第二十一話
「……悪い、変なこと言って」
「……いいえ」
結局その話はリディアナの深いところまで踏み込むことはなく、レンから謝る形で終わった。リディアナを休ませたいがために始めた話だったというのに、これでは負担をかけるばかりだとレンがそう判断したからだ。浮かんでいた鮮やかな花びらも、それと同時に姿を消す。そのことに残念だという感情を浮かばせながらも、リディアナはそっとその瞳を伏せた。動揺して揺らいだ心を宥めるように、その心臓をそっと抑えつつ。
「ちょっとは、気晴れたか」
「……ふふ、そうね。悪くない気分ではあるかも」
話をなかったことにするようなレンの言葉。それに小さく微笑みながら、リディアナは頷いた。先程の花びらのおかげで少し気分が上向いたことに、間違いはないのだ。例え未だメアリの、そうしてレンの悪くないという言葉がリディアナの心の中で未だに残響していたとしても。
優しい言葉を重ねられれば重ねられる程、温かな態度で迎えられる程、その度にリディアナの中には一つの波が訪れる。自分はもしかして悪くないのかもしれないという、そんな馬鹿げた波が。そんなことはないとわかっているのに、受け入れてくれる彼らが特別優しいだけだとわかっているはずなのに、それでもどうしても揺らいでしまうのだ。
幼い頃罪を犯したリディアナが、もしかして許されるのではないか。いつか見た夢物語が現実に近づく度、リディアナはけれどそれを少し恐ろしく思うようになった。だってそうだろう。つまりそれは、リディアナがこんなにも背負う必要が無かったことを意味するのだから。それならば自分の九年間は何だったのか、そんな虚無感に囚われてしまいそうになる。
「……そういえば貴方は、どこまで行ってきたの? 」
「は?」
「だって、国内でこの花が群生している場所なんて聞いたことがないのだもの」
思わず暗い思考に陥りそうになって、そこでリディアナはその思考をかき消した。考えたところで無駄なのだから、無為に痛みを背負う必要も無いだろうと。例え重ねた九年が無駄でも、もうそれを取り消すこともひっくり返すことも出来ないのだから。
話や自分の思考を逸らそうと、リディアナにそこで問い掛ける。突然の問い掛けにレンは怪訝な表情を浮かべたが、けれど重ねてそう問いかけられれば無視することも出来ずに。別に彼女が相手ならば隠すことではないかと、レンは素直に口を開いた。
「俺の母親の墓場」
「……え?」
「まぁつまり、故郷の村」
しかし返ってきた答えはリディアナが想定していたようなものよりもずっと重くて、一瞬リディアナはレンの言葉が理解出来ずに間抜けな声を上げた。けれど繰り返しそう言われてしまえば、決して聞き間違いでないことは分かってしまって。
「その、聞いても良かったのかしら……それ」
「別に。あんたなら何聞かれても困らないけど」
動揺したリディアナはレンのストレートな言葉に、更に言葉を詰まらせた。何の他意もなくただ信頼してくれるが故の言葉だとはわかっていても、真っ直ぐ過ぎる言葉は些かリディアナには気恥ずかしくて。ただそれでもこの少年が話してもいいと思ったのならば聞こうと、リディアナはそこで佇まいを直した。そんなリディアナに不思議そうに首を傾げつつも、レンは話を続ける。
「南の方は気温が高いからな。花はまだ咲いてた」
「そうなの?」
「ん、まぁ……あれならあと二ヶ月くらいは咲くかもな」
レンの話にリディアナは感心したように頷いた。リディアナが知らないということは、メアリとレンが生まれ育った村は結構な僻地にあるのかもしれない。もう冬が訪れたというのに、あんなにも鮮やかな花が咲き誇る場所。けれどそういう場所は、極稀にではあるが存在するのだ。
恐らく、そこは魔力が豊富に溢れた土地なのだろう。人の手があまり加えられていないそういう場所では、植物が本来の生態すらも超える形で活発に行動することがある。きっとこのアネモネもそんな場所で生まれた花なのだろうと、リディアナは手元に目を向けた。レンから貰ったその花は、紙に包んだまま今もリディアナの手元にある。水に挿してもいないのに、アネモネは先程咲き誇っていたばかりのように瑞々しいままだ。
「……一度、見てみたかったわね」
二人が育った故郷は、どんな場所なのだろう。紙の中に咲く紫色の花に、リディアナは見たこともない景色を想像した。きっと中央で育ってきたリディアナの目に真新しく移るほどに、緑豊かな土地なのだろう。花々や木々といった植物が咲き誇る、美しく穏やかな場所。そんな場所が幼い二人を育てたのだと思うと、少し感慨深くて。
「……じゃあ、行くか?」
しかし想像をして目を伏せていたリディアナは、その言葉に思わず目を見開く。見開いた先、未だ頬杖を付いたままの少年はこちらを見つめていた。何かを探るような、様子を窺うような、そんな色をアネモネと同じ紫に宿して。
行きたいと、そう言えばきっと彼は今すぐにだって連れて行ってくれるのだろう。その瞳からは確かな本気を窺えた。リディアナの手を取って、その手で魔法を操って、そうしてこの魔法使いはきっとリディアナを容易く美しいその場所へと導いてくれるはずだ。けれど。リディアナはそこで緩く首を振る。
「……そうね、いつか死んでしまった後は」
その言葉にレンの眉が寄せられたことに気づきながらも、しかしリディアナが今その心躍る提案に頷くことはなかった。だってきっと今見てしまえば、死んでしまった後の楽しみが消えてしまう。死後に楽しみなんて概念があるのかはわからないが、それでも絶望の中に一つ残るであろう希望を一過性の欲望で潰してしまうことがどうしても惜しくて。
「その花畑、きっと貴方みたいに綺麗な紫なんでしょうね」
「……あんたに言われてもな」
誤魔化すように微笑んだリディアナに、レンがそれ以上追求することはなかった。他人の傷を深く抉ろうとしない彼のその対応に、何度助けられてきただろう。そんなことを考えながらも冗談めかしてそう告げたリディアナに、レンは苦い表情を浮かべる。その言葉にきょとんとリディアナの瞳が丸くなった。
「あんたの青い目のほうが、キレイだろ」
「……そうかしら」
含みも何もない、真っ直ぐな言葉だ。純粋に心からそう思っているであろうそんなレンの言葉を、しかしリディアナは純粋に受け止めることが出来なかった。軽く首を傾げて、リディアナはその答えを曖昧に滲ませる。そんなリディアナの態度に今度瞳を丸めたのは、レンの方だった。
そんな表情に苦い感情がリディアナの心に滲む。いつの間にか立場が逆転していると、そこでリディアナは苦笑を浮かべた。確かにリディアナの双眼にはめ込まれたロイヤルブルーは美しいと、唯一無二と、そう言われることが多い。けれどどれだけ褒められても讃えられても、結局リディアナの脳裏をよぎるのはあの日の父の瞳なのだ。冷たく見下ろしたあの青は、リディアナにとっては恐ろしい色にしか思えなくて。そうして自分がそれと同じ色を持っているとそう考えてしまうと、どうしてもリディアナはそのことを良いようには考えられなかった。
「……あのさ」
「え?」
しかし黙り込んでしまったリディアナに何を思ったのか、そこでレンはリディアナに声を掛ける。躊躇うようなその声音と同じでリディアナにとっては何よりも好ましい紫は今、不安定に揺らいでいた。けれど覚悟を決めたのか、レンはそこで口を開く。掠れた小さな声は、しかし二人きりの部屋だったからこそ確かにリディアナの耳に届いて。
「多分俺は、あんたの目が何色でもキレイだって思ったと思う」
「……何色、でも」
「あんたが持ち主だから、俺にはその青もキレイに見えるんだ」
その言葉にぱちりと視界が弾けたような錯覚を抱いた。リディアナが息を呑んだことに、目の前の少年は気づいてしまっただろうか。ばくばくと高鳴り始めた心臓に、そうして息を吹き返したように血が通い始めた体に、リディアナは思わず唇を噛み締めた。だってそんな言葉は知らない、知らないのだ。
奇跡と呼ばれるロイヤルブルーだからではなく、父と同じ青だからではなく、彼はリディアナが持ち主だからこそこの青を美しいとそう言った。そう、言ってくれた。そう言われてしまったのなら、リディアナがこの色を負い目に思う必要もなくなって。だって彼からすればこの瞳がロイヤルブルーであることも、父と同じ青であることも、どうだって良いのだから。レンがこの瞳を綺麗だと褒めてくれるその理由の根本は、リディアナにあるのだ。
「……だから褒めてんだから、変な顔すんなよ。馬鹿」
「……ふふ、ひどい」
「じゃあなんで笑ってんだよ」
もう耳に馴染んだ馬鹿が少し心地よくて、リディアナは思わず微笑む。それに安心したようにレンが笑うから、心はますます柔らかく凪いでいって。どうして彼はこんなにも得難いものであったはずの言葉たちを、こうも容易くリディアナに降らせてくれるのだろう。宝石みたいな言葉を惜しみなくレンは、こうしてリディアナに注いでくれる。きっと本人も無自覚のまま。
貴方の瞳だからこそ私にもその紫が特別なものに見えるのだと、思わずリディアナもそう伝えたくなって。けれど結局その言葉をリディアナの唇が形作ることはなかった。だってそれではレンがくれた言葉をなぞるだけになってしまう。間違いなく心からの思いではあるのだけれど、きっとこの優しくもひねくれた少年はどこか湾曲して受け取ってしまうかもしれないから。
……ああ、死にたくないな。そうしてまたリディアナの覚悟は心の奥底で揺らいだ。こうして穏やかに笑い合う度、優しくて温かな思い出が募っていく度、死ぬということが恐ろしく思えてしまう。三ヶ月前までは母が死んだ後の世界なんて意味がないと思っていたのに、未練だって何一つだってなかったのに。けれど彼らと過ごしたこの三ヶ月は、痛いほどにリディアナの心に未練を積もらせた。
でも自分は死ぬのだ。あるいは、裁かれなければいけないのだ。いっそのこと意地に近いものにもなってしまっているのかもしれない。ただ己で課したこの罪を、責任を、全うしなければならないと。けれど今更どうして曲げられようか。たった一人自分だけは、重ねてきた九年間を無為だったとは認めたくないのだから。
「……ん、帰ってきた」
「……ああ、本当ね」
けれどそこでレンが零した声と僅かに聞こえた足音に、リディアナはその思考を中断させた。時間的に考えて、恐らくメアリたちが帰ってきたのだろう。気を取り直したように本を開いたレンにリディアナは微笑みつつも、近づいてくる足音に瞳を伏せた。
リディアナの罪と過去を受け入れてくれたこと、許してもらえたこと。その感謝はきっとこの身が終わる最期の日まで、薄れることはないだろう。自分に返せることはきっと、今出来る精一杯を尽くすことだ。戻ってきたのならば間近に迫りつつある来月のパーティーに向けての準備を進めなければ。そうして本に手を伸ばした瞬間に、扉は開かれる。黄緑の瞳は変わること無い色を浮かべたまま、リディアナを見つけて柔らかく輝いた。
「リディアナ様!」
扉を開けて真っ先に自分を呼んでくれた、メアリの明るい声。その声にリディアナは小さな微笑みを浮かべる。欠陥品で罪人の自分を受け入れてくれたこの声は後何度、自分の名前を呼んでくれるのだろう。後何度、自分はこの声を聞くことが出来るのだろう。どこかで未練がまた産声を上げた。
レンの言葉、メアリの言葉、ミレーニアとクラウディオの態度。揺るがされ始めたリディアナを形作る根本。抱いた未練と終わりたくないとそう募りはじめた感情は間違いなく、リディアナの中で絶対であった天秤を揺らし始めていた。きっとそれは、本人ですらも無自覚なものであったのだけれど。