胸に証もつ俺の一生 9
不遇なのではない、誰も間違っていない、私も間違っていないからここにいられる、あの子に会えた。私は楽しい、だからもういい。
そう言うあの子の、手をつかめなかった。弟が迎えに来たと。あの家には帰らなくてもいいから、どうかチャンスが欲しい。一緒にいたい。名前を呼びたい。もう一度、俺と日常を過ごしてほしい。
日常を、過ごしたこともないのにそんな言葉が思い浮かぶ、体が動こうとする。でも止まった。近づけなかった。
幸せなんだよ、とあの子が言った。あとすこしであの服ができるよ、あの服ができたら私、どうにかできる気がするよ。
そう言っているその子に近づくことはできなかった、見ていることもできなかった。だからそこから逃げた。
強くならなければいけない。誰にも口出しできないように。ほとんど使っていない金は、あの子に渡そう。苦しい生活を強いられているだろうから。結局母親と祖母は、あの子に金も渡さず、騙し続けて放置したのだ。それで、いなくなったからと焦って今更探している。それでも自分達が悪いとは思っていない。思っていないのに、弟には何も告げていないようだった。寂しがりの弟のためにたまに呼び出されては、俺に不安を吐露した。
戦場の合間、あの子が好きだったという男にも会いに行った。ひどく憔悴した様子で、金はいらないもういらないと繰り返していた。あの子がどういう身分の子かは知らず、罪人だと聞かされていたらしい。子どもを特に好むとも聞いていて、妹や弟に構うのを警戒していたと。あまりに様子が違うから、依頼者への報告に疑問を書いた。その下書きを妹が持ちだした。文字をあの子に習っていた妹は、あの子の名前がわかったから、その手紙が、男があの子に宛てた恋文だと思った。もどかしい二人の恋の背中を押すための好意だった。ーーそれで全てが終わった。
あの子が好きだった男が、聞いてもいないのにあの子の思い出を話す。あの子はお菓子を受け取ると、子供のようにはしゃいだ。お返しにと、子供用の装飾品をくれた。もったいないからと断ると、弟妹に絵本をくれて、それで文字を教えてくれた。
あの子から、俺は何ももらったことはない。
当たり前だ。あの子とほとんど関わらなかった。だから、この男に嫉妬するのはお門違いだ。自分も何かをもらいたかった、せめて思い出があれば違ったのだろうか。あの中庭で、二人で遊んだ記憶があれば違ったのだろうか。
そう思いながら、憤る気持ちは抑えられず、それでもその男は俺の前に立ち続けていた。反吐が出るな、と言葉にして、それが男に対するものなのか自分に対するものなのかわからないままそこを立ち去った。
逃げて、逃げて逃げて。戦場ならば、魔物相手なら、誰にも気づかれない。気づかれなければないも同じ。この醜い感情は無かったことにできる。あの子を前にしなければ、あの子が幸せである限り。あの子の居場所はわかっているから、だから大丈夫。
自分勝手で、口先だけの。想いばかりのくだらない行動だった。その合間に、できたことがあったはずだった。
あの子は消えてしまった。今度は俺の知らないところに。
それを知ったのは、祖母と祖父も交えた数カ月ぶりの会食の時だった。




