Prologo
長い廊下を三人の男が歩く。
廊下には大きなガラス窓が並び、壮麗な庭園の風景を映し出す。
天井には隙間無く華麗な宗教画が描かれ、柱には優美かつ繊細な彫刻が彫り込まれている。
各所に置かれたテーブルには、瑞々しい花が飾られていた。
先ほどの報告者が三人の後に続く。
その後ろからは部屋の警備をしていた兵士達や、同じく報告に来たであろう軍人達、そして侍女達もゾロゾロとついてくる。
一人の侍女が差し出した真っ白な布で、皇帝は唇に付いた酒を拭い落とした。
「……あの男も、もうダメだな」
冷たい言葉を吐き捨てる。
皇帝の口から最初に出たのは、ツェルマット浄化作戦失敗についてではなく、隣に座っていた生臭坊主への評価。
後ろの地味な老人と男は小さく頷く。
その一人、老人の方から寂しげな声を漏らした。
「昔は彼も一介の司祭として、よく働いてくれたのですが……。
やはり老いからは誰も逃れられませんな」
「ふん。
言われた通りに動くだけの奴を選んでいるのだから、当然でもあるがな。
話術と演技力だけは一流だったから教皇にしてやったが、もう限界だろうよ」
「では、また新たな教皇を選出すると致しましょう。
あれが教皇に選出されてから、もう七年。
そろそろ頃合いでしょうな」
「そうだな。
さて、そうなると、あいつの始末はどうするかな。
素直に隠居するならいいが、ごねるようなら片付けないといかん。
長く働いてくれたし、苦しませないようにせんと……な」
皇帝が肩越しに後ろを見る。
視線を送られた軍人は、何も言わず深々と頭を下げた。
そしてさらに後ろにいた部下へ一言命じる。
その部下は素早く敬礼し、廊下の反対側へと走っていった。
その時、皇帝は寂しげに溜め息をついた。
確かに寂しげな、悲しげな溜め息ではあったのだが、それは教皇との別れについてのものかどうかは定かではない。
それについて、上座にいた若い方の男が質問を発した。
ただ、その言葉は皇帝の心情を思いやったというより、単なる好奇心に基づくといった感じの口調だった。
「陛下、やはり長く仕えた教皇猊下を切り捨てるのは、心が痛みますか?」
その質問に、皇帝はふんっと鼻で笑う。
そして淡々と自らの思いを口にした。
「バカバカしい。
あんなヤツを神の第一の僕とかいって民に納得させ続けるのに、どれほど苦労したと思っとるんだ。
もう少しマシなヤツを選べば、ワシの苦労も少しは減るだろうよ」
「そうですね。
こちらとしても、やれ教会建設だ荘園の拡張だと、金をせびられるのには飽き飽きですよ」
「ふん、そのたびにたっぷり特権を得てきたクセに、何を言うか。
各地の教会で金融業代行、教会発行通貨の鋳造、まったく強欲なことだ」
「いえいえ、皇国と教会のために微力を尽くしているに過ぎません」
オホン、という咳払い。
地味な老人の方が、わざとらしく皇帝と男との会話を中断させた。
そしてもう一度咳払いをしてから、皇帝に話を切り出した。
「ともかく、作戦は失敗です。
参謀長、せっかくあなたが練り上げた計画でしたが、残念でしたな。
アンクの計算でも、安さと簡単さでは最上位でしたのに」
「……無念ですぞ」
参謀長と呼ばれたのは、さきほど皇帝へ報告に来た女。
眼鏡の奥にある灰色の目は、自らの作戦が失敗に終わった失望に生気を失っている。
短い金髪の上に軍帽を乗せ、胸に着けられた大量の勲章は、歩くたびにジャラジャラと音を立てている。
「最も現実的な案と信じておりましたが……急ぎ失敗の原因を調査し、次なる作戦へと生かします」
「私も良い作戦と思っていたのですよ。
新たな技術開発の必要すら無く、こちらからの資金も必要としないのですから。
ですが、やはり我らに油断がありましたかなあ」
老人の言葉に、女は細いアゴに手を当てて考え込む。
「鉄道網敷設のついでに出来る、などと軽く考えたつもりなぞありませんが……。
一体どこに穴があったのか、必ず見つけ出しましょうぞ」
ツェルマット浄化作戦の失敗原因について、作戦案の全体を見直し発見しようとする参謀長。
だが、彼女は知らない。
計画には穴なんて無かったことを。
失敗したのは、オルタに派遣されたツェルマット調査班が、パオラをツェルマット山の案内役に選んだため。
だが、それは全くの偶然に過ぎない。
パオラが山でうっかり遭難し、偶然インターラーケンへ迷い込み、たまたま春に拝領したばかりの魔王末子トゥーンと出会い、数々の冒険と苦難の果てに二人が惹かれ合ったせい。
そんな、子供を寝かしつけるために寝床の横で母親が語るおとぎ話か、皇都のサン・カルロ歌劇場で演じられる出来すぎた英雄物語が、現実に起きてしまったなど、彼らには知り得ない。
本当に完璧な奇襲作戦だったことなど、失敗という結果を突きつけられた参謀長の女には知り得ないことだった。
そんな数奇な顛末をしめくくるかのように、皇帝は一言口にする。
「アンクも、絶対ではない」
重々しい、威厳のある、そして自らと配下の者達を戒める言葉。
地味な老人が応える。
「アンクの能力を上回るほどの想定外な事態も、たまには起きるものですな」
「しょせん、アンクも神ではないよ。
作った人間に限界がある以上、アンクにも限界がある。
ともかく、浄化計画は失敗となると、もう一つの方に集中するしかないか」
もう一つ、その発言に参謀長は瞬時に脳内の記憶を探る。
間を置かず応じる。一つの計画案が浮かび上がった。
それはツェルマット浄化作戦と共にアンクの計算で上位を占めた作戦案だ。
「といわれますと、例の船団、でございましょうか?」
「うむ。既に試作品は完成しているとの報告だったな」
「はっ。
確かに試作機が一隻完成しております。
現在は運用試験結果をもとに図面の改良を重ねておりますぞ。
ですが、あれは……」
「分かっている。
予算と時間だろう?」
「はい……。
船団の開発自体は可能なのですが、少なくとも一年以上はお待ち頂きませんと」
「時間は待てる。
一年くらい、どうということもない。余裕を見て二年は必要と見ておこう。
だが、予算はな……」
そういうと、皇帝と参謀長は視線をずらす。
そこには、既に頭を下げている地味な老人と男がいた。
二人を見て、皇帝は諦めたような溜め息を吐いた。
「やれやれ……高く付くし手間がかかるから気乗りはしなかったんだが。
お前の所から金を借りねばならんな」
「お任せ下さい。
我らパッツィ銀行は常に国庫と共にあります。
パッツィ銀行頭取として、この愚息と共に皇帝陛下のために働く所存です」
深々と礼をするパッツィ銀行の頭取と、その息子。
二人の姿に皇帝は満足げに頷いた。
そして居並ぶ臣下達へ、老人とは思えぬ張りのある声を発した。
「それでは、例の船団を建造する。
この計画はセドルントンネル構築よりも困難で、時間がかかる。
だが成功すれば、もはや我らに恐れるものはない。
皆、命を賭して計画に当たれ」
後ろに控えていた軍人達が一斉に敬礼する。
それぞれの部下を呼び、素早く指示を飛ばし、連絡のため走り出す。
その光景を背に、皇帝は窓の外を眺める。
そして、小さく呟いた。
本当に寂しげな溜め息と共に。
「全く……弟よ、またお前に働いてもらわねばならん。
すまんな、いつまでも冥界の門をくぐらせてやれなくて」
そんな呟きを聞いていたのは、その後ろに控えていた地味なパッツィ銀行の親子。
彼らは何も言わず、皇帝の後ろに控えている。
そのうちに、頭取の老人は控えめに一礼して、息子と共にその場を後にした。
宮殿前に停まっている二頭引きの馬車。
皇国の国庫を支えるというパッツィ銀行の二人は、その評に比して地味すぎる馬車に静かに乗り込んだ。
そして、老人は深くため息をつく。
「はぁ……全く疲れたよ」
「お疲れ様です、父上」
「相変わらず酒の席は好きになれん」
「我らパッツィ家には乱痴気騒ぎは似合いません。
早く静かな家に帰りましょう」
「そうだな。
それにしても、ツェルマット浄化作戦……失敗するとはな」
「やはり魔王は侮りがたし、ですね。
といっても、最初から例の船団に集中していれば、無駄な損害を出さずにすんだのでしょうが」
「それはそうだが……。
例の計画、ぶっちゃけ、軍の下っ端共の出番が無いからなあ。
貧民連中の取り分を稼がせてやるために、さして豊かそうでないツェルマット山へ行かせてやる必要があったのだよ。
あんな山奥なら、くれてやっても惜しくないからな」
「結果は全滅、やれやれです。少しは役に立つと思ったのに。
とはいっても、成り上がり連中への領地分配とか給金増額とかせずに済むので、よい口減らしになったでしょう」
「これ、そういうことを言うな。
成り上がりとはいえ、ペーサロは惜しかったぞ。
バルトロメイも使える男だったが……残念だ。あそこは名家だからな、後の始末が面倒だ」
「そうですね、彼らは残念でした。
ともかく、例の計画に集中しましょう。
金と時間はかかりますが、姑息な奇襲作戦より確実に魔族を駆逐出来ます」
「そうするとしようか。
とはいっても、あれを実行するために、一体幾つのアンクを新たに作らねばならんのやら。
金がかかってしょうがないな」
「我らパッツィ家の家訓は、『目立たず、慎重に、気前よく』です。
必要な投資を惜しんではいけません。
ツェルマット奇襲みたいなケチケチした手抜きは駄目ですよ」
「……ま、そういうことだ。
お前も言うようになってきたな」
老人は、息子の銀行家としての成長を喜び微笑む。
息子も父に認められて満足げに胸を張る。
そして二人はツェルマットに取り残された軍人達を、下っ端の貧乏人としてためらいなく切り捨てた。
彼らにとっては、ツェルマットを獲るか否かなどどうでも良いことだったかのように。
いや、単に経費節減と時間節約のつもりでツェルマット浄化作戦を実行したと考えていた。
そして、皇国にそれらの作戦を行わせているのは自分達だ、とでも言うかのような口ぶりだ。
地味な馬車は、その権勢に似つかわしくないほどささやかな警護の騎馬隊に守られて宮殿を後にする。
彼らがカゼルタ宮殿を去り帰途についたことには、謁見室で享楽と悦楽にふける貴族豪商達だけでなく、参謀長や皇帝すらも気付いていなかった。
静かに、そして確実に歴史は動き続ける。
次の劇に上がる役者達が舞台へと集まり始める。
望むと望まざるとに関わらず、彼らは否応なく各自の悲劇を、喜劇を、活劇を演じることになる。
ただ、今回の役者の中には、少々遠方から呼びつけられた者達がいた。
しかも強制的に、かつ偶発的に。
いや、遙かに高く大きな視点から見れば、それも必然というべき事象かもしれない。
そしてその必然は、当人達にとっては迷惑千万でしかなかった。
そう、極めつけの迷惑だった。
何故なら、本来この戦乱とは無縁な者達だったから。
そして、劇の中でどんな役が与えられたかも分からぬまま、彼らは舞台上に放り出されてしまった。
二十一世紀初頭の日本に生まれた平凡な男子高校生と女子大生が、不毛な種族紛争に明け暮れる魔界に迷い込まされるなど、彼らにとっては迷惑の極みだった。
もちろん運命は、日本人学生達の抗議や不満や愚痴や懇願や呪詛になど、耳を貸さなかった。
魔王子、エピローグ&プロローグ、以上です。
そして予定通り、新シリーズとして続編を開始いたします。
『パラレルParallelo!』
2011年2月15日01:00開始予定。