第4節 始まりの夜
俺とユリウスは西側の通路へ進む。
雰囲気は中央ホールとは少し違い、静かで落ち着いていた。
同じ新入生同士でも、どこか緊張を保ったまま歩いている者が多い。
「男子エリア、思ったより静かだね」
ユリウスが、少し驚いたように周囲を見回しながら言った。
声のトーンは低く、どこか安堵が滲んでいる。
「初日だし、もっと騒がしくなるものだと思ってたんだけど……この感じなら落ち着いて過ごせそうだ」
俺は廊下の先を見ながら答える。
案内表示に従って進むと、壁面に学年ごとの区画が示されているのが見えた。一年生の表示は、通路の奥だ。
係の職員に名を告げ、簡単な確認を済ませる。
端末に表示された部屋番号を見て、ユリウスが小さく目を見開いた。
「……隣、だな」
表示されている番号は、連番だった。
「らしいな」
「なんか、変な縁だ」
そう言って笑うが、嫌そうな様子はまったくない。
通路を進み、それぞれの扉の前に立つ。
造りは簡素だが、必要なものは一通り揃っていそうだった。
「じゃ、荷物置いたら。さっきの時間でいい?」
「ああ。迷ったら中央だな」
「だな」
短い確認を交わして、それぞれの部屋へ向き直る。
個室の扉が閉まる直前、ふと気づく。
今日一日で、ここまで自然に誰かと約束を交わすとは思っていなかった。
部屋に入ると、外の音がすっと遮断された。
静けさの中で、ようやく一息つく。
部屋は、想像していたよりもずっと簡素だった。
白を基調とした壁に、机とベッド、収納棚。余計な装飾はなく、必要なものだけが整然と配置されている。
窓際に立つと、学院の敷地が一望できた。
いくつもの塔と通路、中庭を縫うように巡る人工理層の光が、夕暮れに溶け込んでいる。
(……悪くない)
荷物を最低限だけ片付け、机の上に機符を置く。
確認してみたが、特に通知は来ていなかった。
ベッドに腰を下ろし、しばらく天井を見つめる。
張り詰めていた身体の緊張が、ようやくほどけていくのを感じた。
長い一日だった。
それでも、不思議と疲労感よりも、胸の奥に残る静かな高揚の方が強い。
どれくらい、そうしていただろう。
気配が、ふっと変わった。
「……ずいぶん、落ち着いているのね」
声は、すぐ近くから聞こえた。
視線を向けると、窓辺にネフェリアが立っていた。
白い髪と黒い衣装が、夕闇に溶け込むように揺れている。
「入学初日だ。疲れてるだけだと思うけどな」
「環境が変わっても、自分を見失わない。それは大切なことよ」
ネフェリアは小さく微笑む。
彼女は部屋を軽く見渡した。
「質素だけど、悪くない部屋ね。集中するには向いているわ」
「そういう設計なんだろ」
短い会話のあと、ネフェリアはそれ以上踏み込まなかった。
必要以上のことは言わない――それが彼女の流儀だ。
「夕食までは、まだ時間があるわ。少し休みなさい。今日は、よく動いた」
そう言い残すと、ネフェリアの姿はゆっくりと薄れていく。
再び、部屋に静寂が戻った。
壁際の時計を見る。
夕食まで、まだ数時間はある。
ベッドに身を預け、目を閉じる。
完全に眠るには早いが、少し休むにはちょうどいい。
学院での生活は、まだ始まったばかりだ。
その実感を胸に、俺はしばらく、静かな時間に身を任せた。
約束していたのを思い出し、立ち上がる。
廊下に出ると、ちょうど隣の部屋の扉も開いた。
「行くか」
ユリウスが声をかけてくる。
「ああ」
短く応じて、並んで歩き出す。
通路を進むにつれて、人の気配が増えていった。皆、同じ時間帯を目指しているのだろう。
中央の共用エリアに近づくと、空気が少し賑やかになる。
話し声、食器の音、笑い声。
学院という閉じた空間の中で、確かに「生活」が動き始めているのを感じた。
入口付近で、見慣れた後ろ姿を見つける。
「セシリア」
呼びかけると、彼女は振り返って軽く手を挙げた。
「ちょうど今来たところ」
三人で合流し、寮の食堂へ向かう。
共用エリアの奥にあるその空間は、学院の規模に見合った広さを持っていた。
天井は高く、壁面には淡い光を放つ魔導灯が等間隔に配置されている。
装飾は控えめだが、無機質すぎることもない。
いかにも「生活の場」として設計された食堂だった。
昼間は学院内の食堂を利用する学生がほとんどらしく、この寮の食堂が本格的に使われるのは朝と夜だけだという。
その分、時間帯ごとにメニューも切り替えられているようだった。
入口近くの掲示板には、今夜の献立が一覧で表示されている。
数十種類の定食が並び、主菜と副菜の組み合わせがそれぞれ異なる。
肉料理、魚料理、野菜中心のもの。
体力重視の構成もあれば、軽めの内容もある。
「……選択肢、多いな」
トレイを手に取ったユリウスが、少し驚いたように言う。
「学生の数も多いしね」
セシリアが当然のように答える。
確かに、その通りだ。
黙ってメニューを眺め、無難そうな定食を選ぶ。
三人分の料理を受け取り、空いている席を探す。
窓際のテーブルが一つ、ちょうど空いていた。
腰を下ろすと、ようやく一息つけた気がした。
昼から続いていた緊張が、食堂の空気に溶けていく。
「思ってたより、普通だな」
ユリウスが、皿を見下ろしながら改めて言う。
「普通でいいでしょ。毎日が特別だったら、疲れるもの」
セシリアが即座に返す。
その言葉が妙に腑に落ちて、思わず息を吐いた。
入学初日で張り詰めていた緊張が、少しだけほどける。
箸を動かしながら、食堂の様子を眺める。
同じ制服を着た新入生たちが、思い思いに話し、食事をしている。
ここでは、誰もがまだ「ただの学生」だ。
「こうしてると、やっと入学したって実感が湧いてくるな」
ユリウスがスープを一口飲んでから言う。
「分かる。講義中はずっと、現実感がなかった」
セシリアが頷く。
俺も同意だった。
「でもさ。昼の実演……あれ、すごかったよな」
「うん。星空みたいだった」
セシリアも箸を止める。
その表現に、昼の光景が蘇る。
天井いっぱいに広がった人工の星々。
制御された光が、あれほど自然に“在る”ように感じられたこと。
「魔術って、もっと危険なものだと思ってた」
「危険なのは、変わらないと思う」
セシリアが静かに返す。
その言葉に、俺は黙って頷いた。
「……四年間、長そうだな」
ユリウスが苦笑する。
「短いかもよ。気づいたら、終わってるってこともある」
セシリアはそう言って、トレイを見下ろした。
その言葉に、胸の奥がわずかにざわつく。
まだ何も始まっていないのに、終わりを意識するのは早すぎる。
それでも、時間が有限であることだけは、確かだった。
食堂のざわめきが、少しずつ落ち着いていく。
外はすっかり暗くなり、窓の向こうには人工理層の淡い光が浮かんでいた。
「……今日はこのあと、どうする?」
ユリウスが聞く。
「部屋に戻る」
セシリアが即答する。
「初日だし、無理しない」
「だな」
俺もそう思っていた。
今日は、十分すぎるほど多くのものを受け取った。
食事を終える頃には、食堂のざわめきも少し落ち着いていた。
トレイを片付け、席に戻ると、三人とも自然と息をつく。
「……思ったより、疲れてたみたいだ」
ユリウスが背もたれに軽く体を預けながら言う。
「初日だしね」
セシリアが応じる。
「講義もあったし、人も多かったし」
「入学式だけだと思ってた?」
俺が言うと、ユリウスは苦笑した。
「正直、ちょっとね」
「でも、あの実演で一気に現実に引き戻された」
昼の講堂を思い出す。
天井に広がった人工の星空。
あの光景は、誰にとっても強烈だったはずだ。
「四年間で、あれが“当たり前”になるんだよな」
ユリウスがぽつりと呟く。
「当たり前になるかどうかは、その人次第じゃない?」
セシリアが首を傾げる。
「ついていけなくなる人も、きっといる」
少しだけ、空気が静まる。
「……まあ」
ユリウスがすぐに言葉を継いだ。
「だからこそ、ここに来たんだけどさ」
その言葉に、俺も頷いた。
理由は違っても、目的地は同じだ。
「明日から、授業も本格的に始まるんだよな」
「うん」
セシリアが指を折る。
「魔術理論、演算、理層観測……たしかそんな感じ」
「聞いただけで頭が痛くなりそうだ」
「予習してても、初日は緊張する」
そんな他愛もないやり取りに、少しだけ笑いが混じる。
気負っていたものが、少しずつほどけていくのが分かった。
壁際の時計が、静かに時を刻んでいる。
そろそろ、解散の時間だ。
「じゃあ」
セシリアが立ち上がる。
「私は先に戻るね。明日も早いし」
「ああ」
「また明日」
ユリウスも立ち上がりながら言う。
三人で食堂を出る。
共用エリアの灯りが、夜の学院を穏やかに照らしていた。
部屋に戻ると、外はすっかり夜になっていた。
窓の向こう、学院の敷地を縫う人工理層の光が、静かに瞬いている。
ベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。
一日分の情報と感情が、ようやく身体に追いついてくる。
(……長かったな)
だが、不思議と嫌な疲れではない。
胸の奥に、静かな熱のようなものが残っている。
そのとき、ふと空気が変わった。
気配、と呼ぶには曖昧で、けれど、間違えようのない感覚。
「今日は、よく頑張ったわね」
声は、すぐそばから聞こえた。
視線を上げると、窓際にネフェリアが立っていた。
白い髪が夜の光を受け、黒衣がその輪郭を際立たせている。
「……何もしてないさ」
「いいえ。あなたと、セシリア。二人とも頑張ったわ」
静かに微笑む。
「それに、新しい縁も」
ユリウスの顔が、自然と浮かんだ。
「悪くないやつだ」
「そうね。あなたが、ちゃんと“ここ”に立っていることを、見てくれる人」
含みのある言い方だ。
ネフェリアはたまに何を伝えたいのか分からない時がある。
「魔術、どうだった?」
問いは、軽い。
だが、逃げ場のない問いでもあった。
「……正直、綺麗だと思った」
「“思った”?」
「思った、だけじゃないな」
少し考えてから続ける。
「可能性を、見せられた気がした」
神威とは違う。
意志一つで世界を書き換える力ではない。
けれど、積み重ねることで届く場所がある。
神威では出来ない事が魔術は出来るのだ。
「それでいい」
ネフェリアは静かに頷いた。
「あなたが魔術を学ぶ理由は、そこにある。神威の代わりじゃない。別の道よ」
少しの沈黙。
「……今日は、もう休みなさい」
「命令か?」
「忠告」
くすりと笑う。
「明日から、忙しくなるわ」
「それは、確定なんだな」
「たぶんね」
その言葉と同時に、彼女の輪郭が薄れていく。
「ネフェリア」
呼び止めると、消えかけた姿が一瞬だけ振り返った。
「ちゃんと、やるよ」
「ええ。頑張ってね」
それだけを残して、彼女は夜に溶けた。
部屋には、再び静寂が戻る。
灯りを落とし、ベッドに横になる。
天井を見つめながら、今日一日をなぞる。
入学。
講義。
出会い。
そして、選択の予感。
目を閉じると、意識がゆっくり沈んでいった。
明日は、また新しい一日だ。
学院での生活は、まだ始まったばかりなのだから。




