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サルビアの味

作者: 高桑 繭

 まだ空が暗いうちに会社から出たのはいつぶりだろうか。6月の少し湿った暖かい風が頬を撫でていく。ここ数ヶ月、毎日二十四時を超えて残業をしており、直近では日が登ってから会社を出ることがほとんどだった。久しぶりに深夜残業をせずに退勤できたのだが、野村はそれを喜ぶ元気すらな無かった。1ヶ月前だったら、夜遅くまで起きがちな彼女に連絡して、タイミングが会えば電話をして、小さな幸せを感じていただろう。連絡したい相手もできる相手もおらず、寂しさすら感じず、ただひたすらアパートを目指した。

 会社から野村のアパートまでは歩いてそんなに遠くはない。しかしながら、野村は、途中にある公園のベンチで休憩をしないと帰れないほどに疲弊していた。公園には花壇があり、暗くてよくわからないし興味もないが、赤い花が咲き誇っていた。三十歳の男が、一人ベンチでぼーっとしている画は、塾帰りの高校生から奇妙がられた。

 この時間は、いつもまだ会社のデスクにいる時間なので、目だけは冴えている。俺は何のために働いてるんだっけ、と野村は思った。彼女がいた頃は彼女のため。親に仕送りするため。あとはなんだろう?野村は何も出てこないことに落胆することもなく、これ以上思考するのが面倒くさくなって、しばらく街灯にたかっている虫たちを眺めていた。

 そろそろ帰ろうとした時、会社の携帯電話が鳴った。上司からだ。

「遅くにごめんね。申し訳ないんだけど、また僕の確認ミスで、今日締め切りの資料が2つあったんだ。そんなに分量多くないから、どうにかやってくれないかな。期限は明日にしてもらった!この資料遅れるわけにはいかないんだ。仕事ができる野村くんにしか頼めなくて。パソコン持って帰ってるよね?家で仕事してくれていいから!メールで詳細送るね!」

やっぱりか。と野村は思った。上司が締め切り当日まで案件を忘れていて、野村がその尻拭いをするのは、常習的であった。悪びれない上司の口ぶりに、もはや怒りの感情すら湧かなかった。麻痺した心で了承し、ふと携帯電話を持っていた手を見ると、一匹の蚊が、手の甲のど真ん中に停まっていた。蚊が大嫌いな野村だが、蚊を追い払う気にすらならなかった。蚊に血を吸わせたまま、トボトボと家へ向かった。


 野村は基本的に賢かった。仕事が早く、同僚だけでなく他の部署の上司からの信頼も厚い。半年前までは野村は彼女との関係も良好だったし、残業の量は多かったが、自分の裁量で帰宅時間を調整できていた。野村の生活が一変したのは、今年の1月。やむを得ない事情で、前の上司が急に退職しなければならなくなり、代わりに今の上司がやって来てから負の連鎖が始まった。今の上司は、とにかく業務の管理ができない。さらに悪いことに、考え方が古く、残業は進んで行うべきだと思っている。期限間近の仕事を急に振られる部下たちは疲弊し、会社辞めていく者が続出していた。人がいなくなった分の仕事は、残っているメンバーにのしかかるため、野村への負荷はさらに大きくなる。

 そんな環境で働いている野村のことを心配してくれる同期も多かった。しかしなまじ優秀な野村は、いつも「大丈夫だ」と笑顔で言ってしまっていた。野村があまりにも爽やかな笑顔で返答するため、同期たちもあまり心配しなくなってしまい、野村の労働環境が日に日に悪化していることに、誰も気づかなかった。


 部屋に着くと連日の徹夜作業の疲労がどっと押し寄せた。足がパンパンに浮腫んでおり、靴を脱ぐのも精一杯であった。このまま上司のせいにして資料をつくらないという考えも少しよぎったが、真面目な野村は、この資料を必要としている顧客のため、会社の信頼を落とさないようにするため、資料の作成を放棄することができなかった。

 上司の言う「そんなに分量が多くない」は、まともな社員に取っての大量である。上司の言葉を信用はしていなかったが、心のどこかでその言葉を信じたい自分もいたため、予想通りヘビーな内容だとメンタル的にも削られる。野村は解析業務のプロであるため、並の人の3倍くらい早くこなしたが、それでも朝の4時までかかった。

 作り上げた資料を上司にメールで送り、野村は仰向けに横たわった。野村はもう動けなくなった。流石に働きすぎであった。横たわったままふと腕に目をやると、一匹の蚊が停まっていた。気がつけば、帰り道に刺されたところを含めて3箇所ほど肌が腫れているが痒みを感じない。腕に停まっている蚊に血を吸わせたまま、天井を見つめていた。少しずつ自分の呼吸が浅くなり、一回呼吸するのに力と気力が必要であった。呼吸が苦しい。このまま息が止まるかもしれない。死ぬのかもしれない。でも、もう、ここまま一生目覚めなくてもいいか。自分がやり残したことはないから後悔もない。親には申し訳ないな。遺書も書いてなくてごめん。元カノは元気かな。元カノのことを考えたあたりで野村の思考が止まり、意識が少しずつ薄れていった。


 野村の意識が戻った。体が異常に軽く、視界が荒いドット状にぼやけていて何も認識できない。体に重力を感じない。視点がとても高いところにある気がする。何となく赤い色が広がっているところがあり、色的にも香り的にもそちらへ引き寄せられる。あまり自覚はないのだが、腹が減ったらしい感覚がある。野村は目の前の赤い色へ吸い込まれるように降り立ち、本能的に何やら液体を吸った。そうしていると、今度は聞き覚えのある不快な高音の羽音がして、その不快であるはずの羽音に、妙な安心感を感じた。また、その羽音が自分の仲間のものであると認識した。野村はこの羽音で、自分が蚊になっていることを自覚した。蚊であるとすると、さっき吸ったのは花の蜜か。蚊は、実は普段は花の蜜を吸うと聞いたことがある。さっき吸った液体は最高に美味しかった。味覚を感じ、お腹が満たされた感覚はいつぶりだろうか。

 自分の状況に困惑しながらユラユラ飛んでいると、高音の羽音がどんどん集まり、大きくなっていた。オスが蚊柱を作り求愛しているようだ。野村は、蚊柱は求愛のためにオスが作っているということをと初めて知った。今、野村はその求愛中のオスたちの中に突っ込んでいる。このことから、自分がメスであることを理解した。そして程なくして、オスとカップル成立した。人間の自分は、彼女と別れてしまったが、こちらの世界ではすんなりと相手を見つけられたことに、なんだか複雑な気持ちになった。

 ややあってオスと別れ、フラフラと飛んでいると、窓の開いた部屋があり、入ってみた。相変わらず視界はぼやけているが、何となく見覚えのある間取りと自分が着ていた服と同じ色が見えた。野村はどうやら自分自身の部屋に蚊として侵入したらしいことを理解した。

 入るや否や、猛烈に引き寄せられる麻薬的な香りがして、そちらに向かった。なるほど、二酸化炭素に惹かれているのだ。まさに二酸化炭素が出ている、自分自身の顔の上まできた。人間の野村は微動だにしないため着地点の狙いを定めやすい。皮膚の上に降り立ち、本能に身を任せ無我夢中で血を吸った。思う存分吸った。ものすごい幸福感に満たされた。野村は満足し、野村の顔から飛び立った。二酸化炭素を排出し、温かい血が流れていたということは、人間の自分は生きているという確信が持てて、蚊である野村は安心した。果たしてあの体に戻れるのかはわからないが。

 そういえば、血を吸った蚊は数日後に産卵をすると本で読んだことがある。小さい頃から、大嫌いだった蚊に、まさか自分がなり、しかもメスとして子孫を残そうとしているなんて、信じられなかった。

 自分の部屋にいても仕方がないので、改めて外に出ることにした。窓から外に出ると、アパートの周りには、たくさんの季節の花があった。こんなにも色とりどりの花があることに、蚊になって初めて気がついた。複眼でぼやけているので形までは分からないが、どの花も魅力があり、おいしい。しかし、野村のお気に入りは最初に吸った赤い花だ。あの花は何の花だろう。

 またすぐに血液を欲するのかと思ったが、一度の吸血でしばらくお腹が持つようだ。蚊はのべつまくなし血を吸うのかと思っていたから、予想外であった。さっきは、自分の血とはいえ、本能に任せて人間の血を吸ってしまったことには少し嫌な気持ちがした。流石に他の人間の血を吸うのには抵抗がある。しかしながら、血を吸った時の幸福感はたまらず、また味わえるのならば味わいたいと思った。


 野村は、自分の姿を忘れ、蝶にでもなった気分で、花の上を楽しく飛んでいた。しばらくして、仕事のことを思い出した。そういえば、今日の仕事はどうなっているんだろう。ポンコツ上司はきちんと顧客に提出できたのだろうか。普段なら手汗を滲ませながら焦るところだが、今は、まあいっか、と流せた。蚊になってしまった自分にはどうすることもできない。

 呑気に花の上を遊覧していると、突然、強烈な風を感じた。蚊の本能で風から避けた。執拗に野村に向かって風がくる。同時に、野村が野村自身の顔に近づいたときと同じ、麻薬的な香りがした。野村は理解した。人間に襲われているのだ。ただ花を吸っていただけなのに、残酷だと思った。だがしかし、襲っている人間の気持ちもよくわかる。野村だって蚊が大嫌いで、見つけたら即潰しに行くタイプだ。

 和解的に、人間界の悪者である自分が、その場から離れようとした。しかし、蚊の本能、と言うより自分の欲望がそれを拒んだ。麻薬的な香りに抗えず、人間からの攻撃を受けながらも近づきたくなってしまうのだ。野村は逃げたかった。しかし、吸血もしたかった。野村の人生でこんなにも何かに必死に執着したことはあっただろうか。

 冷静な自分はもういなかった。急降下と急上昇を繰り返し、人間の手を避けながら、麻薬的な強烈な香りのする方へ向かっていった。

 ついに人間の皮膚をとらえた。接地した瞬間に唾液を入れ、ついに血を吸った。なんて幸せなんだ。体が欲しているものを摂取することが、こんなにも幸福をもたらすとは。野村は快感に浸っていた。しかし一方で、野村はまぬけだった。人間の手が迫っていることに気が付かず、吸い続けていたのだ。人間の手が野村のすぐ上まできた。もう逃げられない。野村は思った。


死にたくない!!!

あの赤い花の蜜をもう一度吸いたい!!

血を吸いたい!!

もっと幸福を追い求めたい!!!


 

 はっと、気づくと、目の前には、先程までと違う景色が広がっていた。野村の部屋の天井だ。野村は、深く息をしている。全身で重力を感じている。そして、顔が痒い。野村は極めて混乱したが、人間に戻ったらしいことを理解した。

 徐々に人間の感覚を取り戻してきて、実に腹が減っていることに気がついた。野村は衝動的に、家の外に出てお気に入りの赤い花を探しにきたが、蜜を吸えない体であることに気がついた。自分の行動の滑稽さに笑いがこらえらなかった。人目を気にせず大笑いした。こんなに笑ったのはいつぶりだろう。

 お気に入りの赤い花とは、サルビアだった。これなら人間でも蜜を吸えるじゃないか。今度は少し人目を気にしながら、サルビアの花を摘んで抜き、小学生の頃にやったように、蜜を吸った。美味しい。これだ、まさにこの味だ。

 時間の概念を思い出した野村は、部屋に戻り、床に転がっている目覚まし時計を手に取り日付を見た。意識を失ってから1日と半分が過ぎていた。今日は土曜日じゃないか。休日の昼下がりに起きあがって、しかも部屋の外に出ただなんて、野村にとっては革命的な出来事だった。

 野村の体は軽くなっていた。蚊として飛んでいたからなのか(もとより本当に飛んでいたのか、夢だったのかは不明だが)、よく寝たからなのかはわからないが、生まれ変わったような気分だった。そういえば、近くの公園にも赤い花があったはずだ。あれもサルビアなのか。美味しいものが食べたい。数年ぶりに、休日に外に出かけよう。いろんな花をみよう。自分の心が踊ることをしよう。


 出かける前に、もう一個だけサルビアの花を摘み、しっかりと味わった。

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