ならまだしも、身体中を切り刻まれて、あらゆる部分を売られるに違いない。勿論、そうなれば命はない。

 圭は見たことはないが、密売所はテレビで公開オークションを行っているらしいことも聞いた。違法なのを知りながら買う方も買う方だが、オークションをする側はもっとたちが悪い。

 電波が特定できたときには、その現場はもぬけの殻。何度も警察が煮え湯を飲まされている。けれども、それとは逆に警察が賄賂を貰い逃がしているのではないか、という噂もある。

 所詮噂なので、事実は分からない。けれども、いずれそういうものも白日の下へさらけ出したい。真実なのか、噂なのか。

 けれども、今はまだ早い。幾ら真実を吠えたところで、今の圭が言っても遠吠えにしかならない。

 もっと大くの人に対して耳を傾けさせるための何かがなければ、真実なんてものは明るみにでない。それは自分の立場であったり、誰もが認めなければならないような大きな力だ。

 圭にとってテレビというのは、力に相等するうものではないかと思っている。だから、鋭司がテレビ局を作ると言った時、迷いながらも賛同した。

 悪事を表に出す力。まだテレビはその役割を果たせる物だと思っている。ネットは確かに情報も早く、調べ事には向いている。けれども、個々の情報が突出しすぎて大衆に向けての情報になりにくい。

 細分化されたものは、特定の人間しか見向きをしない。ネットはその傾向が強いように思う。

 けれども、テレビは違う。特定のものに拘らず、幅広く扱うことでさまざまな事象に目を向けることができる。

 確かに今はテレビよりもネットが主流となっている。けれども、テレビ局でも大きな局が存在しない訳ではない。

 多くの情報を知りたい。だが、個別に調べることを面倒に思うような人間には、まだテレビという媒体は充分利用されている。

 圭自身、他国の情報を知りたいと思えば、ネットとテレビ、両方を見ることが多い。特にスポンサーが多くないニュースメインの局は、どの国でも人気がある。

 ネットからは見えない、その土地独特の空気が見えるからだ。圭としては、そういう局にしていきたいと思っている。

 まだ、始めの一歩すら踏み出せていないこぢんまりとしたものだ。そして、鋭司にどういう考えがあるのか細かい部分まで話しを聞いた訳じゃない。だから、これは圭一人が考えていることだ。

 正義感とか、良心とか、人は馬鹿にして笑うけど、笑われて上等。口では正義なんて馬鹿らしいと言ってみるが、腹の中でヒーローに憧れるような人たち。そういう人たちが「正義最高」と声を大にして言えるような、そういうものを作れたらいいと思う。

 そのために何をするべきか。

 簡単なことだ。とにかく生きて家に戻らなければならない、ということだ。思ったよりも思考もしっかりしているし、圭としては一体何の薬を飲まされたのか首を傾げるしかない。

 人の気配もなくなり、静かな空間。瞼の裏に映る光もなくなっており、圭は薄目を開けて、辺りを見回す。

 人の姿はなく、圭は小さくため息をつくと上半身だけ起き上がる。固い床に転がっていたため、背中やら肩やら痛いけど、それに構っている場合じゃない。

 ポケットに手を入れPCを探すが、どうやら取り上げられたらしい。これでは外部との連絡も取れず、救出して貰うことは困難だ。

 だとすれば、圭自身が動いて逃走するほかない。

 大河内たちが言うように薬の影響があるのか、多少頭痛はあったけど他に違和感はない。ゆっくり立ち上がってみたが、ふらついたりすることもない。

 部屋を見回しても、これといって特別なものはない。窓の外を見れば月が浮かんでいて、ここがアンダーグラウンドではないことが分かる。

 ただ、圭が住む中央都市とは離れているらしく、かなり遠くに中央議会場の高いビルが見えた。議会所を囲むように作られた道路は、まるで迷路だ。

 窓ははめ殺しで開くことはできず、ガラスにへばりつくようにして階下を望む。実際、どれくらいの階数にいるのかは分からないが、圭がいる場所は二十階よりも上なのは確実だ。

 場所は分からない。PCは手元にない。これだけ中央と離れていることから、間違いなくこの場所は外界だ。治安もよくないだろうし、圭一人で立ち回るには状況的に厳しい。

 だからといって、ここでジッとしている訳にもいかない。部屋にある唯一の扉に近づくと、外の様子を伺う。

 しばらく待って物音がしないことを確認してから薄く扉を開ければ、やはりそこもユニットが入っていない部屋だった。薄暗く窓のない部屋は気味が悪い。

 意味が悪くても部屋の外にでなくては話しにならない。人の気配に気をつけながら圭は隣の部屋へと移動する。商業用ビルかと思われたが、どうやら住居用ビルだったらしい。

 まだ、アンダーグラウンドができる前は、外界にも多くの人が住んでいたと史学の教授が言っていた。

 人が溢れ、高層ビルが立ち並ぶ、それが外界でも普通だったらしい。

 けれども、株価暴落、移民の大規模受け入れ、貧富の差からくる暴動、そして災害。それら全てが同じ年に起きたというのだから、ありえないことなど何もないと思える。

 辺りの気配を伺いながら、警備など存在しない扉を警戒しながら開く。そこに人の姿はない。改めて大きく扉を開けば、そこには何も存在しない。ただ、薄暗く長い廊下が続くだけだ。

 人影のない廊下に足を踏み出すと、とにかく外へ出るために圭は歩き出した。急ぐべきだとは思う。けれども、元々体力がないのだから、走るという選択肢は最後の最後だ。

 辺りの気配を伺いながら、ホールに辿り着く。勿論、エレベーターの電源は落ちていて使い物にならない。

 エレベーター脇に扉があり、扉を開けると細長い廊下がある。数十メートルの廊下を歩き、突き当たりにある扉を開ければ、そこにあるのは非常階段だ。

 室内とは違い、吹き荒れる風の中で錆びた非常階段というのは中々シュールな光景だ。しかも、それを自分が降りるのかと思うと、下手な肝試しよりも怖いものがある。

 だからといって、ここに留まる気もない。だから、恐る恐る圭は階段に足を掛けた。ミシッと鈍い音がして、手すりにしがみついてすぐさま足を上げる。

 果たしてこんな古ぼけた階段を下りて、地上まで無事に辿り着けるのか。それを考えればうんざりとした気分になる。

 ため息をついて穴の開いた場所は避けて、一歩ずつ降りていく。できるだけ足音を立てないようにしようと思うと、どうしてもスピードはあがらない。

 何よりも時折吹き抜ける突風に足下を取られて、慌てて手すりにしがみつく。傍から見ればかなり情けない姿だが、怖いんだから仕方ない。

 下を見れば地上は遠く、さきほど予想した通り十階よりも上にいることが分かる。階段に隣接しているビルも廃ビルらしい。

 圭がいるビルに比べると窓も壊れ、外壁のあちらこちらに穴があいている。大きなヒビも入っているし、いつ崩れてもおかしくない。他にも近くにあるビルはどこも廃ビルで、建物内に人の気配はない。

 実際、このビルも人がいた気配はない。寂れ具合からも長く放置されている廃ビルなのだろう。

 ただ、人一人担いで階段を上ってきたとは思えない。だとすれば、ビル内のエレベーターが使えたのだろう。

 エレベーターの電源を入れたり消したりできるのであれば、このビルの関係者がいるか、配線関係に詳しい人間がいる、ということだ。

 少なくとも、鋭司から受け取った七人の中に機械工学部の人間はいない。恐らく、大河内あたりがそういうことが得意な人間を引き込んでいるのかもしれない。

 三階分ほど降りたところで、上の方から騒ぐ声が聞こえる。どうやら圭がいないことがバレたらしい。

 バタバタと上から降りてくる足音が聞こえて、圭も慌てて階段を下り始める。

「階段だ! 階段にいるぞ!」

「バレるよな、やっぱり……」

 そんなことをボヤきながら、圭は走ってひたすら階段を下りる。けれども、不意に視界がひらけ、階段がなくなる。

「ちょっ! 何でそうなる!」

 慌てて辺りを見回したけど、下へ降りる階段はない。壁際にある扉を開けようとしても、開くこともない。

 やたらと広い外階段の踊り場で、慌ただしく視線を巡らせると、手すり側に大きな箱があることに気づく。

 圭は勢いよく駆け寄り、金属をガチャガチャと外そうとするが、錆びついているため開く気配はない。恐らく、非常時脱出用の器具が入っていると思うが、外側の状況から中身が使えるとは限らない。

 その内に背後から階段を下りる靴音は増え、振り返った時には数人の姿が見える。大学内で見た記憶のある顔もあれば、圭よりもずっと年上の黒いスーツを纏う人間もいる。

 だだっ広いフロアー。足下は錆び付き、ところどころ穴の開いた鉄の板。背後は壁もなく、ただフロアーを囲むように作られた柵がある。その柵も、あちらこちらが壊れ、ところどころに隙間が覗く。

 実際、圭の背後には柵がない。非常用チューブを降ろすための扉がついていたのだろうが、外れてしまったのか存在しない。

 近づいてくる人影に、圭は辺りを見回す。

 向かいのビルまで三メートル。運動神経はない。でも、ここにいればいずれ殺される。

「ケイ、ケイ」

 そんな声と共に突如視界に現れたのはグラビティだ。迷う暇なくグラビティを腕に抱えると、助走もなく何もない空間へと飛び出した。

 そう、普通であれば届くのだ。重力に逆らうことなく落ちていく身体は、残念ながら向かいのビルに届きそうにない。

「グラビティ、飛べ!」

「ムーチャーデースー」

 無茶は圭だって承知の上だ。けれども、多少なりともグラビティの浮遊出力で着地の衝撃が和らげばいい。

 目を固く閉じて、グラビティを腕に抱き込む。

 強い衝撃に身体中が悲鳴を上げる。

「捕まってろ!」

 聞き慣れたその声に、顔をしかめながら目を開ければ月が見えた。振動と共に流れ出した景色、そして身体にかかる重力に慌てて手近な物を掴む。

「死んで、ない……?」

 身体中に痛みはある。けれども、首を回して現状を確認すれば、車に乗せられていることが分かる。そして、身体の下には救助用マットがあり、どうやらこのお陰で命まで落とさずに済んだことに気づく。

 五分ほど走ったところで車が停められ、運転席から降りてきたのはやはり鋭司だった。

「怪我は?」

「身体中痛い」

「当たり前だ。普通に話せるくらいには無事らしいな」

「そうみたいだけど……どうして鋭司が? もしかして、PCで居場所を検索した? でも、普通車で現れないよな」

 あんな嘘みたいなタイミングで鋭司が外界に現れた理由が分からない。

「それだ」

 短く言った鋭司が指さしたさきにいるのは、圭の腕の中にいるグラビティだ。

「AIにしちゃ馬鹿だと思ってた。だが、会話が成り立つほど利口なんて予想外だ」

「グラビティ、バカジャナイヨ。キチントケイサンシテ、ケイガオチルバショ、エイジニザヒョウオクッタ」

「あぁ、そうだな。だったら、最初から普通に話せ、この馬鹿が」

「ごめん、それは俺が止めてたんだ」

「何故?」

「まぁ、色々あって……」

 別にAI機能を持ったアンドロイドは珍しいものではない。ただ、グラビティが会話できることを知ると興味を持つ人間が多くなった。それが圭にとって面倒くさかっただけだ。

 実際、AIアンドロイドに接したことのない人間は皆無だろうが、AIのプログラムに関連したことが分かる人間は少ない。そういう人たちに説明するのは骨が折れる。

 分かるからこそ、詳しく説明しすぎて引かれてしまう。それが面倒だったから、グラビティと会話するのは圭だけだった。

 ただ圭の非常事態に際して、自己判断でグラビティは鋭司と連絡を取ったに違いない。

「まぁ、どうでもいいがな……圭、俺に感謝しろよ。普通、落下地点に入るなんて技を使える奴はいないんだからな」

 鋭司の言葉で改めて救助用マットを見れば、圭の二倍はない。この狭い場所に落ちてくる圭をどんぴしゃで受け止めたのだから、もの凄い腕だと思う。

「はは……だよねぇ。あと三十センチずれてたら骨折もんだよな」

「骨折? 死人だろ」

 呆れたように返す鋭司に、圭としては笑うしかない。

「これ、鋭司の車?」

 鋭司が乗ってきた車は荷台のついたピックアップトラックだ。ネットでしか見たことのないタイプの車だが、黒塗りの車よりも格好よく見えるのは、ワインレッドのボディのせいかもしれない。

「いや、兄貴のだ。俺が買える筈ないだろ。買ったところで維持できない」

「まぁ、そうだよなぁ」

 車は電気と浮遊チップで動作する。アンダーグラウンドに車の持ち込みは禁止されており、こうして車の姿を見るのは地上のみだ。

 その地上ですら、車が走っているのを見ることは少ない。鋭司の言う通り、車自体、うん千万とするし、維持するだけでも同額かそれ以上掛かる。

 所詮、金のある人間にしか乗れない乗り物だ。勿論、車に乗るには免許も必須で、免許を取るにも相等のお金が掛かる。運転免許を持っている鋭司のような人間の方がまれだ。

「それにしても、随分年代物だね、これ」

 普通の車であれば、振動はほとんどない。それにも関わらず、振動があったこの車は浮遊チップではなく、タイヤがついた何世紀か前の年代物に違いない。

 恐らく稼働も電気ではなく、ガソリン式の物かもしれない。何世紀も前の物を動かせるように保存しておくこと自体が凄いことだ。

「荷台がある車を貸せって言ったら、兄貴がこれしかないとさ。過去の遺物だけあって、操作性が悪い」

「それでもどうにかする辺りが鋭司だね」

「圭だってそうだろ」

「いや、俺の場合はいきあたりばったりなだけだから」

「でも生きてるんだから、どうにかなってるってことだろ」

「そういうもん?」

「そういうもんだろ。とにかく、これから病院に行く」

 鋭司の言葉で、圭は眉根を寄せながら鋭司に視線を向けた。相変わらず鋭い視線でこちらを見ている鋭司だが、その視線に深い意味がないことを知っている。

 今は怒っていないし、呆れてもいない。ついでに言えば、病院に行くほど心配だってしていないように見える。

「身体は痛いけど、別に骨折れたりしてないぞ」

「こいつから映像が送られてきた。薬、まだ抜けてないかもしれないだろ」

「あぁ、薬……別に何ともないんだよな。一体、何の薬だったんだか」

 救助マットからようやく身体を起こすと、左手を何度か握ってみる。神経がやられているようなこともなく、痺れなどもない。意識もはっきりしているし、既に頭痛もなくなっている。

「それを調べるためにも病院に行っとけ。それから、雪には圭がうちに泊まってると言っておいた」

「それはもの凄く助かる。あいつ拗ねてなかった?」

「不機嫌そのものだったな。圭のPCも繋がらなかったから余計にな」

「悪い……」

 昨日も家に帰っていないのだから、雪の機嫌はかなり悪かったに違いない。恐らく鋭司にも遠慮なく当たり散らしたことだろう。

 母親や雪に心配させることは圭だって本意じゃない。でも、この状況を伝えたら二人がパニックになるだろうことは予想できた。

 だから、鋭司の判断は間違えていない。むしろ助かったというのは本心だ。

「だったら、迂闊なことはやめとけ。俺も早々無理できる訳じゃない。今回は間に合ったからいいが、もしも圭に何かあった時、雪とおばさんはどうする」

「……悪かった。これから気をつける」

「そうしてくれ。外回りで情報集めるのに、圭は運動神経が足りなさすぎだからな。普通、あれくらいの距離、飛び移れるだろ」

「うるさい。届かなかったんだから仕方ないだろ」

「あれに感謝しろよ。あれが、圭なら絶対無茶を承知で飛ぶって断言したらから、俺はあそこで待機してたんだからな」

「グラビティ、エライ? エライ?」

 声は掛けてくるが、いつものようにグラビティが飛び回ることはない。恐らく浮遊チップが圭の重さで壊れていることが分かる。

「命の恩人だよ。事務所に戻ったら直してやるからな」

「ゼッタイダヨ。トベナイト、マタケイニナニカアッタトキ、タスケラレナイカラ」

「何もないのが一番なんだけどね」

「そうしてくれ」

 疲れたような声で答える鋭司に、圭としては苦く笑うしかない。実際、迂闊だったことは認める。

「今回の件が片付いたら、レポーターとして外向きの人間を捜す。圭より体力と運動神経がある奴をな」

「悪かったな、運動神経皆無で」

「自覚があるのはいいことだ」

 さらりと言われてしまえばこれ以上突っかかるのも大人げない。面白くない気分ではあったけど、圭は荷台から降りるために端へ寄る。

「手を貸すか?」

「いらない……でも、持ってて」

 そう言って抱えていたグラビティを差し出せば、苦笑しながらも鋭司はグラビティを受け取る。

 足を荷台から降ろし、飛び降りると地面に足をつく。途端にクラリと目眩がして、途端に足下がおぼつかなくなる。よろめいた圭の身体を、鋭司が片腕で支える。

「おい!」

「……大丈夫だよ」

「こういうのは大丈夫って言わない」

 近いはずの鋭司の声が近くなったり遠くなったりする。地面に足をついている筈なのに、足下はぐにゃぐにゃしていて心許ない。

 鋭司は開いたままの運転席にグラビティを置くと、動けずにいる圭に肩を貸してくれる。車を回り込んでどうにか助手席に座ると、深くため息をついた。座っている筈なのに、揺れるような感覚が気持ち悪い。

 運転席へ戻った鋭司は、圭の膝の上にグラビティを置くとすぐにハンドルを握り締めた。

「行き先は病院決定だな」

「ごめん」

「黙ってろ」

 隣でハンドルを握る鋭司の表情は変わらない。けれども、ピリピリした空気だけは伝わってくる。

 流れる景色も歪んで見えて、その気持ち悪さに目を閉じる。タイヤのついた車独特の振動に揺られながら、ゆっくりと意識が沈む。

 意識が途切れる直前、誰かが自分の名前を呼んだ。遠い昔、その声で名前を呼ばれていた。けれども、その声に繋がる人物像へ辿り着くよりもさきに、意識は闇に落ちた。


 顔色が悪く、険しい表情をする父親。そして慌てた様子で荷物を鞄に詰め込む母親。そして、ただ事ではない両親の様子を、微かな怯えとともに見ている幼い自分。

 この光景は圭の記憶にもある。忘れていた圭の過去だ。俯瞰するように見ていることもあり、夢を見ていることが分かる。

「圭、大切な物を三つだけ、この鞄に入れてちょうだい」

「鞄に入る物じゃないとダメ?」

「えぇ、入らないと持てないから」

 あの頃、何度も解体しては組み立てていた時計。友達から貰った子ども向けキャラクターのぬいぐるみ、そしてグラビティ。圭が選んだのはこの三つだった。

 いつものように、ポケットにPCを入れようとすると、その手を父が止めた。

「お父さん?」

「圭、これは持って行けないんだ」

「なんで? だって、これがないと何もできないよ?」

「……いいんだ」

 父親からPCは大切な物だから、肌身離さず持っているように言われていた。それなのに、今は置いていけという。

 子供心に、もうこの家に戻らないだろうことは分かっていた。だからこそ、父親にPCを置いていくように言われた時、納得できなかった。

 けれども、父親の顔が泣きそうな笑顔で、圭は思い浮かんだ文句を飲み込んだ。父親のそんな顔を見たのが初めてで、衝撃を受けたこともある。

「これから、どこに行くの?」

「……遠くだよ」

「もう、お友達に会えない?」

「圭がもっと、ずっと大きくなったら会えるかもしれない」

「ばいばいしてきちゃダメ?」

「夜遅いから、それはできない。それに、もう少ししたら家を出る」

 住み慣れた街から引っ越す。それは圭にとって衝撃的なできごとでもあった。近くにいる友達と一緒に、圭は小学生になるのだと思っていた。

 もう、会えないかもしれない。そう思うと悲しくて泣きたい気分になった。でも、圭よりもさらに悲しそうな顔をする両親を見ていると、泣くことはできない。

「しばらくは辛い生活になるかもしれない。お父さんのせいでごめんな」

 父親の伸ばした手が圭の頭をくしゃりと撫でる。大きなゴツゴツとした手は、いつでも温かい。そして、圭はこうして撫でられることが好きだった。

「大丈夫だよ。お父さんのこと、好きだから」

「そうか……でも、辛い時は……」

 父親が何かを言っている。けれども、声が遠くなってその声は圭に届かない。何を言ったのか、それが知りたいと思うのに、もう何も聞こえない。


 夢が終わり、意識が浮上する。忘れていた過去を思い出し、ため息をつくため大きく息を吸い込んだところで、喉元をきつく締められる。

 夢うつつだった感覚が一瞬にして覚醒し、目を開けた。けど視界が塞がれて何も見えない。手を伸ばして首元を締め付けるそれを掴む。人の腕。けれども、そこに温度はない。

「くっ……」

 何が起きているのか分からない。何故、圭はアンドロイドに首を絞められているのか。ここは一体どこなのか。

 じわじわと首を絞める指先に力が籠もる。アンドロイドであれば一息に殺すことも可能なのに、それをしないのはどういう理由なのか。

 息ができず苦しい。目の奥で明滅する。苦しさに冷たい腕をきつく握り締めた。

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