【第30話】「黒焔鬼の誕生」
カラーポルトの上空には、まだ薄く黒焔の残滓が漂っていた。
しかし、街を包んでいた地獄の炎はすでに浄化され、海風に押されて煙が散っていく。
人々が歓声を上げ、勝利を確信する中――
ヴィーノ・アッシュヤードは、静かに瞼を閉じていた。
(……よくやってくれた。セファ……本当に、よく……)
地に伏した身体の痛みより、胸の奥に残る重い影の方が苦しかった。
視界がゆっくり暗くなっていく。その闇の中で、ひとつの記憶が――再び蘇り始めた。
☆ ☆ ☆
自営権を勝ち取り、カラーポルトはかつてないほど活気づいていた。
リヴェラ・ウンディーネ。
水の加護を持つ、凛とした槍使いの女性。
彼女は正式にギルド支部長となり、ダリオンと共に小さな家庭を築いていた。
生まれたばかりの娘――セファは、ギルドのみんなにとって小さな宝石のような存在だった。
まだ握りこぶしほどの手をぎゅっと丸めて、小さな寝息を立てている。
「ヴィーノ、セファよ。ほら……ちょっと抱いてみる?」
リヴェラが優しく微笑みながら差し出すと、ヴィーノはまるで剣を受け取るときより慎重な面持ちで、両手を前に出した。
「……その、壊してしまいそうで怖いのだが」
「大丈夫よ。あなたもいつか、立派なパパになるわ」
「パ、パパ……?」
ぎこちなく腕の中に収めた瞬間、ヴィーノの全身から力が抜ける。
おそるおそる覗き込むその姿を見て、リヴェラはくすりと笑った。
「不思議よね。こんなに小さいのに、ちゃんと息をしてる。私、この子のためなら――なんでもできる気がする。何があっても、この子は守ってみせるわ」
その言葉には、母としての揺るぎない意志があった。
「……俺もだ」
思わぬ言葉に、リヴェラは目を瞬かせる。
ヴィーノは照れを隠すように顔をそらしながらも、腕の中の命をそっと抱き直し、
ほんの少しだけ、優しい笑みをこぼした。
「ギルドは“家族”なのだろう?なら……俺にとっても、この子は家族だ。リヴェラ、ダリオン……そしてこの子。必ず守ってみせる」
その声音は、不器用ながらも真剣だった。
「……ありがとう、ヴィーノ」
リヴェラは静かに微笑んだ。
その瞳は、かつてヴィーノが憧れを抱いた“王”と同じ――
人を照らす温かな光を湛えていた。
――だが。
その頃から、アッシュヤード家の「影」がカラーポルトに忍び寄っていた。
ギルドの改革は、王族の保守派にとっては目障りな存在だった。
特にアッシュヤード家は、ギルドの自立を“支配体制への反逆”と捉えていた。
やがてカラーポルトを管理していた貴族家は、アッシュヤード家に土地を奪われ――
実権はヴィーノの父、ヴォイドが握ることになる。
「……ヴィーノ様。お探ししておりました」
黒衣の刺客が、ある夜、彼の前に跪いた。
「身分を偽り、ギルドに潜り込んでいるとは……ご立派な裏切り行為ですね」
「……何の用だ」
「命令です。支部長リヴェラ・ウンディーネ。副長ダリオン・グレイス。あの二人を“処分”しなさい」
凍りついた。
「ふざけるな! 彼らは仲間だ!! そんなこと、できるわけが……!」
「拒否するなら簡単なことです。ギルド員、彼らの家族――全員を殺すだけ」
刺客は淡々と言い放った。
「バカな、そんなこと、できるわけが……!!」
「どうやらあなたはご自身の生まれた家をわかっていないようですね。アッシュヤード家はこの国の影。もっとも残酷で、もっとも荒らしい一族。滅ぼされた一族は、両手では数えきれません」
ヴィーノは息を呑む。
「あなたの判断ひとつで、この街は滅びますよ?」
胸が締めつけられる。
頭が真っ白になった。
(どうすれば……どうすればいい……?)
☆ ☆ ☆
しばらく迷った末、ヴィーノはリヴェラの家へ向かった。
家の窓から見える光景――
ダリオンに抱かれて眠るセファ。
彼女に優しい声で歌うリヴェラ。
その幸福は、あまりにも眩しくて。
(……無理だ。俺には……できない……!)
逃げるように背を向け、路地へ消えた。
だが、胸がざわついて仕方がなかった。
「……何か、嫌な予感がする」
戻らなければならない――そう思った。
息を切らし、家へ戻ったその時。
「リヴェラ!! ダリオン!!」
開け放たれた扉。
血に塗れた床。
倒れ込む二人。
「……ヴィ、ーノ……?」
リヴェラの声はかすれていた。
ダリオンはすでに動かない。
「なんで……どうして……!」
「わからない……けど……あなたが来たなら……よかった……」
リヴェラは震える手で、小さな揺り籠を指さした。
「……セファを……お願い……」
ヴィーノの瞳に涙が溢れた。
「私は……あなたを……ずっと信じている……」
その言葉を最後に、リヴェラの身体から力が抜けた。
「――ああああああああぁぁぁぁ!!」
胸の奥が破裂しそうだった。
怒りと悲しみと絶望が、渦を巻く。
その瞬間――
ヴィーノの加護《白焔》は、変質した。
白い炎は、墨のような漆黒へと変わり――
心に巣食った闇に呼応するように、形を歪めていく。
「……殺す。全員……!」
黒焔鬼はこの瞬間、生まれた。
刺客たちは叫ぶ間もなく焼かれた。
光も、影も呑み込む黒い炎は、全てを灼き尽くした。
しかしその姿を見た幼いセファは――
怯えて泣き叫んだ。
ヴィーノは我に返った。
(違う……違うんだ……! 俺はただ、守りたかっただけなんだ……!)
黒焔に焼かれぬよう、彼はセファを抱き上げ、ルネの元へ届けた。
「ヴィーノ!? 一体、何が……!!」
「頼む……この子を……」
そう言い残したあと――気を失った。
☆ ☆ ☆
目覚めた場所は、アッシュヤード家の屋敷だった。
「やはりお前がやったのだな。あの愚かな支部長と、その夫を」
ヴォイドは勝手にそう決めつけて嘲笑った。
否定しても、聞く耳などない。
むしろ――そう思わせておいた方が良かった。
(セファを守るためなら……何でもする)
その日から、ヴィーノは“黒焔鬼”として生きることを決めた。
アッシュヤード家に従うふりをし、ヴォイドの命令で、歴代のギルド支部長を闇に葬った。
ギルドが反乱の芽を育てないようにするため。
(本当は……誰も殺したくなどなかった……)
罪悪感が、胸を焼いた。
しかし、背負うしかなかった。
だが――セファが支部長に就任した時。
すべてが狂った。
「セファを……殺せ、だと?」
そんなこと、できるわけがない。
ヴィーノは、アッシュヤード家に反旗を翻すため、密かに“ある計画”を立て始めた。
(セファを守るためなら……俺の命などどうでもいい)
――それが、あの“黒焔の夜”へと繋がっていく。
☆ ☆ ☆
ヴィーノの意識は、ゆっくりと現在へ戻っていく。
目の前には、グラン・マリヌスの槍を構え、彼をまっすぐ見据える少女、セファ。
「……リヴェラ、ダリオン。すまなかった……だが、ようやく終わりだ……」
なぜか、不思議と心が軽かった。
ヴィーノは、静かに微笑んだ。
「……セファ。お前は……自分の道を進め……自由に……」
そのまま、黒焔鬼は静かに倒れ落ちた。
燃え盛る夜は――終わりを告げた。




