第十三部 第一話 血と炎
街の端、オルタ湖の岸辺。
パオラに連れられて逃げ回っていたら、修道院へ向かう桟橋がある村への道に来てしまった。
街では相変わらず火災は続いてるし、人々は走り回っている。
対照的に、湖は静かなものだ。
湖面に浮かぶ修道院も、その向こう側にある山も黒々とした影をたたずませているばかり。
人間の街を襲う魔物、のフリをしていた勇者は倒した。
だが再びどこかで復活しているだろう。その時は人間の軍団も引き連れてくる。
今度こそ勝ち目はない。
俺は魔力の大半を失った。
急いでチャージを続けているが、それでもまだ爪が青く染まった程度だ。
体力も大幅に消費し、全身がヤケド擦り傷で痛む。
リア達の情報は無い。
結論、状況は悪化した。
もはや一刻の猶予もない。
なのに逃げられない、逃げるわけにいかない。
「……さて、どうすっかな?」
「どうすべや……」
パオラと二人、湖を眺めながら途方に暮れる。
本当に、どうしたらいいんだ?
あいつらを残しては逃げられない。だが行方がつかめない。情報もない。探す時間もない。
パオラが元気よく話しかけてきた。だが、空元気なのは見れば分かる。
「も、もしかしたら、お二人とも、ちこっと遅れただけかもしんねーべ。
今は約束の場所で待ってるかもしんねーだよ」
「そ、そうだな。
その可能性はあるな。
よし、もう一度行ってみよう」
その可能性に賭けたい。
二人は約束の時間に少し遅れただけ、そうであって欲しい。
もしそうなら、俺の荷物と真新しい足跡を見て、そこで俺の戻るのを待つか何かするはずだ。
「んだば、湖の周りを歩いてなんていられねーべ。
船で湖を渡るだ」
「お、おい。
船って、修道院への桟橋がある村へ行く気か?
確か、街道や各街は封鎖されてたはずだぞ。
つか、その近くの丘に、サクロ・モンテとかいう聖地、というか教会があったんじゃねーか?」
「あ、うーん、そんなら……あ、この近くに小さな漁村があるべ。
そこの船をちこっと借りるだよ」
「そこは兵隊どもはいなさそうか?」
「小さな村だべ。
多分、大丈夫だぁ」
そういってパオラは俺の手を引く。
南北に細長いオルタ湖、その東側を南下していく。
ほとんど獣道みたいな岸辺の道は、それでもどうにか月明かりで歩ける。
目的地は対岸の森の中。
修道院の方へ突きだした陸地の岸辺……あれ?
修道院、さっきまでは真っ暗で見えなかったのに、今は場所が分かる。
灯りが見えるぞ。
パオラも湖の上に光るものに気が付いた。
「あんらぁ、修道院に明かりがついてるだ」
「もしかして、イラーリアか?」
「多分そうだべ。
避難してきた街の人たつから、ジュリオの街が焼けてるのを聞いただよ、きっと」
「そうか、すると修道院の方は全員が起きて大騒ぎしてるな。
となると近寄れない。船を大きく迂回して……?
て、おい、なんかおかしくねーか?」
「おかしいて、何が……はら?
なんで光があんなに増えて、て、火が、大きすぎ…」
修道院に灯る光が増えていく。
最初は一つだけだったが、見る間に光は増え、大きくなる。
このままじゃ、明かりがついてるんじゃなくて、火事……?
つか、マジ、火事だ!
「な、なんだそりゃ!?」
街に続いて修道院が火事だと!?
修道院では何人も起きてるはずなのに、消火が全く出来ず、燃え広がる一方だ。
こんなの偶然なハズがない。絶対に何か関係がある。
まさか、また勇者が!
さっき倒したばかりだってのに、まさか!?
隣を見ればパオラがいない。足音が遠ざかっていく。
「お、おい、待て!」
足音を頼りに追っていけば、そこは話にあった小さな漁村だ。
誰もいない岸辺にぽつんと置かれた小舟。その隣にパオラがいた。
ウンウンうなりながら、必死に漕ぎ出そうと船を押している。
「よせっ!」
「と、止めねーでくんろっ!」
「バカ言うな、修道院は何かに襲われてるんだ。
恐らく、行けば助からない!」
「だ、だからって、ほっとけねーべよ!」
俺の制止も聞かず、パオラは船を出そうとする。
気持ちは分かる、分かるが、行かせるわけにはいかない。
街を襲った勇者は見境無く殺戮をしていた。なら修道院を襲っているヤツも同じのはずだ。
止めなければ、そう思い彼女の肩をつかむ。
だが、同時に俺の肩も叩かれた。
全身が硬直する。
脂汗が流れる。
岸辺には誰もいなかった。
間違いなく、誰もいなかった。
ここにいるのは俺とパオラの二人だけのはず。
そしてパオラは目の前だ。
なら、誰が後ろから、俺の肩を叩いた?
ぎこちなく、自分でも不自然と感じるくらいぎこちなく、後ろを振り向く。
振り向くと、目の前に月明かりを反射する金属があった。
それは鈍く輝く剣の切っ先――
――同時刻、サン・ジューリオ島。
マテル・エクレジェ女子修道院は、各所から火の手が上がっていた。
修道院だけでなく、神学校や神父の家も燃えている。
炎に照らされた修道院前の路地に、一人の少女が膝を付いて座り込んでいた。
彼女の口からは嗚咽の声と、胃液が吐き出される。
「……ぅぐえ、げえっ!」
もはや吐く物がなくなった少女が顔を上げる。
それは、栗毛に琥珀色の瞳を持つ少女。
イラーリアだ。
涙が浮かんだ目が背後を向く、煙を吐き出し続ける修道院の扉の中を。
血だまりがあった。
火に包まれつつある修道院、その内部には修道服を着たシスターが、血の海の中に倒れていた。
火と煙の向こう、階段には夜着を真っ赤に染めたシスターがうつぶせに倒れている。
恐らくは階段を逃げ降りる際、後ろから斬られたのだろう。
足を上階に向け、背中から流れる血が上半身を真っ赤に染めている。
「……そ、そんな……誰か、誰か!
誰か生きている人は、いないのですか!?」
彼女の叫びに答える者はいない。
ただ業火が修道院を焼き尽くす音が残酷に響く。
いや、木が焼ける音以外、もう一つの音があった。
イラーリアは音の方を向く。
建物の間、薄暗い路地の方から聞こえてくる異音を。
それは、何かの金属音。
例えるなら、金属の棒の先で石をこすっているような音。
「だ、誰?」
暗がりから人の姿が浮かんでくる。
それは、男の影。
背が高く、黒服に身を包み、手に剣らしきものを持っている。
いや、それは確かに剣だった。
鮮血で真っ赤に染まった剣だ。
聞こえていた異音は、剣の切っ先で石畳か石壁を削りながら歩いてくる音。
そして男の影は、暗がりの中、少女の方を見た。
「ひ、ひぃいっ!!」
悲鳴を上げて逃げ出す彼女を、男の影は慌てて追ったりはしなかった。
ただゆっくりと、彼女の後ろを歩いていく。
その行き先を見定めるかのように。
イラーリアは桟橋に戻ってきた。
彼女が連れてきた街の人々が、そこで待っているはずだから。
すぐに修道院が何者かに襲撃された事実を伝え、ここから逃げ出すために。
だが、それは出来なかった。
桟橋も血に染まっていたから。
大人も、子供も、男も、女も、見境無く殺されていた。
小舟も底に穴が開けられ、半ば沈んでいた。
細い首から悲鳴を絞り出そうとした。
だが、失敗した。声にならない声が、ただ喉を痛めつける。
ついさっきまで生きていた人達が、今、死んでいる。
魔物と火災に襲われた街から無事に逃げ出せて、安堵の息を漏らしていたのに、安全なはずの修道院で皆殺しにされていた。
それも、イラーリアが他のシスターを呼びに行った、ほんの僅かな時間の間に。
船も壊された。
逃げられない。
この小さな島に閉じこめられた。
襲撃者が、殺戮者がいるのに。
自分も、殺されるのに。
その時、さっきの異音がした。
自分が走ってきた路地の方から、ゆっくりと近づいてくる。
崩れ落ちそうになる足を、それでも必死に動かす。
まるで泳ぐように、生き残りを捜し求めてさまよう。
他のシスターはいないか、神父は、どこにいるのか。
襲撃を逃れ、どこか隠れているのではないか。
街と同じく炎に包まれつつある小島、燃え上がる建物の間を、まるで幽鬼のようによろめきながら歩く。
後ろを見ることはできない。
先ほどの異音が、背中から響いてくるから。
後ろを向けば、無慈悲な殺人鬼と目が合ってしまうから。
救いを求めて、神を求めて、どこかを目指してフラフラと進んでいく。
そして、その後ろを長身の男が静かに歩いていく。
剣で石を削る音が、何の迷いもなく規則正しく打ち鳴らされる靴音が、彼女を追い立てる。
まるで、どこかに追い込むかのように。
いつしか、イラーリアは聖堂にたどり着いた。
それも当然のことだろう、神への信仰に己を捧げたシスターとしては。
そして島で唯一の、火に包まれていない建物だったから。
聖堂は、まるで何事もなかったかのように建ち続けている。
周囲の火災に赤く照らされた鐘楼は、鐘を鳴らすこともない。
聖堂の扉は、開いていた。
人一人が通れる程度に開け放たれたままの扉に、彼女は僅かな希望を求めてすがりついた。
そして、中を見る。
椅子と円い柱が並んだ空間があり、その先には聖堂の祭壇。正面の壁に高く掲げられているのは、大きな鏡――『マルアハの鏡』。
誰かが、居た。
並んだ長椅子の向こう、中央の通路の彼方にある祭壇にいる、幾人かの人影。
彼らは床に倒れてはいない。確かに立っている、生きている。
まさに地獄で神にあったかのように、彼女の生気を失った顔に希望の火が灯った。
「た、助けて、助けて下さい!
皆が、皆が……ああ、恐ろしい……ここにも、あれが来ます!」
「し、シスター……イラー、リア?」
「その声は、マザー・ロミーナ…?」
僅かな希望を見つけ、イラーリアは聖堂の中を駆けていく。
その時、外で建物が焼け落ちる音がした。崩れ落ちる炎の滝が、窓から聖堂内を照らす。
彼女の足は、半ばまで進んだ所で止まった。
赤い光に浮き上がった人物達の姿に、恐るべき戦慄を抱いたから。
祭壇前に四人の人物が立っていた。
だが正しくは、二人の人間の前に、もう二人が立たされている状態、といっていいだろう。
一人は釣り上がった眼鏡をかけた、釣り上がった目の女。
修道院長のマザー・ロミーナ。
ただし、彼女の頭を覆うヴェールは無く、銀髪を振り乱している。
釣り目も恐怖で淀んでいた。
マザー・ロミーナの前に立つのは、顔も体もゴツゴツとした男。
修道服を着て、右手に持った剣をマザーへ突きつけている。
その剣は真新しい血を滴らせている。
先日、島を訪れた助祭の一人だ。
ロミーナの隣、祭壇にもたれてかろうじて立っているのは神父、ブラザー・ドメニコ
だ。
胸を押さえながら、短く浅い呼吸を続けている。
その顔色は蒼白で、冷や汗に濡れている。
そして最後の人物は、腰に赤紫色の帯をまわした黒衣の男。
たるんだ体に金色の豪勢な錫杖を手にし、脂ぎった唇を下品に舌なめずりで濡らしている。
何より、神の僕とは思えぬ下劣な視線をイラーリアに向けている。
それは司教、ビショップ・ルイーニ。
「こ、これは、一体……?」
彼女の背後で扉が閉まる音がした。
焦点の合わない目で、それでも勇気を振り絞り、振り返る。
そこには、灰色の目で彼女を見下ろす長身の男がいた。
島を訪れた、もう一人の助祭だ。
その手には、やはり血に染まった剣が握られていた。
声にならない声が。
悲鳴にならない悲鳴が。
もはや形になることすらなく喉から漏れていく。
「お静かに、シスター」
理不尽な死が降り注いだ小島の修道院、その中にあってビショップの声はあまりに冷静過ぎた。
まるで、修道女達の残酷な最期が当然かのように。
彼女に向け、たるんだ指で握りしめる金の錫杖を振りかざす。
「今は審問の最中です。静粛に願います」
「し、審問!?」
「そう、審問です。
異端に染まり、神を疑い、正しき信仰を捨てた神父……ブラザー・ドメニコ。
そして彼の歪んだ教えを受けた修道女達への、異端審問なのですよ!」
肥満体の司教は堂々と宣言した。
異端審問、と。