第七話
「……それで、今日の顔合わせはどうだったんだ」
「はい。滞りなく、順調に終わりました」
晩餐の最中、父親から問われた言葉にリディアナは薄く微笑んで答えた。手元のナイフで今日のメイン料理である鶏のローストを品よく切り分け、そうして口へと運ぶ。その味はいつもと変わらなく美味しいはずなのに、夕暮れに食べたあのクッキーを思い起こすとどこか味気ないように感じた。
レンとの別れを済ませたリディアナは、無事に家の馬車で公爵家の屋敷にまで戻ることが出来た。そうして帰ってきた彼女を迎えたのは、帰りが遅くなってしまったが故の慌ただしい身支度である。
あんなに急いだのは久しぶりだと、慌てていた侍女達の顔を思い返して苦く笑う。このことであの御者の青年が侍女たちから責められないように、後でフォローを入れなければ。
リディアナは一応、帰りの馬車の中で遅刻の理由を御者に尋ねた。フォンテット家に仕えている人間がサボりなどの理由で遅れたとは考えにくいが、念の為その可能性を考慮してである。
彼は顔を青くしながら、本来この時間なら混雑しない道が城の騎士達で溢れかえっていたことが原因なのだと謝っていた。何となくその原因がわかったリディアナは御者のその「不手際」を責めないでおくことにして、神殿で出会った第一王子の顔を思い浮かべたのだった。
「この家は先々代の影響で神殿との繋がりが薄い。お前がその架け橋になれるのではないかと期待している」
「はい、お父様」
今リディアナと晩餐を共にしているワイングラスを持った厳格そうな男は、リディアナの返事に表情を緩めた。リディアナと同じ色彩の金の髪とロイヤルブルーの瞳を持つ彼こそが、リディアナの父親であるアーノルド・フォンテット。今代のフォンテット公爵である。
歳を重ねながらも衰えぬその美しい顔立ちには性差で僅かな違いがあれども、確かにリディアナの面影があった。その身分や才覚も相まって、若い頃は婚約の申込みが途絶えなかったとリディアナは昔に聞いたことがある。そんな若かりし頃の父を射止めた、母親のその口から。
「家を出る前には多少不安を感じていましたが、問題なくお役目を務められそうです」
「ああ、無理ない程度にな」
リディアナの言葉にアーノルドは頷く。けれどそこまで続いていた会話はそこで途切れ、沈黙が部屋を満たした。
居心地の悪いその静寂に、リディアナは食事を進めながらもその視線をとある方向に向ける。父親の隣に置かれた、誰も座られていないその椅子に。そこに人が座っていた頃はこんな風に会話が途切れることはなかったと、過去の記憶を思い返しつつ。
その椅子が最後に彼女を乗せたのはもう半年程前になる。けれどその椅子はどんなに使われていなくとも仕舞われることはないし、他の誰かに座られたりもしない。いつかまた彼女がその椅子に座って三人で食事が出来るのではないかと、その期待を捨てられないのだ。リディアナも、きっとアーノルドも。
「……今日のナーシャは調子がいいらしい。食事の後に会話をしてきたらどうだ?」
「! 本当、ですか?」
「ああ、構わない。前回から一月程経っているのだから」
空席の椅子を見つめる娘の寂しげな様子に気づいたアーノルドは、一瞬の躊躇いの後に不器用な笑みを浮かべてそうリディアナへ提案した。その言葉に弾かれたように顔を上げて瞳を輝せたリディアナに、ほっとしたような表情を浮かべてゆっくりと頷く。もっとも父の突然の言葉に心を踊らせたリディアナは、その些細な表情の変化には気づけなかったが。
ナーシャ、そうアーノルドが愛称で呼んだその人の名前はアナスタシア。リディアナの母親であり、リディアナにとって何よりも大切な人物だ。リディアナが前回に話したのは一月程前であり、それからはアナスタシアの容態のこともあって話す機会がなかった。だが今日はそんな母親と話すことが出来るらしい。
「……それと、お前の婚約のことだが」
しかし貴族の話とは楽しい事ばかりではない。リディアナは次に聞こえた父親のその言葉に、緩んでいた表情を一気に引き締めた。様々なことがリディアナの頭を過ぎる。母親のこと、聖女教育のこと、それと……自分のこと。過ぎ去っていった記憶たちに瞳を閉じて、そうしてリディアナはゆっくりとその首を横に振った。
「……私の意志は変わらないままです。お母様が亡くなるその日までは、そういったお話を考える気にはなりません」
「そう、か」
リディアナの言葉にアーノルドは眉を顰め、けれど何も反論することなく頷いた。ここ数年で何度も繰り返されたやり取りだ。駄目で元々だったのだろうとリディアナはそう考えて、少し胸を痛める。これが正しいことだとわかっていても、父を困らせることに変わりはないのだ。それが少し申し訳ない。
リディアナは今年で十七歳。高位貴族の令嬢ということもあり、本来であれば婚約者が居ないほうがおかしい年齢だ。同世代の令嬢たちは一部の例外こそあれど婚約者が居るし、既に結婚して夫人になっている者も居る。
それなのに何故リディアナに未だに婚約者が居ないのか。勿論婚約の申込みがないわけでは断じてない。高い身分と絶世の美貌、そうして才覚を有すリディアナはかつての父と同じで各所から引く手数多だ。何度断られても同じ縁談を持ち込む貴族だって多く居る。
リディアナに婚約者が居ない理由。それは単純に当人がその話を全て拒絶しているからだ。それは結婚が大きな仕事である令嬢にしては職務放棄に他ならないのだが、リディアナの場合は一般的な令嬢とかなり事情が違った。
まず一つに、病気で満足に働けない母親のために今フォンテット家や家人を管理してるのはリディアナである。本来夫人の仕事であるそれを、リディアナは務めているのだ。また他家との交流や社交もフォンテット家はリディアナを主軸として行われており、その働きぶりは到底未婚の令嬢とは思えない程である。
けれどリディアナのその働きぶりも傍目から見れば魅力的に映るのだろう。そうしてまた各所から婚約の話が持ち上がるのだが、リディアナは一度もその首を縦に振ったことがない。ただ美しい笑顔を浮かべて話術で求婚者たちを管に巻く。決して手に入らない高嶺の花だと、誰もがそう嘯くくらいには適齢期に入ってからのこの数年間、同じことを繰り返してきたのだ。
唯一リディアナに婚約を強制できる存在であるアーノルドも、母親のことを持ち出されるとリディアナに強くは言えない。家族であるが故に、リディアナのその言葉が真実であり本音であることが理解できるからだ。
リディアナが年若い令嬢にしては異常な程に働くのは、全ては愛する母親のため。母親が病弱のせいで公爵家は上手くいっていないのだと、他人からそんな心無い言葉を投げかけられないため。それを父親であるアーノルドはよく理解している。自分の娘は母親のためであるのなら、自分の身を投げ捨てることも厭わないと。だから父として、彼は更なる重みを娘に負わせることに罪悪感があった。
「お前の意志を尊重する。教育係に付いたこともこれからは断る理由の一つになるだろう。まぁ話は増えるだろうが」
「……苦労をおかけします。ですが、ありがとうございます、お父様」
リディアナは美しく微笑む。まだ十七だというのにその微笑みにはその歳特有のあどけなさがなかった。娘の表情や素振りから少女らしさや子供らしさが消えたのは、いつからのことだっただろうか。アーノルドは思い出しかけた古い苦い記憶に蓋をして、リディアナに不器用に微笑む。今ではリディアナの年相応の表情が見えるのは、母親の話を持ち出したときくらいだ。
きっとアーノルドが今のリディアナに出来ることなど、もう少ない。そういう隙を父であるアーノルドにすら見せることがないのだ。ならば出来得る限り我儘を言わないようにしているこの娘の、唯一の我儘だけは叶えてやりたかった。彼にとってたった一人愛した妻との、大事な娘なのだから。
「……そう言えば、魔眼関係の書物を持ち出しても構わないでしょうか」
「魔眼? 構わないが……」
そこで突然リディアナから問われたことに、アーノルドは目を丸めた。絵本などの持ち出しは先日許可を出した。聖女教育に使うのだろうとの判断からだったが、魔眼関連の書物は一体何に使うというのだろう。確かにこの国の歴史に関わってはいるが、聖女に学ばせるには些か局所的すぎる。
首を傾げたアーノルドに、リディアナは優しい笑みを浮かべた。アーノルドに見せる完璧な笑みではなく、母親に見せる表情に近いその笑みにアーノルドの瞳は見開かれる。そんな父の様子に気づかず、リディアナは話を続けた。
「今日もほんの少しながら絵本を通し、簡単な授業を行ったのです。その授業で彼女は魔眼に興味を持ったようで……読みたい本という明確な目標があれば、文字の勉強も順調に進むと思いますし」
「……あ、ああ。構わない」
「重ね重ね、ありがとうございます。お父様」
動揺を押し殺す父の姿に最後まで気づくことなく、リディアナは晴れやかな笑みを浮かべた。今彼女の頭に浮かんでいるのは、今日出会った二人の生徒が好奇心に瞳を輝かせる姿である。あの本は学術的過ぎてまだ二人には早いが、先程告げたとおりきっと二人の最初の目標になるはずだ。
明日が楽しみだという、その感覚はリディアナにとって実に久しぶりのものだった。母親のことがあってから、いつだって彼女にとっての未来は暗雲が立ち込めるものであったから。けれど明日という日は少しだけ、そう少しだけ、リディアナにとって心躍る日になる。もしかしたら、その次の日も次の日も。
二人のことを思い浮かべたまま、スープの最後の一口を口へと運ぶ。野菜の甘みが優しい、リディアナの好きな味だった。そんなリディアナを、アーノルドは少し安堵したような瞳で見守っていた。