第四話
老婦人が微笑みながら告げたその言葉に、部屋中の空気が凍ったように感じたのはリディアナの気の所為ではないだろう。気取られぬ程度に周りを見渡すと、突然放たれた爆弾に誰もが硬直していて。そんな中呑気にページを捲る音が聞こえてきた事に、リディアナはそこで脱力する。視界の端に映る彼は突然現れたラウのことを気にもせず、相変わらず一心に視線を本の方へと落としていた。身分や他人に無関心な彼らしくはあるけど、少しは気にしてほしいような。
「……初めまして、ラウ様。私の名前はリディアナ・フォンテットと申します」
「あら、綺麗なお嬢さんね。教育係の方、であっているかしら?」
「はい」
だが結果としては視界の端に映した彼の姿に、リディアナは緊張を解すことが出来たらしい。固まって言葉を発さない周りの代わりにと、リディアナは今日も完璧な笑顔と所作でカーテシーをして見せた。かつては平民であったであろうラウだが、聖女となった今では貴族と同等の身分を与えられているのだ。最高峰の身分の一角に居る公爵令嬢のリディアナであれど、真の聖女には礼を尽くさねば。
そんなリディアナの礼に、ラウの表情が柔らかく緩む。そして問いかけに頷いたリディアナに、その笑みは更に綻んでいった。その姿はどこからどう見ても、どこにでも居るような気のいい可愛らしい老婦人である。式典の際にリディアナが遠くから見た、威厳高い聖女ラウの姿とは重ならないほどに。
「そう……フォンテット家の方が教育係を務められる時代になったのね」
「……家のことをご存知なのですか?」
しかし柔らかな笑みを浮かべていたラウは、そこで何かを思い出したように少し表情を曇らせて呟いた。その言葉から複雑な感情を読み取り、リディアナは僅かに眉を下げる。恐らくラウが若かりし頃聖女候補として励んでいた時代は、リディアナの祖父母が没落の危機を立て直していたその次代と重なるのだ。故に彼女はフォンテット家が傾いていた時代の話も知っているのだろう。なんせ、当時は社交界中で相当笑いものにされていたと聞いているので。
更に付け加えればフォンテット家は傾きかけていた当時、資金繰りの件で神殿への援助を一方的な形で一時的に打ち切っていた。その件から神殿との仲も険悪だったと聞いている。恐らくそんな時代のフォンテット家の良くない噂話を聞き過ごしてきたラウにとって、今ここにリディアナが教育係として居ることが不思議に映るのかもしれない。
「ええ……あぁ、ご不快にさせてしまったのならごめんなさい」
「いいえ。過去のことですので」
どう反応していいか分からずに僅かに苦い笑みを浮かべたリディアナを見てか、そこでラウは申し訳なさそうにそう謝った。けれどリディアナは気にしなくていいと、そう告げるように首を振る。自分の家のことであれど、リディアナに過ぎていった時代のことは良くわからない。故に不快に思うもなにもないのだから。
それに先程のラウの言葉からは悪意というよりも、どこか感慨深いものを感じた。きっと彼女は、ただ過ぎていった年月を懐かしんだだけなのだろう。それならば一々目くじらを立てるような理由は無いはずだ。まぁ例え本当に馬鹿にされていたとしても、聖女という立ち位置に着いた女性を一介の令嬢であるリディアナが糾弾できるわけはないのだけれど。
「……ほら、メアリ。挨拶をして」
「エレン、貴方もでしてよ。固まるなんて、らしくありませんわ」
そこまで話して、しかしそこでリディアナは未だ固まっているメアリの方に苦笑混じりの視線を向けた。リディアナが話したことで少しでも緊張が解けていないかと期待したのだが、未だメアリは硬直から回復していないようである。それに追従する形でクレアもエレンの方に苦言を飛ばすも、そんな教育係たちの声が聞こえていないかのように二人は固まったままだ。
「……その、初めまして。リティエから訪れてこの神殿に滞在している、ミレーニア・ウォル・リティエと申します」
「あら、貴方がお手伝いをしてくださっているリティエの王女様でしたのね。初めまして。それと、聖女の卵たちへのご協力を感謝します」
そうこうしている内に先に硬直が解けたのは、聖女候補の二人ではなくミレーニアの方で。彼女はぎこちないながらも美しい作法でラウに頭を下げる。最低限の知識としてこの国では聖女が尊ばれている存在だと知っているが故に、その対応は普段彼女が見せるものよりも丁寧で。
そんなミレーニアの丁寧な挨拶に、ラウもまた丁寧な礼を返した。自国ではなく他国の王族だと知っているが故のカーテシーは、やはりメアリやエレンのそれよりもずっと洗練とされていて。流石に現役でないが故にリディアナのそれよりは見劣りするような印象を受けるものの、それでもラウの作法は洗練された美しいものであった。
「メアリ、ほら」
「は、は、初めまして……メアリ・カーラー、です……」
何とかこの流れでせめて挨拶が出来ないかと、隣のメアリを再度リディアナが優しく促す。そうして二度促されたからか、リディアナの優しい声に緊張が解れたからか、メアリはそこで漸く挨拶をすることが出来た。とはいえその動きは先程の練習よりも硬すぎて、挨拶は片言紛いのものになってはいたけれど。これでは及第点すらあげられないな、と隣のリディアナは困ったような笑みを浮かべた。
「貴方がメアリちゃんね。ということは、あちらのお嬢さんがクレアちゃんの聖女候補のエレンちゃんかしら」
とはいえそんなメアリのそんな片言紛いの挨拶に、ラウは気にしてないと告げるように微笑んでくれる。それどころからその柔らかな緑の瞳には何かを懐かしむかのような、微笑ましいものを見つめるような色が浮かんでいて。その表情にリディアナはふと、今では洗練されているように見える彼女にもメアリのような時期があったのかとそんなことを考えた。
「……ですから、ラウ様! もうあたくしもいい歳ですので、ちゃん付はやめてくださいまし!」
「あらあら、いくつになってもクレアちゃんは私にとって可愛い孫娘のような存在よ」
「それは光栄ですけれど!」
けれどそんな思考は堪えきれないというように叫んだクレアの大きな声によって吹き飛んでいく。その大声に驚いたリディアナは、突然叫んだクレアの方に視線を向けた。そこにはどこか拗ねたように唇を尖らせるクレアの姿があって。
二人がお互いに向けるような気安い態度は、昔からの知り合いであるが故のものなのだろう。ラウの言う通り、まるで優しい祖母とその孫娘のような。クレアの家であるロビンソン家は聖女の教育係に選ばれるだけあって、神殿と深い中にある家の一つだ。確か普段のラウは現在では、そんなロビンソン家が用意した家に滞在しているはず。故に二人が親しい仲でもおかしな話ではない。
だがしかしまさかこんな言い合いをするくらいに仲が良いとは知らなかったと、リディアナはそこで微笑ましいものを見るような笑みを浮かべる。噛み付くクレアも何のその、穏やかな笑顔で窘めて見せるラウのその手腕は見事としか言いようがない。そう言われてしまえばもう強く反論ができないのか、萎んでいくクレアが少しだけ物珍しかった。
「……その、クレア様の聖女候補のエレン、です」
「ええ、エレンちゃんのお話はよく聞いてるわ。よろしくね」
「は、はーい……」
けれど結果としてはラウとクレアのその態度に緊張が抜けたのだろう。普段の飄々とした態度からは想像できないほどにしおらしく挨拶をしてみせたエレンに、ラウは相変わらず優しく微笑みかけた。その言葉にエレンの表情に一瞬だけ苦いものが走ったのは、きっと何を話されているのだろうかという不安故のことだろう。そんな表情を浮かべるエレンは年頃の少女らしく、少しだけ微笑ましかった。
「ところで、どうしてラウ様がお越しに?」
「ふん、良い質問ですわリディアナ・フォンテット! 本日ラウ様には、ミレーニア様のような特別講師として来ていただきましたのよ!」
そうして漸く全員の自己紹介が済んだところで、リディアナはそう問い掛ける。ラウが姿を表した時から気になっていたことではあったのだが、如何せん周りが固まったが故に中々話が進まなかったもので。
そんなリディアナの問い掛けに答えたのは、ラウではなく胸を張ったクレアだった。その言葉にリディアナは成程、と頷く。聖女に関する儀式について何よりも知識が深いのは、それを体験してきた聖女本人や当時の聖女候補だろう。リディアナやクレアが知っているのはあくまで伝承として受け継がれている知識でしかなく、聖杯の儀式といったそれらを体験したことがないのだから。恐らくクレアは来週のパーティーの成功のためにその伝手を使い、ラウを呼び寄せたのだろう。
「せ、聖女様が先生に……!?」
「あらあら、そんなに緊張しないくていいのよ。私だってかつては、貴方達と同じ立場だったのだから」
「ええ……あんまり想像できない、です」
けれど聖女候補の二人としては、自分達が目指す聖女に教えられるというのは当然緊張するものであったらしい。宥めるようなラウの言葉に更に身を固くした二人に、ラウは困ったように微笑んでいた。メアリは顔色を赤く染めたり青く染めたりと忙しいし、エレンも普段の余裕のある表情を崩して珍しく困り顔だ。しかしそんな二人を置いていくように、ラウは鷹揚な笑みを浮かべたままそこでぱちりと手を叩く。
「それじゃあ始めましょうか。聖杯の儀式の模擬を行っていたのでしょう? 見せていただけるかしら」
「はい、それでは……」
「お待ちになって、リディアナ・フォンテット」
ラウの言葉にやはり、音を立てるかのように硬直してみせた二人。これではいけないと助け舟を出そうとしたリディアナはしかし、いつのまにか近くに来ていたクレアによってその言葉を渡られた。手を引いてきたクレアに何事だろうと首を傾げたリディアナを、しかし下から強い視線が撃ち抜く。
「貴方が甘やかしてはいけませんの。二人には緊張感のある中、誰の助けもない壇上に立ってもらう気持ちになっていただきたいのですから」
「!……しかし、まだ早いのでは?」
真っ直ぐな薔薇色の瞳に相変わらず可愛らしい容姿に見合わない強い光を湛えた瞳であると、そう感心したのは一瞬で。クレアの言葉にリディアナはそこで彼女の意図に気づいて目を見開く。二人の動きは確かに見られるものにはなったが、それはあくまで社交界という残酷な壇上に立たない場合でのことだ。百人を超える貴族たちの視線が突き刺さる中、二人がそれでも普段通りに振る舞うことは難しいだろう。何故ならば、それに対する耐性がないのだから。
だからきっとクレアはラウを連れてきたのだろう。正確には二人が緊張を抱く人物を。緊張の中動かせることによって、想定された場で自分達がどこまで動けるのかをわからせるために。しかし些か時期尚早な気もして、そうしてリディアナは眉を下げる。二人は漸く通しで見れるくらいに動けるようになっただけなのだ。ラウの登場でその自信を叩き折るのは少し残酷なような。
「こういうのに早いも何もありませんわ。貴方は少しやさし、……甘すぎましてよ! 現状を知り、挫折することも一つの成長の始まりなのだから」
しかしそんなリディアナでさえもクレアは厳しく叱咤する。甘いという言葉にリディアナは再び眉を下げるも、その後に続いた言葉には考えさせられるものがあると瞳を伏せた。挫折は時に残酷な事実を人に突きつけるが、それと同時に新たな道を指し示してもくれる。あの日望む禁術が使えなくなったリディアナが、新たな道を見出したかのように。
少しだけ考え込んで、そして結局リディアナはクレアの言葉に頷いた。甘やかすばかりではきっと二人のためにはならないのだろうと、僅かに浮かんだ心配を押し殺して。頷いたリディアナに満足そうに微笑んだクレアは、しかし再びリディアナの手を引く。まるでどこかへ向かうかのように強く手を引いてくる彼女に、リディアナはきょとんと目を丸めた。
「……なので、あたくし達は一度席を外しますわよ。今二人がこちらを見て、安心されても困りますので」
「え?」
「着いてらっしゃい」
しかしどうやらその想像は正しかったらしい。その細身のどこにそんな力があるのか、リディアナは呆然と目を見開いたままそのままクレアに手を引かれてしまう。後ろで模擬が始まる合図が聞こえて慌てて振り返るも、鬼教官としてか顔つきを厳しくさせたミレーニアとは視線が合うことがなく。メアリやエレンはラウに見守られていることもあって、それどころではないらしく。
「……あたくし、貴方に話もありますの」
それでは彼は、と。そうレンに視線を向けかけたところでしかし、リディアナの耳はそんな小さな声を捉えた。視線を戻すと、そこには難しい表情を浮かべたクレアが居て。そこでリディアナは僅かに抵抗してた力を緩めた。浅くも長い付き合いになる彼女のそんな深刻そうな表情を、リディアナは見たことがなかったから。きっと何か大切な話があるのだろうと、抵抗を諦めてリディアナはクレアに連れられて行く。
掴んだリディアナの手に温度が感じられないことに目を伏せたクレアは、抵抗が緩んだその腕に更に唇を噛み締めた。冷たく力の入っていないリディアナのその腕は、まるで死人のようで。しかし今そんなことを告げるわけにはいかないと、葛藤を噛み殺してクレアはとある場所を目指す。今恐らく、無人であろうあの場所を。