第八話
「お母様、リディアナです。失礼しますね」
「……ええ、お入りなさい」
晩餐の後、リディアナは急ぎ足で真っ直ぐにとある部屋に向かった。そうして辿り着いた角部屋の扉を前に一度深呼吸をすると、その扉に手を伸ばす。慣れた動作で扉を三回ノックした後、リディアナは扉の向こうへと声を掛けた。
返ってきた女性の嫋やかな声に頷いて扉を恐る恐ると開ける。開いた扉の先では、ベッドに腰を掛けた美しい女性が笑みを携えてリディアナを待っていた。女性と目が合った瞬間、リディアナの顔は破顔する。先程までの完璧な淑女ぶりを忘れて、まるでただの幼い少女に戻ったかのように。
「お母様!」
「ふふ、元気そうで良かったわ」
満面の笑みを浮かべたままリディアナは用意されていた椅子に腰を掛ける。すると先程まで母親に付いていた侍女たちは一礼をして部屋を去って行った。恐らく気を利かせてくれたのだろう。その気遣いに心の中で感謝して、リディアナは女性の方へと視線を向けた。相変わらず穏やかに浮かんだ笑顔が、リディアナを見返してくれる。
「本日は体調が良いとお父様から聞いて、挨拶に参りました。色々報告もしたくって」
「あら? その表情からして素敵な報告なのね。楽しみだわ」
女性、アナスタシアはリディアナの言葉に笑みを浮かべる。その表情はリディアナが普段浮かべる表情にとても良く似ていた。いや、リディアナが彼女にそっくりだという方が正しいのだろうか。
長い小麦色の髪に、紫がかった青い瞳。彼女が持つその色彩たちはリディアナの容姿に近くはなかった。けれど顔立ちという点においては、リディアナは父よりも母に似ている。遠い昔に「リディアナは私達の良いところを集めて作られたようね」と母親に微笑まれたことを、リディアナは今でも覚えていた。
「私が聖女の教育係に選ばれた話はもう聞かれましたか?」
「ええ、アーノルドから。その歳で教育係を務めた令嬢なんて、聞いたことがないわ。母親としてとっても誇らしい。私が眠ってる間にまたよく頑張ってくれたのね、リディアナ」
「いいえ! お母様のためになるならこれくらい容易いことです」
リディアナの問いかけにアナスタシアは頷くと、緩慢とした口調と仕草で愛おしい娘を褒める。リディアナは母親の言葉に頬を紅潮させて微笑むと、ゆっくりと頷いた。心底嬉しくてたまらないと、その表情が語る。そんな娘にアナスタシアも、一層優しく微笑んだ。
「それよりお母様、よろしければ今日のことを聞いていただいてもいいですか?」
「あら、とっても楽しみね。もしかして、貴方が担当することになった聖女候補のお嬢さんのお話かしら?」
「それでは彼女の話からさせていただきますね!」
アナスタシアの夫であるアーノルドはもうすっかり大人になったと、時折訪れる夫婦の語らいでリディアナのことをそう語る。けれどアナスタシアから見れば、リディアナはまだまだ子供だった。
構ってほしくて絵本を強請ったり、褒めてほしくて勉強を頑張ったり。そんな甘えたがりで頑張り屋の可愛い娘。幼少期からリディアナは、アナスタシアの前でだけはいつだってそんな少女だった。そうしてそれは今も変わらないまま。
今日だって嬉しそうに声を弾ませて、リディアナはアナスタシアに語るのだ。その身に起きた様々な出来事を。
「私が担当することになった聖女候補の一人であるメアリは、弱々しいところもあるけれど強い少女のように見えました。笑顔がとっても可愛らしい女の子なんです」
「良い子のようでよかったわ。上手くやっていけそうかしら?」
「はい! 私も会うまでは不安だったんですけど、会ってからは彼女の支えになれればってそればかり考えていて」
どんな少女だろうと、アナスタシアはリディアナが語る「メアリ」について想像してみる。笑顔が可愛らしい、どこか儚げながらも強い少女。きっとアナスタシアが彼女に会う機会は訪れないが、もし叶うのであればその少女を一目見てみたいと思った。
こんな風にリディアナはアナスタシアの体調が良い日に、外の話や自分に起こったことを話してくれる。そんな時間は年々この部屋の外に出ることが出来なくなっていったアナスタシアにとって、何よりも大事な時間になっていた。
勿論夫であるアーノルドとの会話もまた楽しみではあるのだけど、彼は少々口下手なのだ。世界をより一層輝かせるように語るリディアナには到底敵わない。アナスタシアは夫のそういうところを好きになったのだから、不満ではないけれど。
「……それと、これはお父様に秘密なんですが」
「? ええ」
けれどリディアナの勢いはそこで落ちる。表情を暗くして萎ませた声で秘密だと口にした娘に、アナスタシアは目を丸くした。突然元気がなくなった娘を心配そうに見つめながらも、アナスタシアはリディアナの次の言葉を待つ。そんな母親を上目遣いで見つめながら、恐る恐るといった風にリディアナは今日出会うことを予想していなかった彼の話を話し始めた。
「エリックに、会ったんです。相変わらずの態度でしたが……」
「……王太子殿下に。そうだったのね」
夕暮れの時刻とは異なり、リディアナはエリックとそう王太子である彼のことを呼んだ。あれだけ冷たくされたというのにどこか親しみが込められたその声音に、アナスタシアは眉を下げる。社交界で二人の仲は有名だ。けれどアナスタシアやアーノルド、それと王家の関係者たちは二人の仲の、その昔を知っていた。
二人がまだ十にも満たぬ歳であったころ。リディアナとエリックは親友とも呼べるほどの仲だった。どちらも早熟で聡明な子供であったからか、話が合う同年代というのがお互いしか居なかったのだろう。二人は会う機会があるたびに子供らしくも子供らしくなく、二人きりで話し遊んでいたのだ。きっと今では、語ったところでその話を信じる人も少ないだろうが。
そこに恋愛感情やそれに近しい情がなかったのをアナスタシアは知っている。まだ年端も行かぬ子供であったからか、それとも本人たちがそういう対象で見れなかったのか、二人は性別の差を気にしない友人であった。
とは言え身分の釣り合いなどもあって、当時はリディアナがエリックの婚約者になるという話は王家とフォンテット家の間では大きなものになっていた。ある日、エリックの態度が一方的に変わったその日までは。
「慣れはしましたが、やはり悲しい気持ちは拭えませんね」
どこか苦く笑うリディアナにアナスタシアは眉を下げた。未だにエリックの変心の理由はわかっていない。アナスタシアとアーノルドは当然突然にして変わったエリックのその態度に疑問が募り、秘密裏に国王陛下や王妃とも会話を交わした。けれど彼らもまた、突然変わった息子に戸惑いを隠せない様子だった。
それもそのはず。その変心の時期と共に品行方正で優秀だった息子が、嫌味で不真面目な息子になってしまったのだ。そんなエリックの態度は十年近く経った現在も続いている。今では王太子として相応しくないと、そんな声すらも上がり始めている程だ。その声は、病床に伏すアナスタシアの耳に入るくらいには大きくなり始めている。
「お父様が聞いたらまた抗議のお手紙を陛下に送りそうなので、秘密で」
「ええ……リディアナ、あまり気にしてはいけないわ」
「はい、お母様。大丈夫です、この十年ほどで慣れましたので」
慣れるはずがない。リディアナとエリックは当時それ程までに仲が良い友人だったのだ。それでも自分の手前強がって笑ってみせる娘にこれ以上何か言えるはずもなく、アナスタシアは口を閉じた。これ以上強く何かを言えば、次からはリディアナが何も言わなくなってしまうことを知っていたから。
アーノルドがその例だった。リディアナの心を無理に引き出そうとして、そこで父親に掛けている心労を察したリディアナが何も言わなくなってしまう。ただ微笑んで、何も気にしていないというように変わってしまう。そのせいか、今やリディアナは父であるアーノルドにエリックの話をすることはない。秘密だと、心配をかけたくないと、先程そう言ったように。
「……あ、それと。これもお父様には秘密なのですが」
「あら? 今日は秘密が多いわね」
けれどそこでリディアナは、何かを思いついたように暗い顔をぱっと明るくした。首を傾げるアナスタシアにどこか悪戯っぽい笑顔を浮かべて、その秘密を語り始める。今日最後に別れを交わした、ぶっきらぼうながらも優しい、紫の瞳の少年の話を。
「レンという名前の男の子に出会ったんです。先程話したメアリの世話係の子で、あまり子供らしくない少年なんですが」
「!……ええ」
「その子の瞳がとても綺麗で。真っ直ぐで凛としてて、澄んだ紫色の瞳なんです。お母様に少し似た色の、綺麗な……」
あの紫に妙に心惹かれたのは、母親の瞳の色に近いせいなのかもしれない。リディアナは母親と話していて妙に腑に落ちた。けれど儚げな印象を受ける母親の瞳とは違って、彼のその瞳は強い意志を秘めて輝いていた。思わず目を奪われてしまうほどに、眩く。
そこでリディアナははっと顔を上げた。つい話の最中で黙り込んでしまったと、申し訳無さそうにアナスタシアの方に視線を向ける。けれど反省するリディアナを他所にアナスタシアは、ただ微笑んでいた。リディアナを見つめ、ひたすらに優しく。そんな母親の表情に自然と、リディアナの口からは今日のことが零れ出ていった。
「……その子にも勉強を教えることになって、それで今日は三人で授業をしたんです」
「あら、その子は勉強が好きなの?」
「いえ、私が提案をして。でも、楽しそうだったとは思います」
母親に尋ねられてリディアナは思い返す。一つの単語を見て首を傾げて、けれどその意味を教えたら納得したように頷いた少年を。そうしてそんな少年に、お姉さんぶりながら辿々しく説明をしていた少女を。そんな少女を少年は馬鹿にすることなく優しい目で見つめていた。
リディアナにとってあの時間は楽しいと、心からそう思える時間だった。貴族の夜会やお茶会と違って嘘偽りで固められたものない、ただ過ぎ去っていくのを惜しみたくなるような、穏やかで美しい時間だったのだ。
「……また明日、って言ってくれたんです」
そしてその時間はまた訪れるのだろう、これから何度だって。ずっと楽しいとは限らないし、いつか突然終わりが訪れるかもしれない。……いや、終わりは確実に訪れる。
それでも彼が贈ってくれたまた明日という言葉は、リディアナにとって何よりの宝物になった。その言葉で、その表情で、今日は楽しい時間を共有できたのだとそう心から信じられたから。
「良かったわね、リディアナ」
「……はい、お母様」
柔らかい表情を浮かべたリディアナに、アナスタシアは一層美しく微笑む。ちゃんとその子の事は秘密にしておくわと、そう笑った母親にリディアナもまた笑い、そうして更けていく夜の最中、親子二人きりの時間は和やかに過ぎていった。