閑話 一
四章と五章の間、メアリ視点でのリディアナには語られなかった閑話を五話程挟みます。他者視点が嫌という方は五話後から更新される本編をお待ち下さい。読まずとも恐らく本編に支障はありませんが、読んでいただけるとより流れがわかりやすくなるかと思います。
雪は降る、時は進む。例え知ってしまった現実に時よ止まれと願ったとしても、叶うことなくただ無情に。凍って見える白い廊下に視線を落としつつ、メアリはそこで顔を上げた。後ろから着いてくる二人分の足音に怖いような、安心するような、そんな複雑な感情を抱いて。
この足音を聞いていると思い出す。あの日自室で緊張から体を凍らせていたメアリは、近づいてくる足音に怯えていたのだ。また同じことが繰り返されるだけだと、そう内心諦めていて。けれど扉が開いた瞬間、そんな感情は霧が晴れるかのように消えていった。あの美しく澄んだ青の瞳と視線が合った時に。今まで見てきた中で誰よりも美しい人に出会った、あの日に。
「……あの、ミレーニア様」
「あら、どうしたの?」
「聞きたいことが、あるんです」
リディアナの過去とそこで犯した罪を聞いた後のこと。大聖堂へと向かう道すがら、自室から十分な距離を取ったところでメアリは唐突に足を止めた。自分に着いてきていた二人の方を振り返り、そうしてメアリはミレーニアの方へと声をかける。緊張からか思わず震えてしまった声に不格好だと、内心そう苦笑しつつも。
「……その、リディアナ様のしたことは……本当に罪なのでしょうか?」
「!……それは」
僅かに赤く腫れた黄緑の瞳を伏せて、そうして相変わらずメアリは震えが治まらないままの声でそう問いかけた。その言葉にミレーニアの青灰色の瞳は見開かれた後、困ったように伏せられる。そんな反応をしたのはその隣に居たクラウディオも一緒で。
メアリには二人が浮かべたその表情が、何かに迷うようなものに見えた。それがメアリに真実を告げることを迷った表情なのか、それとも二人もまだリディアナの犯した罪を罪だと断定できないからなのか、そこまではメアリにはわからなかったけれど。もしメアリがリディアナだったのなら、分かるのだろうか。未だ痛むままのメアリの心中に、そんなふわりとした疑問が浮かんだ。
話を聞いて、それでもメアリにはわからないままだ。リディアナの手前引き下がりはしたが、納得ができていない。リディアナは自分のやったことを罪だと、許されないものだとそう語った。けれどそれでもメアリには大切な誰かを救うために誰も傷つけなかったリディアナの覚悟が、到底罪に問われるようなものには思えなくて。
呪術は邪悪なもので、禁術はもっと許されないもの。確かにメアリはそう習ったし、それらがそういうものだと認識していた。それでもリディアナが使った術には邪悪さの欠片もなかった。そこに込められていたのは誰かを害すような邪悪な感情ではなく、一人の少女の切なる悲しい願いだけ。リディアナは本当にもう残りわずかしか生きられないような、仮に生きられたとしても首を撥ねられるような、そう問われるような罪を犯したのだろうか。そんな疑問に魂が強く叫ぶ、そんなことはないはずだと。
「……わからないです。悪いのは絶対リディアナ様じゃないのに」
だからといって誰が悪かったのか、それを決めるには今のメアリにとってその世界は遠すぎたけれど。自室と大聖堂を繋ぐ渡り廊下に冷たい風が吹き込む。冬特有の身を切るような、そんな風が。まるでメアリの悲しく乱れる心に呼応するように、代わりに泣き叫んでくれるように。けれど本当に泣きたいのはきっと、リディアナのはずなのだ。
話している間、リディアナは決して涙を流すことはなかった。未だその過去は生傷のまま癒えていないままだろうに、それでも彼女は涙を流すことなく儚げな笑みを湛えていて。それはまるで代償を受けて涙を流すことが出来ないミランダのように。しかしミランダのそれとは違い涙の代わりに浮かんでいたあの笑顔はどうしようも無い程、リディアナの意思でしかないのだろう。思い出す度に胸を襲う痛みに、メアリは唇を噛み締めた。
「……いっぱいあるのよ」
「……?」
「本人が悪くなくても、周りが悪かったとしても。それでも渦中の人間が罪だと断定されることなんて。きっと、この世の中にたくさん」
しかし口内に血の味が滲み始めたところで、メアリは聞こえてきた声に顔を上げる。メアリの言葉に眉を下げて黙り込んでいたミレーニアは、押し殺すような声でそう告げた。ぐしゃりと表情を歪めながら、降る雪のような言葉を落とす。どうしようもない現実を嘆くようなその声は、いつも明るい笑顔を浮かべているミレーニアからは想像ができないような色を秘めていて。
「だからリディのしたことは罪だって、あたしたちはそう言うしかないの。そこにあった感情に何一つだって、淀みがなくても」
言うしか無い。ミレーニアのその言葉は許されるのであれば受け入れたいと、そう告げているようにも聞こえて。いいや、実際そうなのだ。ミレーニアだって出来うることならばあの時、メアリのようにリディアナを抱きしめてしまいたかった。例え本人がそうと望まなくても、蜥蜴の如く嫌われることを想定していたとしても。それでもただ抱きしめて悪くないと、ミレーニアだってメアリのようにそう告げてしまいたかった。
けれどミレーニア個人の許したいというこの感情を、王族というこの立場は許してくれない。禁術を犯す重みを、家の名前を傷つけかねない行為へと走ったその重さを、正しく罪という形でミレーニアという王女は知っているから。面子を、矜持を、取るに足らないそれらをけれど自分たちが守らなければいけないということを。
「……悪くないって、ミレーニア様もそう思っているのに?」
「……あたしだって悪くないって、そう言いたいけど」
募らせるようなメアリの言葉に、しかしミレーニアは首を縦に降ることが出来なかった。渡り廊下には屋根が付いている。故に足を止めた三人の元に雪が降り積もるわけが無い。けれど誰かが言葉を零す度、誰かが視線を下げる度、三人の心には何かが積もっていった。悲しいとも苦しいとも言えないような、そんな感情が。どうしようもない現状に、気持ちではわかりあえても言葉ではすれ違い続ける現実に。
「……でもあたしには、リディが言う責任ってやつの重みもわかるから」
「……そう、だな」
苦笑を滲ませてそう告げたミレーニアに、クラウディオもまた掠れた声で頷いた。もしミレーニアが王女じゃなければ、立場ある者でなければ、きっと素直にメアリの言葉に頷けたのかもしれない。いいやそれどころでは済まさず、リディアナは悪くないと何度も援護したかもしれない。本人ですらも困らせてしまうほどに、言葉を重ねたのかもしれない。
けれどミレーニアは、そしてクラウディオは、立場ある人間なのだ。禁術の危険性については施された教育によって痛いほどに知っている。ミレーニアはその瞳でその醜悪さすらも目にしてしまっている。だから頷けない。責任というものをある意味では、リディアナよりも強く背負っている二人だからこそ。
「……すみません。ほんとはわかってるんです、私が駄々を捏ねてることくらい」
「メアリ……」
ミレーニアの諭すような視線に何を思ったのだろう。メアリはそこで視線を下げると、一筋その頬に涙を伝わせた。先程のように子供のように泣きじゃくる訳ではなく、ただどうしようもない現状を押し殺すかのように流れた一筋。それはあまりにもメアリらしくなくて。
本当は、わかっている。いいや、その本質までを平民である自分が理解できているのかはわからないけれど。それでも今自分が駄々をこねていることくらいは、メアリにもわかっている。聖女候補という、平民に比べれば少しは責任を持つ立場になったからこそ。
ただそれでも相変わらずこの心は認められないままだ。正しくないと、間違っているとこの心はそう叫び続けている。たかだか魔力を持って生まれられなかった程度で、たかだか少し悪い術に手を染めたからって、それで全てを失わなければいけないほどの罪をリディアナは犯していない。例え誰に石を投げられても、心無い侮蔑を受けても、それでもメアリはこの考えを揺るがすことは無いだろう。到底聖女らしくないと、そうはわかっていても。
「でも、それでも私は理解しません。救われて欲しいって願います」
そうして言葉に出したことで、その心は余計に確かになった。困ったようにこちらを見つめてくる二対の青灰色に微笑んだその笑顔からは少しだけ、リディアナの面影を感じて。もっともこの場でそれに気づき目を瞠ったのは、たった一人ミレーニアだけだったけれど。
「……願ったら、届きますかね」
冷たい空気に小さな呟きを落として、そうして慣れた手付きでメアリは指を絡ませた。ここに来てから毎日のように欠かさず祈り続けてきたからか、その姿は堂に入っていて。メアリは考える。もしリディアナの罪を誰も許さなくても、本人であるリディアナでさえも許さなくても。それでもメアリは許して願おう。どうか彼女が救われますようにと。
だってそうでなければ、あまりにも悲しすぎる。そんな結末はリディアナには似合わない、似合わないのだ。いつだって誰かに手を差し伸べて、いつだって誰かを許し続けて、けれど自分だけは許さないなんて。例え完璧でなくても、欠陥品と本人がそう語っても、メアリの瞳の中では未だリディアナはその輝きを霞ませないままだ。誰よりも尊敬を寄せる、誰よりも美しい人のまま。友人とそう呼びたいと決めたその目標も、色褪せないまま。
「……たくさん、いっぱい、今日から最期の日まで……ずっと祈り続けて」
「……ええ」
「そうしたら、そうしたら……全部ひっくり返らないかなぁ」
結局言葉は揺らいでしまった。もう泣かないようにとそう決めていたのにと思いつつ、感情を重ねてしまえばどうしてもそれを耐えることが出来なくて。涙に揺らぐその言葉を慰めるようなミレーニアの相槌に瞳を閉じて、そうしてメアリは祈った。暗闇の中思い浮かんだのは、いつだって優しくこちらを見つめてくる、どんな宝石よりも美しい青の瞳だ。メアリを救ってくれた、どうしようもない程に優しい人。
「……大妖精様、どうか眩い奇跡をリディアナ様に」
冷たい空気にそんな願い乞う声が響く。奇跡を切望するメアリの言葉に瞳を伏せたのはクラウディオもミレーニアも同じで。妖精に願ったところでそんな都合の良い奇跡が起きるわけがないとわかっていても、けれど二人は少女のそんな切なる願いを否定するほど非情にはなれなかった。
内心だって二人も同じような願いを抱かなかったわけではないのだ。リディアナを好ましく思う人間ならきっと、誰だって同じ願いを抱くだろう。全てをひっくり返す、都合の良い奇跡が空から降って来ないかと。到底それが無理な話だとは知っていて、けれど。
けれどメアリのそんな考えを言葉で肯定することが出来ないからこそ、二人も内心祈った。何か奇跡が起きて全てがひっくり返って、あの優しく美しい少女が最大の幸福を手に入れられる結末が訪れないかと。きっと二人の立場を考えれば、そう祈ること自体が間違いだとしても。