第2節 学院の役割
学院の中心にそびえる〈白の講堂〉は、まるで光の器だった。天井まで伸びる白磁の柱は、表面を薄く理層光が走り、中央には千人近い新入生が整然と座っている。ざわめきはあっても、どこか押し殺したような静けさがあった。
講堂の奥の壇上には学院紋章が掲げられ、円形の紋章の中央が淡く光っていた。黒瘴観測に常時接続されているため、緊急時には色が変化すると聞かされている。
今は白。
“平常”を示す色。
——平常、か。
本当にそう言い切れるのだろうか。
俺の胸の奥には、まだあの微かな声の残響がへばりついていた。
席に着くと、セシリアが小声でつついてくる。
「兄さん、難しい顔してる」
「……別に。初日だから緊張してるだけだ」
「兄さんが緊張してるって言うと嘘っぽく聞こえる」
「酷いな」
言い返しながらも、視線は自然と壇上へ向いていた。
理由は分からない。ただ、何かが始まる――そんな感覚が胸の奥に残り、落ち着かない。
ざわめきが静まったのは、学院鐘が低く、重く響いた直後だった。
講堂の扉がゆっくりと開かれる。
白い光が揺れ、その中心に一人の女性が立っていた。
この学院の学院長、第二級位神オルメイア。
人の姿を取ってはいるが、纏う空気は明らかに人のそれではない。
威圧ではない。
それでも、講堂全体がその存在を前に、息を潜める。
オルメイアの声は柔らかい。
だが、その一語一語は、講堂の隅々まで過不足なく行き渡った。
「新たな理を学ぶ者たちよ」
その呼びかけに、自然と背筋が伸びる。
命じられたわけでも、威圧されたわけでもない。
ただ、ここに立つ以上、向き合うべきだと理解させられる声音だった。
「本日より、あなたたちはこの学院で学び、選ぶ立場に立ちます」
学院が何かを与えてくれる、という言い方ではない。
学ぶことも、関わることも、進む道も――。
すべては、ここに集った者自身の選択に委ねられている。
その言葉を聞いた瞬間、俺の内側に残っていた“ざらつき”が、わずかに落ち着いた。
理層そのものを静かに撫でるような、調律された響き。
オルメイアは緩やかに視線を巡らせ、続ける。
「黒瘴は、世界の在り方を問い続ける現象です。恐れる必要はありません。ですが――知らなければ、向き合うことも、守ることもできません」
その言葉には、世界がすでに余裕を失いつつあることを知る者だけが持つ、確かな重みがあった。
オルメイアはそれ以上、何も語らなかった。
白の講堂に、静けさが落ちる。
言葉の余韻だけが、理層に染み込んでいくようだった。
「では、首席合格者による代表挨拶を——」
名が読み上げられた。
「エリィ・E・プレトリア」
俺は思わず顔を上げる。
壇上へ上がっていく少女の姿は、すでに学院の話題の中心だった。
金糸のような髪を結い、制服の襟元まできっちり整えた姿。
真っ直ぐ壇上へ向かう足取りに迷いがない。
——強いな、この人。
そう思ったのは俺だけではなかったようで、周囲の新入生たちからも小さなどよめきが起きる。エリィはオルメイアの横に立ち、胸に手を当てて礼をした後、前を向いた。
「新入生代表、エリィ・プレトリアです」
声はよく通り、緊張している様子は感じられなかった。
「私たちは今日、魔術を学ぶ者としてこの学院に集いました。世界は黒瘴によって困難を抱えていますが、魔術はただ戦うための力ではありません。人々を守り、世界を繋ぐための学問です」
堂々とした言葉だった。
内容そのものは模範的。
だが、言葉の端々に意志があった。
——本気で、守ろうとしている人の言葉だ。
最後に、エリィは穏やかな笑みで締めくくった。
「どうか皆さん、共に励み、共に進みましょう。この学院の四年間が、私たちの未来を作りますように」
拍手が広がる。
俺も自然と手を叩いていた。
エリィの言葉は、妙に心に残った。
「すごいね」
とセシリアが言う。
「ああ。強いだけじゃなく、ちゃんと“支える側”の覚悟がある」
「兄さんとは違うタイプだね」
「……まあ、そうかもな」
俺が持つ強さは、隠すべき種類のものだ。
エリィの強さは、見せるためのもの。
だからこそ、同じ場所に立っても決して交わらない。
式が進むにつれ、ざわつきは完全に消え、講堂は整然とした空気に包まれた。
だが俺の中には、式が終わろうとする頃になってもどこか微かな違和感が残っていた。
——何かが始まっている。
その確信だけが、形にならないまま胸に沈んでいた。
入学式が終わると、新入生たちは一斉に講堂を出て、指定された第一講義室へ向かうよう促された。白い廊下を歩く人波はざわざわと揺れている。緊張と期待、それから“自分がどんな学生生活を送るのか”という不安が混じった空気だ。
第一講義室は広い円形の教室で、天井にはまたしても魔導光が幾重にも走っている。
既に何人か席に着いており、エリィ・プレトリアの姿も前方に見えた。
真っ直ぐ前を向き、手帳を開いた姿勢がとても静かだ。
周囲の生徒たちは彼女を一瞥してささやく。
「首席の子だよな……」
「さっきの挨拶、すごかったな」
エリィ本人は気づいているのかいないのか、反応することなく淡々としている。
堂々としているわけでもなく、威圧的でもなく、ただ“芯がある”。
俺はなんとなく、少しだけ気になる存在だと思った。
「それでは——着席してくれ」
低く響く声とともに、一人の男性教師が教壇に上がって来た。
黒髪で、目元は鋭い。だが口元には静かな柔らかさを残している。
名を名乗るより早く、生徒たちがざわついた。
「ダナン先生だ……!」
「神威使えるって噂の……」
「それでは——着席してくれ」
低く通る声が、教室に落ちた。
ざわついていた空気が、一斉に引き締まる。椅子が擦れる音が重なり、やがて静寂が訪れた。
「私はダナン・フォーミナーだ。今日の最初の講義は課外活動であるプラクティカについて話す。……正課ではなくいきなり課外活動から話すのには理由がある。まず、学院は魔術を学ぶ場だが……それだけではない。黒瘴を観測し、その性質や原因を解析し対処法を研究するための機関でもある」
教師としては率直すぎるほどの切り出しだった。
だが、だからこそ誤魔化しがない。
俺は無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
「この中で黒瘴とは何かを説明できる者は居るか?」
短い沈黙のあと、前方の席で一人の生徒が手を挙げる。
「理層を汚染する異常現象ですよね」
教科書的な答えだった。
多くの生徒が同じ認識を持っているはずだ。
「正解だ、と言いたいところだが、最近の研究で判明した事によると、理層を汚染しているのではなく汚染された理想その物が黒瘴という事らしい」
教室に小さなどよめきが走る。
“理層の汚染”ではなく、“汚染された理想”。
似ているようで、意味はまるで違う。
「原因は未だに分かっていないが、理層が何らかの影響で歪み、正常な状態を維持できなくなる事で理層が黒瘴化する」
ダナンは淡々と語る。
分からないことは分からないと、はっきり言い切る声音だった。
「発生地点は不定だが、人口密集率が高いほど発生しにくい傾向にある様だ」
俺の脳裏に、地図が浮かぶ。
人の少ない土地から、静かに世界が壊れていく。
「黒瘴が発生した地域は、時間の経過とともに人の居住に適さなくなる。空気、地形、生態系――すべてが歪む」
その言葉は、記憶を容赦なく引きずり出した。
白い霧に沈む町。
戻れなくなった場所。
隣で、セシリアがわずかに息を呑んだのが分かった。
「そして、黒瘴から現れる存在がいる。外獣だ」
その名を聞いただけで、教室の温度が下がったように感じる。
「外獣は生き物の形を取っているが、生物ではない。外獣何なのか、なぜ黒瘴から出現し、なぜ人間を襲うのか。理由は現在も分かっていない」
分からないことだらけだ。
それでも、現実として外獣は居るのだ。
「外獣の多くは思考能力を持たず、最も近い人間を襲う。だが中には、学習し、判断し、集団行動を取る個体も確認されている」
その一言で、教室の空気がさらに重くなる。
ただの災害ではない。
変化する脅威だ。
「軍と神殿が主な対処を担っている。だが黒瘴の発生数は年々増加し、それに伴い外獣の出現も増えている。この中にも黒瘴によって移住を余儀なくされた者も居るだろう。」
数人の表情が、はっきりと曇った。
他人事ではない。
「増加傾向にある黒瘴や外獣に軍や神殿は日々対応に追われ、率直に人手が足りていないのが現状だ」
率直に、とダナンは言った。
だからこそ、その言葉は重い。
「軍や神殿だけでは手が回らないこの現状で、学院もただの教育機関であり続ける事が難しくなってきている」
ここで、ようやく話が繋がる。
学院が、なぜ“現場”と無縁ではいられないのか。
「そこで学院はプラクティカという制度を作った。プラクティカとは課外活動の総称だ。黒瘴観測の補助、魔獣の追跡、小規模な外獣発生地点への討伐任務など……軍が動くほどではないが、放置すべきでない事案の対応を学院が依頼と言う形で生徒に要請する」
教室内がざわめく。
噂で聞いていた内容が、はっきりと言葉にされたからだ。
「もちろん、生徒に過度に危険な任務を任せることはない。加入は強制ではないが多くの学院生が加入し、力を磨いている。選ぶも、選ばないも自由だ。ただし、加入するなら覚悟を持って臨むように」
その一言で、軽い興味は消えた。
これは遊びではない。
「プラクティカの加入申請は一ヶ月後だが、その前に十分な授業を受けてもらう。焦る必要はない。今日は制度の説明だけだ。」
少しだけ、空気が緩む。
「……とはいえ、このまま解散というのも味気ない。講義に入るわけじゃないが、今後学院で学ぶ魔術についてどのような物を学ぶのか軽く見せようと思う」
ダナンは教壇の端に置かれた符機へと手を伸ばした。
「今日実演する術式は実戦では使えないが、こういう術式の使い方もあると言う応用術式を見せる」
理層が、静かに軋む気配がした。
「学院の課程でも、すぐに扱う類のものじゃない。高等課程の後半で触れる術式だ」
天井付近の照明が、わずかに落とされる。
「これは上級術式のルーンライトと下級術式のブラードを組み合わせた、私のオリジナルで《パル・ステラートゥム》という術式だ」
次の瞬間、無数の光が空間に咲いた。夜空を切り取ったような、人工の星々。術式によって構築されたはずの光景は、あまりにも自然で、一瞬、ここが教室であることすら忘れさせる程だった。
「複数の術式を同時展開する多層術式展開は難しい。今の君たちが同じことをすれば、演算負荷と制御の両方で、まず破綻するだろう」
俺は黙って、その光景を見つめていた。
「だが実戦ではもっと高度な術式を状況に合わせて瞬時に発動させなければならない」
理想は、遥か高い。
「そこで、四年後にこの術式でテストを行う。テストに合格しなくても卒業は出来るが、実戦関連への進路はあきらめた方が実の為だと忠告しておく」
星空は静かに消え、教室に現実が戻ってきた。
ダナンの言葉が終わると同時に、教室に浮かんでいた星々は一つ、また一つと静かに消えていった。
人工の夜空が剥がれ落ちるように、光は収束し、やがて何事もなかったかのように白い天井が戻る。
誰もすぐには声を出さなかった。
ざわめきが戻るまで、ほんの数秒の空白があった。
長いようで短い沈黙が流れる。
だが、不思議と嫌なものではなかった。
俺は、無意識のうちに握っていた手を開く。
掌には、うっすらと汗が滲んでいた。
(四年後、か……)
長いようで、短い時間だ。
あの星空に、手が届くのかどうか。
届かせる気があるかどうか。
隣を見ると、セシリアがこちらに視線を向けていた。
言葉はない。ただ、いつもの落ち着いた眼差しで、俺を見ている。
大丈夫、と言われている気がした。
あるいは、逃げるな、と。
前方では、数人の生徒が小声で言葉を交わし始めている。
難しそうだ、無理だろう、面白そうだ――反応は様々だった。
ダナンはそれらを制することもなく、教壇から一歩下がった。
「今日はここまでだ」
その一言で、張り詰めていた空気がようやくほどける。
「次からは、きちんと基礎からやる。自分がどこに立っているのか、嫌でも分かるようになるだろう」
そう言って、ダナンは符を片付ける。
それ以上、何かを付け加えることはなかった。
鐘の音が鳴り、講義の終了を告げる。
椅子が軋み、息が吐かれ、教室は再び“学院の日常”へと戻っていった。
だが、俺の中には、さっきまで見上げていた星空が、まだ消えずに残っている。
(……やっぱり、ここに来て正解だった)
理由はまだ、はっきりとは言葉にできない。
けれど、この場所でなら――。
この世界がどこへ向かおうとしているのかを、見極められる気がした。
俺は立ち上がり、セシリアと並んで教室を後にする。
この学院の先には、まだ見ぬ未来が広がっている。
プラクティカも、外の世界も、黒瘴も。
そして、選ばなければならない瞬間も。
そのすべてが、これから始まるのだ。




