⒈ 婚約を破棄してくれ
第1章「初恋を“天使”に捧げた顛末」全40話の予定です。
秋は深まり。モンサレの町では収穫祭の準備が着々と行われていた。
モンサレは山と湖の間にある小さな町ではあるけれど、特産品の塩を求めて離れた土地からも商人がやって来る町だ。
だから住民が感謝と祈りを捧げるための素朴な収穫祭にも、冬を前にして買い込みに訪れる商人を中心に、近隣の町からも遊びにやって来る人も多い。
それに応えるように催し物を年々増やしている収穫祭は、一年で一番、町が賑わう時である。
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「ルーシェ、昨日の返事は早くしに行かなくてもいいのかい?」
娘がいつものように食堂の皿洗いをしているのに気づき、グレタは声を掛けた。
「うん。今日の午後にお返事に行くと伝えているから大丈夫」
ルーシェは母親に答えながら最後の皿を洗い、次いで皿を拭くために布巾に手を伸ばす。
「ああ、こっちはやっておくからいいよ。暫くは忙しくなるかもしれないんだから、他に片付けておくことがあるんじゃないかい?」
「忙しくなるのかな…?大丈夫だと思うけれど、それじゃあ本の続きでも読もうかな」
ルーシェは母親に場所を譲ると二階の自室に向かおうと身を翻した。と。
家の裏口が開く大きな音と共にばたばたとした足音が続き、「ルーシェ!」と呼ぶ声が近づいて来る。
その声にルーシェは眉を寄せ「ヴィート!また裏口から入って来たわね!」と声の主を咎めた。
それにグレタは苦笑するとポットへと手を伸ばす。
「いらっしゃいヴィート、朝ごはんは食べた?」
「食べたけど、腹は減ってる!」
ヴィートの返事にグレタは「それじゃあ甘いものにしようか」とお茶を入れながらお菓子を用意する。
「もう、お母さんはヴィートを甘やかしすぎよ!」
頬を膨らませる娘に手早く用意したお茶とお菓子をトレーに載せて渡すと、ヴィートは笑顔で「ありがとう!」とお礼を言う。
それを横目に「まったく…」と言葉を溢しながら、ルーシェはヴィートが入って来た裏口を抜けると中庭へと向かった。
ルーシェの家の真裏にはヴィートの家がある。間にあるのがこの中庭で。だからヴィートは滅多に表からやって来ることはない。
小さい頃はそれが当たり前だと思っていたけれど、15歳にもなればそれが不躾な行為であることをルーシェは知っている。
だから今はヴィートの家を訪ねる時、ルーシェはきちんと正面に回るというのに、ヴィートは相変わらず裏口から断りもなく入って来てしまう。
そういう大雑把なところはヴィートの悪いところだとルーシェは溜息を吐いた。
「これ新作か?」
中庭に置かれた小さなテーブルにつくと、ヴィートは早速お菓子を食べ始めた。
「……!」齧り付いた揚げパンのようなお菓子の中からとろりとしたクリームが現れて、ヴィートは目を見開いた。
「美味しいでしょう?カルメロ叔父さん今は東の方にいるらしいわ」
ルーシェの家の食堂では、カルメロが旅先で出会った料理の数々を提供している。
「これ領都の店でも出すのか?」
「たぶん?その辺りはソフィア義叔母さんが決めているから」
「美味いから出すべきだな。きっと領都でも人気が出るはずだ」
自分の分を食べ切ってしまったヴィートが皿に残ったもう一つにちらりと目を向けるので、ルーシェは慌ててお菓子を手に取った。
ヴィートはお菓子の行方を名残惜しそうに見つめてから、お茶をぐいっと飲む。
そうして「ふぅ」と息を吐くと、徐にいくつかの小石をテーブルに載せた。
ルーシェは「はむ」とお菓子を齧りながらその小石を見る。
真っ白でころころしている小石は、何の変哲もなく思えた。
「ルーシェに頼みがある」
居住まいを正してそう言うヴィートは先ほどまでと様子が違い…というか、今まで見たことがないくらいに真面目な顔をしていて、ルーシェは慌てて食べかけのお菓子を皿へと置いた。
その皿をそのまま自分のそばへと引き寄せたのは、これまでのヴィートとの付き合いからの無意識での行動だ。
「…えっと、この石が何か?」
テーブルの小石に目を向けてルーシェが問うと、ヴィートは首を振った。
「いや、これは手土産だ」
「………………え?」
「さっき湖の方で拾って来た。頼み事をするのに手ぶらと言うわけにはいかないだろう?」
「………………」
小石が頼み事をする為の手土産だと言われ、ルーシェは返す言葉に詰まった。
ヴィートが誕生日でもないのにルーシェに贈り物を用意したことなど初めてのことだ。
それだけを考えれば喜ぶべきことのようにも思えるけれど、ヴィートが用意したものは小石なのだ。しかもさっき拾った小石だと言う。
ヴィートの様子は揶揄っているようには見えないから、ここは喜んでみせるべきなのだろうかとルーシェは眉を寄せた。
「え…と…、何故…これを手土産にしようと思ったの?」
贈り物に喜びを返すにも、何故に小石なのだろうかという疑問が強く。ルーシェはまずはそれを聞いてみる事にする。
「だって、この間、石を貰って喜んでいただろう?」
ヴィートの言葉にルーシェは記憶を辿り。ああ、と思い当たりながらも返す言葉に困った。
あれは領都のジュスト叔父さんが贈ってくれた絵の具なのだけれど…。
思い当たったものは、父の上の弟である領都で食堂を出しているジュストからの贈り物である絵の具の素になる色石だ。
「出来るだけ綺麗な石を拾って来たんだ。ほら、これとか真ん丸で綺麗だろ。こっちは星っぽいし」
星っぽいだろうか…と思いつつヴィートが指差す小石を眺め、ルーシェはヴィートの頼み事とは何だろうかと頭を切り替えた。
拾った石を手土産にするような頼み事が重大なものとはとても思えないけれど、ヴィートの常にない神妙な様子からは軽い頼み事とも思えない。
少なくともヴィートが贈り物を用意せねばと考える程の頼み事であるのは間違いないのだから、こちらも真面目に聞くべきかもしれない。
とはいえ、拾った石…。
ルーシェは目の前の幼馴染への呆れた気持ちを、瞬き一つで呑み込む事にした。
「…そうね。その気持ちにはお礼を言っておくわ」
手土産の内容については、また今度指導しよう。ルーシェが心の内でそう決めて、ひとまずヴィートにお礼を伝えると、ヴィートは満足そうに口の端を上げた。
「…………こほん」
内容がいまいちだからとお礼も言わないわけにはいかないと思ったことは間違いだっただろうかと早くも後悔したルーシェは、話を促すように咳払いをした。
「それで?」
促されたヴィートはもう一度居住まいを正した。
「ルーシェ」
真っ直ぐにルーシェを見つめて呼びかける声は、聞いたことがないくらいに真摯な響きだ。
その声にルーシェは無意識に唾を飲み込んだ。
「婚約を破棄してくれ!」
「……………………え?」
けれども続いた言葉の意味が捉えきれず、ルーシェは瞬いて首を傾げる事になった。