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姉と妹

少女の死ぬ前の願いごととは…

木曜日の夕方、私(塚原美月・十一才)は学校が終わった後いつも通り帰宅し、いつも通り台所でおやつを食べていた。時刻は五時少し前。今日はお稽古事のない日だから、これから宿題でもしてしまおうか、などとつらつら考えていると、台所に妹(塚原美風・五才)が入ってきた。

「おねぇちゃ~ん。」

妹は小さい子特有の猫なで声で私を呼んだ。この声は知っている。妹が何かをねだる時の声だ。

「何?おやつならもう食べたでしょ。」

こういう時の妹は相手にするとロクなことがないので、私は適当に答えた。

「色えんぴつ貸して~?」

「ダメ。」

私は即答した。

「え~、どうして~?」

妹は手をバタバタさせた。

「どうしても!私の前の色鉛筆だめにしたの美風でしょ。」

一週間ほど前、妹は私が貸した色鉛筆を幼稚園に持っていき絵を描いたのだが、返ってきた色鉛筆は中の芯がバキバキに折れ、長さも半分以下になった、変わり果てた姿をしていた。

「この前新しいの買って貰ったばっかりで、私だってまだ使ったことないのよ。美風に貸すわけないでしょ。クレヨン使いなさい、クレヨン。」

「クレヨンなんていや!チヨちゃんもカナちゃんも色えんぴつ使ってるのに。」

以前はお絵描きにはクレヨンを使っていたのに、最近幼稚園で色鉛筆がはやっているらしい。

「そんなに使いたいなら、お父さんに買って貰えばいいでしょ。」

私は食べ終わったお菓子の空き箱をゴミ箱に投げ入れながら言った。

「パパ買ってくれないよぉ。それに明日いるから間に合わないよぉ。」

妹が涙目になる。これだから嫌なのだ。明らかにこちらが正しいことを言っているのに、泣かれると私が悪人みたいじゃないか。この涙のせいで私が今までどれだけ損をしてきたことか。こういう時は無視するのが一番。

 私は二階の自室へ行くために台所を出ようとした。すると妹は大声を上げて泣き出した。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん」

私は気にせず台所を出た。妹の泣き声は一層大きくなったが、そんなことは私の知ったことではなかった。妹は泣けば何でも言うことを聞いてもらえると思っているのだろうけど、私はお父さんやお母さんみたいに甘くはない。妹が泣こうが喚こうが色鉛筆を貸す気はさらさら無い。

 私が二階への階段を登りかけると、登る足音を聞きつけたのか妹が泣きながら追いかけてきた。

「も、もう、折ったり、しないから、貸してぇ~。」

妹は階段の下からそう叫ぶと、またうわぁぁぁぁぁぁぁぁん、と泣いた。それでも私が登ろうとすると「おねぇちゃん、待ってぇ~」と、顔を涙でぐしょぐしょにしながら階段を登って追っかけてきた。

「お、おねぇちゃ~~~~~ん」

妹は私が登りきったところで私の足をつかんだ。

「も、もう、折ったり、しないって、言ってるのにぃ~~」

ワーワーとしつこく泣き続ける妹に、私は少し腹が立ってきた。

「足を放しなさい。いいかげんにしないと怒るわよ!」

そう言って足を振りほどこうとすると、今度は服につかみかかってきた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん」

「放しなさいって言ってるでしょ!」

私は体をよじって妹を引きはがそうとした。でも、妹は必死に私にしがみついている。

「ちょっと、放しなさい!放せ!!」

私は妹を押した。そんなに強く押したつもりはなかった。しかし、その時私は確かに妹を押したのだ。そして、

 妹は階段から落ちた。



        2


 妹は何度呼びかけても返事をしなかった。完全に意識を失っているようだった。どうやら頭を強くぶつけたみたいで、後頭部から血が出ていた。家の階段は急なのだ。お母さんがいつも「階段ではふざけるな」とか「階段を走って登るな」とか口をすっぱくして言っていたのが思い出された。

 私は救急車を呼び、買い物に行っていたお母さんの携帯にも連絡を入れた。救急車とお母さんは同時くらいに家に着いた。いつもは騒々しい程度にしか感じていなかった救急車のサイレンの音が、生まれて初めて一刻一秒を争う重要な警報に聞こえた。

 私は妹が階段から落ちた理由を尋ねられても「知らない」としか答えられなかった。「私が押した」とは、どうしても言えなかった。救急の人もお母さんも深くは追求しなかった。

 妹は担架に乗せられて運ばれていった。少し前まで元気に泣きじゃくっていた妹は、死んだように動かなかった。目の周りにはまだ涙の痕が残っていた。

 妹とお母さんを乗せた救急車が走り去ると、家の中は急に静かになった。私はなんだか力が抜けて、階段の下に座り込んでしまった。

 妹は大丈夫なのだろうか。横を見てみると階段に妹の血が付いていた。ここに頭をぶつけたのだろうか。そういえば、頭以外にも耳からも出血していたように見えた。あれは大丈夫なのだろうか。私は振り返って階段の上を見上げた。いつもより随分高く感じられた。妹はあの一番上から私のいる一番下まで落ちたのだ。こうして見ると、とても助かるとは思えなくなってきた。私は階段を登ってみることにした。ゆっくりと立ち上がり、一歩一歩上まで登った。登りきってみると、毎日登っているのが信じられないくらい疲れていた。

 私は階段の上に立って下を見下ろした。私はここで妹を押したのだ。そして妹は落ちた。妹を押した時の感触が思い出された。私が押したのだ。私が悪いのだ。妹は、美風は助かるのだろうか。

 その時、私はふと思った。

私も落ちてみようか。

どうしてそんな考えが浮かんだのかはわからない。私が落ちたって私が痛い思いをするだけで、別に妹が助かったり、妹を押したことが許されたりするわけではない。そんなことは決してない。頭ではわかっているのに、何故か私は落ちなければならないような気がした。

 私は階段に背を向け、妹が落ちた時と同じように後ろに倒れてみた。

 時間がスローモーションのように感じられた。天井やら壁やらがぐるぐる回って見えた。私はついさっき妹が倒れていた所まで転げ落ちた。

気絶はしなかった。

頭はこぶができているだけで、血は出ていなかった。

手足は多少すりむいたが、そんなに痛くはなかった。

でも、動く気にはなれなかった。

 どうして妹と結果が違うのだろうか。どうして私は平気なのだろうか。

 五才の妹と十一才の私とでは耐久力が違うのかもしれない。妹は急に落ち、私は身構えて落ちたからかもしれない。妹はたまたま打ち所が悪かったのかもしれない。

 いずれにしても妹にひどく申し訳ない気持ちになった。

 私はしばらく天井を見ながら階段の下に寝っ転がっていた。眠ったりはしなかったが、それに近い状態が続いた。

 どれくらい時間が経っただろうか。私が体を起こしたのは、病院に行っているお母さんから電話がかかってきた時だった。お母さんは早口でまくしたてた。

「夕飯は冷蔵庫の上に乗っているカップラーメンを自分で食べなさい。お湯はポットに入ってるわ。今夜はお父さんもお母さんも帰れないと思うから、シャワーを浴びて一人で寝なさい。寝る時は玄関の鍵だけは締めて寝るのよ。」

お母さんは相当気が動転しているようだった。妹のことは教えてくれなかったが、口調から状態が思わしくないことは明確だった。

 私は受話器を置いた後、病院に行ってみようと思った。



        3


 外はもう暗くなっていた。私は街灯の灯る公園を抜けて、妹が運び込まれた病院へと自転車を走らせた。家から病院まではそれほど遠くない。大通りの信号にも引っ掛からなかったので、意外と早く到着することができた。自転車を前に停めて病院に駆け込む。受付で部屋番号を訊き、エレベーターで三階へ上がる。部屋は面会謝絶だったが、姉だと言うと何とか入れてもらえた。

 妹は病室のベッドに寝かされていた。頭に包帯を何重にも巻かれ、鼻から口にかけて呼吸器のような物をつけている。そのせいか、私には妹が別人に見えた。涙の痕はもう消えていた。

 妹のベッドの横にはパイプ椅子に腰掛けたお父さんがいた。会社から直接来たのだろう、背広にネクタイという姿だった。お父さんははじめ、いきなり入ってきた私に少し驚いた様子だったが、「ふぅ」とため息を一つつくと、「お前も心配で見に来たのか?」と言った。私は頷いた。

「そうか。」

お父さんは静かにそう呟くと私に手招きをした。私はそれに従った。

「座りなさい。」

私はお父さんが指示したパイプ椅子に座った。お父さんはそれを見てからもう一度ため息をついた。

「落ち着いて聞きなさい。」

墓石のように重い口調だった。私は耳を塞ぎたくなった。

「美風は助からないかもしれない。」

「………。」

私は何も答えなかった。お父さんは続けた。

「頭の厄介な所に骨折が起こったらしくてな。ずっと昏睡状態が続いていて……、脳波も弱まってる。」

「………。」

私は何も聞きたくなかった。お父さんは続けた。

「お医者さんの話だと…、死ぬのは時間の問題らしい。いつまで保つかは美風の精神力次第だそうだが、助ける方法は奇跡を待つほかないとのことだ。」

お父さんは私の方をじっと見ている。私は目の前に寝かされている妹を見た。妹は動かなかった。そこに寝ている妹はもう私の知っている妹とは思えなかった。妹の顔からは完全に表情というものが消えていた。

 妹は今、何を考えているのだろうか。私のことを恨んでいるのだろうか。

「美風。」

私は小さな声で妹を呼んだ。返事はなかった。

 妹はこのまま何も言わないつもりなのだろうか。私のようなダメな姉には話すことなどないのだろうか。私が謝ることさえ許してくれないのだろうか。さよならも言わずに死んでしまうのだろうか…。

妹が死ぬ?

「じゃあ…、私は……」

人殺しだ。

 何ともやりきれない気持ちが心の中で大きくなるのが自分でわかった。

 私はここで何をしているんだ。ここにいても仕方ないだろう。私にはしなければならないことがあるはずだ。こんな所でじっとしている場合ではないのだ。私のするべきことをしなければ。

 私は立ち上がって病室のドアの方へ向かった。

 ここにいちゃダメだ。ここにいてはいけない。ここを出なければ。

「帰るのか?」

お父さんが声をかけた。私は頷いた。

でも、家に帰るつもりはなかった。



        4


 病院を出た私は自転車には乗らず走った。とにかく走った。無我夢中に走った。走って走って、走りに走った。

 そして、あるマンションの八階にたどり着いた。八階は最上階だ。屋上へは鍵がかかっていて行けなかった。

 私はコンクリート製の塀のような柵に登って、その上に立った。普段なら怖くてこんなことできないが、今はちっとも怖くなかった。ひんやりとした夜の風が吹いている。今夜は晴れだ。半月よりも少し太ったくらいのお月様が出ていた。

 私は下を見た。自転車置き場の自転車が小さく見えた。人は見あたらなかった。遠くで車の無機質な音が聴こえていたが、マンションからは何の音も気配も感じられなかった。はるか下に見える地面には冷たそうなタイルが敷き詰められている。

 ここから落ちれば確実に死ねる。

 妹も死ぬのだから、私も死ななければ。

私の心が私の体をせきたてる。

 私が全て悪いのだ。私が妹に色鉛筆を貸さなかったから、私が妹を階段から突き落としたから、私が妹を殺したから、私が何もかも悪いのだ。

 死ななければ。

 死んで妹に謝らなければ。

 謝っても許してもらえないかもしれないけど、今私にできるのはそれだけだ。

 私が妹に色鉛筆を貸してさえいれば、私が妹を階段から突き落としてさえいなければ、私がもっと良い姉でさえあれば、こんなことにはならなかったのだ。

 全部私のせいで、どれも私の責任で、何から何まで私が原因だ。

 私は死ぬしかない。

 妹に謝るには死ぬしかない。

 選択肢は一つしかないのだ。

 死のう。

 ここから落ちて死のう。

 死んで、妹に謝ろう。

 それに、もし私が死ぬのを神様が見ていてくれたなら、もしかしたら妹を助けてくれるかもしれない。

 そう、お願いしながら死のう。

私は飛び下りようと体を身構えた。それから目をつぶって最期のお願いをした。

 神様、もし見ているのなら、私の命と引き換えに妹を助けて下さい。

私は足を少し曲げ、そのまま身投げをしようとした。

その時、私の後ろで声がした。


「その願い、叶えてあげましょうか?」


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