【第8話】「炎、夜を裂く」
ギルドの一日がようやく終わりに近づいた頃。
支部の事務スペースで書類をまとめていたベルノーが、椅子から立ち上がる。
退勤準備中のその背中に、知久は声をかけた。
「やあ、ベルノー」
まるで嫌な上司に声をかけられた新卒のように、露骨に顔をしかめる。
「……なんですかい、補佐官殿。もう日が暮れてるんですけど」
「そんな嫌そうな顔をするなって。ちょっと聞きたいことがあるんだよ」
「はぁ……」
ベルノーはわずかに眉を動かした。
だが、明らかに“これ以上は関わりたくない”という空気が全身からにじみ出ている。
「一体なんでしょう。あっしも忙しんですがね」
「すぐ済むって。ベルノーはこのギルドに勤めて長いのか?」
ベルノーはふぅ、とわざとらしく長いため息をついたあと、壁に掛けた上着に手を伸ばしながら答える。
「……はぁ、まぁ。十年と少しといったところですかねぇ」
「それじゃあ、セファのご両親のことは知ってる?」
「……リヴェラさんとダリオンさんのことですかい。あっしは短い付き合いでしたが、まぁ、立派な方だったんじゃないですかねぇ」
言葉の節々に皮肉が混じるわけでもない。
けれど、それ以上語ろうとしない姿勢が見て取れた。
ベルノーの目は机の上の書類のほうに落ち、早く帰りたいと言わんばかりだった。
「二人はヴィーノ総督とも仲が良かったって聞いたけど」
「しっ!!」
ベルノーはキョロキョロと周りを見渡す。
「その名前はここでは禁句でさぁ。特にルネさんが露骨に不機嫌になるんでね」
「……裏切り者って言われたけど、一体どうして?」
「あの方は昔、身分を隠してギルドに所属していたんでさぁ。当時はまだ総督府がギルドの仕事を管理してたんですが、嬢ちゃんの両親たちと一緒に、総督府を相手取ってギルドの賃金やら労働環境やらを改善したとか」
「それって……働き方改革だ……」
今から10年ほど前に、自分と同じように動いていた人たちがいたことに、知久は驚きを隠せなかった。
しかもそれがセファの両親やヴィーノ総督だというのだから、なおさらだ。
「ですが、嬢ちゃんの両親が亡くなった後、いきなり彼はこの街の総督につきやした。そりゃ、ギルドの連中は裏切り者だと思うでしょうよ。ルネさんは特に彼らと親しかったようですし、なおさらね」
「……なるほどな」
「で、もう結構ですかい? 日が暮れちまいますんでね」
「待って。最後にもうひとつだけ」
知久は一歩踏み込んだ。
「”黒焔鬼”って、何かわかる?」
びくん!と肩が跳ねる。
あまりにわかりやすい反応だった。
「さ、さぁ。あっしにはなんのことだか……」
誤魔化そうとしたベルノーの腕を、知久はそっと掴む。
「知ってることがあるのなら、教えてくれ。頼むよ」
「た、ただの噂話ですよ。この街には、黒い炎を操る怪物がいるって……」
「セファが、その怪物と何か関わりあるのか?」
あの子が黒焔鬼についての話を聞いた時の様子は尋常なものではなかった。
しばらくの沈黙。
ベルノーは、あきらめたように息を吐いた。
「言っておきますが、噂ですよ? あくまで噂なんですがね……」
知久は無言でうなずく。
「……あのお嬢ちゃんの両親を含めて、ギルドの支部長になった方が全員死んでいるのはご存じでしょう?」
「あ、ああ。……まさか、それをやったのが……?」
ベルノ―は何も言わない。
だが、その表情が全てを物語っていた。
夕暮れのギルドに、冷えた風が吹き込んだ。
知久の背筋にも、ぞくりとした寒気が走る。
☆ ☆ ☆
ギルド支部の夜は、ひどく静かだった。
セファの部屋には、小さなランプが一つ灯っているだけ。
窓からは、港町の夜風がかすかに入り、帆船の音が遠くで揺れていた。
セファは机に向かっていた。
今日の業務反省をまとめようとして——手が止まっている。
(……私、また……ちゃんとできなかった)
ヴィーノの言葉が、まだ胸の奥に残っていた。
『まだ君には早い』
その一言がぐさりと刺さって、抜けない。
深々とため息をついた、その時だった。
——ドォンッ!!
外から地鳴りのような轟音が響いた。
窓ガラスが震え、机の上のペンが転がる。
「っ!?」
続いて、走り回る足音と怒号。
「火事だ!! 倉庫街が燃えてる!!」
セファは跳ねるように立ち上がる。
扉が乱暴に開く音。
「セファ!」
息を切らせて飛び込んできたのは、知久だった。
顔に焦りが浮かんでいる。
「火事だ! すぐ向かわないと!」
「っ……はい!」
返事は早かった。
迷いはあったはずなのに、身体が自然と動いた。
槍を手に取り、二人は駆け出した。
◇ ◇ ◇
倉庫街は、夜空を黒く染めていた。
赤でも橙でもない。
まるで闇を煮え立たせたような、漆黒の炎が倉庫を飲み込んでいる。
「な、なんだこの火……!?」
「熱いのに……寒気がする……」
近くで消火にあたっていた冒険者が突然叫び声をあげ、地面に倒れ込んだ。
「見たんだよ……笑ってた……燃えてるのに……アイツは……!」
別の者は、めまいに耐えきれず壁に手をついて嘔吐する。
炎に焼かれているわけじゃない。
”精神が削られている”。
「あれは……あいつは、《黒焔鬼》だ!! 絶対にそうだ!!」
誰もが想像していた名前を口に出されて凍り付く。
皆が立ち尽くして動けない中、知久は即座に加護を発動し、自販機を目の前に出現させた。
「《ライフイズエナジー》、起動ー─《アースウェイカー》!」
オレンジ色の缶を開けて素早く飲み干すと、そのまま拳を地面に向かって突き立てる。地面が唸りをあげて持ち上がり、土の壁が黒焔の進行を遮断する。
「うお、土魔法か!?」
「すげぇ! 火の勢いを止めたぞ!」
「あんまり長くはもたないぞ! 今のうちに住民を避難させるんだ!」
叫ぶ知久の背で、炎の熱と異質さが汗に混じって滴る。
一方、セファは一歩、また一歩と火の近くまで歩いていた──いや、引き寄せられるように立っていた。
「……こんなの、ただの火じゃない……こんなはずじゃ……」
視界が揺れた。呼吸がうまくできない。
思い出す。
あの夜。真っ黒な炎。
父の声。母の腕。
そして、炎を操る怪物。
泣き叫ぶ自分。
(やめて……いやだ……思い出したくない……!)
「セファ! 危ない! 下がるんだ!」
知久の声が、張り詰めた糸を切る。
「っ……!」
彼の声が、自分を現実に引き戻す。
セファは目をぎゅっと閉じ、小さく頷くと後退した。
その後、火災はなんとか鎮圧された。
だがその夜、ギルド内では数人の冒険者が幻覚症状を訴え、仮眠室で休ませられることになった。
知久は、ふと黒焔の残滓が残る地面を見つめながらつぶやく。
地面には、黒い灰の跡だけが残っていた。
「なんなんだ、あの火は……どう見ても普通じゃないぞ」
セファは一言も発せず、黙って俯いていた。
その瞳に、悔しさと恐怖、そして深い無力感が宿っていた。




