【第25話】「それでも、前に進む」
「──これが、今後ホワイティア支部で実施する改革の方針だ」
朝のギルドホールに、知久の声が響いた。
支部長代理として、正式に改革案を全メンバーに伝える時が来たのだ。
「給料体系を見直し、基本給を上げる。天引きされていた分も返還する。装備や道具は支給制にする。負傷者には治療支援と、一定期間の補償制度も用意する」
ざわ……と場の空気が揺れる。
「もちろん、戦える人が増えないと意味がない。そこで、外部から講師を招いて、訓練制度も取り入れる予定だ」
最初は信じられないという顔だったメンバーたちが、次第に顔を上げ、さざめきの色が広がっていく。
「質問や意見、異論がある人はいつでも言ってくれ。これは俺ひとりの改革じゃない。ギルド全員で前に進むための、第一歩だから」
その言葉に、一人の若い冒険者が手を挙げた。
「……本当に、信じていいんですか? 今までみたいに、裏切られたりしないんですか?」
知久はまっすぐにその目を見る。
「信じろとは言わない。でも、俺は嘘をつかない。それだけは約束する」
……数秒の沈黙ののち──
「……よっしゃ! 支部長代理、期待してますぜ!」
「前より断然いい装備支給してくれよー!」
「道具も新品を頼むぜー!」
「お給料、ちゃんとくださいねー!」
ギルドに、少しずつ笑顔が戻っていく。
それから数日後。
知久は支部長室で、机いっぱいに書類を広げていた。
「村からの依頼……これは収穫支援の人手不足か。こっちは中央ギルドからの報告書……納品ミスか……。あ、こっちは商会との装備発注書か……そうだ、外部講師の給料と滞在費も帳簿に書かないと……」
ペンを走らせながら、休む間もなく書類を処理していく。
時折、扉がノックされては、村人やギルドメンバーが感謝や相談をしに来る。
「支部長! ロビーの椅子が壊れてるんだけど直してくれねぇかな?」
「わかった! 大工さんを呼んでくる!」
「あのー支部長さん。魔法薬の在庫がないんですけど」
「それなら倉庫にまだあったはずだ! 取ってくる!」
「支部長さん。うちの猫がいなくなっちまったんだ。探してくれねぇか?」
「まかせろ!」
昼間は知久はギルドメンバーや村の人たちからの相談はどんな小さなことでも聞き、あっちこっちを走り回っていた。
夜中は溜まった書類を片付けるため、朝まで仕事をしている。
その様子を、仲間たちがうかがっていた。
「なぁ。大将のやつ、寝てねえんじゃね?」
「さすがに働きすぎだと思います……」
ミロリーたちは毎日訓練をし、依頼を積極的にこなしている。
知久がそれを望んだからだ。
「ちょっとは人に頼ればいいのに。……って、言うだけ無駄か。……あのバカ」
☆ ☆ ☆
夜。支部長室には明かりが灯り、知久が山のような書類と格闘していた。
机の上には、《レッドバイソン》《ブルーライトニング》《クリアソーダ》……空になった缶がいくつも転がり、冷えた空気の中で微かに乾いた音を立てていた。
「もうちょい……あと、これだけ終われば……」
鉛のように重たいまぶたを必死に持ち上げながら、知久はペンを走らせる。
手は震え、思考も鈍ってきている。それでも止まれなかった。
そのとき、
コツ、コツ、と控えめな足音が廊下に響き、扉がノックされた。
「……どうぞ」
知久はそちらを見ずに答える。
こんな時間に来るのは一人しかいない。
扉が静かに開き、エナが入ってきた。
手には湯気の立つカップ。肩の上で揺れる髪が、淡くランプの光を反射している。
「……まだ起きていると思いました。コーヒーです」
「……ありがとうございます」
受け取った瞬間、ほっとした香りが鼻をくすぐる。
知久は自然と目を細め、深く息を吸い込んだ。
「懐かしい香りだ……。こっちでも、コーヒーの匂いは変わらないんだな」
一口、ゆっくりと口に含む。
「……うまい。エナさん、コーヒーを淹れるの上手いですね。お好きなんですか?」
「私、もともとはコーヒー、飲めなかったんですよ」
「え?」
思わず手が止まった。
「前の職場で、大きなミスをしてしまって。遅くまで一人で残っていたときに、先輩が気づいて缶コーヒーを差し入れてくれて……なぜか、それがとても美味しく感じたんです。それからですね、好きになったのは」
エナの表情はどこか懐かしげで、柔らかかった。
こんなふうに彼女が自分のことを話すのは、初めてだった。
「……へえ、素敵な話だね」
知久は笑いながらそう言った。だが次の瞬間、ふっと胸の奥が騒ぐ。
──え?
頭の中に、ある記憶がよみがえる。
夜のオフィス。疲れきった後輩。
無言で差し出した、1本の缶コーヒー。
そのとき、何かを言いたげに、けれど嬉しそうに受け取った彼女の横顔。
「……あれは……まさか……」
知久は目を見開いたが、エナは何も言わず、静かに彼の隣に立ったまま、そっと机上の書類の一枚に手を伸ばした。
ランプの光の下、沈黙がふたりの間を満たす。
けれどその静けさは、どこか心地よく、穏やかだった。
その時。
──バンッ!
支部長室の扉が勢いよく開いた。
「支部長代理、大変ですッ!!」
慌てた様子のギルド員が、息を切らして飛び込んでくる。
「モンスターです! 大群です! ホワイティアの南側に迫っています!!」
空気が凍りつく。
知久は、湯気の立つコーヒーを見つめたまま、ゆっくり立ち上がった。
「みんなを、集めてください」
戦いの準備を、始めるときだった──。




