川柳 華の忠臣蔵
川柳 ああ華の忠臣蔵
赤穂藩主・浅野内匠頭長矩、高家の吉良上野介義央に対し、
江戸城・松の廊下で、背後から突如刃傷。
「この間の遺恨覚えたか」。
播州赤穂藩
浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)1667-1701
播州赤穂藩(五万三千石)の第3代藩主。赤穂藩主・浅野長友の長男。
1701年2月4日
『殿様に 勅使饗応 御役目』
播磨赤穂藩主浅野長矩と伊予吉田藩主伊達村豊が、
東山天皇の勅使である柳原資廉・高野保春、
霊元上皇の院使である清閑寺熈定の饗応役を命じられた。
義央は指南役に任命されたが、義央は朝廷への年賀の
使者として京都におり、帰途に体調を崩して2月29日まで
江戸に戻らなかった。
1701年3月14日
『きらめく刃 重なる遺恨 肩先に』
『太刀浴びせ この間遺恨 覚えたか』
『電柱で 御座るぞここは 電柱で』
勅使接待役の赤穂藩主浅野内匠頭長矩(34)が、
高家指南役の吉良上野介義央(61)に対して、
江戸城松の廊下で、背後から突如刃傷に及ぶ。
度重なる嫌がらせに耐えかね「この間の遺恨覚えたか」。
将軍綱吉、激怒、即、切腹の上意。
1701年3月14日
『桜散る 木の陰見上げる 源五衛門』
田村邸の庭での切腹に赴く浅野内匠頭。
目付・多門伝八郎「浅野殿、あれなるは美しい桜で御座ろうが」
見れば、散る桜の木の陰から、見上げる片岡源五衛門。
浅野内匠頭「無念なと伝えよ」
1701年3月14日
『風邪さそう 鼻水よりもなお 我は咳』
赤穂藩主浅野内匠頭 田村邸で切腹、
--辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」
1701年3月14日
『殿は今 無事お役目 終えたるか』
そのころ、赤穂で、城代家老・大石内蔵助は夕焼けを見ながら、主君を案じていた。
1701年3月19日
『刃傷を 殿は殿中 吉良殿に』
第一の早駕籠で到着した速水藤左衛門、萱野三平、主君の刃傷を知らせる。
さらに第二の早駕籠で、
主君切腹・お家断絶の報を伝える原惣右衛門・大石瀬左衛門。
1701年3月20日
『総登城 片手落ちなる 御沙汰かな』
家来一同、総登城。喧々諤々の意見。喧嘩両成敗は武家の定法。
片手落ちなる 御沙汰かな、と言いつつ、城下を後にする家来達。
1701年3月24日
『城枕 殿の後追い 切腹を』
大石内蔵助は、主君の後を追って、切腹する案を提示。
続々、夜逃げする家来。
1701年6月
『山科に 閑居で欺く 暮らのすけ』
京都に移り、閑居して欺き、暮す大石内蔵助
1702年1月
『遊女との 心中橋本 平左衛門』
『急進の 軍兵衛急に いなくなり』
橋本平左衛門は遊女と心中、急進派だった高田軍兵衛は行方不明。
ぼろぼろと脱落する同士たち。
1702年2月
『大石め 仇討ちする気は ないのかも』
急進派の堀部安兵衛ら、京都から動かない大石内蔵助に激怒。
1702年4月
『大学さま お家再興 不可能に』
浅野内匠頭長矩の弟、大学長広の浅野家再興は不可能となり、
仇討ちしか、選択肢はなくなった。
1702年8月
大石内蔵助、江戸下向
1702年12月10日
『十四日 吉良の茶会は 確実に』
俳諧を学ぶ大高源伍の師匠から12月14日に、吉良邸で茶会が行われる情報。
他の情報からも確実にその夜は、上野介が吉良邸にいると断定。
討ち入りの日、決定。
1702年12月11日
『南部坂 寺坂共連れ 瑤泉院』
『雪が降る 渋の蛇の目に 長合羽』
仇討ち決行の日が決まり、亡君の未亡人・瑤泉院に報告のため、
雪が降る南部坂へ。
1702年11月日
『杉野箸 蕎麦やの風鈴 吉良邸』
蕎麦やに化けた、杉野十平次、吉良邸門前で動静を探る
1702年12月14日
『降りしきる 雪つき走る 四十七』
火事装束に身を包み、吉良邸に急ぐ47人。
1702年12月14日
『内蔵助 表で裏は 主税こぶ』
吉良邸表門の大将は、大石内蔵助。裏門の大将は、倅の大石主税。
塀に縄梯子を架け、屋敷内へ。
1702年12月14日
『おう一学か よき相手 安兵衛じゃ』
吉良家付け人、清水一学、堀内道場の好敵手、堀部安兵衛と一騎打ち。
1702年12月14日
『吉良殿は あの炭小屋に 相違ない』
大石内蔵助以下47名。本所松坂町の吉良邸へ討ち入った。
上野介の布団はもぬけの殻。いない。夜があける。一同に焦りの色が広がる。
炭小屋に至る雪にかすかな足跡。だれかいるぞ。いた。笛を吹け。
1702年12月14日
『肩の傷 上野介に 違いない』
炭小屋に隠れていた老人、ぶるぶる震えるだけで、問いに答えない。肩を調べよ。
あった、この肩傷、亡君の一太刀。上野介に違いない。---by sekigahara
1702年12月14日
『亡君の 御無念晴らし 奉る』
御覚悟。
『覚悟とは 仏の悟りを 開くこと』
「覚悟しろ」とは、「観念しろ、諦めろ」という意味で、使われているが、
本来は、仏の悟りを開く、という意味。
1702年12月15日
『亡君に 出会う高輪 泉岳寺』
高輪の泉岳寺、亡君の墓前に詣で、仇討ちの報告。一同泣きの涙。
ああ華の忠臣蔵
お読み頂き、ありがとう御座いました
もう一つの 川柳小説
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『ああ悲劇坂田三吉』もよろしく
『角切れば 銀が泣くなり 南禅寺』
『その角は 名人の手や 升田くん』
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