魔物と村とトゥーリアと(2)
岩陰に入り込んだ気まぐれな風に、俺の鼻先を撫でられる。
「……うぅ……」
寝起きのぼんやりとした意識のまま、鼻をひくつかせて周囲の匂いを嗅ぎ取る。
冷やされた水のような冷たさに鼻腔をくすぐられ、俺はようやく瞼を開けた。
岩陰から見える空は雲一つない満点の星空が広がっていて、月も高い位置にいる。どうやら寝ている間に時間が大分過ぎたようだ。
「……どうにか治った……か」
左腕にあった絶え間ない痛みは疼きほどに変わり、右手の平は綺麗に復元されている。
身体のだるさが抜けてないのと、頭の中に鈍い痛みのような、あるいはむずむずとした痒みのような不快さがあるが、これは術式の酷使によるものと解っているので、強張った腕で腰元の袋を漁り、血清を取り出して口の中へ入れて噛み砕いた。味の全くしない固焼きパンのようなそれを我慢して咀嚼し、唾液で無理矢理飲み込むことでようやく落ち着いた。
音を立てないように腰を起こし、膝を曲げ、ゆっくりと立ち上がった。
「……信号術式……は朝まで待った方がいいか」
戦場であるからには誰かが夜番で起きている可能性はあったが、トゥーリアが起きているかどうかはわからないし、何より敵に見つかる可能性もある。
「問題は、術式剣がないことだな」
術式剣は俺の術式の媒体としても必要だし、外装骨格の武装としても使う。
もっと単純に言えば、俺の身を守る武器として必要だ。
失せ物探しの術式はあるが、俺の使える術式は太陽がある時間帯に限られる。いずれにしろ、今出来る事はここでじっと過ごして朝を迎えるか、周囲を出来る範囲で探索するかくらいだろう。
「……腹は……減ってきたな」
偵察から戻って食べるつもりでいたので、非常用の干し肉が少しあるだけ。ここから村へ戻る為にはあの崖を登るか、時間はかかるが迂回する道を探すか。もしくは危険を承知で《エクステリオッサ》で崖を駆け上がるか。
「……獣の匂いはしないしな……」
俺の鼻は相変わらず土と冷たい水の匂いしかしなかった――はずだった。
「これは……人の匂い、か?」
風上から脂っぽい匂いがする。騎士団の仲間と数日遠征した時、服に染み付いた汗の匂いを薄めるとこんな感じだろう。
念の為に身の回りを確認する。
武器になりそうなのは、調理用の小型ナイフ。
血清や術式に使う道具が入った小袋。
少し身体を動かせば、関節などに痛みはない、しかし疲労でやや重い身体。
悩ましいことがあるとすれば、この匂いの元が本当に人間かどうかわからないという事だろう。
「……行くか……」
この場で朝を迎えるよりはいくらかマシだろう。
無理せず、向かってくる風からの匂いを頼りに、慎重に歩みを進めていく。
一刻は歩いただろうか。月明かりが微かに届く程度の明るさの中、目立つように手に灯りを持った人が先を歩いていた。
危険だとは思いつつも、仔細に確認する為、暗がりとなる壁際を歩きながら近づいていく。
中肉中背の身体に鎧などは身に付けてなく、腰元に長剣だけを携えている。
歩き方に迷いがないところを見ると、目的地があって歩いていると見受けられた。
こちらからは背面しか見えないので、変異種なのかどうなのかの判断――角の形はそれぞれで、見える位置にそれがなかった――は出来なかった。
判断は付かないが、それでもここはまだどうにかなる。
俺は一旦足を止め、小さな声で加速の術式を発動させた。
足場の悪さを物ともせずに一気に駆け寄ると、足音に気づいた相手が振り返って抜刀しようとした手を払い退け、驚いた表情をした男の顔へ勢いそのままで膝を叩き込み、鼻が折れる感触を感じつつそのまま地面に倒して腰元のナイフを首に当てた。
「俺の質問に答えろ」
俺の言葉は通じているようで、男は小さく、だがよく通る声で返事を返した。
「ここで何をしている」
「食糧の、調達だ」
「こんなところでか?」
俺の鼻は、相変わらず動植物の匂いを嗅ぎ取ってはいない。
だが、男が嘘を言っているようにも見えなかった。
「ここから少し先に行けば、茸の自生する洞窟がある。そこで迷い混んだかどこからか入り込んできた動物なんかもいて、少しは捕まえられるのさ」
口調に震えがないのが気になるが、男は何度もそうしているのか当然と言った口調で返してきた。
「……次だ。お前はどこに所属している?」
「黄の国だ」
「従者か?」
「ははっ。これでも騎士様だ――よっ!」
「!?」
男は首元の刃物を無視して俺の手を掴み、俺は咄嗟に刃を押して切り付けようとしたが何故か岩のような硬さで刃が通らず、逆にどこにそんな力があるのかと思うほどの力で俺をぶん投げた。
空中で体勢を立て直し両手足で着地して起き上がると、手元のナイフを見る。
その刃先は、何故か欠けてしまっていた。
「し、死ぬ気かお前!?」
「殺気はなかったからな。それに、守るべき王と民を残して簡単には死ねないさ」
肩をすくめて飄々と言ってのける男。喉元には刃物が触れた跡すらなく、一体どういう手品なのか。
「……良い度胸だ」
刃物を戻し、手を握り締めて構える。
倒せるかどうかは――その必要があるかどうかも含めて――わからないが、戦う意志は見せておかないとこちらが不利になる。
「お前は誰だ?」
今度は男の方が尋ねてきた。
「……俺がそうと名乗っても、お前は俺を信じるのか?」
「こうしてまともに受け答えが出来ている分、城の連中よりは幾分マシだろ」
城の、ということは本当に騎士なのか?
「どういう事だ? 城の連中は少し話したが、国王も含めてちゃんと喋っていたぞ?」
俺の返答に男は首を傾げ、額に指を当てて考え、何かに至ったのかようやく俺の方を向いた。
「……もしかしてアレを国王と思ったのか? あんな印象の薄い大臣を?」
確かに気配は薄かったし、どういう姿だったかを問われると匂いしか思い出せないが……。
「そうか――わかった」
ただこれで、男の話している内容に嘘はないとわかった。
なら、拳を解いても構わないだろう。
「襲ってすまなかった。俺は白の国の御子でラストックという。ラストー、と呼んでくれ」
「俺は黄の国の騎士フーマニタス・トリーブスだ。フーマンでいい」
向こうから差し出された手を握り返す。指先に当たる手の指の固さは、サヌス様同様の剣を握り続けた者の手だった。
「フーマン、色々聞きたい事があるが……」
ぐぎゅるるるるるるるぅ……。
ずっと我慢していた俺の腹だ。みっともなさと恥ずかしさで、思わず俺の顔から湯気が出る。
「まずは場所を変えるか。案内するから食材の確保を手伝ってくれ」
「……助かる……」
フーマンが落としたランタンを拾って術式で光を灯している間に非常用の干し肉を口に入れ、飲み込まないよう噛み続けながらやや後ろをついて行く。
噛んだ肉の味が薄れて飲み込む頃に、俺たちは洞窟に辿り着いた。内部は光苔が自生して視界に不自由がない程には明るく、空気も通り道があるのか澱んでいる感じはしなかった。
奥へと進むと確かに所々できのこが自生していて、さらにその近くには頭が無くなっている動物までいた。
「死んでいる……のか?」
「ああ。条件設定した術式をきのこにかけて、触れたら爆発するようにしてある」
なかなかえげつないが、確かに狩り方としてはありなのかもしれない。
フーマンは動物の皮を剥ぎ、手早く血抜きをして処理していく。俺はどうすべきかと迷っていると、毒のあるきのこを集めるように頼まれた。食べられないのにどうしてと思ったが、術式で毒素を分解して食べるという。やる事があるなら、と俺は指定されたきのこを摘んでいく。
お互いに仕事を進めていると、そうだと一言前置きしてからフーマンが言葉を続けた。
「作業しながらでも良いんだが、とりあえずどうしてここに来たのか聞いてもいいか?」
「ああ、それは――」
俺は、黄の国に来たところから説明した。
「なるほど。あの崖はハシスキという崖に巣を作る鳥が根城にしてるところだな。あの村ではそれを名産にしているんだ。美味いぞ」
「かなり高さがあると思うが……」
「それはまあ、な。普段だったら大木に命綱を付けて降りたり、術式を使える者が手助けしたりして捕ってるからな」
命懸けの狩猟という事か。
鳥の肉はさっぱりしてるし香料による味付けも俺の好物なので、また俺の腹が鳴った。
「気になるなら、事態が解決したら紹介してやるよ」
ニヤリと口角を上げて笑うと、肉を掲げて見せられた。
ますます俺の腹が刺激されてるが、こちらから催促するのは問題だろう。
口元にたまる涎を飲み込んで我慢しつつ、代わりにここまでで気になっていた事を口にした。
「……黄の国の《エクステリオッサ》はどうした?」
「御子様のを除いて全滅した」
まるで飯の支度をするように言われた内容に、俺の頭は飲み込めなかった。
ポカンとしてしまった俺の表情で理解したのか、フーマンは説明を続ける。
「使い手が全員、黒の国の連中に殺されたのさ」
「待て。簡単に言うが、どうしてそうなった?」
「黒の刺客だ」
確かに黒の国はここ中央大陸にあるし、隣接する黄と赤の国は時折戦いがあると聞いてはいたが…。
「黒の術式は知っているか?」
「いや、全く」
黒の術式に関しては、白の国では騎士団長や術師長なんかの極々一部の偉い人にしか知識として与えられない、とされている。
「知っておくといい。アレは『融合系』だ」
融合系――名前の通り、混ぜ合わせる為の術式。
「術式によるものか、はたまた別の能力かは知らないが、一人一人融合されて自害させられた」
淡々と話される内容は、おそらく事実なのだろうが、実感したものではないのだろう。おそらく、下の者から報告を受けたか、あるいは結果としてそうと判断したか。
「自害した者は融合して見た目は元の姿に戻れるからな。あとはわかるだろう?」
わかりはするが、あまり納得したくはなかった。
「……見分けがつかないのか?」
「鋼騎士同士は気が合う連中だからな。パッと見てわからなければ捉えるのは簡単だ」
それは、鋼騎士が持つ術式誓約による共感性の話だろう。鋼騎士となった者は老いるまで国に仕え、戦えなくなってようやく解放される。国からの様々な恩賞と引き換えに、国に逆らうことは許されず、また戦で死ぬときは何も残らないのだから。
「……なるほど……」
どうやら事態は想定より最悪の方向に行きつつある。
それだけわかれば、後はさらなる最悪を見据えて行動するしかない。
「さて、戻るか」
収穫した食糧を渡された袋に詰め、それを背負ってまたフーマンの後を追う。
来た道を戻ると、大きめの岩に隠された小さな洞窟があり、その中に入った。
しゃがんだフーマンが術式を使うと、壁伝いに伝わされたロープが光り出して中を明るく照らす。
それが合図となったのか、奥から小刻みに走る軽い足音がこちらに向かってくる。
「戻ったのですねフーマン様」
「お帰りなさい!」
現れたのは、良く似た二人の兄妹。あるいは双子の男女。多種族の俺には、今一つ見分けがつかない。
「紹介しよう。こちらの紳士が黄の国の御子スペス様。こちらの淑女が黄の国の巫女アマレ様だ」




