頬に傷もつ私の一生 10
「この頬の傷、神官にでも頼むの?それには金が必要でしょ。その分のお金を私に頂戴。私を傷つけた人を罪に問うつもりはないわ。あと数日で船が出る。一ヶ月後に乗るつもりだったけど、別に早いなら早いでいいわ。お金さえくれるなら、私は行くから。あなたたちの知らないところに行くわ。この国から出ていく」
出ていく、という言葉に妹が目を見開く。震える口に、私を見て、自分の父を見た。すがるみたいに。
「そんなことが、ゆるされるとでも」
「私を傷つけたとなれば、あなたたち大変なことになるわよ」
説得力が、空気を押すみたいにこの場が緊張する。これは本当だった。あの家の除かれた娘だと分かったら、お母様を同じくすると分かったら、それを傷つけたと分かったら、この家がぐちゃぐちゃになるかもしれない。娘を忘れたお母様がおもいだすかもしれない。苦しんでしまうかもしれない。
差し出したお茶会の、甘いお菓子を覚えてる。その時微笑んだお母様を覚えてる。こわれるまえの、私を愛してくれたお母様を覚えてる。少しわがままで、だいぶ気まぐれで、自分を優先したあの人はもう関わりのない娘のことで傷つくだろう。自分の娘だったという過去だけで傷ついてしまう。
この目の前の男の、揺るぎない基準を知っている。妻と子どもを傷つけない。失いかけた宝物を守り抜くって、絶対にそれだけは確かだと思った。お互い、話したことすらなかったのに、それがわかるくらい、大切なものは同じだった。――私の一方通行だけど。
「この頬の傷さえあれば、私だってわかるでしょ。治すにはすごいお金がかかるんでしょ。その金をくれればいい。それでこの国から出ていく。私のお店にもお金を渡して。それで全てなかったことにするから」
「国を出たところで、野垂れ死ぬだけだろう」
「うるさい」
死んでもどうでもいい人間に向ける、慈悲に聞こえる事実の指摘に腹が立つ。
もし私がお母様と一緒にこの場所に来たのなら、この人は私のお父様になったんだろうか。
――そんな無意味な想定が頭によぎって、一瞬でも想像する自分に吐き気がした。
ずきずきと頬の傷からくる痛みが頭に響いた。涙がぼとぼと出たけど、そんなのは生理現象だった。平民風情か、あなたたちはいつもそうだと酒場で聞いたお決まりの言葉を吐いて、立ち去ろうとする私の目の先に、妹が涙を溜めて私を見返していた。
愛された。
この言葉に、裏切りに、理不尽さに衝撃を受けるくらい、この子は愛された。
常識を当たり前に知り、優雅な我が儘に身を任せ、誰に傷つけられることも予想できないほど愛された。
お母様は、この子を愛した。
それがとてつもなく重く喉の奥から迫り上がってきて、それを押しとどめたのは弟の姿だった。凱旋の、大衆にかこまれながらゆうゆうと行くあの子。
大丈夫。この思い出を忘れなければ、もう大丈夫。
お金なんかいらない。今の蓄えでも船に乗ることはできる。貯めたお金と、足りなければどこかで働ければいい。働けなければそれまでだろう。
血だらけの服をそのままに、私は立ち上がって屋敷を去った。




