第十話
「メアリちゃん、また動きが硬くなってるわよ!」
「っ、はい!」
「エレンちゃんも! 背筋を治しなさい!」
「……はーい」
しかしそうしてレンに手を引かれる形で部屋に戻ってきたリディアナを待っていたのは、二人の聖女候補を厳しく指導するラウの姿だった。扉を開けた瞬間に見えたその光景に思わずぽかんと口を開いたリディアナ。しかし呆然とするリディアナを置き去りにするように、現実は畳み掛けてくる。
「そんな振る舞いでは失笑を買うわよ! 凛として優雅に、誰よりも美しく!」
「はい!」
「う、はーい」
リディアナがこの部屋を出る前までの、穏やかで優しそうな老婦人といった姿はどこに行ったのだろう。厳しく眉を顰めて言葉を飛ばすラウは、もはや別人なのではないかとも思わせる程であった。人とは立ち振る舞いでこんなにも変わるのかと、そう呆然と立ち尽くしていたリディアナにしかしそこで声が掛けられる。
「……帰ってきてくださったところ悪いですけれど、今日はあたくしたちの出番はなさそうですわよ」
「……クレア様」
部屋の端の方から聞こえてきた声に、そこではっとしてリディアナは視線を向けた。ラウの課すスパルタな練習の邪魔にならないようにか部屋の隅っこ、そこにはクレアとミレーニアが居心地が悪そうに並んで佇んでいる。練習の邪魔にならないようにとリディアナは二人に習うように隅によった。それには勿論レンも着いてくる。
つい厳しく指導するラウとされている二人の方へと目を向けてしまっていたが、やはりクレアもちゃんと戻って来ていたらしい。先程よりも少しだけ冷たく聞こえるクレアのその声に、リディアナは僅かに眉を下げた。クレアのその隣、ミレーニアはその声に何かを感じ取ったのか心配そうにこちらに視線を向けてくれている。
「あたくし、今日はラウ様に任せて失礼しようと思ってますの。連れてきた責任として、迎えにだけは来ますけれど」
「そう、ですか…」
どうやら本日の訓練をラウに任せて、クレアは今日は帰ろうとしているらしかった。クレアはリディアナとは違い教育係の任にだけ集中している訳ではなく、社交界に顔を出しているとも聞いている。きっと彼女はリディアナと同じか、いやそれ以上に忙しい身なのであろう。
クレアはやはりすごい人だ。リディアナは心からそう思う。だから彼女が自分の背中を追う必要なんてない。しかしけれどそれを告げてはきっとまた、クレアを傷つけてしまうだけなのだろう。結局こうして対面してもなんと言えばいいのかわからずに、リディアナは曖昧な笑みを浮かべて相槌を打った。
「ええ、貴方も帰って養生なさったら?」
「……いえ、メアリが心配なので」
しかしいくら声音が冷たくても、けれどクレアは相変わらず優しい。気遣うような彼女のリディアナは僅かに微笑んでみせる。それに素直に頷けないことに、若干の罪悪感を抱きつつも。
リディアナのこの不調は少し休んだところで回復するようなものでは無い。それに家に帰ったところで、どうせ満足に体や心を癒すことは出来ないのだ。いくら覚悟を決めているとしても、母が散りゆこうとしている恐怖を一人で耐える苦痛には未だ慣れない。それならば今になっては一番信頼できる人物が居る、この場所でリディアナは過ごしたいのだ。御者にも今日は遅くなると、そう告げてしまったわけであるし。
「……そう。お好きになさって」
困ったように微笑むリディアナに返ってきたその声はやはり、少しだけ冷たかった。向けていた視線を伏せてリディアナの横をすり抜け、そうして帰ろうとするクレア。きっと今彼女が帰ろうとする理由には、先程の話の件も含まれているのだろう。今のクレアは、自分を傷つけたリディアナとは到底一緒に居たくないはずだ。しかしリディアナは一度レンの手を強く手を握ると、その背中に恐る恐ると声をかけた。
「あの、クレア様」
「……何かしら?」
震えそうになる声を根性で立て直す。声を掛けられて振り返った薔薇色の瞳が向けてくるその視線からは、やはりまだ憤りのようなものを感じて。けれどこのまま仲違いをしたままなのは、彼女を傷つけたまま別れてしまうのはどうしても嫌だったから。
小さく息を吸って、そしてリディアナは微笑む。彼女が背中を追いかけてくれることになった、あの日のリディアナ・フォンテットを再現するように。今だけはせめて、こんな背中を追いかけようとしてくれている彼女に報いられるように。
「……体のこと、もう少し考えることを決めました。背中を押して下さり、ありがとうございます」
「!」
緩慢に言葉を紡いで、そうしてリディアナは頭を下げる。再び見上げた先、クレアのその瞳は何かに驚いたかのように見開かれていて。けれどその瞳からはもう燻るような憤りは消えていた。そのことに安堵しつつも、リディアナは黙ってクレアを見つめる。
クレアがリディアナの努力を認めてくれたから、リディアナは考え直す機会を得ることが出来た。手痛い言葉ではあったし、結果的にはクレアを傷つけることになってしまったけれど。それでもリディアナは天秤を揺るがす一因となってくれたクレアに、感謝を告げるように微笑んでみせた。
「……そういうところが、好きじゃありませんの」
「え?」
「いいえ、何も言ってませんわ! お好きになさってくださいまし!」
一拍の間の後、クレアが呟いたその言葉をリディアナが聞き取ることは出来なくて。けれどそれでもいつも通りの不遜な笑顔を浮かべてクレアはこちらを見つめるから、きっと彼女も何かに納得出来たのだろう。
ただ謝ることは寧ろ不誠実になると思った。結局リディアナは考えると決めただけで、その後の展望を決めた訳では無いのだから。しかしせめてリディアナの背中を押してくれた彼女に、何か少しでも報いたくて。どうやらその気持ちは届いたらしいと、リディアナはそこで一息つく。無意識の内に浮かんだ柔らかな微笑みは、クレアの背中が見えなくなるまでその背をずっと追っていた。
「……何かあったの? 喧嘩?」
「……まぁ、私が酷いことを言ってしまって」
「リディが? まぁ仲直り出来たみたいならいいけど」
そうしてクレアが帰っていって、その背中が見えなくなった頃。心配そうに見守ってくれていたミレーニアは、そこで漸くリディアナに声を掛ける。部屋の中心では未だ激しい特訓が繰り広げられているけれど、リディアナとクレアの一悶着はどうやら決着が着いたのだとそう考えて。
巻き込んでしまったことに申し訳なさそうに微笑むリディアナに、しかしミレーニアは笑って首を振る。何があったかは知らないが、仲直り出来たのならそれでいいだろうとそう思って。戻ってきた時の表情に比べて、帰って行った時のクレアの表情は晴れ晴れとしていた訳であるし。
「っていうかクレア様の言う通り、ほんとにやることないわよ? 」
「あら……」
それはともかくとして、問題なのは部屋の中心の方なのであった。ミレーニアはちらりと部屋の中心の方に目を向ける。クレアに連れられる形でリディアナが居なくなり、いつの間にかレンも姿を消し、そうして一人取り残されていたミレーニアだからこそわかることがあった。今聖女候補の二人がしている礼は聖杯の儀の最初、国王に捧げる礼。つまるところ聖杯の儀の序盤の序盤であるということが。その視線に釣られる形で二人を見たリディアナも、それに気づいて思わず苦笑を浮かべた。聖女ラウ様は思っていたよりもスパルタらしい、と。
「だって聖女ラウ様、だっけ。あの人下手したらあたしより体力あるんだけど……引退するのって本当なの?」
国での教育係を思い出すわ、とそこで露骨にげんなりとしてみせたミレーニアにリディアナは苦笑する。リディアナとクレアは途中で抜け出してしまったものの、ミレーニアはここで見学という名の孤軍奮闘を繰り広げていたわけだ。きっと自由奔放な彼女としては、役目を奪われた見学だけの時間は退屈だったことだろう。
「……後、またいちゃついてたわけ?」
「……え?」
「手、繋いでるけど」
しかし続けるように告げられたその言葉にリディアナは硬直する。ミレーニアの呆れたような視線が見つめるのは、離すことを忘れていたレンと繋いだ手だった。硬い動きで振り返った先、ミレーニアと同じように呆れた表情を浮かべていた見せつけるようにレンがひらりと手を振る。瞬間、リディアナの顔は真っ赤に染まった。
「ちが、違うのです! その、これは勇気づけて貰ってただけで……!」
「……はいはい。リディってば趣味が悪いんだから」
ぱっと手を離したリディアナは、慌ててレンから距離を取る。真っ赤になった情けない表情を、レンにだけは見て欲しくなくて。まぁそうは言っても振り返った瞬間にその表情が見られてしまってたのに、変わりは無いのだが。
距離を取ったその勢いのままリディアナはミレーニアに詰め寄って首を振るも、呆れたような表情のミレーニアは取り合ってくれず。本当にクレアと話すのに不安を抱えて手を繋いで貰っていただけなのに、何故か趣味が悪いとまで言われてしまった。
「まぁいちゃついてんのはいいんだけど、どうする? 何もすることないけど」
「だからいちゃ、いちゃついてなどは……! けれど、確かにミレーニア様の言う通りですね」
ミレーニアの言葉を慌てて否定しつつも、しかしリディアナはそこで誤解を解くのを諦めた。今のミレーニアでは何を言っても聞いてくれないと、そう悟ったからである。その代わりというように、リディアナは再びメアリたちの方に目を向けた。
指先が僅かに揺らいだり、足元が少しだけよろけたり、表情が小さく強ばっていたり。それだけでやり直しを要求するラウの言葉は厳しくも、しかしどこまでも正確だった。そこにはもう五十年ほど前になる時代に彼女が研鑽した、その努力の全てが詰め込まれているのだろう。だからこそリディアナがそこに口を挟むことは出来ない。
「っ、もうしんどいんだけど……!」
「泣き言は言わない! 聖女になるとはそういうことです!」
そうやって零したエレンのの弱音にすら、ラウは甘い顔を見せることなかった。厳しく叱咤し、何度だってもう一度を要求する。しかしそれが何よりも大きいラウの愛であるのだろう。自分の後を継ぐ者が、冷たい社交界で笑いものになんてされない為に。
「っは、頑張りましょ、エレンさん!」
「……もー、そう言われたらやるしかないなぁ」
一見厳し過ぎるようにも見えるラウの特訓。しかしそんな中でもメアリは笑顔を絶やさなかった。寧ろ弱音を吐いたエレンを励まし、そうして食らいついていこうとしている。きっと彼女はわかっているのだろう、ラウのこれが何よりも自分たちのためであると。
そうしてエレンも口では文句を言いつつ、それを理解しているらしい。明らかに草臥れた表情を浮かべて、けれどエレンはその中に不敵な笑みを浮かべる。それにラウが満足そうに微笑むその光景は確かに、こちらの邪魔を許さないそんな雰囲気があった。責任感のあるクレアが帰ったのに、納得ができるほど。
「……散歩でもする? あ、勿論こいつは置いて」
「は? 置いてくのはお前だろ」
「……もう、喧嘩は駄目ですよ」
悪戯っぽく笑って提案するミレーニアはしかし、レンに視線を向けた瞬間に真顔になった。そんな彼女を睨みつけて毒を吐くレン。もはや息があった険悪さを見せる二人に、リディアナは苦笑して見せた。こんな二人に段々慣れてきてしまってるのはいい事なのか、悪いことなのかと考えつつも。
また言い合いが始まってしまうだろうか。どう止めればいいかとそう考えていたリディアナはしかし、そこで開いた扉の方に目を向けた。そうしてそこに立っていた人物に目を見開く。
「……おや、道理で懐かしい声だと思いましたよ」
「神殿長様……!」
そこに立っていたのはコルトであった。今日も柔らかな微笑みを携えた彼に全員が視線を吸い寄せられる。神殿の責任者である彼がここに来ることなんて、今まで無かったからだ。練習をしていた二人も思わず動きを止めて、そうしてコルトを見つめる。そんな中、悪戯っぽい声がそこに響いた。
「……あら? コルト」
「お久しぶりです、ラウ様」
「三ヶ月前の式典振りだから、そんなに長くはないでしょう?」
「はは、歳を取ると日々の流れが早く思えましてな。まだそれしか経っておりませんでしたか」
楽しそうに微笑むラウに、コルトは少しだけ困ったように、けれど嬉しそうに微笑んだ。親しげな友人のように挨拶を交わす二人を、ぽかんと見つめるリディアナたち。二人が会話を交わすそこには、踏み入っては行けないようなそんな雰囲気があった。