第二話 異端審問
異端審問。
正統なる信仰に反する教えを持つ『異端』という疑いを受けた者を裁判するもの。
同じ神を信じながら、その信仰のありかたが誤っていることを理由として、刑罰を加える。
各地の司教が各管轄地域において、定期的に自らの教区を回って異端者がいないかを確かめる。
そしてルイーニ司教は宣言した、異端審問と。
マザー・ロミーナは恐怖に震えながらも、必死で反論する。
「い。異端審問、ですって!?
そんなはずは、そんなはずが、ありません!
確かに私は、ブラザー・ドメニコが禁書を所持していると報告しましたが!」
「ええ、その密告は受けましたよ、マザー・ロミーナ。
だから今宵、異端審問に参ったのですよ」
修道院長の密告、それを司教はあっさりと認めた。
マザーの口は空しくあえぐ。酸欠の魚のように。
代わりに胸を押さえる神父が、瀕死の様相のまま抗議する。
「い、委員会の、異端審問所の委員会の、審議を経ていないじゃ、ないですか……?」
「先日、あなたは禁書の所持を認めました。
あなたの異端は明白ゆえ、審議を経る必要もありません。
よって司教権限において簡易裁判を執り行います」
錫杖が石の床を打ち付ける。
先端に幾つも着けられた金の輪が、しゃりん、と音を鳴らす。
その中程には白と黒の宝玉が冷たい光を放っている。
「ブラザー・ドメニコ、あなたは死罪です」
その言葉と共に修道院長へ向けられていた助祭の剣が方向を変える。
胸を押さえて息も絶え絶えの神父へ。
「ま、待って下さい……!
わ、私はともかく、シスター達は、一体……何の罪があったと、いわれる、の、ですか?」
恐らくは処刑を待つまでもなく死の淵にいるであろう神父。彼はそれでも事の真相を尋ねる。
その質問に対し、司教はやはり平然かつ悠然と答えた。
「修道院長の話では、既にシスター達の中にも禁書に魅入られた者達がいるとのこと。
ならば、神父同様に死罪は免れません」
「そ、そんなっ!?」
告発をしたマザー自身が、その苛烈な判決に打ち拉がれ、青ざめる。
裁判を執り行う司教に駆け寄り、ひざまずき、服にすがりつく。
「こ、こんな裁判はありえません!
通常は取り調べがあり、被告人には自分に有利な証人を呼ぶ権利があり、そもそも大半のシスター達は禁書のことなど」
法に基づく正当な裁判手続きを要求するマザーの言葉は、最後まで主張されることはなかった。
何故なら、神父に向けられていた助祭の剣が、マザーへと向き直ったから。
血に濡れた刃が彼女の首をかき切っていた。
口からは言葉の代わりに血が溢れる。
喉から噴き出す鮮血が助祭の全身を赤く染め上げる。
そして彼女がすがりついていた司教の服も血で濡れる。
糸が切れた人形のように崩れ落ちる修道院長を見下ろす助祭は、顔に何の感情も浮かべない。
ただ、唇についた血を舐め取るのみ。
「な、なぜ……マザー、まで……?」
もはや立つ力も失い、膝を付く神父。
そしてドメニコの質問を、司教は聞き流した。
ただ錫杖を打ち鳴らす。
その音に合わせ、マザーの血に染まる助祭の剣が再び神父へと向けられた。
「ま、待って下さい!」
あまりの事態に立ちつくして言葉を失っていたイラーリアが叫ぶ。
だが、次の言葉が出てこない。
何故なら彼女の首筋にも、背後から剣が当てられたから。
彼女をずっと追っていた長身の助祭の、シスター達の血を吸った剣が。
その時、司教が少女の方を向く。
司教の目は異端審問を行う裁判官の冷徹な目ではなかった。
だが彼女にとっては、裁判官としての冷たい目の方がよかったかもしれない。
今の司教の目には、違う光が宿っていた。
下品な中年男としての、劣情に満ちた暗い光が。
「そうですね。異端に堕したとはいえ、かつては同じく信仰に身を捧げた者達。
我が法力と秘術をもって、せめてそこのシスターだけでも天界に送りましょうか。
感謝するのですよ。私の力をもって汝の罪と汚れは清められ、その魂は必ずや神の御許へ向かうことが出来るでしょう」
首筋に当てられていた剣が動く。
背後に立つ長身の助祭、その口があるだろう場所から、笑い声が漏れてくる。
押し殺した、下品な男の劣情に満ちた含み笑いが。
右手に握る剣の切っ先が背筋に当てられる。
硬直して動けない少女の背中を剣が下りていく。
修道服が背後から大きく切り裂かれ、白い肌が露わになっていく。
薄い肌着をまとっただけの、ほっそりとした体が露わになる。長い栗色の髪が背中に広がる。
修道女としての貞潔を汚される。
それも、彼女より遙か長く修道を積み、遙か深く信仰に身を捧げたはずの司教に。
そして、その後は……。
受け入れがたい現実の数々に驚愕し、絶望し、恐怖する。
もはや意識が遠のいていく。
バンッ!
「待ちなっ!!」
聖堂の扉が力強く開け放たれた。
炎を背にして、ボロボロになった修道服を着た小柄な人物が立っている。
腰には一振りの剣を差している。
その声に、彼女は聞き覚えがあった。
黒髪と黒い瞳を持った少年、恐るべき魔力を秘めた魔界の王子。
トゥーン。
「とぅ……トゥーン、様?」
闇に落ち込みつつあったイラーリアの意識が、再び光の下へ浮かび上がる。
もはや半裸にされていた彼女の瞳には、嬉しさで涙が溢れる。
同じ神の信徒たる司教と助祭達から自分を救うのは、神の敵たる魔族。人間へ仇なす魔界の王子。
修道女として皮肉な構図だが、そんなことは彼女の脳裏にはなかった。
そして彼女の服を切り裂く助祭の脳裏にもなかった。迷いもなかった。
彼は右手の剣はそのままに、左腕を軽く伸ばす。すると袖からスルリと小さなナイフが下りてきて左手の中に収まった。
灰色の目が振り向くと同時に左手がひるがえる。炎を映してきらめいたナイフの刃がトゥーンへと飛ぶ。
シュカッ
軽い音と共に、ナイフは開け放たれたままの扉に突き立った。
王子は軽く頭を振っただけで凶刃をかわしていた。
対する長身の助祭の反応も早い。
一撃がかわされたと見るや、今度は左腕を大きく振るわせる。
シャララララン……!
今度は心地よい高音を奏でながら、大量のナイフが下りてきた。
それらは床から左手までの空中を、一列に並んで浮いている。
再び左腕をひるがえす。
同時に全てのナイフが風を切る。
それらはトゥーンの体を中心に、その周囲にある物全てを標的として放たれた。
王子の右手が突き出される。
刹那、その腕を中心に風が起き、大気が歪む。
彼の体に直撃するはずのナイフは、その全てが軌道を曲げられた。
高圧大気の壁に阻まれ、極局地的な突風に逸らされた暗器がデタラメに跳び回る。
周りの椅子に刺さり、床や石壁に弾かれ、空しく落ちる。
トゥーンは助祭の攻撃をたやすくしのいだ。
全く怯むことなく、ゆっくりと前へ進んでいく。
間合いを詰められる助祭は、それでも剣をイラーリアに向け続けている。
いや、扉と助祭との中間点に来たとき、剣は動いた。
剣はトゥーンへは向けられなかった。
代わりにイラーリアの背へ、僅かに押しつけられる。
「ひぃっ……!」
悲鳴を上げる少女の白い背に、剣の切っ先が、ほんの僅かに沈んだ。一筋の赤が彼女の背を濡らしていく。
トゥーンは足を止めた。燃えるような怒りを秘めた両目が、目の前の神罰代行者を睨み付ける。
そして神父へ向けられていた剣もトゥーンへと向けられる。その口は素早く呪文を唱えていた。
助祭の錫杖が打ち鳴らされる。まるで演劇の開幕を告げるかのように。
「控えなさい、シスター。司教権限において異端審問裁判中です」
「うるせえ、ブタ」
ブタ。
豚と呼ばれた司教は眉をしかめた。
錫杖を持つ手に力が込められる。
「これは驚いた。
神の教えを授かるシスターが、そのような下劣な言葉を使うとは」
「俺はシスターじゃねえよ、ウジ虫が」
その言葉に司教は瞬きし、目を細める。
少しして、納得したかのように大きく頷いた。
「おお、おお。これはこれは、男でしたか。
いやはや、あまりに見目麗しくて気付きませんでした。
それにしても、まさか女子修道院で少年を囲っていたとは。やはり背教徒の巣窟でしたね。
私の死刑判決に誤りはありませんでした」
「死刑判決、というからには、判決理由があるんだろ?」
「うむ?」
司教はいぶかしみ、目の前の少年らしき人物を見直す。
彼は一切の迷いも恐怖もない。
目に激しい怒りを秘めつつも、あくまで冷静な態度だ。
周囲は火に包まれ、目の前には剣を手にした助祭二名。
だがその腕利きの助祭からの攻撃を軽々とかわす少年……。
ビショップ・ルイーニは気を引き締め、意識から油断を排除する。太った体は引き締まらなかったが。
「……無論、正当な理由があります」
「死刑宣告前には判決理由を言うもんだ。
だから、教えてくれよ。修道院を焼き討ちし、シスター達を皆殺しにした理由を」
「ふむ、それも被告人の正当な権利ですね。もちろん教えましょう。
このマテル・エクレジェ女子修道院では、異端であるブラザー・ドメニコの悪しき教えを受け、大量の禁書を司教たる私の特別許可も無く所蔵し」
「それだけじゃねえっ!」
司教の判決理由を遮り、トゥーンの怒声が飛ぶ。
今にも火を吐くのではないかというほどの、怒りを含んだ声が。
「なぜ街を焼き討ちした?
なんで同じ人間を殺して回った?
どうして魔族の襲撃を装って、そんなことをする必要があったんだ!?
答えろッ!!」
その質問に、司教は即答はしなかった。
口を真一文字に閉ざし、探るように彼の姿を凝視する。
祭壇側にいた助祭が宙に舞う。『浮遊』によって体を浮かした男は、王子の頭上を飛び越えて、扉側に降り立った。
そして司祭も懐に手を入れ、三本の短剣を取り出す。
それは刀身の根本、細やかな図柄が彫り込まれた柄との接合部に白い宝玉が組み込まれていた。
それらは司教の短い呪文とともに、重力を無視してフワリと浮く。
と同時に聖堂内の空中を高速で飛び、トゥーンを包囲する位置取りをした。
前後から助祭達に挟まれ、宙を舞う短剣に三方から狙われ、それでもトゥーンは怯まない。
それどころか腰に差した剣を抜きはなった。
その様に、司教は軽蔑の笑みを浮かべる。
「おやおや、蛮勇は死を早めますよ」
「んじゃ、生かして帰す気でもあんのか?」
トゥーンも鼻で笑う。
司教は宝玉が輝く錫杖を高々と掲げた。
「無論、ありませんよ。
あなたが死罪なのには変わりがないのですから」
「余計なことまで知っちまったもんなぁ」
「その通りっ!」
しゃりんっ!
耳に残る涼やかな音をかなで、錫杖は振り下ろされた。
同じく三本の短剣も、残像しか見えない速度で飛来する。しかも単純な直線でなく、それぞれ違った曲線のカーブを描いて。
カキィンッ!
通常の人間の目には映らぬ速さで、三方から飛来した短剣は、うち一本が撃ち落とされた。
残り二本は、同じく残像しか残さない速さでダッシュした彼の、残像を通り抜けてしまった。
彼は後ろへ、扉の前に立つ助祭へと剣を突く。
キィンッ!
電光のごとき突きは、助祭の首をかすめた。
間一髪でマザーの血に濡れる剣にてかわされる。
だがトゥーンの連撃が助祭を襲い続ける。
必死の形相で男は下から突き出される切っ先を、薙ぎ払われる刃を、そして腹を狙った蹴りを避け、受け止め、そらし続ける。
王子の剣技は助祭を上回っているが、その体に達するまでには至らない。
助祭との剣劇は、いきなり中断された。トゥーンは突如バックステップして間合いをとる。
シュカカカッ!
さっき避けられた短剣が、再び連続で飛来した。
上、右横、左斜め後ろ上方から次々とトゥーンが居た空間を貫く。上から来た二本は長椅子に突き刺さる。
突き刺さった二本は、ひとりでに木の板から抜け、再び宙を舞い始める。
トゥーンを中心に、ゆっくりと円を描く。
遙かに小柄な相手に押されていた助祭も、呼吸を整えて構えなおす。
圧倒的優位の状況に、助祭は悠々と声をかけてくる。
「おやおや、小さな体に似合わず腕が立ちますね」
「あんがとよ」
声をかけられた方も動揺を見せない。呼吸も乱さない。
だが油断無く周囲の敵に視線を配り続ける。
その目は薄い肌着をまとっただけのイラーリアと、剣を突きつける助祭へと止まる。
「おいおい。この状況で、まだ人質が必要なのかよ。
デブは気も小せえな」
「ああ、彼女は気にしないで下さい。
あなた方と同じく死罪ですから」
「ふーん……だったら、何でさっさと殺っちまわねーんだ?」
「と、トゥーン、様……」
魔界の王子が口にしたのは、司教に負けず劣らず冷酷な言葉。
まるで司教にイラーリアを殺せと促しているかのような。
「いつでも死刑を執行できますから。
あなたを処刑するのにブラザーが二人も必要ないでしょうし」
「んな余計なことを言わず、さっさと二人がかりで俺を殺しにこなかったこと、後悔するぜ?
つっても、まとめてかかってきたって、オメーらが死ぬのに変わりはないけどな」
正気を疑う言葉。
この圧倒的に不利な状況で、間違いなく助祭二人と司教を殺せるという。
司教は、イラーリアも、彼の顔を見る。だが彼には虚勢とかハッタリとかいう様子がない。本気で語っているとしか見えない。
そして、司教は大きく頷いた。
「なるほど、どうやらあなたは早く死刑を執行してもらいたいご様子。
ならば、その期待に応えましょう」
司教は錫杖を振り、助祭へ合図を送る。
だが、彼は動かなかった。
イラーリアの背中に剣を突きつけたまま動かない。
「どうしました?
ブラザーよ、シスターは気にせず、その少年を処刑しなさい」
だがそれでも動かなかった。
体はもとより、視線すら微動だにしない。瞬きすらもしない。
イラーリアも異変に気付き、少しだけ足を進め、切っ先を背中から離してみる。
とたんに長身の助祭は、そのままの体勢で床に倒れてしまった。
見開いた灰色の目は光を失っている。
その首の後ろには、金属の細い針が刺さっていた。
「――なっ!?」
司教が予想外の事態に驚愕する。
だが、助祭の方は驚愕しなかった。
彼には出来なかった。何故なら、声が出なかったから。
代わりに、かき切られた喉から血を噴き出していた。
「にゃーーーはっはっはっはっはっはっ!!」
突然、変な訛りの笑い声が響いた。
とめどなく溢れる血を止めようとする助祭が、喉を押さえながら倒れる。
その横に、空中に浮いた鮮血の斑点があった。
不自然に揺れる鮮血の斑点へ、トゥーンの目が向く。
「おせえぞ、まったく」
「贅沢だにゃあ。
気付かれないように接近するのって、大変なんだぞ!」
「そのために囮役を買ってやったろうが」
声の主は見えない。
だが確かに存在している。
宙に浮かぶ斑点が、それを示す。
唖然とする司教とイラーリアを無視し、トゥーンは見えない存在と話をし続ける。
だが、何かが見えてきた。
赤い斑点から下に、透き通った細長いモノが現れる。
だんだんと伸びていくそれは、最初はうっすらと霧のように、次第にハッキリとした姿が浮かんできた。
それは女。
頭にネコの耳を持ち、尻尾をピコピコさせ、全身には青黒い毛が虎模様を描く、裸の女。
鮮血の斑点は、彼女の右手人差し指の先についていた。
助祭の喉を引き裂いた、鋭い爪に。
均整の取れた見事なスタイルを誇る、ネフェルティの指に。