第1話 妹のいる朝
第1話 妹のいる朝
死んだ妹に、起こされた。
「お兄ちゃん。起きて」
「……あと五分」
返事をしてから、変だと思った。
母さんの声じゃなかった。
「五分前にも言ってた。卵、冷めるよ」
薄く目を開けると、カーテンの隙間から朝日が入っていた。机の上には参考書が積んである。昨日、片づけようと思って、そのままにしたやつだ。
戸口に、人影があった。
「灯?」
呼ぶと、影が動いた。
「なに?」
俺は布団を握った。
聞き間違いじゃなかった。少し低くなっていたけれど、返事の仕方まで知っている声だった。
「……いや」
何を言えばいいのかわからなかった。
夢なら、まだ起きたくない。
「起きてるなら起きてよ。お母さんに、私がちゃんと呼んでないと思われるじゃん」
足音が遠ざかっていった。
廊下の床が、一度きしむ。部屋の入口から三枚目。踏むと音がするので、夜中にトイレへ行くときは、いつもそこを避けている。
俺は起き上がった。
「湊ー。せっかく灯が作ったんだから、早く食べなさい」
階下から、母さんの声がした。
ベッドを下りると、床に落ちていた靴下を踏んだ。昨日、干したやつだ。まだ少し湿っていた。
拾おうとして、やめた。
*
妹は台所にいた。
黄色いエプロンをつけて、フライパンを洗っていた。袖をまくりすぎたせいで、片方だけ肘が出ている。
俺の知っている灯より、背が高かった。
もう踏み台を使っていない。
「おはよ。卵、ちょっと焦げたけど」
振り向いて、当たり前みたいに言った。
灯だった。
「……お前」
「うん」
「なんで、ここに」
灯の手が止まった。
「え。台所に?」
そうじゃない。
俺は近づいた。灯が、濡れた手を少し持ち上げる。
その腕に触れて、次に肩を掴んだ。
「なに。怖いんだけど」
抱きしめた。
灯が小さく声を上げた。
骨ばった背中だった。髪の先が鼻に当たって、少しくすぐったい。家で使っている、安いシャンプーの匂いがした。
「ちょっと。手、濡れてるって」
返事ができなかった。
「お兄ちゃん、痛い」
腕を緩めた。
離さなきゃと思ったのに、指がエプロンの布を掴んでいた。
「……どこか、痛くないか」
「今、肩が痛かった」
「あ。ごめん」
「どうしたの」
今度は、ふざけていない声だった。
灯が俺の顔を見ようとした。俺は少し俯いた。十五歳にもなって朝から泣いているところを、妹に見られたくなかった。
そんなことを気にしている自分に、腹が立った。
三年前の十一月十七日。
病院で、母さんの携帯が何度も鳴っていた。
俺は、灯の上履きが入った袋を抱えていた。誰に渡されたのかは覚えていない。持ち手の紐を指に巻いたり、ほどいたりして、入口を見ていた。
そのあと家に帰っても、灯はいなかった。
「湊。ちょっと、顔見せて」
母さんが、俺の頬に触れた。次に額に手を当てる。
「気持ち悪い? 頭、痛い?」
「違う」
「じゃあ、どうしたの」
「……夢」
言ってから、鼻をすすった。
「変な夢、見た」
母さんは俺の顔を見たまま、少し黙っていた。
「学校、休む?」
「行く」
「無理しなくていいよ」
「大丈夫。ほんとに」
自分でも、全然大丈夫そうに聞こえなかった。
灯がそろそろと俺の腕から抜けて、布巾で手を拭いた。それからティッシュの箱を取ってくれた。
「はい」
「……ありがと」
「鼻、出てる」
わかってる、と言いかけて、やめた。
灯は俺が鼻をかむのを待ってから、椅子を引いた。
「とりあえず食べなよ。せっかく作ったし」
声は少しぶっきらぼうだったけれど、俺が座るまで、隣に立っていた。
*
六月四日。
俺の十五歳の誕生日だった。
壁のカレンダーにも、携帯にも、同じ日付が出ている。
昔に戻ったわけではないらしい。
冷蔵庫には、知らない絵が貼ってあった。花瓶と、その横に置かれた何か丸いもの。名前のところに『朝倉灯 六年二組』とある。
「それ、なに」
「え?」
「絵の、花瓶の横」
「りんごだけど」
灯が俺を見た。
「前も聞いたよ、それ」
「……そうだっけ」
「じゃがいもって言った。失礼なやつ」
そう言われると、たしかにじゃがいもに見えた。
灯は十二歳になっていた。
俺の知らない三年間を、この家で過ごしていた。
「冷めるよ」
母さんに言われて、箸を持った。
皿の上には、不揃いな卵焼きが三つ並んでいた。端の一つが焦げていて、そこだけ薄く切り取ろうとした跡がある。
食べると、ずいぶん甘かった。
「どう?」
灯が聞いた。
「うまい」
「ほんと?」
「うん」
灯は自分の分を食べた。
すぐに眉を寄せた。
「……甘くない?」
「ちょっと」
「ちょっとじゃなくない?」
母さんが横から一切れ取って、口に入れた。
「ああ。大さじ使った?」
「小さいやつ」
「それ、二本あるうちの大きいほうじゃない?」
「大きいほうも小さかったもん」
母さんが笑った。
灯は不満そうに、もう一口食べた。
「食べられるけど」
「食べてるだろ」
俺が皿を見せると、灯は黙った。
それから、小さい声で「次はちゃんと量る」と言った。
次も作ってくれるらしい。
俺は味噌汁を飲んだ。冷めかけていて、ちょうどよかった。
「二人とも、今日はまっすぐ帰ってきてね。ケーキ買ってくるから」
母さんが時計を見ながら言った。
「ホール?」
「そんな大きいの食べきれないでしょ」
「食べきれるよ」
「去年も同じこと言った。最後、お母さんが食べたんだから」
知らない去年の話を、俺は黙って聞いた。
夜勤明けの母さんは、椅子に座ったまま欠伸をした。灯に指摘されると「見ないで」と顔を背けた。
その横顔を、つい見続けてしまった。
「なに、湊。お母さんにも何かついてる?」
俺は首を振り、残った卵焼きを口に入れた。
やっぱり甘かった。
*
部屋へ戻って制服に着替えてから、携帯を開いた。
昨夜のメッセージが残っていた。
『日付が変わったね。十五歳、おめでとう。冷蔵庫のプリン、食べていいよ』
母さんからだった。午前零時一分。
その下には、送らなかった『ありがとう』の文字があった。
昨夜、俺は家の外にいた。
夕食のあと、進路希望調査を母さんに見せた。
白紙だった。提出日は、もう過ぎていた。
「行きたいところ、ないの?」
「別に」
「寮がある学校のパンフレット、見てたじゃない」
「あれは、見てただけ」
行ってみたいとは思っていた。
でも、寮に入ったら、母さんがこの家に一人で残る。
「気になるなら、先生にも聞いてみたら。お母さんも調べるから」
俺は曖昧な返事をして、紙を鞄に戻した。
本当は、この家に帰りたくない日だってあった。
灯の部屋の前を通るたびに、誰もいないことを確かめてしまうのが嫌だった。
そんなことを言ったら、母さんは寮に行けと言うだろう。
それも嫌だった。
母さんが夜勤に出たあと、眠れずに外へ出た。
行き先は決めていなかった。歩いているうちに、駅の裏へ来ていた。
線路の下を通る、古い地下道。
壁に魚の絵があって、灯はそこを水族館と呼んでいた。学校帰りに遠回りして連れていかれるので、俺は何度か文句を言ったことがある。
去年から工事で閉まっていた階段が、その夜は開いていた。
下りている途中で、携帯が震えた。
母さんからの、お祝いのメッセージだった。
返事を打っていると、声がした。
「お兄ちゃん」
通路の中ほどに、白い扉があった。
魚の絵があるはずの場所だった。
細く開いた隙間から、光が漏れていた。味噌汁の匂いがした。
「冷めちゃうよ」
そんなわけがないと思った。
でも、灯かどうかを確かめるより先に、俺は扉に手をかけていた。
そこから先は覚えていない。
気づいたら自分の部屋で、灯に起こされていた。
携帯を握り直した。
誰に話せばいいのだろう。
母さんに、灯は死んだはずだと言うのか。
「お兄ちゃん、入るよ」
返事をする前に扉が開いて、俺は携帯を伏せた。
「ノックしろよ」
「したけど」
「……聞こえなかった」
「じゃ、返事してよ」
灯はランドセルを背負っていた。片手に青い包みを持って、机の上に置く。
「はい。誕生日」
包みの端は少し潰れていて、テープが斜めに貼られていた。
「開けていい?」
「うん」
剥がそうとすると、紙まで一緒に破れた。
「あ、いいよ。どうせ捨てるやつだし」
俺が手を止めたので、灯はそう言った。
俺は破れたところを指で押さえて、残りを開いた。
紺色の小さな手帳が入っていた。日付のない、ただのノートだった。
「ほら、お兄ちゃん、プリントの裏とかにメモするじゃん」
「うん」
「で、そのプリントなくすじゃん」
「そんなには」
「先週、私の連絡帳に牛乳って書いた」
俺は顔を上げた。
「先生に、これは何ですかって聞かれたんだけど」
灯は口を尖らせた。
「それは……悪かった」
「ほんとだよ」
知らない話だった。
覚えていないのに、やりそうだと思った。
「だから、こっち使って。ちゃんと持って歩けるやつにしたから」
灯が手帳の表紙を撫でた。
「黒もあったんだけど。青、まだ好き?」
「好き」
「そっか」
灯はそれだけ言うと、机から手を離した。
「ありがとな」
今度は、ちゃんと言えた。
灯は肩のベルトを直しながら、小さく頷いた。
「……なくさないでよ」
「なくさない」
すぐに答えると、灯はちょっと困ったように笑った。
「じゃ、先に行く。あ、ケーキ、いちごとチョコ、どっちがいい?」
「あとで送る」
「早めにね。返事ないと、お母さん、両方買うから」
階段を下りる足音を聞きながら、俺は手帳を開いた。
真っ白だった。
何か書こうと思ったけれど、何も思いつかなかったので、そのまま制服のポケットに入れた。
玄関が開く音がして、窓から外を見た。
灯が門を出ていく。途中で振り返って俺に気づき、何か忘れたのかという顔をした。
手を振った。
灯は左右を見てから、腰のあたりで小さく振り返した。
あんな振り方をするようになったのか、と思った。
*
家を出るとき、母さんにもう一度、大丈夫かと聞かれた。
「うん」
「気分悪くなったら、保健室に行きなさいよ」
「わかってる」
「携帯、枕元に置いて寝るから。何かあったら電話して」
頷いて、靴を履いた。
外へ出てから、学校とは反対へ向かった。
駅裏の地下道は開いていた。
通行止めの柵も、工事の看板もなかった。
階段を下りると、湿ったコンクリートの匂いがした。
赤い魚と黄色い魚、その先に、色の落ちた大きな鯨。
扉はなかった。
壁を押した。場所を変えて、もう一度押した。
継ぎ目を探して、端から端まで指を滑らせた。
自転車を押した人が、横を通っていった。
変なやつだと思われただろう。通り過ぎるまでは携帯を見ているふりをして、いなくなってから、壁を叩いた。
「……ここだっただろ」
「扉?」
振り返った。
階段の下に、女の子が立っていた。同い年くらいで、見慣れない灰色の制服を着ている。
革の鞄を両手で持って、俺を見ていた。
「朝倉湊くん?」
「……誰」
「白瀬紬。あなたを迎えに来たの」
迎え。
意味がわからなくて、俺は壁から手を離した。
「あんた、扉のこと知ってるのか」
「うん」
「昨日、ここにあったやつ?」
「そこから、帰るのを手伝える」
俺はポケットの上から、手帳の角に触れた。
「家なら、さっき出てきたけど」
「昨日まで暮らしていたほうの家」
冗談だとは思えなかった。
だからといって、信じていいのかもわからない。
紬の靴紐が片方、ほどけていた。本人は気づいていないらしく、足を動かすたびに先が地面をこすった。
「……俺、どうなったんだよ」
言いたいことはいくつもあったのに、それしか出なかった。
携帯が震えた。
反射的に取り出した。
『ケーキ、朝のうちに決めてだって』
灯からだった。
続けて、不機嫌そうな猫のスタンプが届いた。
俺が三年間、消せなかった連絡先だった。
間違って発信しそうになったことが、一度ある。
そのときは怖くなって、すぐに画面を消した。誰か知らない人が出たらと思うと、かけることなんてできなかった。
今なら、灯が出るのだろうか。
「……帰ったら」
携帯を見たまま聞いた。
「向こうも、変わってたりするのか。今朝みたいに」
紬は、すぐには答えなかった。
「向こうで起きたことは、そのままだよ」
「そっか」
「亡くなった人も――」
「わかった」
思ったより強い声が出た。
紬が口を閉じた。
聞いたのは俺なのに。
「……ごめん」
「ううん」
俺は画面を消した。
真っ黒な画面に、自分の顔が薄く映った。
「母さんは」
「え?」
「向こうの母さん。俺がいなくなったら、どうなる」
紬は鞄を持ち直した。
「ごめん。それは、私にもわからない」
朝、家に帰ってくる。
俺の靴がないのを見て、もう学校へ行ったのだと思うかもしれない。
夕方になったら、電話をかけてくる。
それから。
「今日の夜じゃ、駄目なのか」
俺は言った。
「帰るの。夜まで待てない?」
「次に来たときも、ここから帰れるとは約束できない」
壁の鯨が見えた。
あれが魚かどうかで、灯と喧嘩したことがある。俺は途中で間違いに気づいたけれど、引っ込みがつかなくて、ずっと魚だと言い張った。
灯は家に帰ってから図鑑を持ってきた。俺はそれを、見もしなかった。
そんなことばかり思い出した。
もっと、ほかにあったはずなのに。
もう一度、携帯をつけた。
猫が、返事を待っていた。
「今日は、帰らない」
紬が俺を見た。
「……せめて、今日だけ」
付け足す必要はなかった。
紬は、理由を聞かなかった。
明日なら帰れるのかと聞かれなくて、ほっとした。
俺は壁に背を向けた。
階段に足をかけて、灯に返事を打った。
『いちご。今日はちゃんと帰る』
少しして、猫が両手を上げた。
『遅くなったら先に食べるからね』
俺は笑いそうになって、鼻の奥が痛くなった。
『主役を待て』
送信したあと、母さんとのやり取りを開いた。
ありがとう。
昨夜から送れずにいる文字を、しばらく見ていた。
今、これを送ったら、どっちの母さんに届くのだろう。
階段の上で電車の音がした。
学校には、もう遅刻だった。
俺は返事を送らないまま、携帯をポケットにしまった。
手帳の角が、指に触れた。




