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【プロローグ】その働き方に、未来はなかった

「……お疲れさまでした。先輩、今日も残業ですか?」


「うん、まあ……終わらなくてな」


 深夜2時。


 空調の音がわずかに響くフロアに、タイピングの音はもう鳴っていない。

 蛍光灯の冷たい光の下、広すぎるオフィスに残っているのは、たった二人。ひとりはスーツ姿の男、四谷知久よつやともひさ、25歳。社畜歴4年目のプログラマー。そして、彼を心配そうに見つめる後輩、紫藤しどう


「また仕様変更ですか? これで何度目です?」


「えっと、5回目かな。納期は据え置き。“こっちのほうが映える気がするんです”だってよ。はは……」


 乾いた笑いとともに、自虐が混じる。


「そんなの、断ってしまえばいいんじゃないですか?」


「そうしたいとこなんだけど、これ……部長が取ってきた仕事なんだよな」


「ああ……よりによって、あの人」


 紫藤が、ため息混じりに天を仰いだ。


「あの人、技術者が“無理”って言っても、全然聞いてくれませんもんね。『気合いで乗り切れ』とか……それで死ぬ人が出るっての」


 知久は一瞬、視線を遠くへ投げる。

 ふと、思い出す。

 この後輩も、かつては似たような目に遭っていた。

 新人の頃。泣きながらコードを書いて、何度も修正指示に押し潰されそうになっていたあの夜。自分がそばにいなければ、本当に壊れていたかもしれない。


「……ああ。クライアント様のご意向が絶対、らしいからな。現場のことなんて何も知らないくせに」


「まったくですよ……それで、ええと。今日だけで何本目です?」


 紫藤の視線が、知久のデスクに並ぶエナジードリンクの空き缶に向かう。

 机の隅、空の缶がずらりと並び、まるで戦場の墓標のようだった。


「……十何本? 数えてねぇけど。これがないと、もう動けない体なんだよ」


「いやいやいや、それ動いてるようで死にかけてますって……!」


「言うなって。俺が死んだらこれのせいってことで」


「笑えませんよ!? 飲みすぎはほんと、体に毒ですからね!?」


「……毒でもなきゃ、やってらんねーんだよ」


 知久は缶を指で軽く弾く。

 カラン、と虚しく転がった。

 そんな働き方、おかしいって本当は分かってた。

 でも、止まれなかった。止まった瞬間、全てが壊れてしまう気がして。


「……先輩って、いつからこの会社に?」


「中途で入ったから……4年目かな」


「ずっとこんな感じだったんですか?」


「まさか。でもな……気づいたら、“できる奴”扱いになってたんだよ。徹夜で乗り切って、無茶振り全部こなして、“なんとかなった”せいでな」


 知久の笑みは、どこか壊れかけのネオンのように儚い。


「……先輩。転職とか考えないんですか? この会社、給料も安いし、休みは少ないし……正直、先がないですよ?」


「今は、そんなこと考える余裕すらないかな……仕事が一段落つけば、もしかしたら。でも……どうせまた次の地獄が待ってる」


 その目には光がない。

 それでも、誰かに“ありがとう”と言われたくて、期待されたい自分がどこかに残っていた。


「ありがとな。気にかけてくれて。でも、もう慣れた。……こういうのが、俺の“普通”なんだよ」


 そう言って、知久はモニターに向き直る。

 カタカタとキーボードを叩き始めた、その瞬間──


──ギリッ。


 胸の奥で、奇妙な音がした。


「……ッ……?」


 視界がぐにゃりと歪む。

 天井がぐるぐると回り、椅子の感覚が遠ざかっていく。

 耳鳴り。眩暈。呼吸が合わない。


 どこかで、紫藤の声が響いた。


「先輩!? ……ちょ、誰か──!」


 声を返せなかった。

 目の前の世界が遠ざかっていく。

 エナジードリンクの缶が、倒れた。

 知久はそのまま、意識を、手放した。


 …。


 ………。


──眩しい。


 意識がふわりと浮かぶような感覚とともに、まぶしい光に包まれた。

 目を開けると、そこは──白一色の世界だった。


 空も地面もない。ただ、光だけが漂っている。

 上も下もわからない。不安定な浮遊感。

 だが、頭は妙に冴えていた。夢とは違う、どこか現実味のある感覚。


 そのとき─


「目覚めましたね。ようこそ、異界の狭間へ」


 上から、声が降ってきた。

 振り返ると、そこに立っていたのは、一人の女性。

 白銀の髪を風もない空間でたなびかせ、透き通るようなローブに包まれた、神秘的な存在。


 その顔立ちは、整いすぎていて現実味がなかった。

 人形のような完璧な造形に、深くも冷たい、感情の読めない瞳。

 “神”という言葉が自然と脳裏をよぎる。


「……え、誰? 天使? いや、女神……? てか、ここはどこ!? 俺、仕事してたはず……今何時だ!? やばいっ、納期が──!!」


 焦って手元を探るが、スマホもパソコンもない。

 デスクも、キーボードも、もうどこにもなかった。


「大丈夫ですよ。もう何も心配することはありません。あなたは、もう会社に戻ることはできないのですから」


 静かに、しかしどこか愉しげな笑みを浮かべるその“女神様”。


──あの残業続きの毎日。

──机に積まれた空き缶。

──最後に聞こえたのは、心臓の音だった。


 そして、ここにいる。


「……え。ひょっとして……俺、死んだ?」


「はい、正確には“過労およびエナジードリンク過剰摂取による心不全”ですね。ご愁傷さまです」


「マジで死んでたあああああ!? しかも死因がブラックすぎるううううう!!」


「現代日本では、よくあることです。統計的にも、あなたは特別ではありません」


「そんな冷静に言われても、ちっとも救われねぇ!」


 頭を抱えて叫ぶ俺を、女神はどこか慈悲深く、それでいて面白がるような目で見ていた。


「ですが──あなたには、選ばれる資格がありました」


 ふわりと、女神が片手を上げる。

 指先から、淡い金色の光が舞い落ちる。

 それは雪のように降り注ぎ、俺の体にじんわりと染み込んでいく感覚を残した。


「“働き詰めの戦士”たるあなたには、《ライフイズエナジー》の加護を授けましょう」


「……え? 加護? なにそれ。てか、俺、死んでまで働かされるの? 転職ってこと?」


「ご安心ください。あなたが働くのは、もはや元の世界ではありません。

これからあなたが向かうのは、魔法の存在する──異世界です」


「い、異世界……つまり」


 ラノベやアニメで何度も見た、“あのパターン”だ。

 まさか、自分がその主人公になるなんて。


「あなたには、“変わるきっかけ”が必要です」


 その言葉に、胸がチクリと痛んだ。


「……変わる? 俺が? 一体、どう変わればいいんだよ……」


 けれど、女神はその問いには答えなかった。


「これは、報酬であり、罰でもあります。そして──新たなチャンスです」


「チャンス……?」


「はい。あなたが身を削って積み重ねた努力と犠牲。

その“意味”を、今度は違う形で活かすことができるのです」


「いや、でも俺、戦うとか無理だし……。運動なんて、最後にしたのは高校の体育の授業だぞ?」


「ご安心ください。《ライフイズエナジー》は、あなたの“習慣”に応じて形を変える加護です」


「……習慣って、まさか……」


「ええ。エナジードリンク、ですね。あなたの命を支えてきたその飲料が──今度は、あなたを守る武器となるでしょう」


「うわああああ……そんな魔法みたいなことあるかよ……!」


「ありますよ。これは“魔法”ですから」


 あっさり返された。

 でも──不思議と、笑えてきた。

 死んで、異世界に転生して、加護がエナドリ……。

 どこまでもバカバカしい。でも、少しだけ──胸が軽くなっていた。


 女神は静かに微笑む。


「新たな世界において、あなたがどう生き直すか──それは、あなた自身にお任せします」


「俺に……選べってこと?」


「そうです。今度こそ、“働く”ということを、自分の意志で定義し直してください」


 そう言って、女神は指先でそっと、俺の額に触れた。

 その瞬間、視界がぐにゃりと捻じれる。


 光が渦を巻き、空間が反転する。


 意識が、流されていく。


──でも、最後に。


 耳に届いたのは、優しい声だった。


「ようこそ、異世界へ──四谷知久よつやともひささん」

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