第十三話
「……お前ら、その人に何してる」
少年の容姿に似つかわしくない、そんな低い声が薄く整った唇から零れる。普段は理知的な光を秘めた紫色の瞳が赤く染まるその姿は、恐ろしい怪物を部屋の中にいた三人に思い起こさせた。ひゅっと、そう零れたのは誰の息だっただろうか。
「……レ、ン?」
何よりもその姿に驚いたのは、幼馴染であるメアリである。ぶっきらぼうではあるが、長い付き合いの中でいつだって自分を優しく見守ってくれていた幼馴染。そんなレンの瞳が赤く染まる姿なんて、見たことは無かったから。
けれどそんな姿に既視感を覚えて、メアリの胸がざわつく。どこか遠い過去に彼のそんな表情を見たことがあるような。しかし思い出せずに、その記憶は忘却の中に消えていった。メアリは怯えながらもレンの名前を呼ぶ。しかしそんな震えたメアリの声が、レンに届くことは無かった。
「……お前か、王子? それとも赤毛女の方か?」
「何言って……!」
「……待て、レニー。あまり刺激するな」
「っ……!」
冷たいその視線は、クラウディオとミレーニアを鋭く捉えている。誰がリディアナに害を生したのか、それを見極めるかのように。上げた掌の中で奔流する魔力と、輝きを増す瞳の中の赤い光。レンの姿は声が冷たくなる度に、ますます人外味を増していった。
理不尽とも言える言葉にミレーニアが眉を寄せて言い返そうとするも、それはミレーニアを庇うように前に立ったクラウディオに阻まれる。その言葉に悔しげにミレーニアは唇を噛み締めると、俯いた。今のレンが危険だということはミレーニアにだってわかっていたから。そんな妹に一瞬苦笑を浮かべ、しかしクラウディオは警戒するようにレンから視線を逸らさない。触れれば爆発するような危険物を見るような目で、クラウディオはレンを警戒する。
「……違うよ、違うんだよレン! 二人はリディアナ様を助けてくれて……!」
「まっ、!?」
「……メアリ」
しかしそんなクラウディオを押しやるようにして、メアリは二人の前に立った。クラウディオが止めようと声を掛けるも間に合わず、メアリは一人レンと相対する。その赤く光る瞳はなんなのか、その手に集まっているそれはなんなのか。全てが分からないことだらけの中、それでもこの一触即発の空気を収めるために。
メアリのその言葉に、レンは眉を下げた。真っ直ぐなメアリのその声が届いたのか、レンの掌の中で奔流していた魔力が徐々に収まっていく。赤色の瞳は冷静さを取り戻したように、一度強く輝くと元の紫色へと戻っていった。そうして瞳から完全に光が消えてしまえば、扉の前に立っているのはメアリがよく知る幼馴染で。そんなレンにメアリはほっと息を吐く。
「……っレン! あのね、リディアナ様が血を吐いて倒れちゃったの。苦しそうで、それでどうしたらいいか分かんなくて……!」
「……わかった。今診る」
しかしそこで、メアリはレンへと伝えなければいけない言葉を思い出した。気になることも聞きたいことも色々あるが、今はそれよりも優先しなければならない人がいる。今も尚メアリのベッドで苦しげに呻いている、リディアナのことだ。
メアリの切実さが込められた言葉にレンは眉を寄せ、けれど頷く。先程地面へと落とした紫色の花をそっと優しく拾い上げた少年は、ベッドへと近づいた。そして近づいたところで、未だ警戒するように自分を見つめているクラウディオを見上げる。
「……おい王子、赤毛女連れて退いてろ」
「……わかった」
クラウディオの顔を見て一瞬バツが悪そうに目を伏せたレンは、けれど首を振ると短くそう告げた。未だ警戒を続けながらも、とりあえずというようにクラウディオはその言葉に従う。何か言いたげに眉を寄せるミレーニアを引きずって、そうしてクラウディオはレンと入れ違う形で扉の方へと向かった。
「メアリも」
「……うん」
その言葉にメアリもまた、クラウディオに続くような形で扉へと続く。自分の幼馴染が何か出来るのか、それを忘れてしまったメアリは知らなくて。けれど彼ならば今苦しんでいるリディアナを、なんとかしてくれるのではないかと。そんな僅かな希望を宿した目でメアリは、ベッドへと近づくレンの背中を見守った。
そうして周りから人が居なくなったところで漸く、レンはリディアナに近づく。軽い動きでベッドに乗り上げると、レンは苦しげな表情を浮かべるリディアナを見下ろした。見下ろした先のその表情に僅かに眉を寄せ、その頬に手を添える。瞬間、リディアナの口から伝っていた血が消えていった。まるで、魔法のように。
「っ!」
「……あれは」
それを遠くで見ていたミレーニアとクラウディオは、奇跡のような光景に息を呑んだ。二人はこの国の出身で無いとはいえ、どの国であっても人の身から魔法が失われていることに変わりはない。本来ならば生涯見ることの出来ない奇跡を見たのだ、驚くのも無理はないだろう。けれどメアリだけはその光景に、また何かの既視感を感じていた。昔もこんな光景を、見たような。頭の中で小さな記憶が点滅する。
「……おい、聞こえてるか」
「……っ、く……」
「馬鹿、喋んな。いいから、ほら手握ってろ」
周りの驚く雰囲気を感じ取ってはいてもレンはそれらに一切歯牙をかけず、リディアナに優しく問いかけた。レンの声が聞こえたのか、口の中の血が無くなったからか、リディアナはそんな問い掛けに答えようとする。けれどそれを止めたのもまた、レンだった。
先程の恐ろしい怪物のような姿はどこにいったのか、リディアナに優しく手を握らせるその姿は大人びている少年にしか見えず。ミレーニアはそこで複雑そうに眉を寄せる。けれど今が邪魔する時でないことくらいは、ミレーニアにだって分かっていた。悔しげに眉を寄せてミレーニアはただ、美しい絵画の光景を切り取ったようにも見える二人を見つめる。
「……一応聞く、反転するか?」
「……っ、!」
「……知ってたけど。ほんと、強情だな」
優しい紫色がリディアナを見下ろした。その瞳に安堵していたリディアナは、しかし落とされた言葉に慌てて首を僅かに振る。呆れたような声に眉を下げつつ、それでもリディアナはその言葉に頷けそうにはなくて。ただ繋がったその手を縋るように、願うように握りしめる。そんな僅かな力を見せたリディアナの手を、ここに居るとそう告げるようにレンは優しく握り返してくれた。
「……『癒せ』」
「……あ、」
優しく告げられた、聞き取ることの出来ない言葉。レンがそう告げた瞬間から温かな光が繋いだ手のひらから伝わって、リディアナの全身を巡っていった。全身を苛んでいた痛みはその光が通り過ぎていく度に、ゆっくりとその身を潜めていく。
やがてその光はリディアナの心臓の辺りまで到達して、そうしてゆっくりと埋まるかのようにその心臓に沈んでいった。それが完全に沈みこんだ瞬間、ようやくリディアナは今まで通りの呼吸ができるようになる。
「……これ」
「練習したんだよ。完璧だろ」
「……ふふ、そうね。本当に、ありがとう」
微笑んで礼を告げたリディアナの姿に、レンはいつかの記憶を思い出す。あの日崩れ落ちたリディアナを支えて、そうして懸命に癒そうとした日のことを。結局禁術を抵抗するにはあの力では足りず、リディアナを中途半端に癒すことしか出来なかった。けれど今の自分は違うのだ。
嫌ってはいなくても好ましくないあの男に教えを乞うたのも、こんな時がまた訪れたらと想定したためだった。今回は正しくリディアナの役に立てたのが嬉しくて、レンの顔には綻ぶような笑顔が浮かぶ。こんな風に笑っていて欲しい、ただ安らかに。今ではそう願うくらいレンにとってリディアナは、大事な人になっていた。
「……ちょっと、二人だけの世界に入らないでもらえる?」
しかしいつものようにここは二人だけの空間というわけではない。今この時には他にも人がいるのだ。呆れたようにかけられたその言葉に、レンは眉を寄せる。リディアナを見つめていた時は優しく和らいでいた紫色に、再び警戒の色が浮かんだ。
ベッドから下りてリディアナを庇うように立つと、レンは声を掛けてきた方、すなわちミレーニアの方へと目を向けた。ミレーニアは相変わらずの視線を向けてくる少年に、気に食わないと告げるように鼻を鳴らす。そんな無言の冷戦が行われているその後ろ、二人のやり取りに気づかずにリディアナは顔色を失わせた。自分がどういう状況で倒れたのか、そこで漸く思い出したからだ。
死ぬほどの痛みと、そうしてその後にレンによって齎された安らぎ。そのおかげて一瞬状況を忘れてしまっていたと、リディアナは青ざめながらも眉を下げる。そういえば自分はメアリに勉強を教えようとした瞬間、倒れ込んでしまったのだと。
なんと告げて、なんと説明すればいいだろう。誤魔化すには大事すぎる、この状況を。けれどそんな風に頭を悩ませているリディアナの視界に飛び込んできたのは、涙で瞳を赤く腫らしながらこちらへと駆け寄ってくるメアリの姿だった。
「っ、リディアナ様!」
「……メア、リ」
レンを押しのけ、そうしてメアリはリディアナに抱きつく。未だリディアナの衣服は血で汚れているというのに、それを気にすることなく。少女特有の温かい手で強く抱きしめられて、リディアナは思わず目を見開いた。そこにあってほしいとそう願うように、メアリはリディアナから離れない。
「……メアリ、汚れてしまうわ」
「……そんなの、どうでもいいです!」
窘めるようにリディアナが眉を下げてそう告げても、メアリが首を縦に降ることは無かった。涙混じりの声で声を荒らげると、メアリはそっとリディアナの胸に頭を寄せた。心臓の音は正常な形を保って、メアリの耳へと届く。その事にまた一筋涙が流れた。今度は安堵という、そんな感情を持って。
「……リディアナ様が生きてたら、それ以外はどうでもいいんです」
「っ、メアリ……」
そんな言葉に息を呑んだリディアナはおずおずとメアリの背へと手を回し、抱き締め返した。そのことに腕の中のメアリがふにゃりと微笑む。憧れの大好きな人が生きて、そうして自分を抱きしめてくれている。当たり前のことなのにその事が宝物のように輝いて見えて。
押しのけられたレンは最初は眇めるような瞳でメアリを見ていたが、けれど抱きしめ合う二人に仕方ないというような溜息を零した。密かにその指で魔力を操り二人の衣服の血の汚れを清めつつも、レンはベッドから降りる。そうしてそっとベッドから距離を取り、レンはミレーニアとクラウディオの方へと近づいていった。二人を見てほっとしたような表情を浮かべていたミレーニアは、けれど近づいてきたレンに途端に警戒するような表情を浮かべる。
「……んで、気になってることはなんだよ」
あどけない少年の顔に似つかわしくない不遜な表情を浮かべて、そうして少年は見上げた。警戒するような視線を向けるミレーニアではなく、難しい顔をして自分を見下ろすクラウディオの方を。紫の瞳に探るような色を浮かべながらも、しかし真っ直ぐに。
「助けられた礼だ。答えてやるよ、王子」
「……そうか、それは助かる」
表情と同じ不遜な色を秘めた問いかけに、黙り込んでいたクラウディオがそこで漸く声を上げた。青灰色の瞳に理知的な色を浮かべて、クラウディオはレンを見下ろす。その視線には冷たさもなければ、厳しさもない。いっそのこと警戒すらも伺えないその視線に、レンは訝しげに眉を寄せた。ただ疑問を抱いたような透明な視線のまま、クラウディオはレンに問いかける。
「まず一つ、お前は一体なんだ。レン」
その問いかけに再び室内は緊張感に包まれた。抱きしめあっていたリディアナとメアリの二人も、思わずその問いかけに視線をレンの方へと向ける。ミレーニアは警戒するようにレンを見つめて、その視線を逸らさないまま。そうして部屋中の視線が集まったことに、レンは見た目にそぐわぬ重い溜息を吐いた。