所詮、政略結婚ですから
「僕たちは政略結婚で結ばれたけど、今では君を心の底から愛している。僕の一生を君だけに捧げると約束するよ」
そう言ってレオナルドはソニアに優しく口付けた。
そんな彼のプロポーズを受け結婚してから、今年で四年目。
「嘘つき…」
ソニアが零した小さな呟きは広い部屋の中で儚く消えた。
もう深夜を回ったというのに、夫はまだ帰ってきていない。
こんなことがここ二週間ほど続いていた。
「奥様、そろそろおやすみになりませんか?」
ソニアの専属侍女エマが優しく声をかける。
「そうね。いつもありがとう、エマ。貴女も早く休んでちょうだい」
そう言い残して、ソニアは自室へと戻った。
「私、いつからこんなダメになってしまったのかしら」
学生時代は広く浅い交友関係を好み、特定の人物への依存を極度に嫌っていたのに。
今では何をしている時も彼のことを考えてしまう。
『ソニア、愛してるよ』
彼の声が頭の中で甘く響く。
「私はもう愛してなんかいないわ。…ばーか」
次々と浮かんでくる彼の笑顔を追い出したいのに、意識すればするほど幸せな記憶が蘇る。
目尻から零れた涙が枕に染みをつくった。
心に大きなわだかまりを抱えたままソニアは眠りについた。
「ソニア」
愛おしい声に名前を呼ばれて目を開けると、レオナルドがいた。
「エマから、最近ソニアが僕の帰りをずっと待ってるって聞いた。とても嬉しいけど、これからはやめてほしい。君の身体にも負担がかかるだろう?だから」
不機嫌そうな顔でつらつらと何かを言うレオナルドにソニアはそっとキスをした。
驚いた様子のレオナルドを見て、ソニアは顔を綻ばせる。
「ふふ。レオナルド、大好き」
「っ…、ソニア」
レオナルドから少し乱暴に口付けられ、ソニアは思わず身を引いた。
しかし、すぐに強引に引き戻され、レオナルドのされるがままになる。
こうなったレオナルドに抵抗は無意味だと知っているソニアはそのまま彼に身を委ねた。
そうして夜は更けていった。
ソニアが目を覚ますと、目の前にレオナルドの顔があった。
金髪碧眼の美貌をもつ夫は歳を重ねても崩れるどころか、色気が増してきている。
レオナルドと初めて顔を合わせた時、ソニアは自分が面食いだったことを知った。
ぼんやりと完璧に整った顔立ちに見とれていると、金色の長い睫毛が僅かに動き、神秘的な碧い瞳と目が合った。
「おはよ」
少し掠れた声が色っぽい。
まだ完全に覚醒しきれていない顔には幼い子供のようなあどけなさがあった。
レオナルドの手がそっとソニアの頬を撫でた。
「ソニア…」
愛してる、という言葉は口にされることなく、彼の手は頬から離れていった。
「僕はこれから仕事に行く準備をするけど、ソニアはゆっくり休んでて」
柔和な笑みを浮かべながらレオナルドが体を起こした。
その瞬間、温かかった布団の中に冷気が入り込む。
「レオ…」
「ん?」
ソニアが呼びかけると、レオナルドは心底幸せそうな表情を浮かべた。
「あ、いえ、やっぱりなんでもないわ」
「そう?遠慮せずに何でも言ってくれていいんだよ?」
「本当に大丈夫よ」
昨夜はあんなにもレオナルドの浮気を疑って心が締め付けられるようだったのに。
ソニアへの愛が全身から溢れているような彼に対して、苦言を呈するのは申し訳ない気がした。
「昨夜も言ったけど、僕の帰りが遅くても先に寝てていいからね。待つのはやめて」
だから、彼が扉の前で思い出したように言った言葉には不意打ちをくらってしまった。
じゃ、行ってきます、と言って部屋を出ていく彼にソニアは返事をすることが出来なかった。
静かになった部屋で暫く扉を見つめていたソニアだったが、どうにか頭の中から邪推を追い出した。
「やっぱり王宮勤めは忙しいのよ」
そう無理やり納得した時だった。
ドレッサーの椅子にかけられらジャケットが目に入った。
「レオったら置き忘れているじゃない。あとでエマからレオの侍従に渡してもらいましょう」
ソニアがジャケットを手に持った瞬間、甘い香りがした。
それは知らない香水の匂いだった。
動揺するソニアを他所に、微かに瞬くものが視界に入った。
導かれるように胸ポケットに手を入れると、環状のものと紙切れが出てきた。
環状のものはソニアの左手の薬指にはまっているものと同じものだった。
震える手で二つ折りされた紙切れを開くと、可愛らしい文字が見えた。
『レオが一日でも早く奥さんと別れられますように。
愛しているわ。
貴方のフランチェスカより』
内容を理解した瞬間、不思議と笑いが込み上げてきた。
「なんだ、やっぱり浮気していたのね」
反射的に出た無機質な声に自分でも驚く。
だが、それも次第に笑いに変わる。
「なんて滑稽なのかしら。そうね、所詮は政略結婚ですもの」
気がつけば、クローゼットの奥にあったトランクを引っ張り出して、最低限の荷物を纏めていた。
「これから先脆弱な心を取り戻さないように、暫くの間レオ…いえ、旦那様から距離を置く必要があるわね。幸い私がいなくても仕事が回るサイクルはできているから、最低でも一ヶ月はお暇を頂いても問題はないはず」
これからの生活に思いを馳せていると、部屋にノックの音が響いた。
「どうぞ」
明るい声で言うと、扉の向こうから現れたのは侍女のエマだった。
「奥様…?どこかへ行かれるのですか?」
荷物が詰められたトランクケースを見て、エマが控えめに尋ねた。
その瞳には困惑の色が浮かんでいる。
ここ数日でそんな予定はなかったのだから当然だ。
「私、暫くお暇を頂こうと思うの」
ソニアの言葉にエマが目を見開いた。
「お暇というのは、避暑地の別荘へ行かれるとかですか?」
「いいえ、旦那様に干渉されない所へ行くつもりよ」
「何か訳がおありなのですね」
冷静に物事を分析しようとするエマにソニアは微笑む。
「旦那様への思いを完全に断ち切りたいの」
「それは」
「決意が揺らぐ前にここを出たいの。…協力してくれる?」
何か言いたげなエマの顔をソニアは一心に見つめた。
エマはソニアの実家からついてきた侍女なので、付き合いはとても長い。
三つ上の彼女はソニアにとって姉のような存在だった。
この屋敷の中で自分の一番の理解者は彼女だろう。
エマが渋るのなら計画を考え直した方がいいだろうか、と思い始めた時、
「分かりました」
エマの返事に、ソニアは思わず彼女の手を取った。
「本当に?」
「えぇ。お嬢様は嫁いでから立派にお役目を果たされていたので、偶には息抜きも必要でしょう?」
そういうエマの顔には呆れと優しさが見えた。
「ありがとう、エマ」
心からの笑みを浮かべるソニアに、エマは思わず苦笑した。
あれから一ヶ月が経った。
エマの助けもあり、屋敷からの脱出に成功したソニアは何日間も馬車に揺られ、辺境の地までやってきていた。
流石に未知の場所にあてもなく行く勇気はなかったので、幼い頃に一度だけ父に連れられて訪れたことがある地を目指した。
現在、ソニアはワンガルという町で針子見習いとして働いていた。
「ソフィア、今日はもう上がっていいよ」
上司のイーリスに声をかけられた。
ソフィアというのはソニアの偽名だ。
念には念を、の精神でソニアは旅の道中もずっとこの偽名を使っていた。
「すみません。もう少し残ってもいいですか?今取り掛かっている分まで終わらせておきたくて」
「それは別にいいけど。あんた、家で待ってるやつとかいないのかい?」
「いないので大丈夫です」
「嘘でしょ?こんなに美人なのに」
そう言ってソニアの顔を覗き込んできたのは同じ針子見習いのリタだ。
疑うような視線のリタに、ソニアは曖昧な笑みを向けた。
「リタ、あんたはそれが終わるまで帰れないからね。口よりも手を動かしな」
「はーい」
イーリスの言葉にリタが作業を再開した。
その様子を見てソニアはこっそり溜め息をついた。
当初はレオナルドへの思いを断ち切ることを最大の目的としていた。
しかし最近ではそれが達成される日は来るのだろうか、という疑問を持ち始めていた。
最初の一週間こそ生活環境を整えるのに苦労したが、ある程度してからは余裕ができ、彼のことを考えてしまうのだ。
数日前は遂に彼の夢を見た。
彼を忘れるどころか、この数日は自分の執念深さに辟易していた。
「お疲れ様でした」
職場を出る頃には辺りはすっかり暗くなっていた。
早く帰らなくては、と思った矢先、前から歩いてくる人影に気づいた。
「ソフィアさん、お疲れ様です」
街灯に照らされて柔らかそうな茶髪とその下の端正な顔立ちが顕になる。
淡い緑色の瞳に甘さを滲ませてソニアを見る青年の名はニコルといった。
「今日も迎えに来てくださったの?」
「はい。この時間帯に女性一人では危ないですから」
熱の篭った視線で見つめられ、ソニアはそっと視線を逸らした。
「私、こう見えて武術の心得があるの。そこら辺の殿方には負けない自信があるわ」
「ソフィアさんって、実は俺のことかなり苦手ですよね?」
想定外のことを聞かれ、思わずソニアの足が止まった。
その様子を見てニコルが笑う。
「図星か、傷つくなぁ。まぁでも、俺はソフィアさんを諦める気なんてさらさらないので」
「…私が貴方の気持ちに応える日は永遠に来ないわよ」
ソニアが静かに告げると、ニコルは口を閉じた。
「貴方はとても魅力的なのだから、いずれお似合いの素敵な子が現れるわ」
ソニアが柔らかく微笑むと、ニコルの瞳が僅かに揺れた。
「ここまででいいわ。おやすみなさい」
まだ何か言いたげなニコルに気付かぬふりをして、ソニアはその場を立ち去った。
少し歩いたところで、ふと後ろに気配を感じた。
「ニコル?……っ」
振り返って見た相手の瞳の色は予想に反して碧色だった。
彼の存在を認識した瞬間、全身に甘い痺れが走った。
しかしそれも一瞬で、碧い瞳の奥にある絶対零度の温度を感じ取り、身体が強ばった。
「ソニア」
久々に聞く声は記憶にあるものより低く、甘さの欠片もなかった。
「…旦那様」
そう口にすると、レオナルドの不機嫌そうな顔がさらに歪んだ。
「我が最愛の妻よ。聞きたいことが山ほどあるんだが、ひとまず近くに待機させている馬車までご同行願おうか」
レオナルドが無表情で淡々と述べる。
対してソニアは初めて見るレオナルドの一面に戸惑いが隠せずにいた。
それからソニアはレオナルドに手を引かれ、数十分後には馬車の中で向かい合わせに座っていた。
先に沈黙を破ったのはレオナルドだった。
「僕の前からいなくなった理由は?」
先程とは違い、今は微笑みが湛えられている。
しかし、相変わらずその瞳は笑っていなかった。
「確かに僕の帰りを待たなくていいとは言ったよ?でもそれは屋敷にいる前提での話だ。それくらい、僕の賢い妻なら分かると思うんだけど」
レオナルドがやけに自分の妻という部分を強調する。
彼が放つ圧力にソニアは顔を上げることが出来なかった。
「極めつけには一ヶ月間必死になって漸く愛しい妻を見つけた夫の目の前で、君は他の男と親密そうに話していた」
「わ、私は悪くないわ」
やっと口にできた反論は幼稚なものだった。
レオナルドはそんなソニアを鼻先で笑った。
「一途に行方不明の妻を思って文字通り死ぬ気で探した夫と、そんな夫の気も知らずに年下の男と浮気していた妻。これで妻側を擁護する人がいるなら連れてくればいい」
「う、浮気していたのは旦那様の方でしょう!」
ソニアが叫ぶと、レオナルドが驚いた様子を見せた。
「朝帰りが続いた挙句、ジャケットからは知らない香水の匂いがするし、胸ポケットからは結婚指輪とラブレターが出てくるし。あれを浮気と言わずになんと言うの!?」
言い終わる頃にはソニアは息切れを起こしていた。
しかし、不思議と心は晴れ晴れとしていた。
馬車の中が急に静かになったので、恐る恐る前を見ると、そこには硬直したレオナルドの姿があった。
先程までの勢いは鳴りを潜め、膝の上で軽く握られた拳は震えている。
何かをぶつぶつと呟いているが、その内容までは聞き取ることができなかった。
「旦那様…?」
空気に耐えられなくなり声をかけると、レオナルドが虚ろな瞳でソニアを捉えた。
「全ては殿下のせいなんだ」
「え?」
「国家秘密の内容だから詳細は省くが、僕は王太子殿下よりある事件の調査を命令されていたんだ。それでその容疑者が娼館の中に紛れ込んでいるところまで突き止めて、それで毎晩そこに通いつめて事情聴取を行っていた。指輪と手紙は娼婦が悪戯心でしたんだろう」
先程とは打って変わった陰の気を全身に纏ってレオナルドが深い溜め息をつく。
「ダメだ。言えば言うほど言い訳にしか聞こえないな。そうだ、そもそも僕が指輪の存在に気づいていれば。もしくは自ら娼館に出向かなければ。いや、そもそも殿下からの命令をもっと強く拒否していればあるいは」
「わ、分かったわ。旦那様が殿下の命令に逆らえなくて、その流れで不運が続いてしまったのね」
宥めるように言うソニアの頬をレオナルドの手が繊細な手つきで撫でた。
「頼むから、旦那様なんて他人行儀な呼び方はやめてくれ。ソニアにはレオと呼ばれたい」
捨てられた仔犬のような瞳で訴えるレオナルドにソニアは苦笑をこぼした。
「分かったわ、…レオ」
「ソニア、愛してる」
レオナルドが力強く抱きしめてきた。
その瞬間抑えていた気持ちが溢れだし、ソニアはそっとレオナルドの背中に手を回した。
「お帰りなさいませ、奥様」
屋敷に戻るとエマが一番に出迎えてくれた。
「息抜きは如何でしたか?」
「貴女のお陰でとても充実した時間を過ごせたわ。ありがとう」
「それはよろしゅうございました」
ソニアが礼を言うと、エマは珍しく表情を僅かに和らげた。
「ソニアってやっぱり年下の方が好きなの?」
「レオったら、まだニコルのことを気にしているの?」
屋敷に戻ってきてから一週間。
レオナルドはニコルの存在が気になって仕方がないようだ。
「年上は苦手?でも誕生月でいえば七ヶ月しか変わらないんだよ?これってソニア的に年上の定義に当てはまる?」
最近はずっとこの調子で、事ある毎にソニアに構ってくる。
数日前まではそれも嬉しくて付き合っていたが。
「そうやって小さいことばかり気にしているレオなら年上とか関係なく苦手、というか面倒くさい男の部類に入るわね」
ソニアがわざとらしく溜め息をつくと、レオナルドが慌てだす。
「今から改心してもまだ間に合う?」
「さぁ、どうかしらね?」
とぼけて横を向いたソニアの頬に柔らかいものが当たった。
驚いて振り向くと、悪戯が成功した子どものような顔をしたレオナルドと目が合った。
「ちょっと、レオ」
「ソニア、愛してる」
蕩けるような笑顔で言われ、ソニアは言葉に詰まる。
「ソニアって結構僕の顔好きでしょ?」
「…嫌いではないわ」
「はは、素直じゃないなぁ」
どうやら、政略結婚でもそれなりに幸せになれるらしい。
完
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