第十話
レンの祈りが功を奏したのか、リディアナは先程見たような悪夢を見ることも無く、ただ日暮れまでぐっすりと眠った。夕日が差し込み始めてからレンに起こされ、そこでリディアナは気づく。先程よりも自分の頭痛が治まっているということに。
「よく寝てたし、当たり前だろ。十分に休めてなかったんじゃねぇの」
頭痛が消えたとそう話すリディアナに、レンは呆れたようにそう告げる。少し時間を挟んだからか、重苦しい話をした後とは思えないほどに話す二人の空気はいつも通りだった。今日も今日とて、馬車までの帰り道をレンは送ってくれている。そのいつも通りがリディアナにとって、少し嬉しかった。
とは言えここに行き着くまでの間、メアリ達に顔を見せようと言ったリディアナが少年の痛い視線によりそれを諦めたという、そんな経緯もあったりしたのだが。
「……そうだったのかもしれないわ。最近、夜もあまり寝付きが良くなくて」
「……なんでそんな中無茶するんだか」
またレンの呆れたような溜め息が一つ、冬が訪れた夕暮れの空気に滲んでいく。二人が歩くその地面もまた、冬が訪れたことを告げるように僅かに白く凍っていた。もう時期雪が降るのだろうか、リディアナは苦笑を浮かべながらもぼんやりと空を見上げる。
……先程のレンの話通りならば、自分の命はこの冬の間に散ってしまうらしい。春の雪解けよりもはやく、綻んでしまうらしい。けれどその実感が湧かなくて、リディアナはレンの言っていた茨とやらを見ようと目を凝らしてみた。
けれどどれだけ目を凝らしても、レンが先程説明したようなな茨はリディアナの目には映らない。人の身であるこの目には、彼が見るような世界はどうやら映らないらしい。だから実感が湧かないのだろうか。この命が蝕まれ消えかけているという、その実感が。
「……ねぇ」
「何?」
ぼんやりとした思考のまま、意図せずしてそう言葉を零したリディアナ。やってしまったと慌てて口を閉じようとしても、その問い掛けるような声はもうレンの耳に届いていたらしい。隣の少年の視線はこちらを真っ直ぐに見つめている。
なんでもないと、そう言いかけようとした。けれど相も変わらず美しい紫の瞳を見ていると、自然とリディアナの言葉は引き出されていく。それこそまるで、魔法みたいに。
「……私はきっと、後悔すると思うの」
心の奥底、自分にすらも告げられずにいた感情を吐露する。話の要領を掴めずにか、訝しげに細められた紫の瞳にふわりと儚く笑って。空から粉砂糖のような雪が、夕暮れの朱色にわずかに染まる形で降り出す。舞い散る雪の中で儚く笑うリディアナには白薔薇ではなく、霞草のように淡く消えてしまいそうな危うさがあった。
「禁術を使う前も、禁術を使った時も、私は後悔したわ。早く使えばよかったって、けれど使わなければ良かったって」
「……おう」
「多分私はきっといつか、今日貴方に術を反転して貰わなかったことを後悔すると思うの」
寒さ故か、話すその口からは白い吐息が零れて。けれどリディアナはそんな中で描いていく、思えば己の人生はいつも後悔ばかりだったと。何をしても遅くて手遅れで、その事に何度苦渋を舐めさせられてきたことだっただろう。何度自分のことを嫌いになりそうになっただろう。きっと今回もリディアナは、その時を迎えてそして後悔するのだ。
決して目的を諦めているというわけではない。残酷な事実を知っても尚リディアナは、三ヶ月を生き抜くつもりだ。例え生きる屍のような姿になっても、アナスタシアのことだけは笑顔で見送るために。けれど結局リディアナは、その時を迎えた瞬間に後悔するのだろう。反転してもらえば、もっと美しく見送れたかもしれないと。
「でもね、きっと反転しても後悔するのよね」
「…………」
しかしその後悔は反転したとしても同じことだ。小さな声が粉雪と一緒に零れていく。反転すればリディアナは生きられるかもしれないし、アナスタシアのことも無事に見送れるかもしれない。けれど罪が消えてしまえばリディアナが禁術を使ったということは誰にも信じてもらえず、断頭台に立つことは出来なくなるだろう。
それに禁術で得た利を失くしてしまえば、結局の所リディアナは欠陥品へと戻ってしまうのだ。罪を誰にも話せず一人で背負い、欠陥品としての自分を呪いながら生きていく。きっとそうしても、リディアナはこの日の選択を後悔するのだろう。
レンは黙り込んで何も言わない。ただ儚く笑って隣を歩くリディアナを静かに見つめている。彼女が粉雪舞う中見せたその表情を、その姿を、その声を、己の脳裏に焼き付けるかのように。自分しか知らないリディアナの姿を、誰にも見られないように。
「けれどただ一つだけ、絶対に後悔しないって分かってることがあるの」
「……なんだよ」
「……この気持ちを、貴方に話した事」
しかしそこで粉雪のような儚げな笑みから一転、リディアナは大輪の花が綻ぶように微笑んでみせた。自分が迎えられないかもしれない雪解けを、自らで作り出すかのように。その笑顔にレンの瞳が見開かれる。
けれどタイミング悪く、そう言い切ったところで丁度冷たく強い風が吹いた。リディアナはレンのそんな表情を見ることが出来ずに、一度瞼を瞑る。風が止んで暗い世界から飛びだそうと再び瞼を開けた時、やはりそこにはレンが居た。鮮やかな色の瞳を少し不思議そうに瞬かせて、そうしてリディアナを濁りのない綺麗な瞳で見つめてくれる少年が。自分の体はもう死人のように冷たいというのに、そのことにじわりと温かさが積もっていく。
「……私が過去を、罪を全て貴方に話すこと。それが意味することって、わかる?」
「……勿体ぶるなよ」
「ふふ、ごめんなさい」
不機嫌そうな声に軽く笑って、リディアナは瞳を伏せた。頑張った自負はある。けれどリディアナはこれまで何一つだって、報われなかった。積んできた努力も、噛み締めてきた傷跡も、結局は終わりに向けての一つに過ぎない。世界はこんなにも残酷だ。
けれどこんなにも残酷な世界は、未だリディアナの視界には色鮮やかで美しいまま映っている。きっと世界が褪せることなく未だ彩りをこの視界が認められているのは、前よりも美しく映るのは、この少年のおかげなのだろう。そんなことを考えながらも、リディアナは言葉を紡いだ。
「……きっと貴方は私の事を理解して、その上でその死を悼んでくれる唯一の人になるから」
初雪を迎えて少し特別に感じられる、しんと静まり返った二人だけの夕暮れ。ここ数ヶ月でリディアナは前よりもずっと夕暮れのことが好きになった。この少年と一番、深く鮮やかな景色を見つめてきた場所であり時間であったから。
そしてもう一つ前よりもずっと好きになったものがある。それは、紫色。最愛の母と信頼する彼が持つ、リディアナにとって何よりも愛おしくなった色。それは今、見開かれる形でリディアナを見つめていた。こんな幕切れの直前になって、リディアナには愛おしいと思えるものが出来てしまったのだ。それに内心自嘲して、けれど言葉は止まらないまま。
「一人で、誰にも知られず、誰にも報われず、ただ嫌われて死ぬと思ってたから」
本当にそうだったのだ。誰にも話さないまま、リディアナは最期を迎える予定だったのだ。誰も自分の目的や切なる願いを知らないまま、ただ誰もに侮蔑される形で、悼まれず。それでいいと思っていた。それもひとつの報いなのだと、そう思っていた。
けれど予定は崩れていくもので、結局リディアナはレンにこうして話をしている。三ヶ月前の自分にこの話をすれば信じてくれるだろうか。きっと信じないだろうなと、リディアナは困ったような微笑みを浮かべた。そんなリディアナを見てか、レンは眉を寄せる。
「……んなわけねぇだろ。メアリとかは、あんたのこと嫌いにならねぇよ」
「……そうだといいわね」
冷え込んできた空気に落とされたそのぶっきらぼうな言葉に素直に頷けず、リディアナは曖昧に言葉を濁した。そうだといい、その言葉に続くのはけれど、なんて後ろ向きな言葉だ。それを口にすることはなかったけれど。
リディアナは多くを望まない。レンが自分の罪を知って、それでも嫌悪せずに今のリディアナを思いやってくれること自体がそもそもにして奇跡なのだ。けれどそれはあくまで人外である彼の感覚で、人であるメアリには適応されることはないだろう。想像をしてみた。いつも無垢で真っ直ぐな尊敬を黄緑の瞳に宿してこちらを見つめてくれる彼女が、侮蔑の色でこちらを見つめるその姿を。想像してみただけなのにやはり胸が痛くて、息を詰まらせる。
「……もしあんたの想像通りになったんなら、攫ってってやろうか?」
「……え?」
痛みを堪えるような顔をしたリディアナを見て、レンは何を思ったのか。少し躊躇うような表情を浮かべたレンは、突如としてそんなことを告げた。突然の言葉にリディアナは、きょとんと目を丸くする。けれどやはりその言葉も、冗談ではなかったらしい。欲も邪さもない透明な視線が、問い掛けるように横からリディアナを貫く。
「死んだ後、もしそうなったら。どっか遠くの花畑とかで、燃やしてやるよ。あんたに変な視線を向けるやつが居ない場所で」
視界が弾けたような、そんな感覚だった。周囲の音全てが消えていって、今目の前を舞う粉雪すらもリディアナの視界には入らない。ただレンだけが、今リディアナの世界で生きていた。聞きようによっては少し物騒にも聞こえる、けれど最大限にリディアナのことを思ってくれた言葉を告げた少年だけが。
ああ、今日だけで何度泣きそうになったことだろう。目元が熱くなって、心が震える。けれどやはりリディアナは涙を流さないまま、感情がかつてないほど昂ぶった事を隠して、そうして微笑んだ。
「……それ、お花ごと燃えてしまわない?」
「馬鹿にすんな。力加減はだいぶ得意になった」
心を落ち着かせるためにわざとそんな事を言ってみる。けれど嬉しいというその感情は中々収まってはくれなくて。不満そうなレンのその瞳を見ているだけで、今のリディアナは精一杯だった。小さく深呼吸をする。心底嬉しそうに美しく深い青の瞳を輝かせて。
「お花は、紫色がいいわ。紫色のお花だけの、お花畑」
「!……紫だけって、そんな花畑あるか?」
「ふふ、あったらとっても素敵でしょう?」
ぱちりと瞳を瞬かせた後に眉を寄せたレンに、リディアナはまた笑って。そうして二人で残りわずかとなった馬車までの道を歩いていく。舞い散る粉雪の中に祈りを一つ。もし一つだけわがままを言って良いのなら、リディアナはレンの瞳のような紫の中でレンの炎に消えてしまいたい。もしその最期を迎えられたのならそれは、侮蔑と嫌悪の視線で燃やされる最期とは比べようがないほどに幸福なことだろう。
あんなにも心が揺れたのは、嬉しかったのは、リディアナが死んだとしてもレンがその身を案じてくれようとしたから。最後の最期まで、全霊をかけて守ろうとしてくれたから。攫うなんてきっと簡単なことではないのに、レンは容易いことのようにそう言ってくれた。寧ろ紫色の花畑を探すことのほうが難しいというように、眉を寄せている。
「……明日、話させてね」
「……おう」
この時間が永遠に続けばいいのに。けれど永遠なんてないからこそ、人間は容易くそれを願ってしまうのだ。残り僅かだった帰り道はあっという間に過ぎていき、門の前には家の馬車が停まっている光景が目に映った。別れの時間だと、リディアナは視線を下げる。
手を振り、そして覚悟を決めてリディアナは笑った。その言葉にレンは苦く笑い返す。その視線は馬車へと歩いていく少女を、そうして乗り上げて去っていく少女を、その姿が完全に消えるまで見送っていた。明日と、そう心にリディアナと同じような覚悟を決めて。