⒉ 昨日天使に会ったんだ
ヴィートに婚約を破棄して欲しいと言われたルーシェは戸惑って問い返した。
「え…と、ヴィート?婚約って…あー、その…あなた今自分が何歳か知っている?」
「15歳だ」
「そうね。私も15だわ」
ルーシェの言葉にヴィートは頷く。
「え…と、だからね。婚約は16歳にならないと出来ないのよ。つまり私とあなたは婚約していないの。婚約していないのだから破棄も出来ないの。…わかる?」
もっともな事だとヴィートは頷く。「でも…」
続いたヴィートの言葉にルーシェは眉間に皺を寄せるしかない。
「婚約していないわけだから解消とは言わないだろう?だったら破棄以外になんて言えば良いんだ?」
「……………なるほど?」
つまりヴィートは適当な言葉が思い当たらずに聞き齧った言葉を使っているのだろう。
そう判断したルーシェはヴィートの言いたいことに当たりをつけた。
「えーと、死んだうちのお祖父ちゃんとヴィートのお祖父ちゃんが、昔孫同士を結婚させようと約束したらしいけれど、うちの家族は気にしなくていいと言っているし、本当に婚約しているわけじゃないんだよ」
「それは分かっている」
「………だったら良かった」
突然してもいない婚約を破棄したいと言い出した幼馴染を心配したけれど、根本的な勘違いをしているわけではないことを確認してルーシェを胸を撫で下ろした。
「それで…?」
とはいえ。一体どうして突然そんなことを言い出したのだろう。
ルーシェは意思疎通が可能だと確認したところで続きを促した。
「結婚したい子が出来たんだ」
「まあ!」
はにかみながらそう言ったヴィートに、ルーシェは歓声を上げた。
「え?誰?エンマ?サーラ?それともアンナ?」
「違う!そんなわけないだろう。彼女をそんな奴らと一緒にするな」
嫌そうに顔を顰めたヴィートに「そんな奴らって…」とルーシェはむっとした。
けれども確かに幼い頃から見知った彼女たちと唐突に結婚したくなるというのは変か。
一応はそう納得すると、だとしたら、と頭を捻る。
「…じゃあ。……まさか…ミア…じゃないわよね」
「当たり前だろう!」
ミアは最近町に引っ越してきた一家の一人娘なのだけれど、まだ6歳の少女だ。
流石にそんな幼い子供が相手と本気で思ったわけではなかったけれど、他に思いつく相手がいない。
となると、収穫祭のために遠くから来ている人だろうか?そうルーシェが考えていると、ヴィートが頬を染めて口を開く。
「彼女は…天使なんだ」
恍惚とした表情でそう告げたヴィートにルーシェは思考を止めた。
笑みを我慢しきれずに口元緩め、うっとりとした表情をしている幼馴染など、ルーシェは初めて見た。
結婚したい相手が出来たというのが紛れもなく本当の事なのだと見ただけで理解できる表情である。
けれども天使というのはどういう事だろうか。ルーシェは戸惑った視線をヴィートに向けた。
そんなルーシェの様子に、どうやら話を聞いてくれるようだと判断したヴィートは話し始めた。
「俺は昨日天使に会ったんだ」
「昨日…天使に…」
ルーシェが繰り返した言葉にヴィートは頷く。
「あんなに可愛い子、今まで見た事がない」
最初は照れくさそうにしていたヴィートであったけれど、どうやらその天使について話せる相手を求めていたらしく、そこからどんどん彼女への賛辞が出てくる。
「金の髪が陽に当たってキラキラしていて、まるで天使だと思ったんだ」
「金の髪…」
金の髪の少女とは誰だろうかと町の何人かと思い浮かべ、けれどもヴィートが初めて会う相手なのだから、やはり町の人ではないのだろうとルーシェは思い浮かべた人の顔を頭から消し去る。
「純粋そうな瞳がとても愛らしくて、今でも忘れられない。
可愛らしいというのは彼女の為の言葉なのだと思った。
この世にあんなに心を掴む存在があるだなんて俺は知らなかった。
女の子というのは、可愛いものなのだと初めて知った。
俺は彼女のために生まれたのだと思う。
あの指先の美しさと言ったら夢を見ているのではないかと思うくらいだ。
彼女に会えた昨日、俺の運命は決まったんだ」
「……………そう」
幼馴染にここまで想う相手が出来たのならこれは喜ぶべきことだろう。
そう考えてから。もしかしたらヴィートがこんなに言う相手とは、ルーシェが昨日会った人なのではないだろうか。と思いついた。
とても美しい人だったし、髪の色は金色だった。可愛らしい…という感じではなかったとは思うけれど、もしかしたら男性であるヴィートから見たら可愛らしいと思えるのかもしれない。
療養に来ているのだと言っていたけれど、ヴィートと会う機会があったのだろうか。
ヴィートとの接点。と考えて、ルーシェは問いを口にする。
「…ヴィートは昨日代官邸でその人に会ったの?」
「そうなんだ!」
兵士見習いであるヴィートは代官邸に併設されている訓練場で兵士の訓練をしている。
だから会ったのならばそこでだろうかと当たりをつけたルーシェにヴィートは頷いて返した。
やっぱりあの人か。
しかしいつの間に知り合って、いつの間に結婚の約束なんてしたのだろう。
不思議には思ったものの。大事な幼馴染が結婚したい相手を見つけたのだからお祝いしてやろう。
そう思ったルーシェはヴィートが語る彼女への賛辞に耳を傾けた。
…のだが………。
とめどなく話し続ける幼馴染の言葉はどんどん耳から滑り落ちていってしまい、ルーシェは頷きながらも途中で食べかけのお菓子に手を伸ばした。
ルーシェがお菓子を食べ始めても気にすることなく話し続けるヴィートを見ながら、口の中でクリームを味わう。
…が。すぐに後悔することになった。
甘い。耳も頭も口の中も甘い。
今以外ならばきっと美味しく食べられただろうお菓子を頑張って呑み込んで、ルーシェはじっとりとした視線をヴィートに向けた。
吐き出しそうな気持ちを押し殺してお茶を飲み。溜息も我慢したルーシェは、机の上にある小石に目を止める。
そうだった。ヴィートは頼み事があったのではなかったのだろうか。
そう思い出し。頼み事が婚約破棄?と考えてから、いや婚約していたわけじゃないことは分かっていると言っていたのだからそれは違うなと考える。
それじゃあ頼み事って何だろうと首を捻り、ルーシェはヴィートが息継ぎした隙に疑問を挟んだ。
「それで頼み事って何なの?」
ヴィートは我に返ったように息を呑んだ。
「………そうだった。ルーシェに頼みがあるんだ」ヴィートは再び真面目な顔に戻った。
「祖父さんを一緒に説得してくれ」
そう言われてルーシェは瞬いた。
「説得?」
ルーシェが首を傾げると、ヴィートが眉を寄せた。
「祖父さんがルーシェ以外との結婚を簡単に認めてくれるはずがない」