第六話
そうして訪れたときには澄み渡るように青かった空がすっかり焼け色に染まりきった頃、リディアナは一人神殿の入り口に立っていた。家の迎えの時間が訪れたからである。
お見送りします、なんて言ってくれたメアリを断り、自習したいと言った二人のために絵本を残し、そうして一人でこの入り口まで戻ってきたのだ。
昼に比べれば少し冷たくなった風に少し眉を下げ、リディアナは一人ただぼんやりと空を眺める。迎えの御者はどうやら遅れているらしく、現在約束の時間が過ぎても家の馬車が見えることは無い。
これならばもう少し授業に時間を割いても良かっただろうか、そんなことを考えつつもリディアナは今日のことを思い返していた。
自分が担当する聖女候補に問題がある、訪れた直後に神殿長であるコルトに聞かされた時には不安が芽生えたものだが、幸い紆余曲折あって当面の間はその問題と敵対することはなさそうだ。
問題と呼ばれていた彼とリディアナの利害は現状一致しているし、彼は恐らく人間でこそないが聡明で素直な少年だ。態度こそ尖ってはいるものの、メアリを必死に守ろうとするその姿は真摯さに溢れている。悪い者の類ではないだろう。
しかし幼馴染、それだけであそこまで必死に守ろうとするだろうか。そこでリディアナはふと考える。恐らくレンは、メアリに対して何かしらの特別な感情を抱いているのだ。
それが親愛か、はたまた恋に似た情なのかはまだわからない。けれどレンにとってメアリは不動の天秤であることは、間違いないのだろう。その感情は、リディアナも少し理解できる気がした。
そんな思考に耽っていたからか、リディアナは自分に近づく足音に気づかないでいた。その音がはっきりと聞こえるようになって、そこで漸く自分に近づいている誰かに気づいたのである。
迎えの者だろうか、振り返ったリディアナはそこに立っていた人物に目を見開いた。少し前にその人物がリディアナの姿を見て躊躇うように一度足を止めたことにも、気づかず。
「……久しぶりだな、フォンテット」
「……王太子殿下」
唇が皮肉げに弧を描く。緑の瞳は嘲笑するように細まり、リディアナを見つめていた。夕焼けに照らされた金の髪はリディアナの物よりも色濃く、空の光も相まって橙色に近い色の様にも見える。
どこか中性的な美貌を持つその男の名前は、エリック・フォン・ティニア。名字が示すように王族の一人であり、王位継承権順位第一位の第一王子であり王太子だ。そして彼は、リディアナとは古い知り合いでもあった。
「……失礼致しました。まさかこのような場所で殿下にお会いするとは思ってもおらず」
一瞬動揺こそしたが、リディアナは直ぐに平静さを取り戻した。完璧なカーテシーで礼をし、美しい笑みをその顔に浮かべてみせる。そんなリディアナにエリックは一度つまらなそうに鼻を鳴らしたが、直ぐにまた嫌味な笑みを浮かべた。相手を甚振ろうとする彼のその表情は、リディアナにとって見慣れたものでもある。
「それは失礼した。まさか神殿と縁がないフォンテット家のご令嬢がここに居るとは思わなくてな」
「あら、ご存じなかったのですね。私、本日から聖女候補の教育係の一人として選ばれたのです」
あからさまとも言える嫌味は、人によっては眉を顰めるものだろう。しかしエリックのそんな態度もまた、リディアナにとってはいつものことだった。特に気にした様子もなく受け答えてみせるリディアナに、エリックは白けたように首を振る。表情は明らかにつまらないと、そう語っていた。
このエリックとリディアナの仲は社交界では有名である。勿論、悪い意味で。リディアナを見つければ嫌味を吐いてみせるエリックに、それを気にした様子もなく受け流すリディアナ。
勿論彼の戯れの対象はリディアナだけに限られた話ではない。優秀な若者と見ればその粗をつつこうとするエリックの悪癖は有名で、当然社交界では良い目で見られてはいなかった。
けれど彼が一番執拗に甚振ろうとするのはリディアナで、それ故かその性格の悪さよりもリディアナとの仲の悪さの方が噂には立ち上りやすい。
身分の近さから一時期は二人を婚約者という案もあったのだが、その仲の悪さからいつのまにかその話は消えていた。それくらいには険悪と噂される二人なのだ。
「ふん、教育係ね。相変わらず点数稼ぎに必死だな」
「お褒めにいただき光栄です」
夕焼けはますます赤みを増していく。約束の時間は大分過ぎたが、未だに家の迎えは来ない。そんな最中にエリックの嫌味を受け流しつつも、リディアナには内心疑問に思っていた。どうしてこんな時間にお付きも付けず、エリックが神殿に来ているのだろうかと。
第一王子であり王太子という身分を考えれば到底許容されない行為だ。だとすれば何か重大な理由があるのだろうか。まぁ尋ねたところで自分を嫌っている彼から、正しい答えが得られるはずはないだろう。
「ちっ……まぁいい。お前のようなつまらない女に構っている暇はないんだ」
エリックは何を言っても反応を示さないリディアナに興味を失ったようで、吐き捨てるように舌を打つと神殿の方へと去って行った。その背中に礼を捧げ、見送りながらもリディアナは考える。やはりエリックは神殿に用があるらしい。大妖精様の熱心な信者という話は聞いたことがないが、こんな時間に一人で訪れるくらいだ。存外本当に信者なのかもしれない。
そうしてその背を見送って、そこでリディアナは溜息をついた。気にしない素振りは出来てはいるだろう、慣れているのも本当だ。けれどあの冷たい態度はやはり堪える物だ。
昔を思い出して俯いたリディアナの視界に、そこで突然亜麻色の頭が映る。突然のことに思わず小さな悲鳴を上げたリディアナの目に、凛とした紫色が映った。
「……おい、大丈夫かよ」
「……ええと、びっくりしてしまって。貴方だったのね」
突然現れたレンは、どこか案じるようにリディアナを見上げた。少年である彼の背はリディアナよりも低く、俯いていてもリディアナのその表情を伺うことが出来るらしい。
いつの間にか目の前にやってきていたレンはその手にリディアナにとって見慣れたバスケットを抱えて、どこか気まずそうに視線を下げている。その罪悪感のある表情にもしかして、とリディアナは尋ねた。
「さっきの、見られてしまったかしら」
「……まぁ。あの嫌な奴にあんたが絡まれてんのは」
「ふふ、そうだったのね」
バッサリと嫌な奴、そんな風に切ってしまうレンにリディアナは思わず笑ってしまった。やはり素直な少年である。ただその素直さにはどこか危うさがあった。ただの平民として生きる分には問題ないが、時折貴族が訪れるこの神殿で暮らして行くのなら、その素直さは彼の首を締める要素になりかねないだろう。
「でもあの方は王族だから、余り正直に悪口を言ってはいけないわ。不敬罪になるの」
「…………」
「……だから明日は貴族が使うような単語が書かれた本を持ってくるから、遠回しな悪口を学びましょうね」
王族、その言葉にレンは一瞬顔を顰めた。今日の態度や今までの事を考えるに、彼はきっと王族や貴族というものにいい印象を持っていない。けれどだからといって、その印象をそのまま口にしては彼が守りたいものを十分には守れない。
黙り込んだ彼にリディアナは柔らかく微笑んで続ける。レンは続いたその言葉に目を丸くすると、ふっと顔を緩めた。
「……そこは、悪口を言うなって言うところだろ」
「誰だって言いたくなることはあるでしょう? 私にそこまで貴方を制限する権利なんてないわ」
「ほんと、中身は貴族らしくないなあんた」
リディアナの言葉にレンはどこか呆れたように言う。けれどその表情には少し笑みが浮かんでいて、リディアナもまたそんな彼の表情に笑みを浮かべた。穏やかに流れる時間に、先程の辛い気持ちが少しだけ癒されたような気がする。少なくとも今、自然に笑みを浮かべられるくらいには。
「ところでどうしてここまで? お見送りは断ったはずだけど」
「あ、これ。メアリが渡してこいって」
「あら……これは」
そこでレンは思い出したようにリディアナにその手の中のバスケットをリディアナへと渡した。受け取ったそのバスケットの中には置いてきた絵本こそ入っていなかったが、何故か焼き菓子が入っている。昨日リディアナがアンリに頼んで買ってきてもらったものであった。
もしかして、忘れ物と判断されたのだろうか。置いてきた時に何かしらの説明をすればよかったと後悔しつつ、リディアナはバスケットからその焼き菓子を取り出してレンへと差し出した。紫の瞳がきょとんと丸くなる。
「これはお土産だったの。城下町で人気なものらしくて……良かったら二人で食べてくれるかしら」
「……無駄走りかよ」
レンは焼き菓子を受け取りながらも低く呟いて半目になった。その表情にくすりと笑いつつ、リディアナはバスケットを抱える。彼がわざわざ走って返してくれたものだ。きちんと抱えて持って帰らなくては。
そんなリディアナを他所に、レンは焼き菓子を包む袋のそのリボンを解いた。中に入っていたクッキーを一枚摘んで取り出す。先に味見をするのだろうか、そう見守っていたリディアナに、何故かその一枚は差し出された。
思わず目を丸くしたリディアナに、レンは不機嫌そうに口を開く。その表情は錯覚なのか、リディアナには少し照れたようにも見えた。
「あんたも食えば?」
「……私が?」
「嫌なことがあったら甘いものだってメアリが言ってた」
嫌だったらいいけど、そう言ってレンはそっぽを向く。けれど未だクッキーは差し出されたまま、リディアナの方を向いている。
突然のことに戸惑いながらも、リディアナは彼が差し出すクッキーに手を伸ばして受け取った。そうしてそのまま小さなそのクッキーを口へと運ぶ。
平凡な味なのだろう。甘くて、バターの香りがして、少し粉っぽい。それは家の料理人の作る料理を食べ慣れたリディアナにとっては、寧ろ美味しくない方の部類に入るのかもしれない。けれど何故か心が満たされていくような、そんな不思議な心地がした。
「美味しい、わね」
「……そ、良かったな」
自然と口から出たその言葉に、レンは少し嬉しそうに口角を上げた。そうして残りのクッキーを元通りリボンで縛ると、リディアナを真っ直ぐに見上げる。
突然真剣な表情を浮かべた彼は、そのまま頭を下げた。
「今日は悪かった。あんたのいう守り方とか、そういうのがわかったわけじゃない。でも、今日のメアリはいつもみたいに暗い顔をしてなかったから」
そこでレンの表情は少し影を落とす。自分のやり方がメアリの笑顔を奪っていたのかもしれないと、そういう風に考え始めたのかもしれない。そんな少年にリディアナは緩んでいた表情を引き締めると、頷いた。その後悔は悪いものではないが、引きずることは彼にとってプラスの結果にならないだろう。
「そうね……後悔しないように選択しなさい、って人はよく言うでしょう。けれどどんな形をとっても悔いは残るものなの。後悔するのは悪いことではないわ。けれど自分の選択肢が何にもならなかった、だなんて考えは捨てた方がいいわね」
「……っ、わかった」
レンの行動は確かに正しいものではなかった、リディアナはそう思う。けれどその中には確かにメアリを守れた行動だってあったはずだ。何にもならなかったわけではない。確かにマイナスになった部分はあるのだろう。けれどそれでも、そこには何かが残ったはずなのだ。無意味なわけでは、決してない。少なくともメアリは、レンのことを自分の味方だと考えているだろう。
リディアナの言葉にレンは一度言葉を詰まらせて、けれど確かに頷いた。夕暮れに照らされ赤みが増したその紫の瞳は、強い決意に満ちているように見える。間違っていたのなら正せばいい。少なくともこの少年は、まだ手遅れではなかったのだから。
そこで遠くから声が聞こえた。リディアナの名前を呼ぶその声には聞き覚えがある。フォンテット家の御者である彼だ。慌てたようなその声音は約束の時間に大分遅れてしまったゆえのものだろうか。苦笑を浮かべると、リディアナはレンに一声掛けた。
「迎えが来たみたいだし、そろそろおいとまさせていただくわ」
「……ん。ま、また明日」
そうして背中を向けたリディアナに掛けられたのは、そんなぶっきらぼうな声だった。躊躇って、詰まらせて、けれど確かに告げられた不器用な言葉にリディアナは微笑む。そうして一度振り返って、告げた。
「ええ、また明日」