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聖女の教育係  作者: 楪 逢月
第三章
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第十九話

「……遅くなるならば、早めに連絡をするように」

「……はい、申し訳ありませんでした」


いつもよりも少し遅い時間の晩餐。ワインの入ったグラスを傾けた父から少し戸惑うように告げられたその言葉に、リディアナは素直に頷いた。目の前に座るアーノルドの表情は、怒りというよりもどこか困ったような様相である。その表情は、きっとリディアナが時間を破ったことが初めてだったから故に浮かんだものなのだろう。


結局あの後、リディアナは自分を探しに来た御者に連れられる形で家へと戻った。彼と繋いでいた小指が離れていくのが少し名残惜しかったのを、今でも感覚として覚えている。去っていくリディアナを、レンは僅かに笑みを浮かべ見送ってくれていた。その表情も、強く視界の裏に残っている。

馬車を降りてまでリディアナを探しに来てくれた御者は、酷く慌てて心配した様子だった。そんな彼に申し訳ない気持ちになりつつも、リディアナはどこか夢心地のまま屋敷へと戻ってきたのだ。そうしていつもよりも遅い時間の晩餐を今、アーノルドと共に共に迎えている。


「……教育係の仕事に熱心になるのもいいが、無理はしないように」

「!……いいえお父様、少しお喋りが盛り上がってしまって……」


どこかぼうっとしながらもスープを口に運んでいたリディアナは、案じるようなアーノルドの声に慌てて顔を上げた。そうして躊躇いながらも、首を振る。

今日のことは熱心に勉強を教えていたが故のことではなく、完全にリディアナの私情が絡んでいる事だ。それを教育係の仕事として誤魔化して言い訳をするのが後ろめたくて、リディアナは恐る恐ると真実を告げた。怒られてしまうだろうかと、過ぎった考えからか声は段々と小さくなっていく。


「……お喋り?」

「……はい。私情でお忙しいお父様の予定を乱してしまい申し訳ありません」


アーノルドはその言葉に眉をぴくりと動かした。その表情に一瞬激しい緊張を覚えて、そしてリディアナは視線を下ろす。過去についての話をレンと交わしていたからか、嫌な記憶を思い返してしまった。

沈黙に場が染っていく。スプーンを品よく握り締めたまま、リディアナはそっとアーノルドの言葉を待った。何を言われるだろうか。フォンテット家の人間ともあろう者が時間すらも守れないなどと、そう失望されしまっただろうか。


「……お前に、そんな相手が出来たのか」

「……え?」


けれど予想に反して返ってきたのは、そんなどこか安堵するような優しい言葉で。呆気に取られて顔を上げたリディアナを、美しい青い瞳が見返した。アーノルドのその瞳はリディアナと同じ色ながらも、歳を重ねただけの深みがあるような気がする。


「お父、様……?」

「……とは言え、今後は時間を守るように。ただ、友人との時間は大切にしなさい」

「……はい、ありがとうございます」


予想に反した穏やかな注意と言葉。それを皮切りに、アーノルドがそれ以上リディアナに何かを告げることは無かった。ただ黙々といつも通りの無表情のまま、口に料理を運んでいる。けれどリディアナにはその表情は、いつもよりも優しく見えた気がした。

リディアナはいつもとは少し雰囲気の異なるそんな父に戸惑いながらも、倣うように無言のまま食事を続ける。ただその心臓は穏やかな鼓動を脈打っていた。リディアナはちらりとアーノルドの隣に置かれた、座る主の居ない椅子を見つめる。


今二人の間に流れている無言ながらも穏やかな空気は、昔三人で過ごしていた食事の時間に少し似ていて。だから一瞬リディアナは母が帰ってきたのかもしれないと、そう思ってしまった。けれど空席は何度見ても空席でしかない。そうしてその内この部屋の空席は、一つでは足りなくなるのだ。


……父は仮に空席が二つになったとしても、母と同じようにリディアナの席も残してくれるのだろうか。昔に置いてきたはずのそんな希望に僅かな光が射して、けれどそれはすぐ泡のように消えた。

彼の最愛を奪う根本の原因になったリディアナのために、父がそんなことをしてくれるわけは無いだろう。内心苦い笑みを浮かべつつも、リディアナはただ黙ってスープを口に運んだ。その味すらもどこか苦いものに思えて、胸が苦しくなりつつも。


「……お父様、それでは先に部屋に戻らせていただきます」

「……ああ」


最後の一口。それを口に含んでリディアナは席を立つ。今日は色々な事があったせいか、どこか感情が迷子のようになっていていけない。何か余計な問いかけをしてしまわないうちにと、そんな気持ちから告げた言葉は呆気なく肯定される。どこか肩透かしをくらった気分になりながらも、部屋を出ようとしたリディアナ。けれど去りゆくそんな彼女に声が掛けられる。


「……エリック殿下とは何も無いか」

「!」


躊躇うような声だった。振り返った先、僅かに眉を顰めたアーノルドがリディアナを見ている。真実を問い質すようなそんな視線に、リディアナは一瞬唇を噛み締めた。けれどそれは本当に一瞬のことで、リディアナは直ぐにいつも通りの完璧な笑顔を浮かべて首を振る。


「……ええ、何も」

「……そう、か」


嘘だった。それは父にも気づかれていたのかもしれない。けれどそれでもリディアナは、真実を告げようとは思えなかった。十年前、あの日のエリックの変心から王家とフォンテットの関係は微妙なものになっている。これ以上自分のせいで、そんな奇妙な形を保っているバランスを崩したくはなかったから。

去り際に柔らかな笑み一つ。仮にあったとしてもリディアナが無いと言うならば、それはなかったことになる。今でも耳に残響する諦めろという言葉に、過去無いほどに傷ついていたとしても。あれがきっと二人の真実の決別だったのだとしても。


「それではお父様、改めて失礼致します」


その言葉に返事はなく、何かを葛藤するような表情でアーノルドはただ黙ったまま頷いた。扉が開いて閉じていく。去っていく娘の姿を、アーノルドはただ何も言えずに見送っていた。その胸に自分はいつもこうなのだと、小さな悔恨を宿して。


部屋から出たリディアナは数歩程歩いて、そうして小さく息を吐いた。まさかあんな質問が突然投げかけられるとは思っていなくて、つい動揺してしまったのだ。そしてその動揺は恐らく父に見抜かれてしまったことだろう。気が抜けていると、そこでリディアナは強く拳を握った。

アーノルドだって国の重職についている家の一人だ。他国からの使者が神殿に滞在していると知っていれば、その外交のためにエリックが神殿に訪れるあろうことを危惧してもおかしくないだろう。そうして事実、その危惧は現実になったわけであるし。


自省しながらもリディアナは自室へと向かって歩いていく。いつもよりも遅い時間だからか外の空気は嫌に静かだ。そのことに小さな違和感を感じつつも、リディアナは無意識の内に自室への途中の道にある母の部屋へと視線を向けた。目を伏せて耳を澄ませても、その部屋からは物音一つ聞こえない。


「……お母様」


小さな呟きが夜の静寂に紛れて消えた。それは複雑な感情が入り交じった、何かを切望するような声で。今乱れて歪んだこの心の叫びを、無性に誰かに聞いて欲しかった。親友を真の意味で失ったことも、大切な人の過去に起こった無念に対するざわめきも。そう、リディアナは誰かではなくたった一人、その扉の中の主に聞いて欲しかったのだ。


ふらり朧げな足取りで、リディアナはそっとその扉へと近づいた。そうして扉に額を預けて、震えそうになる声を噛み殺す。こうしていなければお母様と、そんなみっともない声で扉の奥で眠っているであろう彼女の名前を、呼んでしまいそうだったから。返事は返ってこないとわかっているのに。

そうしてしまえばきっと部屋で母を見守ってくれている使用人に、心配を掛けてしまうだろう。ただでさえ疲れているであろう彼等に、これ以上の心労を掛けたくはなかった。けれどそんな彼らを労るような感情の中に、黒いものが僅かに滲む。


リディアナの心に黒が滲んでいった。どうして使用人の彼等は母の顔を見れて、自分は見れないのかと。いや本当はわかっているのだ。これは母を心から愛するリディアナが傷つかないようにと、そう父と母が決めたことだというのは。自分だって昏々と眠る母の姿を見てしまえば、そんな現実に直面してしまえば、わかっていても深く傷ついてしまうだろう。けれど今は開けられるのに開けられない、そんな扉が憎らしかった。

こんなにも心が揺らぐのは先程の父の問い掛けが、エリックとの夕焼けに交わしたやり取りが、まだ心に残って消えてくれないからなのだろうか。この思考を全てあの瞬いていた美しい紫と小指で交わした約束に塗り替えてしまいたいのに、何故かそれが出来なくて。それが出来ればまた頑張れる気がするのに、どうしても暗いことばかりが頭に浮かんで離れない。


「……リディアナお嬢様」

「っ!?」


足元が崩れていくような葛藤の中、後ろから潜めた声で名前を呼ばれてリディアナは肩を跳ねさせた。息を呑んで慌てて振り返った先、そこに立っていた人物にリディアナは目を見開く。こちらへと一歩踏み出した彼女の、その三つ編みにした暗い赤毛が揺れた。


「……ミラン、ダ」

「……紅茶を淹れます。だからどうか、お部屋でお待ちいただけますか」


呆然と自分の名前を呼んだリディアナに、目の前に立っている人物はその無表情に僅かな笑みを浮かべた。どこか困ったように、けれども慰めるように。無の中にそんな僅かで複雑な感情を乗せる。けれどリディアナはその言葉に不器用な笑みすらも浮かべられず、ただ視線を落とした。

何か答えなければとそう思うのに、こんな姿を見られてしまった動揺からか言葉が出なくて。駄目だ、こんなのではいけない。リディアナは完璧ではなくてはいけないのだから。動揺を押し殺し、そうしていつもよりも少しだけ不格好な笑みを浮かべたリディアナ。そのまま何かを告げようとして、けれどいつかのようにまたリディアナはミランダに先を越された。


「……本当はこんな事を言うのは使用人失格だと、そうわかってはいるのですが」

「……ミランダ?」


目を伏せた彼女は、何か迷っているようにも見える。そんな表情にお願いするわ、とそう言いかけた言葉は塗り替えられた。リディアナは不思議そうな声音で再び彼女の名前を呼ぶ。そんなリディアナに、ミランダは一度目を閉じると真っ直ぐにリディアナを見つめた。夜の暗がりの中でも輝いて見える、その美しい緑の瞳で。


「……リディアナ様」

「……何かしら?」

「どうかまた、私を深夜のお茶会にご招待いただけないでしょうか?」


その言葉にリディアナは一瞬呆気に取られた。真面目な彼女がそんなことをいうのがあまりにも意外で。けれどそうして小さく見開かれたその目は、すぐに伏せられる。意外な彼女のその言葉は、きっとリディアナを心配してくれたが故のそんな言葉なのだろう。大家族の中で姉という立場で育ってきた彼女だからこそ、迷子のような顔をしたリディアナを放っておけなかったのかもしれない。


「……ええ、ご招待させていただくわ」


結局リディアナは、その言葉に甘えた。一人で居れば母のことを考えて、そして黒い感情が自分の中を占めていきそうだったから。その言葉にどこか安堵したようにも見えるミランダに心が温められて、そして二人はリディアナの部屋へと向かっていった。

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