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聖女の教育係  作者: 楪 逢月
第五章
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第十五話

そうしてその後直ぐにラウが戻ってきて、特訓は再び再開されることとなる。その後始まったその練習において、リディアナの出番が来ることは無かった。なんせラウは実際聖女になった人物なのである。聖女としての振る舞いに関しては誰よりも詳しいと言っても差し支えがないだろう。故にリディアナが口を出す必要なんて一切なかった。

正確無比に行われるラウの指導の横でリディアナのすることと言ったら、たまにラウが行き過ぎた指導をするのをやんわりと止めることくらいである。来週のパーティーが近いせいか熱の入りすぎた指導をしようとするラウを止めるのは、中々に大変なことではあった。だがその甲斐あって、ラウとは少し親しくなれたような気もする。


そうして日が暮れる頃。迎えに来たクレアによってラウが帰って行って、すっかりとくたびれてしまったメアリとエレンを労わっているうちにリディアナの帰りの時間も訪れてしまった。今日迎えの時間を遅らせたのは一応意味があったと思いつつ、今はレンと共に夕日が差し込む中神殿の入り口へと戻っているところである。居住区を超えてきて渡り廊下へ、ここを抜ければもう直ぐ大聖堂だ。しかしもうすぐというところで、リディアナは思わず足を止めた。


「……今日の空は、赤焼け色ではないわね」

「いつもより遅いからな」


いつもの時間ならば真っ赤に焼けている空は、夜の宵闇色と重なるように混じり合い静かな色を描いている。思わず渡り廊下から差し込む僅かな日差しを見上げ呟いたリディアナに、帰ってきたのは素っ気ないそんな言葉だった。しかし足を止めたリディアナに合わせてか、レンは同じように歩みを止めてこちらを見つめてくれる。その瞳には厭うような色が浮かぶことはなく、ただ見守るような優しさがあって。

その視線に置いていくと、少し前に言われた言葉を思い出してリディアナはふと柔らかい笑みを浮かべた。置いていくとはもう言わない当たり、彼は前に比べると随分優しくなってくれたような気もする。いや、前から優しくはあったのだが。


「……何、笑ってんだ」

「ふふ、ごめんなさい。少し前のことを思い出して」


その笑みに呆れたような声が帰ってきたので、漸くリディアナはレンの方へと一歩足を進めた。今日一日はラウを止めるのに忙しかったので、こんな風に穏やかに過ごすと心が休まる気がする。

冷たい冬の空気を冷たいと感じれないほど、リディアナの体は冷たい。けれどそれでもレンとこうして過ごす時間は穏やかだったから。暖かく感じる心に表情を弛めながら、リディアナは少し前に居るレンに追いついた。


そうして再び歩き出した二人は、しかし数歩程歩いたところで前方から歩いてきた影に再び足を止める。こつこつと硬い印象を受ける足音は、神殿騎士やシスターのものでなかった。レンと話していたが故に視線を下げていたリディアナは、その足音に思わず顔を上げてそうして限界まで目を見開いた。

赤焼けに照らし出された金色の髪に息を飲んだのはどちらだっただろう。咄嗟のことにかレンが自分の前に立って、庇うように手を広げる。そのことに目の前のその人物は僅かに瞳を細めた。その鈍く輝く緑の瞳に、リディアナは思わず声を零す。


「……でん、か」

「…………」


足を止めたその人物とは、エリックであった。どうしてここに、そんな感情をありありと示すようなリディアナの震えた声が渡り廊下に小さく響き渡る。冷たく緑の瞳を輝かせた男はその声に、どこか複雑そうにその瞳を細めた。ふいと逸らされた視線は、リディアナを見なかったことにでもしたいような意図が感じ取れて。


「……邪魔だ、どけろ」

「…………」


そうしてエリックは結局、リディアナをその視線のまま見なかったことにしたのだろう。自分のことを呼んだリディアナから視線を逸らすと、エリックはリディアナを庇うように手を広げるレンに冷たく一瞥を向けた。その言葉に大人しく従いながらも、レンはしかしエリックから警戒するような視線を逸らすことはなく。

リディアナの手を引いて道を開けるように下がったレンは、未だ庇うような体勢を取ったままエリックに視線を向けていた。最早敵意とも言えるようなそんな視線。それを見てさすがに不敬だとそう思ったリディアナが止めようとしたその時、しかしそれよりも早くエリックが口を開いてレンに冷たい視線を向ける。


「鬱陶しい。騎士ごっこなら他所でしろ」

「……殿下」

「お前もだ、フォンテット。もう関わる気はないとそういったはずだが」


視線と同じく、相変わらず冷たい声音だ。取り尽くしまもないとはこのことを言うのだろう。窘めるような声で呼んだリディアナにすらも、エリックは冷たい視線を向けるだけなのだから。その言葉にまだ秋だった頃の記憶が蘇り体を凍らせたリディアナに、エリックは一瞬眉を寄せた。しかしその表情に気づいたのは思わず俯いてしまったリディアナではなく、変わらず視線を向けたままのレンであったが。


「……俺はもう行く。一々足を止めさせるな」

「……ええ、お気をつけて」


リディアナが俯いたのを見てか、そのまま去って行ったエリック。その足音が徐々に遠ざかっていくことに何だか無性に泣きたくなって、リディアナは顔を上げることができなかった。どうにか声こそ絞り出すことができたが、その声に合わせてカーテシーをして見せることすらも出来なくて。

おかしな話だ。社交界などで彼に悪辣に絡まれていた時代だって楽しくはなかったのに、こんな風に言葉すらも掛けられなくなることの方が辛いだなんて。ほっとすればいいのに、安堵出来れば楽なのに、けれど往生際の悪い自分がどこかで泣いている。話せるならばまだ良かったのだ、見限られてしまうことが一番辛いということを今リディアナは思い知らされた。


早く帰らなければ、ここで足を止めていても彼が戻ってくるわけがない。幼少期の頃のようにごめんね、なんてそう言ってリディアナの手を引いてくれていた男の子はもう居ないのだ。しかしそう思っても足は動かなくて。思わず唇を噛み締めかけた瞬間、そんなリディアナの手をレンが引いた。


「おい」

「……!」


それは自分がここに居ると、そう気づかせてくれるような手で。俯いたリディアナの顔を、彼は下から覗き込んできた。こんな取り繕えていないぐしゃぐしゃになった顔なんて見られたくないのに、この身長差ではどうしても顔を隠すことが出来ない。故に今だけは彼のその身長がどうしようも無く憎かった。見られたくない情けないこんな表情を、隠すことすらも出来ないなんて。


「……泣くなよ」

「っ、泣いて……ないわ」

「涙流してないだけだろ」


眉を下げながらリディアナを見上げた彼は、そんなことを言う。泣いていないのに、思わず自分の頬に手を伸ばしても涙なんて流れていないのに、涙を流すことが泣くということなのに。けれど彼のそんな言葉を聞くと、まるで自分が泣いているようにも思えてしまった。彼の瞳に見つめられると感情をいくら押し殺しても、その奥底の本音が読み取られてしまっているような気さえもして。


「……あいつ、やっぱり嫌な奴だな」

「……え?」


ぽつり、何も言えなくなって俯いたままのリディアナを見上げたレンがそんなことを呟く。その表情に悪意はなく、ただ思ったことを告げたと言わんばかりのその顔にリディアナは思わず気が抜けた。そんなリディアナを宥めるようにして、優しい顔を浮かべたままレンは言葉を続ける。


「まぁでもどんな嫌な奴でも、あんたにとっては友達なんだろ」

「っ!」

「だから気にすんな。あんたの好きにすればいい」


友達、その言葉にまた泣きそうになってリディアナは唇を噛み締める。そんな自分の表情をまるで仕方がない子供を見るようにレンが見上げてくるから、いよいよリディアナは何も言えなくなって。

涙を堪えるので精一杯のリディアナの両手を、レンは優しく包み込むように握ってくれる。それと同時に落とされた言葉に、その冷たくも人の温度を感じる手に、ますますリディアナは泣きそうになった。彼はきっと追い打ちを掛けているつもりは無いのだろう。しかしその無自覚の一挙一動が、今のリディアナの心にどうしようもなく響いた。


ぽたりと、ついに重なり合った二人の両手に一滴の雫が落ちる。それにぎょっとしたように見下ろした紫の瞳が見開かれても一度そうやって零してしまえば、もうリディアナは耐えることが出来なかった。堰を切ったように溢れ出したその涙が両手に、地面に零れ落ちていく。リディアナの真下にいたレンから見れば、それは雨のようにも見えただろう。

ついに泣いてしまったと、リディアナの心にふとそんな言葉が思い浮かぶ。泣いてはいけないと思っていた、自分に泣く資格なんてないと思っていた。けれどリディアナにとって大事になってしまった人たちがリディアナを受け入れてくれたからか、思わず緩んだ心に釣られるようにして涙は止まることなく零れ落ちる。それはきっと、九年の重みが詰まった涙だったのかもしれない。リディアナが初めて少しだけ、自分を許せた瞬間だったとも言えるだろう。


「っごめ、ごめんなさい……あの、もう大丈夫だから……もう、ここからは一人で帰るから……」

「…………」


思ったよりも涙が止まらなくて、リディアナは焦りのままに言葉を募らせた。涙の止め方がわからなくて動揺するなんて子供でもあるまいしと、そう思いながらもリディアナはレンの手を振り払う。彼をこれ以上困らせるわけにもいかない、早く泣き止んで帰らなければ。そうしてそのまま乱暴に目を擦るも、やはり涙は溢れかえって止まらない。そうしてレンも、立ち去ってはくれない。彼はいつだってリディアナを、一人にはしてくれない。


「……本当に、大丈夫だから……」


いや、本当は困らせたくないとかそんな相手のことを気遣った感情からではないのだ。本当はただ、これ以上情けない自分をレンに見せたくなかった。これ以上弱いところを彼に晒して、そうして彼に依存したくなかったから。それなのに必死に涙を抑えて首を振るリディアナの前から、彼は立ち去ってくれない。困ったように眉を下げて、ただ涙を零すリディアナを見つめるだけだ。


「お願い、だから……!」

「……はぁ」


とうとう座り込んで、未だ止まらない涙を懸命に止めようとするリディアナ。もう泣き顔が見られないことに安堵して、しかしやはり涙は止まらなくて、服にぽたぽたと涙の跡が落ちていく。どうすれば止められるだろうか、どうすればもう泣かなくていいだろうか、そう必死に考えを募らせたリディアナにその時聞こえたのは、呆れたような彼の溜息だった。


「……阿呆」

「っ!?」


ぐしゃりと、そんな音を立てるようにしてリディアナの髪がかき混ぜられる。突然触れられて肩を撥ねさせたリディアナに落とされた声は、心底呆れたようなそんな色を秘めていて。そのまま頭を乱暴に撫でられて思わず硬直するリディアナに、しかし今度上から落とされたのは優しい声だった。


「しんどいなら、頼れって言っただろ」


その声に恐る恐ると顔を上げる。涙は未だ止まらないままだけれど、ぐらぐらと揺らいでいた心は彼のその声にかいつのまにか落ち着きを取り戻していた。見上げた先優しい顔をしたレンがリディアナを見下ろしながら、今度は優しく頭を撫でる。しゃがみこんだリディアナと、立ち上がったレンという今の二人の身長差だからこそ出来ることだった。

優しく、どこか漉くようにレンの指がリディアナの金髪をさらりと撫ぜては掬っていく。それは先程乱暴に撫でたせいで乱れてしまったリディアナの髪を直すような、そんな仕草だった。涙が徐々に緩やかな流れになっていく。それでもまだ長年流していなかったせいか、その波はまだ完全に止まることはなかったけれど。


「何も気にせず、泣いてていい」

「…………」

「俺がいるから」


その言葉にもう涙を止めようとは思わなかった。撫でてくれる手に抵抗すること無く、リディアナはただ瞳を細めてその手を享受する。駄目になってしまいそうだという、そんな焦りが心を突くことはもうない。この人にだけは縋っても良いのだと、改めてそう思えることが出来たから。

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