第二十話
外では星々が瞬いている。月は先日見た時よりも僅かに欠けていて、故に星々があの日よりも輝いて見えるのだろう。ぼうっと窓の外の空を見上げたリディアナは、しかしそこで空気に立ち込み始めた湯気に視線を戻す。自室の椅子に座ったリディアナの前で、ミランダは熟れた手つきで紅茶を淹れていた。
「……わざわざあの茶葉を探してきてくれたの?」
「はい。アンリさんに聞きました」
僅かに香るそれはリディアナの好みの茶葉の香りだ。普段使われないことから倉庫の奥深くに眠っているはずのそれを管理しているのはアンリのはずだと、不思議に思ったリディアナは問いかける。その問いかけに無表情のまま頷いたミランダに、リディアナは何だか申し訳なくなった。
「……気を遣わせたかしら」
「いいえ。私が飲みたいと思ったのです」
「……そう。でもありがとう、ミランダ」
表情の薄い彼女はそんな感謝の言葉に僅かな笑みを浮かべる。恐らく気を遣ってくれているのは確かなのだろう。けれどそれ以上追求しても彼女を困らせるだけだと、リディアナはそこで言葉を謹んだ。二人分のよく磨かれたティーカップに、赤茶色の液体が注ぎ込まれていく。
注ぎ込まれたカップからまた湯気が立ちこめた。冬も近づき妙に冷える夜故に、いつもの紅茶は普段よりも少し特別に見えて。どうぞという言葉に促されるまま、リディアナはカップを品良く持ち上げる。口をつけた瞬間に、いつもの味が口に広がった。
「とっても美味しいわ」
「光栄です」
柔らかくそう告げたリディアナに、ミランダもまた小さく微笑む。いつの間にか対面側の椅子に腰掛けそうしてカップを嗜む彼女の姿は、自分と歳は大して変わらないはずなのに妙に大人びて見えた。けれど紅茶を飲んで顔を綻ばせるのは年頃の少女らしい表情で。そんな彼女だからか、ついリディアナは言葉を零す。
「……昔はね、お母様と飲んでいたの」
「……奥様と。それであんなに予備があったのですね」
「ええ、今では飲むのは私と……貴方くらいかしら」
倉庫に積まれた沢山の茶葉。それは香りが強く持ちが良い茶葉だからと、昔父が母のために買った茶葉だ。あれが何事もなく二人分の形として日々消費されていたのなら、きっと追加が必要なくらいには少なくなっていたはずだろう。けれど生憎一人の夜にこうして嗜むだけならば、あの山は中々消費出来なくて。
懐かしい記憶だと、紅茶を口にしながらもリディアナは瞳を伏せた。母と二人紅茶を飲んだ日々。一人別の茶葉を飲んでいた父は、そんな二人を信じられないような目で見つめていた。リディアナの舌はお前譲りだと、そんな風に眉を寄せた父に母は楽しげに微笑みかける。その記憶はリディアナにとっても幸せで温かい記憶だった。
今ではこの茶葉を父の前で飲むことは無い。何故ならば母の病気が悪化した頃、父によってこの茶葉を飲むことを止められたからだ。アナスタシアが居ない以上そんな茶葉を飲む必要は無いだろうと。ただ母と同じようにリディアナもこの茶葉が好きだっただけなのに。母と過ごした記憶を温めたかっただけなのに。
「香りが苦手な人が多いから、あまり表では飲まないようにしてるの。でも私以外誰も飲まないから、結局中々消費できなくて……」
リディアナは苦笑を浮かべた。恐らく自分がこの茶葉を好きだったことすら、父は覚えていないのだろう。あの日もただ母の真似をしていたのだと思われたに違いない。リディアナも父も、あの頃から母のアナスタシアのことが一番だったから。父もそれだけは、知っていたから。
今思えばきっと父も辛かったのだろう。この香りに母を思い出しそうになることが。今ではそうだと分かっていても、幼い日の自分は酷く傷ついたような気がする。父はリディアナ自身のことを何も見てくれていなかったのだと。けれどあの日のリディアナも、そんな傷を飲み込んだのだ。
「……でも、私は好きです。それに特別感がありますから」
「……特別感?」
幼い日の感傷に浸りかけて、けれどリディアナはミランダの言葉に視線を上げた。特別感、その言葉は暗い空に一つ輝く星のように瞬く。カップを両手で持ったミランダは、そんな瞳を丸めたリディアナを見てくすりと笑った。湯気が揺らぐ先、緑の瞳が柔らかな弧を描く。
「はい。私とお嬢様とそれと奥様は、この茶葉の良さを分かっている数少ない人物なんだなって」
「……ふふ、それはとっても素敵ね」
ミランダのその言葉に妙に心を打たれて、リディアナは小さな笑みを浮かべる。母の名と共に数少ないとそう喩えられると、少しだけ自分が特別な人間になったように思えた。浮かび上がった心の傷が洗い流され、少しだけ楽になったような感覚が心地良い。リディアナはまた一口、紅茶を口に含んだ。
余り余ったであろう倉庫に積まれた茶葉。そんな彼らを自分が生きている内に飲みきれれば良かった。誰も飲まなくなった茶葉は廃棄されるだけになるのだから。けれどこの体の限界は恐らくもう近いから、きっと余ったあれらを飲み切ることは出来ないだろう。けれどきっと母との思い出の茶葉は、廃棄されることはないはずだ。今はミランダが居てくれるから。
「ねぇミランダ」
「はい、お嬢様」
「……やっぱり少し違和感ね。ねぇ、この時間だけはお嬢様じゃなくて、リディアナって呼んで頂戴?」
「え……?」
問いかけてそこで、返ってきた返事にリディアナは首を傾げる。そうしてリディアナは微笑んだままそう告げた。リディアナの突然の言葉にどこか困ったような声を上げたミランダ。真面目な彼女のことだ。雇用主の一人であるリディアナをそう呼ぶのには抵抗があるのだろう。しかし出会いが出会いだったからか、リディアナは彼女にお嬢様と呼ばれるのは少し違和感があった。
それに今の時間は友人とのお茶会だ。素敵な夜の雰囲気に美味しい紅茶。それなのに同士からお嬢様とそう呼ばれてしまっては、些か雰囲気が壊れてしまう気がする。だからリディアナは、昔友人にずるいと呼ばれたとある手を使ってみることにした。
じっと緑の瞳を見つめる。どこか戸惑うようにして視線は逸らされた。残念そうに小さく息を吐く。詰まるような声が目の前から零れた。悲しげに目を伏せる。今度はあちらから溜め息が聞こえた。そうして。
「……リディアナ、様」
「ええ、ミランダ様」
にこりと微笑んだリディアナに、ミランダはどこか疲れたような視線を向ける。少々無理強いをしてしまった事は申し訳なかったが、ミランダから呼ばれるにはその呼び名の方がしっくり来るのだ。機嫌良く微笑んだリディアナを、どこか眇めたような瞳でミランダは見返す。
「……それで、何でしょうかリディアナ様」
「……何か棘がないかしら?」
「気の所為です」
やはり棘があるような。先程よりも幾分か素っ気ない言葉にリディアナは自業自得かと眉を下げつつも、空になった手元のカップを優しく撫ぜた。良く磨かれた陶器の滑らかな感覚が指を滑る。いい夜だ。どこか揺らいでいた心は夜のティータイムのお陰でいくらかは和んだし、窓の外の空に映る景色は今日も美しい。何よりも一人で飲まないこの紅茶の味を、リディアナは目の前の彼女のお陰で久方ぶりに思い出せた。
「もしも、私に何かあったら」
「……あったら?」
どこか緊張したような声でミランダは繰り返す。その声に小さな苦笑を浮かべ、リディアナはそっと目を伏せた。紅茶の味はまだ口の中に残っている。癖が強く、甘くも苦い奇妙な味。けれどリディアナとリディアナの愛する母と、そして目の前の同士にとっては特別な味。母が死に、そうして自分が死んだ後はただその茶葉は廃棄されるだけだっただろう。けれど。
「どうかあの茶葉を貰ってくれる? 一人分としては少し、多すぎるかもしれないけれど」
「……はい」
今は彼女が居てくれる。どこか懇願するような美しい青い瞳に込められた願いを、ミランダは正しく受け取ってくれたのだろう。眉を下げながらもミランダは、そうして恐る恐る頷いた。その表情には僅かな困惑が滲んでいる。質問の意図が理解できないような、そんな表情だった。
この少女も、家の使用人たちも、そして父も。きっとアナスタシアが死ぬことは予期していても、リディアナが死ぬことは予期できていない。当然だ。この九年間、血の滲むような努力と我慢を重ねて痛みを耐えてきたのだから。誰にも気づかれないように、最期まで完璧で居られるように。何も出来なかった、母を死に追いやった自分がせめて、その最後の誇りだけは守るために。
「まぁもしもなんて、遠い話かしら?」
「……そう、ですよね」
そうしてリディアナはまた一つ嘘を重ねた。先程までの雰囲気を取り払うように苦笑し、明るい声音でもう間もないであろうもしもを遠いと偽る。その言葉に目の前のミランダは、どこか安堵したように表情を緩めた。当惑に揺らいでいた緑の瞳が元の形に凪いでいく。
また一つ、罪悪感がリディアナの心を満たした。もう嘘に嘘を重ねすぎて何が本当かもわからなくなっているのに、それでも未だ偽る度に心臓は痛んでいく。そんな痛みから逃げるように、リディアナは窓の外にふと目を向けた。
「……そろそろ遅い時間ね。眠らないと」
「あ、そうですね。それでは片付けさせていただきます」
「ええ、お願い。今日も私のお茶会に付き合ってくれてありがとうね」
空はすっかり夜色に染まりきっている。そろそろお開きにしなければ明日の彼女の仕事に支障が出てしまうだろう。そんな考えから告げたリディアナの言葉と感謝に、ミランダは小さな笑みを浮かべると頷いた。彼女とこうして紅茶を飲んだせいかざわついた心も滲んだ黒い感情も、すっかりなりを潜めている。そのことに安堵しつつも、リディアナはカップなどを手早く片付けていくミランダを静かに見守った。
「……それではお嬢様、良い夜を」
「ふふ、貴方もね」
呆気なく片付いたカップ達はワゴンに整頓され、ミランダと共に去っていく。その背中を扉が閉まるまで見つめ続けて、そうしてリディアナは小さな溜息を吐いた。それは安堵の意味にも、失望の意味にも取れるような溜息で。実際吐いたリディアナでさえも自分がどういう意味でそれを零したのか、理解できていなかった。
「……変に思われたかしら」
椅子から立ち上がりそのままベッドへ。倒れ込むような形で寝転がったリディアナは、ただ考える。恐らく変には思われただろう。けれど上手くは誤魔化せたはずだ。やはり言わなければ良かっただろうかと、そんな惑いを押し殺す。どうしても伝えなければいけないことだったのだから、仕方なかったのだと。
そうでなければあの茶葉はもう誰も飲まないと判断されて、そのまま廃棄されたことだろう。それはどうしても寂しかった。母と過ごした思い出ごと捨て去られるようなそんな気がして。だから多少妙に思われたとしても、言わなければならないことだったのだ。仕方ないことだったのだと不安を塗り替えて、リディアナはまた窓の外を見た。
「……風邪、引いてないかしら」
温かな紅茶を飲んだ後なのにリディアナの体は妙に冷えていた。何日か前に雨に濡れ、そうして今日は厳しい風に身を晒したのが原因だろう。けれど自分の身よりも、今日同じ風に晒されていたレンの身の方がリディアナは気になった。彼は人外であるのだし、そう心配しなくても良いのかもしれない。
けれどそれでもどうか。祈るようにリディアナは胸に当てた手を握り締める。リディアナが唯一完璧なんかではないと知っていて、それでもそんな不完全な人間を一つの拠り所としてくれた彼が。リディアナに過去の荷物を託してくれた彼が風邪を引かなければいい。そんな願いを胸に灯す。
例え偶然から生まれた産物であっても、リディアナがもう嘘をつかなくてもいい彼が。いつかを託せるほどに信頼している彼が。これ以上何も苦しまなければいいと、物語の主人公のように幸せを掴めるようにと、そんな願いを抱きながらリディアナはそのまま眠りについた。