第十六話
そうあの日、あの時、八歳のリディアナは願ったのだ。他の誰でもない父親にそう言われたから、自分でもそうだと思ってしまったから。自分が居なければこんなことにはならなかった、母が残酷な現実に苛まれることもなかった。だから自分が生まれたことで母から奪ったもの全てを、返すことが出来たらと。そう考えた八歳のリディアナが飛び込んだのは、家の図書室だった。
「……当時から、禁術というものがあるのは知ってたの。大きな代償さえ払えばどんな願いでも叶うかもしれない、そんな術だと」
縋るようにレンの手を握り返して、話を続ける。家庭教師から聞いたその話に、リディアナは一つの活路を見出した。今はないものとして扱われる禁術の一部を、王家の血を受け継いだ公爵家が保管していたことも知っていたから。それを使うことが罪だということは、家庭教師の教えから漠然と理解していた。けれどそんな罪を犯してでもリディアナは自分を無かったことにしたくて、母を救いたくて。
膨大な書庫を探し、漁り、引っ掻き回し。そうして幼いリディアナは漸く見つけた。最奥の棚の奥底に仕舞われた、古い書物を。あの時のことは今でも覚えている。震える指先で掠れた文字に触れた、あの感覚を。高揚と恐怖が入り混じったそれは、まだ幼かったリディアナから冷静さを失わせたのだ。
「捲って、捲って。それで見つけたのは人の存在を抹消する禁術。それさえあれば私は、なかったことになれた」
「……なかった、こと」
低くそう零したリディアナの言葉を、メアリは震える声で反復する。今リディアナは間違いなくメアリの前に居て、そうして話しているというのに。それでもこの人はいつか、自分がなかったことになることを望んだのだ。そう考えるとメアリの目に完璧に映っていたリディアナは、その輪郭をどこか朧げにしていく気がして。
「……でも、あの時の私にはその代償が払えなかった」
「……その術の、代償は?」
しかしそこで苦く笑いながら首を振ったリディアナに、ミレーニアは恐る恐ると問いかけた。話を聞くに、リディアナはどんな代償でも払う覚悟をしていたはずだろう。しかしリディアナは消えずに今ここに居る。それが何故なのか、リディアナが払えなかった代償とはなんなのか。そう問いかけたミレーニアに、リディアナはふっと自嘲するような笑みを浮かべた。
「……魔力。その術の代償は、使用者かあるいは他の誰かが持つ全ての魔力だったんです」
自嘲を含めて告げたリディアナの言葉に、ミレーニアは言葉を返すことが出来ず黙り込んだ。禁術と呪術の大きな違いとして、代償に自分以外の人物で払うことが可能だという点があげられる。他人を代償として捧げられるからこそ、禁術は呪術と明確に分けられ恐れられてきたのだ。それを知る人間は、そう多くはないけれど。
八歳のリディアナは懸命に足掻き、どんな物だって払う覚悟の下禁術に手を出そうとした。例え恐怖にその指が震えていたとしても。しかしやっとの思いで目当ての品を探し出した少女はそこで、門前払いを食らってしまったのだ。きっとその瞬間少女は、自分が持たざるものであるということを突きつけられたのだろう。彼女が抱いた絶望は、想像するだけで胸が苦しくなるようなもので。
だからといってリディアナは誰かの魔力を奪う道も選べなかったのだろう。どれだけ母が大事で何よりも愛していたとしても、どれだけ切羽詰まっていたとしても。それでもリディアナはそのために誰かを犠牲にする道を選べなかった。そこからはどうしようもなく臆病で、どうしようもなく優しい彼女の本質が伺える。
「……だから魔力を欲したのか」
「……ええ。魔力さえあれば、母は助かるとそう思ったから」
苦いクラウディオの声に、リディアナは微笑んで頷いた。その姿からは彼女が当時抱いたであろう絶望を、想起することが出来なくて。ただレンだけは知っている。握ったリディアナのその手の指が語りを続ける度に温度を失くしていくのも、自分の指を縋るように握りしめているのも。
「……でも、そんな上手くはいかなかった」
零したその声を覆うのは強い悔恨だろうか。それともかつての自分の愚かさを嘲るものだろうか。そのどちらでもあって、どちらでもないのかもしれない。再び縋るようにリディアナはレンの指を握って、そうして笑みを浮かべた。今にも泣きそうな、リディアナらしくない弱々しい笑みを。
当時のリディアナは望む術が得られなかったことに絶望する中、それでも必死に考えた。どうにかして他に母を救う手だてはないのかと、自分をなかったことに出来ないかと。そんな悲壮な願いと思考の果てに辿り着いた答えは一つ。禁術を使って魔力を得て、その魔力を代償に自分をなかったことにすればいいという答え。
その本にはどんな偶然か、奇しくも強大な魔力を得る術も書かれてあった。己の生命力と寿命、もしくは他人のそれを犠牲に強大な魔力を得られるそんな術が。リディアナは迷うことなく前者を選び、そうして強大な魔力を得たのだ。そうして魔力を得たこの身ならば、今度こそ母が救えると考えた。けれど。
「……御二方は、ご存知でしょうか?」
「……ええ、知ってるわよ」
問いかけるリディアナを見て頷いたミレーニアの表情は、今にも泣き出しそうで。そうしてその隣で小さく頷いたクラウディオの表情もまた、沈痛な色に染まっている。二人は少女の悲しい覚悟のその結末を、もう知ってしまっていた。その覚悟が無残な最期を迎えたということを。リディアナの近く、涙を堪えていたメアリがそんな二人の表情に首を傾げる。
「……人間に禁術は、一度しか使えない」
「っ、そんな……!」
クラウディオの押し殺すようなそんな言葉に、メアリの瞳に堪えられていた涙は零れ落ちていった。透明な雫が一つ、床へと吸い込まれていく。辛い過去を語っても涙一つ見せずに笑う、リディアナの代わりだというようにメアリは泣いた。リディアナが消えなくてよかったとそう思うのに、けれどその時のリディアナの胸中を思えばどうしようもないくらいに胸が締め付けられて。
禁術は生涯に一度しか使えない、悪魔は一度しか人間に微笑まない。何度願っても消えることが出来ずに呆然としたリディアナが見つけ出したのは、そんな答えだった。禁術の書の最初のページに書かれていたその文章を見た時の絶望を、今でも覚えている。嫌な記憶ほどその心に残りやすいものだ。温かな記憶や優しい記憶はあっという間に当たり前というものに変わって、忘却されていくというのに。
結局リディアナは何も得る事ができなくて、母を救うことが出来なくて。寿命と生命力の代償の果てに手に入れたのは、使い物にならなかった魔力だけ。自分の浅慮が招いたその現実に、もうひっくり返すことのできないこの盤上に、リディアナは一人涙を零した。自分の愚かさを、存在を、嘆くように。その時からリディアナは一度だって、涙を零したことはない。何も出来なかった欠陥品の自分には泣く資格もないと、そう思ってしまったから。
「……でもそんな私でも、一つだけ守ることが出来るものがあったの」
「……見送る、って言ってたな」
「……ええ」
手を握ってくれている少年の言葉に、リディアナは泣きそうな笑顔を浮かべて頷いた。一頻り泣いて、絶望して、けれどいつまでもこのままでは居られないと。そうしてリディアナが懸命に考えて思いついたのはたった一つ、完璧になること。あたかも最初から魔力があったかのように演じて、全てが完璧な令嬢になって、もう死へと進むことしか出来ないアナスタシアにとっての名誉の存在になること。
「私が完璧な令嬢としての姿を見せて、お母様に少しでも穏やかで安らかな最期を迎えてもらうこと。もうそれしか、出来ないと思ったから」
何も出来なかった自分が、産んでもらったというのに母を苦しめることしか出来なかった自分が、それでも死に向かう母がその最後に何の憂いも抱えないために。誰よりも完璧な令嬢になって、少しでも母の死に際を安らかで穏やかな物にできるように。もうリディアナにはそれしか、そんな道しか残っていなかったから。
「主治医の見立てでは母が死ぬまで、あと三ヶ月。どうしてもそれまで私は、完璧なリディアナ・フォンテットとして生きなければならないんです」
「……リディ」
笑う、笑う。今にも消えそうなほどに儚く、触れれば掻き消えてしまいそうでも、ただそこに決意と覚悟を滲ませて。か細く自分の名前を呼んだミレーニアに、リディアナは優しく微笑んだ。いつかミレーニアが褒めてくれた、白薔薇の令嬢。その名前に自分が相応しくないことなど痛いほどに知っている。自分は貴族令嬢としても、ただの人間としても、欠陥品なのだから。
ただそれでもリディアナはこの体を持たせて、そうして最期まで偽りの白薔薇として咲かなければならない。例え華やかに見える重なった花びらのその裏が、どれだけ腐食していたとしても。この口からどれだけの血が零れても。
「……ミレーニア様、この身が保つのならば断頭台に上がる覚悟はできています」
「……なに、言って」
けれどミレーニアを見つめたことでそこで一つ思い出して、リディアナは真剣な表情を作った。その瞳が真っ直ぐにミレーニアを見つめる。突然の言葉にミレーニアは瞳を見開き、そうして掠れるような声を零した。そんなリディアナの言葉に驚いたのはクラウディオも同じようで、彼もまた物騒なことを言い出したリディアナに目を微かに見開く。断頭台に立つ、それはその首を撥ねられる覚悟があるという意味だ。
「私は裁かれなければいけない身です。貴方とクラウディオ殿下ならば、それを痛いほどにわかっているはず。けれどどうか、あと三ヶ月だけ待っていただけませんか?」
「……っ!」
息を呑む二人に、それでもリディアナは言葉を撤回したりはしなかった。困ったように微笑んで、リディアナは頭を深く下げる。その姿勢からはその本気が伺えて、ミレーニアは言葉を失った。握りしめた手に爪が食い込んで痛む。本人の言う通りリディアナを裁くこと、それが正しいことなのか今のミレーニアにはわからないのだ。
初めて出会った時、リディアナのその美しい身に潜むおぞましい気配をミレーニアは心底醜いとそう思った。けれどそれはその身が払った代償を見た瞬間に、困惑という形にひっくり返る。誰かの命でもなく、誰かの大切なものでもなく、己の命を払って禁術に手を染めた人間をミレーニアが見たのは初めてだった。
だからミレーニアはリディアナのことが知りたくなって、そうして近づいたのだ。けれど突然訪れた自分を嫌な顔一つせず歓迎してくれる彼女を、メアリの勉強に集中したいだろうにミレーニアにもわかりやすく説明を入れてくれる彼女を、嫌な目を向けたはずのミレーニアに優しく接してくれる彼女を。ミレーニアはいつの間にか好ましく思うようになってしまっていた。禁術や呪術に手を染めるやつは皆悪人だと、そんなこびりついた固定概念をひっくり返すほどに。
「……どうか、お願いします」
この少女はそれでも自分を悪いと思っているのだろうか。頭を下げるリディアナを、唇を噛み締めてミレーニアは見下ろす。ミレーニアの価値観をひっくり返しておいて、それでも彼女の意識は変わらないままらしい。わかっている、禁術は使った時点で罪なのだ。例え誰も傷つけていなくても、払ったのが己の身だけであったとしても。
けれど切なる願いと絶望を花弁のように重ねて、それでも歩くことをやめなかったこの少女のその身を。その全てを無視して裁くことが正しいこととは到底思えなくて、ミレーニアは黙り込んだ。どうか報われてほしいと、救われてほしいと、そう思う。それが例え正しくなかったとしても。
「……わかったわ。お兄様も、それでいいでしょ?」
「……ああ」
「! ありがとう、ございます……!」
けれどそんな葛藤を飲みこんで、ミレーニアは頷いた。きっとここでミレーニアが首を振ることを、リディアナは望まない。裁きたくないと、断頭台に立つ必要はないと、そう言っても却ってリディアナを困らせてしまうだけだろう。隣のクラウディオもそれをわかっていたのか、ミレーニアと同じように頷いてみせた。
頭を上げて心底嬉しそうに微笑んでみせた美しい少女に、ミレーニアは苦いものを飲み込んだ。こんなことで笑ってほしいわけではないのに、と。けれどそんなミレーニアの表情にリディアナは気づくことなく、未だ泣きじゃくるメアリを慰めている。どこか迷うような表情を浮かべるミレーニアとクラウディオ。そんな彼らに気づいたのは、リディアナの過去を強く知って更に強い感情を抱いたレンだけだった。




